「行っくよー!」
八千穂が真上に投げた硬球を、持っていたラケットで打った。うねる空気を切り裂いて、狙い違わず雌しべを開閉している神籬に命中させる。貫通して、ばぁん、と壁にぶつかったボールは、何かの液を付けて転がる。
みぎゃあ。外見に似合わぬ可愛らしい声の断末魔を上げ、神籬はひかりの塵となって空間に溶けていく。八千穂は化人を倒した喜びに浸る間もなく、新たに迫って来る影にラケットを構えた。
「------くらえっ!」
木刀を閃かせるのは、真里野。分子をも切り裂く《力》を発揮して、血を吸いに牙を向く蚊欲を断面も滑らかに胴体を真っ二つにする。蚊欲が悲鳴を上げる暇すらなかった。湿気に抜かるむ土に、足を取られず次の目標を定める。
「………」
ラケットと木刀を振り、互いに奮戦する二人の後ろで、本来先陣を切って闘うはずの暁斗が所在なげに様子を見ている。グリップを掴んだだけで、ホルスターから出ていない銃を握んでいて何となく虚しくなる。あくまでも闘うのは《宝探し屋》の暁斗だけで、バディの八千穂と真里野は補佐をするぐらいで良かったのに、これでは立場が逆だ。
みぎゃあああ。ぎしゃあああ。
立続けに聞こえる化人の悲鳴。一方的な力の差に、為す術もない。
元《執行委員》の真里野は剣術の腕も立つし、《力》も申し分ない。暁斗と対決して、黒い砂から解放されてから更に鋭さを増している。彼なら、自分から闘いをしていくのも納得出来る。
だが、八千穂は尋常ではないスマッシュを打てるが、一応は一般生徒だ。こうして矢面に立たせるのは正直暁斗は乗り気じゃない。今回は、弾切れのない銃を扱う墨木が相手になる。だから真里野だけバディに呼び、そのまま遺跡に赴いたが、彼女は先回りをして、墓地で暁斗を待ち伏せていた。危ないからと、必死で説得してもあたしもついていく、の一点張り。
結局暁斗が根負けし、八千穂もついていく事になってしまった。実際、彼女は活躍して、頼もしい事この上ないが、やはり心配が付きまとう。放課後の校舎で墨木に襲われた時、身を呈して銃弾から守ってくれた皆守の二の舞いにはさせたくない。
『敵影消滅』
H.A.N.Tから音声が流れ、見せ場もないまま戦闘が終了する。
「また、つまらぬものを切ってしまった」
真里野が木刀を振り、袴に差す。切っ先が天井から染み出た水を受け、伸び放題の草を掠める。
暁斗が上を見上げると、生い茂る木の葉が視界を覆った。
「まさか、土の下でこんなに豊かな緑を拝むとは思わなかったよ」
湿る空気に、土に草木。新たに開いた区画は、今までの区画とは違い、至る所に緑がある。まるで太古の森がここに取り残された感じだ。
「うむ、拙者も自分の担当以外は見る事がなかった故。……流石は《遺跡》と言うべきか」
真里野も感嘆して頷いた。
「位置的には……真里野の区画の真下に位置するのかな? 水が染みて落ちてくるのと、土に栄養素が豊富だから、植物が育ちやすいのかも知れない」
「成る程」
「難しい事は分からないけど------。今度七瀬にでも手伝って調べてみようかな……」
博識な彼女なら、調べごとの強い味方になりそうだ。あの、入れ代わり事件のお陰で、全てが七瀬に知られ、暁斗は解決した後彼女に協力を願い出て来られ、それを受けた。今更断れないと言うのもあるが、それ以上に《超古代文明》に造詣が深い七瀬の知識は暁斗にとってもまた心強い戦力だ。
「なっ、七瀬殿ッ!?」
真里野が七瀬の名前に過剰な反応を示す。顔を赤らめ、傍から見ても可笑しいと気づけるぐらい分かりやすい。暁斗が真里野を凝視すると、彼はわざとらしく口元に手を添えせき払いをし、改まったように暁斗を見返す。
「もし、その時が来たら是非拙者も読んでくれ。助太刀いたそう」
「………」
