あの後屋上に戻り最後まで授業をサボった皆守は、チャイムが鳴ると同時にようやく教室へと戻った。
 教室では、音楽室で倒れていた女生徒の事がすでに話に出ている。しばらくなかった生徒の《処罰》だから噂になるのが早い。また新たな犠牲者が出るんじゃないかと辺りに不安が漂っていた。
 鬱陶しく陰うつな雰囲気から抜け出したくて、皆守は素早く自分の机に置いてある鞄を取り、さっさと帰ろうと歩く。そのたまたま通った道に暁斗とA組の七瀬月魅がいて、思わず足を止めてしまった。
 七瀬は知識が深く、古典や歴史に造詣が深い。彼女と、古代文明の《秘宝》を探す暁斗が一緒に話す事柄と言えば一つしかないだろう。あの墓地に通ずる穴の事だ。
 やがて、話が終わったのか七瀬は、丁寧に頭を下げ教室を出ていく。残った暁斗は難しく考え込んでその場に立ったまま。
 先程の保健室の事もあったから、避けて帰ろうと思ったが、不幸にも暁斗がこちらを見て皆守に気付く。仕方なくアロマを吸って息を整えると、皆守はゆっくり暁斗へと近づいた。
 なるべく差し当たりがないように、平静を努めて話し掛ける。
「どうしたんだ、難しい顔をして」
「…いや、ちょっと、な」
 言葉を濁す暁斗の声は、すっかり元通りだった。怒りはなく、ただ今は少し困ったような感じ。
「まァ、どうでもいいがな」
 その事に何故か安堵して、皆守はあっさりと言及を留める。それに、こっちもあんまり難しい話を聞くには、とてもじゃないが向かない。すぐに眠たくなるのがオチだろう。
「どうだ。一緒に寮まで帰るか? どうせ、もう今日は用事がないんだろ?」
 話題を変えるつもりで、皆守は何気なく言ったが暁斗には効果てきめんだった。元々大きい眼を開いて、ひよこの眼差しで見つめてきて、皆守は反射的に身を引く。
「えッ。一緒に帰ってくれるのか?」
 尚も暁斗は身を乗り出し、皆守にくっつく格好になる。うわさ話に興じていた級友たちが何事かとこっちを見ている。中には顔を赤らめたり、微笑ましく笑っている者もいる。
「帰る帰る帰る! オレ、皆守と帰る!!」
「分かった。分かったから、くっつくな」
 皆守が暁斗の頭を掴んで身体を引き離すと、笑い声がまた少し大きくなった気がした。

 

