暁斗は足の裏の冷たさに、瞼を開けた。
「……何だ、ここは」
上も下も、壁も床も、全てが石で出来ていた。毎日授業の度に詰め込まされる教室が、そのまま四つはすっぽり収まってしまいそうな程、広い。暁斗が立っているのは部屋のほぼ中央で、すぐ両脇に、太く古代文字がびっしり刻み込まれている石柱が並んでいる。
こんな場所、見た事もない。ついでにどうやってこんな所まで来たのか、見当もつかない。夢遊病の気でも出始めたか。不安げに辺りを見回すと、柱の間から幾つものひかりが見えた。白や白黄色、赤いものなど色は様々。
ぺたぺたと裸足で歩き、ひかりに近づいてみた。距離が縮むにつれて、ぼんやりとしていたひかりは次第に形を為す。
「……機械? それも恐ろしく発達している……」
ひかりは、壁に埋め込まれていた機械から出ていた。よくよく見れば緻密な計器や液晶画面。どう考えたって、この石室には似合わない。年代と技術が一致しない。
恐る恐る機械の一つに触れてみた。指先に触れるガラス越しの向こうで、計器の針が小刻みに上下へ揺れている。
これは何の為の機械?
『------これ以上進むのは、止めて』
鈴の音が聞こえる。澄んでいて、とても悲しげに泣いているようだ。それは、とてつもなく広い石室内にあまねく広がる。
『行っては駄目。これ以上、この学園の平穏を乱さないで』
ガラスに二人の少女の姿が映り込む。暁斗が振り向くと、そこにはまるで鏡に映したようにそっくりな少女が二人並んで立っていた。髪の色も目も、顔の作りもそっくりで、来ている服も同じ。ただ一つ、目元の黒子の位置だけが違っている。少女らは二人手を取り合うように握りしめ、暁斗をひたりと見据えた。
『葉佩暁斗』
右目の目元に黒子を二つ並べた少女が言う。
『どうして貴方は《墓》を荒らすのですか?』
左目の目元に黒子を二つ並べた少女が、責めるように言った。
『それは貴方自身の欲の為ではないのですか?』
二人の少女は、口を揃えて暁斗に尋ねかける。
「----違うよ!」
暁斗はすぐに叫んで答える。
「オレは、決して自分の為だけにここを荒らしている訳じゃない。----初めはそうだったかも知れないけど。任務の為なら、どんな事をしても達成してやろうとか、思ってた」
だけど、皆守や八千穂と会って。《遺跡》の《闇》に囚われて、苦しんでいる《執行委員》と向き合って。徐々に気持ちは変わっていった。
「オレは……、傲慢でエゴかも知れないけど、助けたいんだ。この《遺跡》に苦しんでいる人たちを。こんなオレの手でも、助けられるなら、助けたい」
『自分の為だけではないと、そう言いたいのですか?』
「ああ」
少女らは悲しげに瞼を伏せた。繋いだ手を下げ、俯く。
『……分からない。貴方と言う存在が、何を齎すのか。……分からない……』
「----あっ」
少女たちが陽炎のように揺らめく。まるで砂が風に溶けていくように、足元からさらさら消えていく。思わず暁斗は引き止めようと手を伸ばしたが、虚しく彼女等の身体を突き抜けた。
『ここは、悲しき《王》の眠る呪われた地』
謡うように右の少女が言葉を告げた。
『私たちはこの場所を守らなくてはならない。どうかもうこれ以上《扉》を開けないで』
左の少女が呟き、そして二人は暁斗に言う。
『もうこれ以上、誰の血も流れずに済むように----』
少女たちが空気に溶けていく。
「ま-------------」
「待ってくれ!」
暁斗は勢い良く手を伸ばし、上体を起き上がらせた。そして真っ先に見えた何の変哲もない自室の壁紙に目を丸くする。
ぎしりとベットのスプリングが軋んだ。そして暁斗は上半身裸で、周りには包帯やガーゼ、消毒薬が散らばっている。
手をいきなり動かしたせいで、撃たれた傷が瞬間的に痛み、全身を強張らせる。反射的に傷口に手を触れてしまえば、そこはまだわずかに湿っていた。
「いででででででで」
痛みを訴えても消える訳でもないが、呻かずにはいられなかった。何しろ八千穂に傷を悟られないよう、ずっと我慢していたから。その分一人になって、思いきり叫びたい衝動に襲われてしまう。
「いたいいたいいたいよう」
