「カウンセラー、いるか? 急患だ」
皆守は保健室に入ると常駐している校医を探す。消毒薬の匂いがする、ひっそりと静まり返る室内からは、返事は返ってこない。ちと軽く舌打ちをして、同じ事を繰り返すがやっぱり誰も応えない。
「前来た時もいなかったけど、ここっていつもこうなのかよ」
女生徒を抱えた暁斗が、干涸びた手に気を使いながら中に入る。女生徒の身体には、音楽室から運ぶ間、その手を他人に見られないようにと、気遣った暁斗の学ランがかけられている。
「んな訳あるか。取り合えずベットに運んどけよ。お前もいつまでも抱えてられないだろ」
「…それは女の子に対して、失礼な発言だな…」
皆守の言う事にツッコミを入れつつ、暁斗は来た時同様ゆっくり壊れ物を扱うように女生徒をベットの方へと運ぶ。
ベットのある方は、それぞれカーテンで区切られるようになっていて、病人がゆっくり落ち着いて休めるように出来ていた。皆守も仮病を使い、よく保健室にサボりに来るのは、ここのベットの居心地がいいからだ。
ベットは二つある。そのうち、向かって右側のベットはカーテンが引かれていた。具合を悪くした誰かが眠っているのだろう。
暁斗は空いているベットに、手に殊更注意して女生徒を寝かせる。そこでかけていた学ランを取ると、腕に袖を通して着直す。今まで隠れていた干涸びた手がまた露になった。暁斗の眼がきゅ、と悲しそうに細まる。
「なんで、こんな事に………」
「………」
暁斗の後ろで閉じられていたカーテンが不意に開いた。驚いた暁斗が一瞬たたらを踏み、後ろを振り向く。
「………そこを、どいてくれないか?」
「あ、ああ、ごめん」
低く、くぐもった声に暁斗はベット脇の通路から出る。さっきまで使われていたベットから、男が起き上がった。
出てきた男の顔色は、日に焼けた暁斗とは対極で青白く、生気を感じられない。また顔のほりが深いせいか、儚い雰囲気が彼を纏っている。そして、きっと初対面なら、必ず眼がいってしまいそうな常人の二倍はある長い腕に、暁斗も例に漏れず、それを注視した。男が戸惑い、恐る恐る伏せめがちの眼で暁斗を見遣る。
「…あんまり、見ないでくれないか」
「あ。あああ、ごめんごめん」
さっきから謝りっぱなしの暁斗に構わず、男は立つと横を通り抜けた。そして皆守を見つけ、驚いたように脚を止める。
「皆守君?」
「何だ、取手じゃないか」
「えッ、お前たち知り合い?」
暁斗が大袈裟に、皆守と男−取手を見比べる。物おじしない視線に取手の頬がうっすらと赤くなった。
「こいつはA組の取手鎌治。保健室でよく会うんだよ」
「じゃあ、サボり仲間だ」
「…違うよ」
取手が即座に否定する。小さく聞き取りにくい声で説明した。
「僕は、最近頭痛が酷くて。気を失うぐらい強い時もあるから、先生に薬をもらいに」
「じゃあ、病人だ。サボりじゃないな」
そこでどうして、こっちを見るのか。皆守は暁斗から眼を反らした。視線が痛い。
「皆守君とはここで会う事が多くて、だんだん話す機会も増えて。でも僕はカウンセリングを受けに来たりするだけで…」
「サボりじゃない。サボりじゃない。もっと堂々としてていいよ」
「お前が威張っていう事じゃないだろ。それは」
「サボり魔に言われたくない」
「なんだと」
「………あの」
言い合いを始める二人に、取手がそっと割り込んだ。
「その女子…。どうかしたのかい?」
「あ」
揃って間抜けな声が出た。そう言えば、この女生徒を校医に見せる為にここに来たのだ。馬鹿げた事をしている場合ではない。皆守は慌てて気を取り直した。