これまた分かりやすい言動に、暁斗の視線は生暖かさを伴う。
どうも暁斗と七瀬の身体が入れ代わり、やむを得ない事情から七瀬の身体で真里野と闘い、そし勝った時から、彼は七瀬を気にかけているらしい。その次の日から、図書室にその姿をたびたび目撃している。そして、熱っぽい視線を司書をしている七瀬に注いでいるのだ。
恋心を持っているのは一目瞭然。だが真里野は聞かれる度に慌てふためき、否定している。その仕草もまた、七瀬に行為を持っている事を示すには十分すぎた。
暁斗は少し考える振りをしてから、意地悪く笑う。
「……分かった。そういう時があれば、連絡するよ」
「それは真か! ----感謝する」
喜ぶ真里野に暁斗は思う。あの時の七瀬は、オレだったんだよ、なんて口が裂けても言えない。
剣の道一本に生きてきた男も、恋に落ちればこんなにも変わる。それよりも前、特に黒い砂の《呪い》にかかっていた時は、遠慮も加減もなく《力》を振るってきた癖に。
-----そう言えば、やられかけてた寸前、自分を助けてくれた鴉は何だったんだろう。風を伴い、暁斗を窮地から救ってくれた。その後の記憶は、曖昧で思い出す事すら出来ないが。
気がついたら、そこはもう、外で。
一体誰が、記憶を失っていた自分を連れてきてくれた-----?
「-----暁斗クン!」
「っ!?」
「早く行こうよー!」
考えに気取られているうちに、八千穂はさっさと先に進み遠くから暁斗を呼んでいる。ラケットを持った手で、手招きをしていた。
「八千穂、先に行くな! 罠があったらどうするんだ!」
「平気だってば。早く早く!」
「師匠、ここは言い合っているよりも早く八千穂殿の行かれたらどうだ?」
「……まぁ、そうだけど。………ん?」
先を促す真里野の、自分の呼び名に暁斗は首を捻った。
「真里野なんだよその師匠って言うの」
「お主は七瀬殿に剣術の指南をしていたのだろう? 七瀬殿にとって師匠ならば、また拙者にとっても同じ」
「……どうどでも呼んでくれ……」
重症だ。恋は盲目だ。暁斗はそうぼやき、急かす八千穂の元へ歩き出す。抜かるむ地面は滑りやすい、転げやすい。スパイクを履いておくべきだった。溜め息を吐く為に吸った湿る空気が、喉に纏わりついた。
「もう、暁斗クンってば!」
八千穂はラケットを小脇に抱え、転びかけた暁斗へ駆け出す。こちらはしっかりスパイクを履いている。暁斗の腕を取るとひっぱり、しっかり地面に立った。女の子なのにとても力強い。テニスで鍛えたからか。
「わ、悪い」
「----今日の暁斗クン、何処か変だよ。何かあったの?」
「………」
あったけど、言えない。八千穂にまで女とばれたらどうなるか。
暁斗は笑って誤魔化す。
「何言ってんだよ。オレはいつものオレだって!」
「………」
「………な、行こう。墨木が待っているから」
曖昧に茶を濁し、暁斗は八千穂を通り過ぎ、次の区画へと続く扉に手をかける。
待ってくだされ、と二人の後ろで真里野が呼んでいた。草履で滑りやすいのか、歩く事に難儀している。
八千穂がぎゅ、と唇を噛んだ。
「………あのさ」
「………ん?」
「あたしって、そんなに頼り無いのかな?」
「え?」
暁斗が振り返り、そして泣きそうな八千穂に身を引いた。
「………八千穂?」
ラケットを抱える彼女の手が震えている。口をへの字にして、今にも泣き出しそう。横から直視した真里野が大袈裟に驚き、後ずさった。
女の子の涙なんて見た事ないだろう彼には申し訳ないが、暁斗は手振りで真里野に後ろを向くように、手で指示を出す。素直に後ろを向く真里野を横目に、暁斗はとうとう泣き出してしまった八千穂と向かい合い、自分の膝頭に手を置いて、彼女の顔を覗き込んだ。
「八千穂、落ち着いて。どうしたんだ一体」
「落ち着いてなんか、いられないよっ」