 西日で溢れる校庭のグラウンドは、部活動をしている生徒たちで賑わっている。野球部の硬球を打つバットの音。パスをしあうサッカー部。トラックでは陸上部が走り込んでいた。
 朝も思っていたがよく飽きないもんだ。皆守は遠目に眺めて感心した。一つの事に熱中するなんて彼にとってはとても途方のない事のように思える。
「よく同じ所を走っていられるもんだな」
 考えていたら、それがそのままするりと口に出てしまった。隣に並んで歩いていた暁斗が皆守を見て首を傾げた。
「そうなのか?」
「そうだ。俺だったら走る前からゴメンだな。お前もそう思うだろ」
「いいや」
 即答する暁斗に、皆守は眼を丸くする。暁斗は、走り込む陸上部員の姿を見つめて、どこか遠くを見るような眼を細めた。
「何かに打ち込めるのって、いい事だと思うよ」
「そんなものか?」
「そんなもの」
 今度は皆守が首を捻った。暁斗の言葉をいまいち理解出来ない。そう言い切れる彼自身も。
「そんなものねェ…。まァどうでもいいけどな。それよりもマミーズにでもよってから帰るか」
「マミーズって、ファミレスの」
「ああ、今日は動いたから、腹が減ってしょうがない」
「あれを動いたって言うんだな、皆守って」
 暁斗が溜め息をつく。音楽室から保健室の道のりは遠くないのに、そこまで軽く走っただけで、疲れるのかと呆れているのだろう。だが、皆守が平然とそういうものなんだよと言い切ってしまった為に、それ以上は何も言わなかった。
 昼は騒動のお陰で食べ損なったカレー。今度はじっくり味わって食べないと駄目だな。皆守が心持ち浮かれていると、暁斗が学ランの袖を引っ張ってくる。
「…なんだよ。邪魔するなよ」
「違うよ! あれ、取手じゃないか?」
「あァ?」
 暁斗が指差した方向、校舎の辺りに取手がこちらに背中を向けて立っていた。怯えるように頭を振り、少しずつ後ずさっている。
「…僕に近づくなッ。あっちへ行けッ」
「………取手?」
 様子がおかしい。震える声に暁斗が眉を潜める。
「砂だ…。《黒い砂》が………」
 取手の目の前には何もないのに、彼は見えない何かから逃げようとしているように見えた。やめろと酷く引きつった声が聞こえる。そしてそれを振り切って、身体を反らすと暁斗たちの方へと走ってきた。
「取手ッ!」
 暁斗も我慢出来ずに走り、取手を受け止めるように腕を掴むと強く揺さぶった。
「…君は…」
「大丈夫か? 何かあったのか?」
 手を伸ばして、取手の前髪を払うと額は汗で濡れて、唇は震えている。瞳孔の開いた眼で取手は、心配する暁斗を見下ろし、訳の分からない顔をして額に触れていた手をそっと払った。
「………何がだい?」
「何がって、お前が慌ててこっちに走ってきたからだろ? 何かに追い掛けられているのか」
 暁斗が見た事を正直に話すが、取手は頭を捻るばかり。
「…いいや、誰もいないよ。何でもないんだ。…心配してくれてありがとう」
「心配するのは当たり前だ。友達なんだから」
 取手の動きが止まった。
「…友、だち?」
「そう」
 自信満々に答えた暁斗を、取手は口元を掌で隠して見つめる。
「まァ、何もなかったんならそれでいいんじゃないか?」
 皆守は、取手を捕まえる際に放り投げられた暁斗の鞄を取ると、暁斗の背中に押し付けた。そして、戸惑っている取手を見る。
「お前の事情だからな。お前が何にもないって言うなら、それでいい。俺には関係ない事だからな」
「皆守…」
 保健室の時と同様に怒りを滲ませて、暁斗が鞄を受け取りつつも皆守を睨んだ。
 どうしてそんな顔をする? 皆守には理解が出来ない。お前は何処までお人好しなんだよ。他人に関わって何になる。下手に踏み込んで、向こうも自分も傷付くだけなのに。
「あれっ、どうしたの。そんな所で固まってさ」
 場違いな明るさでぎこちない空気を壊し、八千穂がテニスウェア姿で手を振りこっちに走ってくる。どう言う訳か、後ろをゆっくり瑞麗が歩いてきていた。瑞麗は煙管を手に、こちらを見て面白げに口の端を上げる。
「何でカウンセラーと一緒なんだよ」
 あんまり会いたくない顔に、皆守は不満をあげた。
「玄関で靴を履き替えてたら偶然ルイ先生と会っちゃって」
 成る程、八千穂が今履いているのは、部活に使うテニスシューズではなく、今の姿には似合わない茶色のローファーだ。
「そう言えば、テニス部なんだろ、八千穂って。もう終わったのか?」
 まだ沈もうとしない太陽。明るい空を見てもっともな質問を暁斗がする。今日は早く上がったんだ。と八千穂は両手を腰に当てて息巻いた。
「だって墓地探検には色々準備が必要でしょ?」
「本気で行く気かよ」
「もっちろん! ね、葉佩クン」
「………本当はあんまりついていってほしくないけどね」
「ん、何か言った?」
「何も」
 暁斗は、自分を連れていかなかったら、皆に正体をバラすと八千穂に脅されている。部長権限を使ってまで、部活を早く終わらせて、夜の楽しみに心踊らせている彼女を止める術を、暁斗は持っていなかった。うなだれる暁斗を余所に、八千穂は指折り数え何を持っていくか楽しげに考えている。