「あッ、ああ。新たな犠牲者さ。前に墓地で行方不明になった男子に続いてな」
「墓地でも!? どういうことだ?」
身を乗り出す暁斗の頭を、皆守は片手で押さえる。いちいち構ってたら、話が進まない。
「お前は今は黙っとけ。…ったく誰がやったんだか」
アロマプロップをくわえ直そうとして、皆守は手を止めた。希薄だった取手の表情がさらに色をなくしている。まだ皆守に頭を押さえ付けられていた暁斗も気付いて取手の元へ駆け寄ると、顔を覗き込む。
「…大丈夫か? まだ痛むなら休んだ方がいいよ」
暁斗が手を伸ばして取手の頬に触れようとするが、指先が触れる直前、取手は逃げるように離れた。
「…今は、だいぶん治まっているから。それじゃ僕は行くよ」
説得力のない言葉に暁斗はまた何かを言うのか口を開くが、それよりも早く取手が保健室から出る方が先だった。振り向かず扉を閉める取手に、暁斗はまたも心配そうな顔をする。
「………」
気まずい沈黙が流れた。どうにもこの転校生は、お人好しの分類に入るらしい。今会ったばかりの他人の事なんて、気にする程の事でもないだろうに。皆守は胸が苛つき、アロマを吸い込む。なによりも今は、女生徒を何とかして早く休んでしまいたい。
思い直して、皆守は周囲を見た。
「カウンセラー、いないのかッ!」
「いるさ。ちゃんとここに」
部屋の奥にある仕切りの向こうから、涼しい声がした。固い足音がして、そこから白いチャイナ服に白衣を着た女性が煙管を手に現れる。煙管から微かに煙が出ていた。
「…あれが校医さん?」
「ああ、そうさ」
暁斗の問いに女が答える。
「私の名前は劉 瑞麗。広東語のほうではソイライと発音するが、ここではルイ先生と呼ばれる方が多い」
「広東…。中国?」
「ああ、福健省は客家のほうからな」
暁斗の質問に、流暢な日本語で答える瑞麗に、皆守は今まで分かってたくせに黙ってやがったなと顔を顰めた。これだから、この人物とはあまり仲良くなれそうもない。
劉 瑞麗。天香学園に一年前に赴任してきた校医兼カウンセリング。生徒の評判もよく、ルイ先生と呼ばれ親しまれているが、皆守とはあまり相性がいいとは言えなかった。仮病を使い、保健室を休憩室代わりにしている皆守と、それを咎める立場の瑞麗とでは仕方がないだろう。
有意義に休憩をしている瑞麗に皆守は不服で、のんきに自己紹介をしている二人の会話を遮った。
「カウンセラーいたんだったら返事ぐらいしたらどうだ」
「御挨拶だな。こっちは今、いい気分で一服していた所だ。お前が昼寝を邪魔されたくないように、こちらもこういう時間を邪魔されたくないのだよ、坊や」
痛い所を突かれ、皆守は黙り込むしかない。代わりに暁斗が瑞麗の前に進み出た。
「すいません。ですが、急患の状態が明らかに普通とは違うんです。早めに対処した方が、あの子の為にもなりますから」
お願いします。頭を深く下げる暁斗に、瑞麗は下がる頭を見て考え込み、
「患者はどっちだ」
と聞いてきた。暁斗の顔が明るくなる。
「こっちです。お願いします」
「………」
瑞麗を案内する暁斗の背中を、複雑そうに皆守は見つめた。まさか、あんな丁寧な物腰で話せる奴だとは思わなかった。昨日から、転校生の様々な一面を見て、その度に驚いてしまう。
「これは…」
ベットに寝かされている女生徒は、未だに夢の中で何かにうなされていた。干涸びた手の指先が、毛布を引っ掻こうとするがうまく出来ない。
瑞麗は暁斗を見る。暁斗は頷いた。
「…手だけか?」
「恐らくは」
「何処で」
「音楽室です」