ぼろぼろ瞳からこぼれる大粒の涙。
「だって、だって暁斗クン、いつも、いつも」
八千穂は袖で乱暴に涙を拭い、目元を赤く腫らせる。 競り上がるしゃくりを息を飲んで止め、暁斗の身体を扉に押し付けた。
「いつも……ッ! ------バカッ!!」
「八千穂……」
「暁斗クン、放課後、本当は撃たれてたんでしょ? 分かってたんだもん、脇隠してたの。血の匂いだってしたし……」
暁斗は咄嗟に脇腹を押さえる。八千穂にまでばれているなんて思わなかった。
「でも、暁斗クンあたしに気を使って、何にもないふりして笑って……。自分で頑張りすぎだよ。痛いのも我慢して一人で治そうとして。ちっとも何も言ってくれないし、頼ってくれない」
「それは……」
八千穂の明るさを曇らせたくない。太陽のように暖かな笑みを守りたい。……なんて言うのは、言い訳にならないんだろうなあ。暁斗は甘んじて八千穂の怒りを受け止めた。きっと宥めても、説得しても言葉は届かないだろう。
「……あたし、暁斗クンの友達でしょ?」
暁斗は迷う間もなく頷く。
「あたしだって暁斗クンを友達だって思ってる。……思っているから、あたしだって、護りたいのッ!」
そっと暁斗の頭を引き寄せ、八千穂は額同士をくっつけあう。手を伸ばした隙間から、挟んでいたラケットが音を立てて落ちた。構わず彼女は、祈るように瞼を閉じる。
「……正義が分からないって、暁斗クンは言ってた。でもあたしは胸を張って言うよ。暁斗クンのやっている事が間違ってなんかないって」
「八千穂……」
「だから暁斗クンも胸を張ってよ。暁斗クンにはあたしがついてる」
額を擦り付け、よし、と八千穂は離れた。
「ごめんね。泣いたりなんかして」
「ううん」
照れて笑う八千穂の赤くなった目の匙から、暁斗は溜まっていた涙を拭ってやる。優しい涙は、指先の皮膚をふやかし、染みていく。
なんて暖かいんだろう。
「ありがとう八千穂。----じゃあ、改めて行こうか。墨木の所に」
「うんッ!」
ようやく泣き止んだ八千穂に微笑んで、暁斗は開きかけた扉に向かいかけ、止める。振り向いて、先に進まない暁斗に、首を傾げる八千穂を凝視する。
「……どしたの?」
「あの、さ」
躊躇い口籠りながら、暁斗は続ける。
「今日帰ったら、八千穂に聞いてほしい事があるんだ。----聞いてくれる?」
「もちろん! あたしで良ければ何でも聞いてあげるよ!」
「サンキュ」
前言撤回。八千穂にまで女とばれたらどうなるかと胸をよぎった不安を取り消そう。他人を真剣に思いやれる彼女に、隠し事をするほうが耐えられない。隠してまた泣かせるぐらいなら、もうバラしてしいまえ。皆守は怒るだろうが、彼も八千穂には弱いから、許してくれるだろう。心の中で皆守に手を合わせ謝る。
「じゃあ、行こう。足元が滑りやすいから気を付けて。それから真里野も。もうこっち向いて大丈夫だから」
「----う、うむ」
後ろで背を向けながら木々に飲まれるように立っていた侍は、露骨に安堵して歩き出し、そして足を滑らせた。
そこは今日通ってきた区画の中では一番広かった。湿り気の強い空気。壁や床は苔むし、蔦が這い回る。奥行きもまた深く、霧が立ち篭め、先が見えにくい。
墨木は、霧に隠れるようにして暁斗を待っていた。二匹の蛇が向かい合う黄金の扉が開き、踏み込んできた侵略者に、軍用靴を鳴らし向き合う。
「やはり来たカ。葉佩暁斗------」
「ああ、来たよ」
墨木は肩のホルスターから銃を抜き取り、暁斗に向ける。後ろで成り行きを見守る真里野が木刀に手をかけたが、暁斗が手で制し、墨木に向き合う。持っている武器には手をかけない暁斗を、墨木は愚かに思う。ここは戦場なのだ。武器を手に持たないでどうする。もう勝つ気でいるのか?