前屈みになって痛みに耐えつつ、すぐ目に入る位置にあるゴミ箱の中に放られた血だらけのシャツに、さらに憂鬱になる。これで一枚シャツが台無しだ。少しでも節約する為に頑張っているのに、これでもう台無しだ。
今回の墨木の襲撃は、油断が多すぎて反省の余地があり過ぎる。いくら《墓》ではなくとも、これからは注意すべきだろう。
「……こんな怪我は、あんまりしたくないし」
ずっと残ってしまうだろう傷痕に、溜め息が漏れる。これでまた、《宝探し屋》としての勲章が出来上がった。
「ったく、もうちょっとしっかりしろ、葉佩暁斗! こんなんじゃ、母さんに笑われてしまうぞ」
自分に言い聞かせながら、暁斗はガーゼを手にとった。消毒薬の蓋を開け、たっぷりとしみ込ませる。つん、とした消毒薬特有の匂いに、さぞかし染みるだろうと震える。だが、放っておけばまたさらなる弊害が出る確率は高い。治療出来るうちにしておいた方が、余程安心するのだ。
しばらく逡巡していた暁斗は、観念して傷口にガーゼを持っていく。恐る恐る血を拭い、そして消毒薬が染みる痛みを堪える為、歯を食いしばった。
「………あれ?」
全然痛くない。暁斗はガーゼを最初より幾分強めに擦り付ける。わずかに刺すような痛みが走ったが、全然我慢が効くものだった。
ゴミ箱に何枚かのガーゼが血まみれになって落ちていく。綺麗になった傷口を見て、暁斗は疑問を持つ。
治りが早すぎるのだ。
撃たれた時は痛みよりも熱が先行して、シャツにしみ込んだ血の冷たさも同時に感じていた。肉が、抉れてしまっている事も、覚悟していた。本当は、八千穂にもすぐばれるんじゃないかと、気が気ではなかった。
だが、今ではどうだ? 血が拭われ露になった傷口は暁斗が思っていたよりも浅いもので、この分だと数日もしないうちに塞がってしまうだろう。さっきまではあんなに痛かったのに。
これは異常だ。
暁斗は胸元を押さえる。
身体が、熱い。
「------暁斗?」
「------ッ!」
戸の向こうから軽いノックと共に、皆守の声がした。部屋主の所在を確かめる軽いもの。今は入室は勘弁してほしかったが、暁斗は気が回らずに、思わずゴミ箱を蹴ってしまった。がこんがこんと無情な音を立て、中身を床にぶちまけながらゴミ箱は床を滑る。
血まみれのシャツに、血まみれのガーゼが何枚も。壁に掛けてあるのは、脇腹に穴が空き、そこを中心にして血が滲んでいる学ラン。
そして、撃たれた傷を治療している自分。
こんな状況で入られたら、どうなることか。ドライな癖に、面倒見がすこぶる良い皆守の行動を考えてみるだけでも、恐ろしい結果に辿り着く。
「はっ、葉佩君はただ今留守にしていますッ!」
「ふざけた事言ってないで、とっとと開けろ」
皆守の声が一段階低くなる。
「オレ、葉佩君の友達なんだけどー。今留守番頼まれて困っちゃってるんだよね!」
「声が上擦ってるぞ、この正直者」
さらに一段階低くなる皆守の声は、後もう少しでマイナスになりそうだ。
暁斗は焦る。この状況を上手く誤魔化す説明が出来る自信が皆無で。そうなれば襲いくる修羅場に戦くばかりで必死になる。
「とにかくっ、来るならまた後にしておいた方がいいと思うぜ! あれだったら、オレが葉佩君に伝えておくからさ」
「そうか」
がちゃり、と向こう側のドアノブが掴まれる。
「だが、俺は今話したいんでね。入らせてもらうぞ」
「ちょ、ちょっと待て---------」
だあん、とドア全体が外から来る衝撃に震える。不吉な音を立て、ドアががくがくと軋んだ。
こいつ、蹴破る気だ。
暁斗は青ざめ、ドアに駆け寄ると全力で皆守の侵入を阻止せんが為に、体全体で押さえ付けた。
だあん。
強い衝撃。治りが早いがそれでも痛む脇の傷が、力を弱くする。それを見越したように、三たび皆守の蹴りが飛んだ。
鍵が壊され、ドアが勢い良く開く。結果、暁斗は扉と壁に挟まれサンドイッチにされた。脇の傷がまたちくりと痛むが、それよりも強めに打ってしまった鼻から血が出ているかどうかが心配だった。
「ふん。往生際の悪い」
皆守がやけに勝ち誇ったような顔をして部屋に踏み込む。そして、床に散らばった血だらけのシャツやガーゼを見て、大袈裟に顔を顰めた。