「そうか…」
納得したように女生徒の手を見る瑞麗に、後ろで皆守はアロマを吸いながら聞いた。
「なんか心当たりでもあるのか?」
犯人か、どうしてこんな風に手が干涸びてしまったのか。皆守は何か分かるかと期待したが、瑞麗は首を横に振る。
「いいや」
「………」
「今はどうとも言えないな。とりあえず、普通の症状ではないと言う事だけは分かった」
「それは俺たちも分かっている」
「まぁ、そう急くな。取り合えず、ここは私に任せて教室に戻れ」
「…そうだな。俺たちのできる事はもうやった」
音楽室で発見してから、保健室まで運んで、校医に治療を任せる。それだけでも皆守や暁斗にとっては十分すぎる対処だ。だが、暁斗はまだ何か出来る事はないかと、眼で瑞麗に懇願している。
「そう思ってくれる事は嬉しい。だが、もう君には出来る事はないよ」
はっきりと言われ、ようやく皆守は暁斗を引っ張って保健室を出た。横で暁斗が頭を俯かせてしょんぼりしている。
「仕方がないだろ。お前は医者じゃないんだ。やれる事に限度があるだろ」
「…でもなぁ…。可哀想だよ。女の子なのに、手があんな風になってしまうなんてさ」
「俺たちはやれるだけやったさ。あとはあのカウンセラーが何とかしてくれるだろうよ。それにこれ以上厄介な面倒事に関わるなんてごめんだからな、俺は」
「………」
見捨てる言い方に暁斗が皆守を睨みつける。こいつは、底抜けのお人好しか。皆守は呆れた。普通、自分とはあまり関係のない人間をそこまで心配出来るか。皆守にとってはあまりにも不思議だった。
人や弱くて、狡くて、卑怯だ。心の中には数知れず傷や暗い闇を孕んで、人に弱味は見せまいと必死で隠す。触れられそうになったら牙を向けて。
親切で手を差し伸べた事で、傷つけられたら割に合わないだろ?
「…ちッ。俺は行くからな」
「どこに」
「俺の勝手だろ。何処に行こうが。保健室で休もうと思ってたんだが、どうやら使えそうにないからな」
「皆守」
暁斗に呼ばれたが、皆守は背中で受けたまま暁斗を置いて歩き始めた。途中で誰かにぶつかりかけるが、眼もくれず、ただ進む。
『 』
声が聞こえた。
ああ分かってるさ。今、自分がしなくてはならない事がある。それをちゃんとしなければならない。
でも今は、そんな気分には到底なれない。ラベンダーの香りに埋もれて、何もかも忘れてしまいたい。
皆守は、大きくアロマを吸い、肺の中をラベンダーの香りで満たしたが、胸の奥の苛立ちはまだ消えそうになかった。
暁斗たちが出ていってすぐ、また保健室の扉が開く。入ってきた姿に、瑞麗は挨拶代わりに煙管を軽く上げた。
「早かったな」
「ええ、まぁ。何だか嫌な氣を感じてしまって…。何かあったんでしょう?」
「ああ」
瑞麗はベットに寝かせられた女生徒を見せた。
「ものの見事に、手だけを干涸びさせている。全くどうやったものか、見せてほしいものだよ」
「………《人ならざぬ力》」
「そう考えるのが妥当だな。さて、どうする?」
「とりあえず、この子をどうにかしないと。このままだと可哀想ですから」
「………」
「知り合いにそういう専門の病院があります。あとで連絡して治療方を聞いておきますよ」
「頼む。こっちも調べておこう。気になる事がある」
「? なんです?」
「まぁ、色々とな。お前も何時か出逢う日が来るだろうから楽しみにしてるがいい」
瑞麗は目の前の人物に、眼を細めて笑うと煙管を口につけた。
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