「……では、これが最後の警告ダ。命が惜しくば、即刻この場から撤退セヨ」
「断る」
腰に差していた刀を、暁斗は抜いた。
「オレにはしなくちゃいけない事がある。その為には《遺跡》の奥に行かなきゃいけない。だからお前の言葉を聞く訳には行かない」
「……それが貴様の答えカ」
「ああ」
「……自分には理解出来ン。貴様がどんな存在なのか。この《遺跡》に何を齎そうとしているのか。……だが、貴様が何であれ、この場所を荒らされる訳にはいかんノダ。覚悟を決メロ。葉佩暁斗------」
「そんなもの」
暁斗は刀を構え、真里野の後ろに移動する。彼もまた木刀を抜き、青眼に構えた。
「とっくに決めている。行くぞ、真里野ッ!」
「応ッ!」
二人は一斉に走り出した。墨木が右手で銃を構える。安全装置は外され、まっすぐ暁斗の眉間を狙う。そして、左手で手招きをした。
「出てコイッ!」
部屋の隙間からどう言う仕組みか、にゅるりと柔軟な身体をしならせ、加賀智が出てくる。先端が二股に別れた舌を出し入れし、獲物の姿に瞳孔を縦に開く。
もちろん暁斗は敵が墨木一人だけではないと予測済みだ。だが、こちらとて一人ではない。頼もしいバディがいる。
前にも、そして後ろを守ってくれる仲間が!
「----八千穂ッ!」
自分を狙い、一ケ所に集まってくる加賀智を真里野と共に飛び越え、暁斗は叫んだ。広い部屋に声を反響させ、全体に木霊する。
「うんッ! ------行っくよー!」
蛇が向かい合う黄金の扉を背にした八千穂が、頼もしくボールとラケットを構えた。ボールを高く放り投げ、自らも軽く飛ぶ。抜群のタイミングでラケットを振った。
うねる空気。
テニス部で培われた技術をいかんなく発揮したスマッシュが、加賀智の群れへと放たれる。目前の獲物に飛び越され、標的を見失った哀れな化人たちは、ボールの洗礼に為す術もなく、ひかりの塵と化す。
「やったぁ!」
八千穂はガッツポーズをする。そして、空へと昇っていくひかりの塵の向こう側で走る暁斗を後押しする。
「いっけえ、暁斗クン!!」
「----おうッ!」
「くうゥッ----!」
墨木は呼び出した化人を瞬殺され、怒りに震える。一直線にこちらに向かってくる暁斗へと、引き金を引いた。
ばあんばあん、と乾いた音がして、薬莢が地面に転がる。
銃は当たれば皮と肉を突き破り、出血を大量に伴わせる。当たりどころによっては、即死にだって至る。戦略さえ間違わなければ、刀なんて古風な武器が適うはずがない。
こいつらは馬鹿だ。真っ向から来るなんて。死にに来たのか?
墨木は勝利を確信する。だが、隻眼の剣士は不敵に口元を上げて笑った。
「せえりゃあ!!」
「------何ッ!!」
真里野が抜いた木刀の軌跡が、放たれた弾丸の軌道に重なる。人が目にする事は出来ない早さのそれに、彼は見事命中させ、そして切った。
弾丸は真ん中から二つに割れ、暁斗に当たる前に地面に落ちた。わずかにずれた落下音が二つ。
「クッ-----」
《力》を使い、新たな弾を造り出して銃を撃ち続けても、その度に真里野は木刀を振り続けた。二人が走るその後を、幾つもの割れた弾丸が残されていく。
「ばっ、馬鹿ナッ……!」
どうしてこいつらは恐れないんだ。墨木は狼狽する。怖くないのか。銃に撃たれるのが----。
今まで処罰してきた人間は、誰も彼も自分の持つ銃に恐れていた。死にたくない、助けてくれ。助けを請い、恐怖に怯えた瞳で見つめる。
だが、真里野も暁斗もそう言ったものは見えない。あるのは力強い意志の力-----。
「何迷った目をしている?」
目前まで迫った真里野が木刀を水平に薙いだ。墨木は咄嗟にコンバットナイフを抜き放ち、何とか受け止める。刀剣に関しては真里野が有利だ。たちまち墨木は押され、後ずさりする。
「き、貴様ァ……!」