「ううう……」
ドアと壁の間から暁斗が前に倒れ込む。床に寝込む前に、その肩を皆守に掴まれた。
「お前そんな酷い怪我している癖に、何ですぐカウンセラーに見せなかったんだ!」
「だって……、俺の《仕事》がバレちゃったらやばいでしょ?」
「そういう問題じゃねえ。下手すればお前、死ぬ所だったんだぞ! もう少し、自分の、身体って奴を、だ、な…………」
端切れの悪い言葉を喉に押し込み、皆守は黙り込む。てっきり雷のごとく鋭い怒りが降り注ぐかと身構えていた暁斗は、静かになった彼を不審に見上げる。
「お前………」
「………ん?」
皆守は暁斗を直視していた。正確に言えば、胸の、辺りを。
「…………あ」
暁斗はすっかり忘れていた。自分が上半身裸と言う事を。そして、その姿を誰にも見せてはいけないと言う事を。
皆守の視線を辿り、暁斗は彼が何を見ているのか、悟った。細い自分の身体。この体型で男だったらまずないだろう、膨らみ二つ。申し訳程度ではあったが、それは皆守に暁斗の正体を知らせるには十分だった。
皆守は呟く。
「………お前、女だったのかよ」
とても信じられないような響きだった。
マミーズにでも行こうぜ。
辛うじて閉められたボロボロの扉の向こうから、脳天気な生徒たちの足音が通り過ぎていく。扉と桟の間から、人影が駆けていく。
もう、このドアは取り替えてもらうしかないだろう。《生徒会》に頼めないから、弥幸さんにお願いしようかなと暁斗は上着を被りながら、こっそり思う。
皆守とは背中合わせで座っている。暁斗は窓側、皆守はドア側。皆守は落ち着かない様子でジッポの蓋を開けたり締めたりを繰り返している。
今まで男だと思っていた人間が、実は女の子でした。漫画やドラマだけにありそうな設定を目の当たりにして動揺していた。
気まずい空間に、金属的な音と、衣擦れの音が重なる。もしこの場に誰かが踏み込んだとしたら、その気まずさにすぐ回れ右をしていただろう。
「-------もう、いいよ」
おずおずと暁斗が話し掛ける。皆守が振り返ると、いつもの夜遊びの格好をした暁斗が何故か正座をして、皆守の前に座っていた。
思い込み、と言うか頭の中にある認識と言うものは結構重要なものだった。目の前の存在が女。男じゃなくて、女。ただ性別の違いだけだが、それでも今まで何にでも無関心を決め込む回数が多い皆守には衝撃が大きすぎた。
確かに男にしては声も高いだろう。変声期もまだだと思っていた。十八の癖に(誕生日が九月だと言っていたからそうだろう)。
身体も、背がまあまあある割に、妙に柔らかかった。《宝探し屋》と言うものはそういうものだと、思い込んでいた。それもまた、思い込み。
皆守は目の前の存在に対して、何を言うべきか迷った。事故だとは言え、女性の裸を見てしまったのだ。謝るぐらいはするべきだろうか。
「………」
たっぷり迷って、出て来たのは、
「で、お前が女だと知っている奴は他にもいるのか」
全く気の効いていない、なおかつ不粋の類いに関する質問だった。
「えっ?」と暁斗は素直に指折り数えて考えている。折られていく指の数を数え、皆守はそんなにいるのかよ、と突っ込みたくなった。あともう一本で片手が終わるじゃないか。
「これは、オレが悪いんだけど……、取手」
「取手?」
「うん……。前誰も居ないかと思って保健室で着替えてたんだけど、その時に」
「お前な……少しぐらい慎重に行動しろ」
保健室などたとえ授業中とは言え、急病人が出れば時間を問わず人が来るではないか。見付かったのが取手で良かったものの。
------面白くない。
道理で取手の暁斗に対する接し方がやたら優しく、そして甘ったるいはずだ。
皆守はアロマプロップを口に銜え、苛々と噛み締める。
「それから七瀬とルイ先生。これは----言わなくても分かるよな」
「ああ、あの真里野の時の入れ代わり事件だろ?」
まだ、その二人は良いかも知れない。瑞麗は兎も角、七瀬は信用出来る。
「……あと、弥幸さん、かな?」
「!!」
ラベンダーのスティックに火をつけかけ、皆守は天敵の名前にジッポの火を思わず揺らせた。何で、オレの前でそんな奴の名前を出すんだ、と睨み付けると暁斗はバツが悪そうに口を尖らせ、