「…駄目だ」
「取手クン?」
 取手が遮るように言う。墓地と言う言葉が出た途端、彼の顔は強張っていた。怪訝な顔をして八千穂は取手を見た。
「墓地には行かない方がいい。夜の森は暗くて恐ろしいし、それにどんな危険が待っているか分からない。だから、駄目だ」
 取手が止めるのは、常識から見れば当たり前の事なのだろう。夜の墓地。そしてその先に待っているものは暁斗たちを危険に曝すだろう。元々規則で墓地に生徒が入り込むのは違反行為と見なされる。破れば生徒会による断罪が待ち受けるだけだ。
 手が干涸びた、あの女生徒みたいに。
「ありがとう、取手」
 暁斗は緩く微笑むと、口を開けるごとに固く握りしめていた取手の手に両手で触れる。柔らかく包むと、ゆっくりと開かせた。
「でも、オレは行かないといけないんだ」
 暁斗が言う。すると悲しげに取手の顔が歪んだ。
「………君は………。…ッ」
 急に取手がこめかみを掌で押さえて、瞼を閉じる。眉間に深い皺が刻まれた。
「頭が…、痛いッ………」
 苦痛に浮かべ、長身が揺れると、取手は地面に膝をつく。
「大丈夫か?」
 皆守が問いかけても取手は答えない。保健室で会ってから、皆守は何度も取手が頭痛に苦しむ姿を見てきた。いつ起こるか分からない発作のようなものが今、彼を襲っている。
 取手は必死に絶えているが、身体を支えているのも難しいらしく、ぐらりと揺らめく。慌てて暁斗が抱き込むようにして支えた。
 瑞麗が二人の側でひざまずき、取手の顔を覗き込む。髪を掻きむしるその手に軽く触れた。
「…保健室に行くか。鍵を借りれば校内に入れる」
「そうだよッ。あたしも手伝うから!」
 手伝いを申し入れる八千穂に同調して、暁斗が頷く。
「八千穂のいう通りだ。ほら、肩を貸すから−」
「いや、いい。いいんだ」
 取手が首を横に振る。眼を開けてこめかみから手を離すと、立ち上がった。
「もう、…治ったから」
 さっきまで痛みに苦しんでいた割りには、妙にはっきりした口調。表情からも苦しみは失せていて、いつもの取手だ。
 しっかりと地面に立つ取手に、八千穂は胸をなで下ろす。心から安心していた。
「良かったァ〜。でもまた痛くなったら遠慮しないですぐ言ってね。保健室に連れてってあげるからさ」
 損得勘定のない純粋な好意。人の眼には好ましく映るそれに、取手ははっきりと拒絶した。
「…君たちでは、僕を救う事なんて出来ないよ」
 しゃがんだままだった暁斗が、取手を見上げて、眼を見開く。一瞬、強く哀しみの色が滲んだ。
「…どうして、そんな事を言うんだ…?」
「ルイ先生にだって、僕の事を救えなかったんだ。君たちが、出来る筈も、ない」
「取手…」
 独り全てを拒絶する言葉に、瑞麗が咎めるように呟いた。だが、取手はそのまま言い続ける。
「構いませんよ、ルイ先生。僕の事を話してもらっても。寧ろ話すべきだ。そうすればきっと、君たちも僕を救おうだなんて、思わないから」
「………」
「………離してくれないか?」
 ズボンの端を握りしめていた暁斗の手を解かせると、取手は行かないくてはならない場所があるからと、背を向けて何処かへ行ってしまった。
「どうして…」
 八千穂が、頑なに差し伸べる手を拒む取手の背を見つめ、呆然と呟く。
「…そうだな、本人がいいと言ったんだ。言うべきことなんだろうな」
 しばらく考え込んでいた瑞麗は、意を決したのか、取手に関する事を暁斗たちに話した。
 取手にはさゆりと言う名の姉がいたらしい。彼女はとてもピアノが巧く、コンクールで優勝を取る程の腕前を持っていた。だがある日、さゆりと女友達が音楽室でふざけていた時に、倒れこんだ彼女はその拍子にたまたまピアノの脚が折れて、下敷きになった。その時の怪我が元で彼女は以前のように指が動かせなかったらしい。
 だが、真実はそれだけではなかった。
「怪我をする前から、取手さゆりは重い病を患っていたらしい。巧みに動く指やピアノを引き続ける体力すらなくなる程の」
 そして、彼女は死んだ。
 崇拝していた姉を失った弟が真実を知った時、心に受けた衝動はどれぐらい強かったのか。皆守には良く分からないが、それでも心の均衡が崩れるぐらいには強かっただろうと思った。でなければ、取手が今も苦しんでいる筈ない。
 八千穂が悲しそうに言う。
「取手クンがあんなに苦しむのは、お姉さんが亡くなったから…」
「そうだな。だから、墓地に関してもあんなに過敏になっているのかもしれない。だが」
「…なんですか?」
 真剣な面持ちで暁斗が聞いた。
「取手の中には、姉の死に関する記憶がごっそりと抜けているのさ。まるで忌わしい呪いにでもかけられているようにな」
「墓地に呪い…。ちッ、どうなってんだ」
 皆守が吐き捨てて言った。立て続けに起こった事全てに、嫌な予想ばかりしか立てられないものばかり関わってきて嫌になる。
 瑞麗が取手が行ってしまった方向に思いを馳せ、そっと眼を伏せた。