墨木は最近《転校生》に破れた《執行委員》を睨む。今まで《生徒会役員》の命令でも動かなかった男が、《転校生》を護る為にやすやすと《力》を使っている。
《生徒会》に対して裏切った男。
「……裏切り者メガッ! 何故その《力》を《生徒会》の、正義の為に使わナイッ!?」
「正義? それは今までお主が声高に叫んでいたことか?」
真里野は笑う。
「拙者にはお主の心に混沌が見えるぞ。何を信じ、何を疑うべきなのか。それが分からぬお主の語る正義など、泡沫の陽炎にすぎん」
「オ、オノレ-----」
「確かに規則を破ったら、罰を与える事も必要だ」
後ろで声がする。真里野の真後ろで走っていたはずの暁斗が、いない。
頭上が陰る。墨木は天を仰いだ。
「!!」
墨木の頭上を、暁斗が宙返りをして飛び越える。後ろに立ち、がら空きになった背中に刀を振りかざす。
「けど、弱いものにまで《力》を振りかざすのは----正義じゃない!!」
「ガッ-----!」
後頭部に鈍痛が走り、墨木は呻いた。振動が脳を震わせ、目が眩む。コンバットナイフを掴んでいられず、取りこぼした。行動を予測していたのか、真里野は《力》の発動を抑え、墨木に木刀が当たる寸前でぎりぎり止める。立っていられず、崩れ落ちた。仰向けに天井を見れば、刀を収める暁斗が映る。
峰打ちだったんだろう。墨木は思った。でなければ今頃自分は死んでいる。
暁斗が俯いた。彼の表情を見て、墨木は信じられなくなる。何故。
「……何故、そんな顔をスル?」
悲しみに曇った表情をして、暁斗は今にも泣きそうなのを、眉間にしわ寄せ耐えている。
「何故そんな目で自分を見るノダ?」
「妄これ以上は止めよう、墨木」
「ナッ」
「苦しむお前とは闘いたくないよ。銃を下ろしてくれ」
「何ヲ……」
「力で、お前を押さえ付けたくないよ」
同情? 憐れみ?
どんなに「銃」と言う《力》をもって警告し狙撃までしても、この《転校生》は怯えなかった。
雨が降る昼休み。偶然出会った時と暁斗は変わらない。視線に怯え、常に顔を隠す姿を笑わず、接してくれた。
銃口を向け、命の危険を晒しても。
今だって。
自分を犠牲にしようとして、この弱い存在を救おうとする。
「それが、貴様の……正義ッ……?」
「----師匠」
赤い髪を掻きむしり苦しむ墨木の異変に、真里野が八千穂の待っている後ろへと引く。
「気をつけよ。こやつ様子が可笑しい」
「ア---------」
黒い砂が、もがく墨木の身体から滲み出た。みるみるうちに溢れ、彼の身体を覆い隠していく。全てを隠した後も、砂は止まる所を知らずに沸き続け、それは高い天井にまで達した。
「墨木----」
「何をしているッ! 近くに居ては危ない。離れるぞッ!!」
真里野に腕を引かれ、無理矢理暁斗は墨木から離される。八千穂の元についた時に砂は、大きな山の形を取った。木の根を模した足が生え、腹の辺りに鳥居と祠が競り上がる。中に納められているのは、神話の神か。
山の天辺に、何処か憎めない愛嬌のある顔が凹んで出来た。かわいらしい声が、腹の奥まで響く。
「-----おっきぃ……」
呆然と見上げた八千穂は、思わず構えていたラケットを下ろした。暁斗たちの前に立ち塞がる化人は、今までであった中で一番巨大で、踏みつぶされるのさえ容易だ。
化人が叫ぶ。天井すれすれまで飛び上がる。巨体は部屋を揺らし、地震をつくり出した。暁斗たちは立っていられない。
「きゃっ!」と崩れ落ちかける八千穂を、暁斗は手を差し入れ支えながら刀を地面に突き刺す。真里野もまた膝を地につけ、化人を睨み付けた。
「師匠。あやつが移動する度こうでは、拙者たちは動きにくくなるぞ」
「分かってる」
それは現に今、体感している。
「何とか逃げないと、オレたちが潰されるぞ……!」
ゆうに一トンは超えている化人がのしかかる。そうなれば一発であの世行き。近づかれる前に倒さなければこっちがやられる。