「だって皆守が信じてくれなくて時も、弥幸さん優しかったんだもん。ちゃんと黙っててくれるって言ってくれたし。逆に力強い味方が増えた気がしたね!」
「威張って言えるお前が恐ろしいよ」
手を腰に当て、ない胸を反らす暁斗に皆守は呆れる。男装をしている時点で周りには気を払うべきなのに。逆にばれても堂々としている神経の図太さを、誉めてやりたくなる。もちろん皮肉でだ。
「………」
「で、皆守も------」
「分かってる」
ラベンダーのスティックに火がつけられる。先端が燃え、丘紫の香りが硝煙の香りと混じりあった。
「ちゃんと黙っておいてやるさ。俺だっていらない騒動に巻き込まれるのは嫌だからな」
「あ、ありが-----」
「マミーズのカレー一週間で手を打ってやる」
「……何かを要求するのって、お前が初めてだよ」
「それは何よりだ」
皮肉げに笑ってみせたが、内心皆守は複雑な心境だ。
別に、暁斗が女だからって訳じゃない。その秘密を知ったのが、自分で初めてじゃない。他にも同じ秘密を共有している奴が幾らでもいる。
沸き上がる焦燥感。どうして、どうして俺じゃない?
それにどうして、こいつは変わらないんだ。自分が女だってバレたのに。平素と代わりない接し方。男だと思っていた親友が女であり、そして他人がその事実を知っている事に、動揺しているこっちが馬鹿らしくなった。
腹立たしくなる。
「分かったよ。ついでにコーヒーもつけてやる。それで、いいだろ?」
「……ああ」
呟きが低くなった事を、暁斗は気付いているだろうか。「商談成立だな」と暁斗は手を鳴らして立ち上がった。
「じゃあ、オレ行くから」
まるでマミーズに行くような気軽さで、暁斗はアサルトベストを着込む。手に掴むのは暗視ゴーグルだ。
「行くって、どこに」
「やだなー。決ってるだろ? 《遺跡》さ。きっと新しい扉が開いている。----墨木がオレを待っているから、行かないと」
「怪我は」
「痛みが引いているから大丈夫。こう見えても強いんですから」
暁斗は、机に置いてあったH.A.N.Tを背中のポケットに入れる。カーテンを締めたまま窓の鍵を開けた。
「バディは、どうするんだよ」
「ん〜、《墓》に着くまでに考えとく」
じゃあ、俺を。
「甲は、いつも来てもらっていて、疲れているだろうから、今日は休んでいてくれよ。-----それじゃ、行ってきます」
皆守が名乗り出るより早く、暁斗が夜の世界に身を踊らせた。窓の桟に括りつけられたロープを掴み、下へと一気に落ちていく。
「あき--------」
窓から身を乗り出すと、暁斗は既に降り立ち、皆守を見上げることなく植木を抜け《墓》へと走っていった。引き止める暇もない。皆守は悔しくて壁を蹴った。
「人の話は最後まで聞けよ、この馬鹿が……!」
恨みがましく吐いても、暁斗まで届く筈がなく、言葉は空気に霧散した。
暗がりを暁斗は人目を忍んで走る。背中に背負ったアサルトライフルが上手く収まらず、揺れては背中を打ち付けた。アサルトベストを着込んでいても、痛みが僅かに通り抜ける。
これは、もう少ししっかりしろとのお達しか。
「しょうがないじゃないか」
暁斗は小さく呟く。ほんのり頬が赤くなっている。外が寒いからではない。さっき皆守に女だとばれてしまった事を思い返しては、熱が顔に集中してしまう。
窓から身を乗り出し、何かを言いかけている皆守を思い出す。怒っているように見えた彼は、一体何を伝えたかったのか。
でも暁斗にそれを聞く余裕なんてない。だって女だとばれてしまったし、平静を装って話していたけど、本当は心臓がドキドキしっぱなしだった。
どうしてだろう。他の人間にバレた時は、簡単に流せたのに。皆信用出来る人間だから、大丈夫だったのに。
皆守だと、いとも簡単に自分の考えを打ち砕かれる。
芽生えた戸惑いを理解出来ないまま、暁斗は《墓地》へとは知っていく。そんな彼を笑うように頭上の木が葉を揺らした。
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