「姉の死の記憶がないにも関わらず、心が救われない。一体何があの子をそうさせているのか…」
「…墓地に行ったら、何か分かるかな」
 今までじっと話を聞いていた八千穂が、口を開いた。
「だって、あそこには何かありそうな怪しい穴があるし、調べてみる価値は絶対あるよ。取手クンの記憶を取り戻す鍵が」
「…うん、そうだな」
 八千穂の提案に、暁斗は大きく頷く。
「オレたちで、取手の力になろう」
「−うんッ!」
 嬉しそうに八千穂が返した。思いを確かめあう二人を遠く、皆守は遠く見つめる。
 くだらない。暁斗も八千穂もどうして、そこまでして他人に関わるんだ?
「−俺はゴメンだからな」
 気付いたら、皆守は厳しく突き放した口調で言い放っていた。八千穂の表情が見る間に固くなっていく。どうして? と問うような視線で皆守を見てくる。
「どうして、そんな事を言うのッ? 皆守クン、取手クンとは保健室仲間だって言ってたじゃない」
「ああ、そうさ。だがな、取手の問題は取手自身でしか解決できないさ。取手の過去に何があろうが、どんな傷を抱えていようが、他人には所詮関係ない」
「………」
 暁斗の表情が色をなくした。立ち上がると、臆面もせず皆守をただ見つめている。彼らの間で、困り果てた八千穂は、交互に二人を見ていた。
「心の傷は誰にだってある」
 お前にも、俺にも。
「そんなのは、誰の力も借りずに乗り越えていくべき事だ」
「−違う!」
 一気にいきり立った暁斗が、皆守の胸元を乱暴に掴み上げる。いつもにこやかだった眼に、初めてありありと怒りの炎が揺らめいていた。押され、後ろに傾く身体を足で支え、皆守も負けずに睨み返すと暁斗の手を掴む。
「おやさしいことだな」
 皆守の中で、いら立ちがざわざわと身体の内側を這って、手に集まるのを感じた。それは力になって掴んだ手をきつく絞めていく。殴ってやりたい衝動が、頭を掠め、いつ爆発するか分からない。
「じゃあ聞くがな、お前はこれからも取手のようなヤツをいちいち助ける気か?」
「ああ」
 暁斗は迷わず即答した。怒りの中に、確かな意志が生まれてきている。
「それがオレにできるなら、手を差し伸べよう。それで誰かを救えるのなら、喜んで」
「バカか、お前は。そこまでするか、普通」
「それがオレだから。何もせず後悔するより、行動して後悔した方がマシだ!」
 暁斗は手を離すと皆守を解放する。そのまま背を向けると、成りゆきを見守っていた八千穂の手をとった。
「行こう、八千穂」
「え?」
「こんなヤツ、知らない。オレたちだけで行こう」
「で、でも」
 暁斗に手を引かれながら、肩ごしに八千穂は皆守を見る。本当にそれでいいのか。そう眼で言っていた。
 だが、皆守はそれを無視すると、胸元を整えアロマプロップをくわえ直す。
「お前には、何も出来ない」
「それでも、オレは行く。お前は動かないまま、じっとしてるがいいさ」
 皆守の顔を見ないまま、暁斗はそのまま八千穂の手を引き、寮へと帰っていく。残った皆守はアロマを吸った後、長く溜め息を吐いた。
「なかなか友達思いのようだな、あの《転校生》は」
「…まだ、いたのかよ」
「忘れてもらっては困るな」
 どんどん小さくなっていく暁斗たちを瑞麗が眺めている。
「…私は神の癒し手でもないし、全ての悩みを取り除いてあげられる訳でもない」
「………」
「だが、こうも思うのだよ。同じ学園の生徒である君たちになら、あの子も私に話してくれない事を話してくれるかもしれない。…閉ざされた扉を開く為の鍵は案外近くに転がっているのかもしれない、とな」
「………」
 瑞麗の言葉に何も返さないまま、皆守はその場から離れる。振り向かずに歩く皆守の背に、瑞麗の声が届いた。
「皆守、お前は本当に救えないと、そう思うか?」

 

 くだらない。
 暁斗はどうしてそこまで他人に対して、助けようと手を差し伸べるのか。《宝探し屋》とは皆そうなのだろうか。それとも、彼自身の性質か。傷付いても、拒絶されても動く事を止めない暁斗の行動を、皆守は到底理解出来ない。
 だが何故か、心の片隅で脈絡のない考えが漠然と浮かんでくる。
 もしかしたら、アイツなら。
「………」
 くだらない。
 今度は自分の考えを嘲笑した。アイツが変えると言うのか、何かを。
 それならば、見てやろうじゃないか。暁斗が取手を救うのか、それとも危険に曝されるのか。アイツがどうなろうとも、俺には関係ない。
 皆守は携帯電話を取り出すと、メール画面を呼び出した。本人の手によって打ち込まれた暁斗のアドレスに、文章を打ち込み送信する。
 メールを見た時、暁斗がどんな顔をするのか、考えると薄く笑えた。

 長い夜になりそうだな。

 皆守が顔を上げると、太陽が西の空へと沈もうとしていた。

 

 

その頃の暁斗さん - not understand -

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