木のように見える表面は刀で傷つけられるかもしれない。だが、持っている刀では間合いが足りなさ過ぎた。届かせるには走っていかないといけないし、その前に踏まれてしまうだろう。
「くっそお!」
八千穂を真里野に預け、暁斗は背負っていたアサルトライフルを構える。振動が酷く、上手く標準が合わさらない。それでも諦めず弾を連射する。反動と振動が合わさり、暁斗の平衡感覚が忽ち崩されていく。多々良を踏みながら後ずさり壁に背をつけ、打てる限りの鉛を化人に向ける。
けたたましい音。化人の身体を弾を抉る。大きな化人の足元に些細な木の屑が落ちていく。
「----師匠ッ」真里野が額に汗を流す。「あまり効いておらぬようだぞッ」
切羽詰まった叫び。暁斗も十分に承知している。壁に背をつけ、ある程度姿勢を固定出来ても、化人が起こす地震はどうしようもない。発砲する毎に、狙いはずれ、決定的な一撃を与えられないでいた。
地面にばらまかれていく薬莢の数は増え、そして銃声は止む。かちりかちりと引き金が虚しくから回った。
弾切れ。十分に用意していた大量の弾丸を持ってしても、化人に大した傷を負わせられず、使い切ってしまった。
「-----くっそお……」
銃を担ぎ、暁斗は刀を鞘から抜いた。
「暁斗クンッ!?」
「----真里野。八千穂を連れて何とか化人から逃げてくれ」
「お主は、どうする?」
「決ってるだろ」暁斗は格好つけたように笑う。「あれを倒さなきゃ、墨木も助けられない。駄目元でも、やってみるしかないだろ?」
「ダメッ!」
真里野の腕を払い、八千穂や怒りを露に暁斗を叱る。
「さっき言ったばかりじゃない1 あたしだって暁斗くんを護りたいのッ!」
「八千穂」
きっと暁斗を睨んでから八千穂は立ち上がり、化人を見上げる。震える足元をしっかり大地に踏み締め、ボールをリュックから取り出した。
「行っけえッ-----!」
スマッシュが当たり外れも構わずに放たれ続ける。賢明にボールを打ち続ける八千穂の横顔は真剣だった。
「正義って、とても難しいものだと思うよ。けどね、あたしは思うんだ。正義って言うのは、何かを傷つけるんじゃなくて、護る事なんかじゃないかって」
「----八千穂」
「だから、あたしは暁斗クンを護るの。自分自身の正義の為にッ!」
ラケットが振られる。スマッシュが化人に当たる。だけど蚊に差されるぐらいに感じていない化人は、立ち止まらず迫り寄る。距離は縮まり、揺れが立てなくなるまで酷くなる。
八千穂がとうとう立てなくなり、崩れ倒れる。暁斗は手を差し伸べ彼女を抱き締めた。
真里野が「くっ」と手で地面を押さえる。
化人の影が、暁斗たち三人を覆い隠した。
暁斗は化人を見上げ、睨む。
こんな所で死ぬ訳には行かない。
大切な、友達を死なせたくない-----。
「師匠!」
真里野が驚いて声をあげる。暁斗と八千穂は同時に後ろを振り向き、目を丸くした。
暁斗たちと真里野の間にある空間に、つむじ風が巻き起こる。ひゅうう、と静かに音を立て清冽な風が回っていた。
「何、コレ……」
俯き呟く八千穂の視線を追って、暁斗は思わず我が目を疑った。
自分の影が持ち上がり、一羽の鴉へと姿を変えていく。足元の影は消え、八千穂と真里野のものだけが地面に張り付いていた。
常識ではあり得ない、不可思議。鴉は暁斗の影を奪い取ると、黒さを増し、濡れ鴉の色よりも更に漆黒に近くなる。黒と言うより、闇と形容した方が近いかもしれない。大きさは両手で掴められる小ささだったが、触れる事さえ躊躇われる威厳があった。
宙を羽ばたき、鴉は鳴く。
「これは、あの時の------!」
《執行委員》として立ち塞がった時、自分に敗北を齎した原因の一つである鴉だと真里野が思い出した瞬間、それは黒い彗星と化した。弾丸や、スマッシュなど足元にも及ばない光速の早さで化人の身体を突き破る。
「嘘、だろ……?」
今まで傷すらつける事が困難だった化人の腹に空いた大きな穴を見て、暁斗は呆然とする。鴉はいとも容易く自分達が出来なかった事をやってのけてしまった。神が祀られている鳥居は砕け、歪な円から向こう側が見える。
円の中で、鴉が弧を描き、羽をもう一度羽ばたかせる。
疾風。
目にも止まらぬ速さ。鈍く木を裂き、鴉は暁斗の足元へ激突する。黄金とも緋色ともつかぬ煌きがちらついた。あまりの眩しさに暁斗は瞼をきつく閉じ、そして振動が止んだ。
「…………?」
戻ってきた静けさに、そろりと瞼を開く。腕の中には震えてしがみつく八千穂。足元には何事もなかったように二つの影が寄り添っていた。
儚い断末魔を上げ、暁斗たちを翻弄した化人が消えていく。たった一羽の鴉によって。
さらさらと黒い砂はひかりとなり、天へと昇っていく。一際大きな固まりから、墨木が吐き出され、完全に砂は消えていった。後に残ったのはペンダント。加工された引き金をトップにしたそれは、静かに眠る墨木の胸へと落ちていく。
暁斗は真里野に八千穂を預け、墨木の元へと駆け寄った。そして傍らに膝をつき、大切な友人を抱き締めた。
「なぁ、墨木。今度もっと一緒に喋ろう。どんなことだっていい。オレはちゃんと聞くから。……な?」
優しく尋ねる暁斗に、墨木が微かに笑った、そんなような気がした。
「拙者が七瀬殿と闘った時も、あの鴉が現れた」
協力を約束してくれた墨木を見送った暁斗に、真里野が神妙な顔つきで言う。
「お主、見覚えは?」
「ない」暁斗は即答して、そして少し困ったように続ける。「でも……危険じゃないと、思う」
覚えていないが真里野の時、そして墨木の時。二つの危機から暁斗を救ってくれた鴉。何故助けたのか、どんな存在か分からないが、不思議と恐れはない。心強いとさえ、思った。
「敵にしろ味方にしろ、……どっちでもなくても、あれはオレたちを助けてくれた。今はそれでいいと思う。……それじゃ、ダメか?」
「……お主がいいなら、拙者も構わぬ」
真里野が笑う。横で制服に付いた砂埃を払っていた八千穂が暁斗を見た。
「ねーねー暁斗クン。無事に帰って来れたよ? 話したい事って、何?」
「……ここから先、拙者の存在は不粋になりそうだな」真里野は薄く笑い、踵を返す。「拙者はこれにて帰らせてもらうぞ?」
「ありがとな真里野。また頼むよ」
「ああ、遠慮なく呼んでくれ。-----じゃあな」
「待ったねー! 真里野クン!!」
去っていく真里野に元気良く手を振り見送る八千穂に、暁斗は大きく息を吸った。
彼女はこれから打ち明ける秘密にどう反応するんだろう。きっと驚いて、黙っていた事に怒って、それから笑って許してくれるだろう。手に取るように分かって、それでも、それでいいと暁斗は思う。
だって。
「あのさ、八千穂」
「うん?」
「オレ、実は--------」
そう思えるのは、オレにとって八千穂はとても心強い味方で、頼りがいのある仲間だから。
腕を空へ伸ばす。闇に溶けていた鴉が、形どられ、そこに着地した。羽を畳み、主を見下ろす。
主----弥幸は鴉の功績に誇らしく笑った。
「すまなかったな。ありがとう」
鴉が鳴く。大した事はない、と言っているように聞こえる。弥幸にもそう聞こえたのか、彼は笑みを深くした。
「また頼むよ、榊。-----ゆっくり休んでくれ」
主の命に従い、鴉の身体は再び闇に溶ける。形なき風になり、弥幸の身体に染みていった。
同時にそれが見てきた記憶や情報が流れ込み、かかる負担に弥幸は眉間を寄せ、指先で押さえる。
「-----とうとうバレたか。まぁ仕方ない。今回油断してたみたいだからな、あの子は」
弥幸は寮の方向を見遣り、口の端を大きく吊り上げた。
「さぁ、どうする? 甲太郎」
笑みをたたえ、弥幸の姿もまた闇へと溶けていった。
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