誰もいない廊下の隅に、男が踞っていた。逆立てた赤い髪を掻きむしり、苦悶の声をあげている。表情は、顔全体を覆っているガスマスクのせいで、窺い知ることが出来ない。
「うッ。……ううッ……」
脳裏に怯えた眼で男を見つめる教師が映る。シャツの二の腕付近が破れ、血が流れていた。手で出血を抑え、「許してくれ」と震えて許しを請うている。
男がそれをすることは出来なかった。何故なら男は《執行委員》で、学内の規律を乱すものは処罰を与えなければならない。それが本来目上である教師だとしても。
目の前にいる教師は、始業時間が過ぎても女生徒と話し、規律を乱した。
《生徒会》に背く行動。
だから、男は撃った。わざと狙いを外し、教師の身体を弾丸が掠める。話していた相手の、女子生徒が銃声に悲鳴をあげ逃げていく。恐怖に彩られた眼を、男に向けて。教師も同様に男を見つめる。
同じ色で見つめられ、今度は男が逃げた。
怖かった。
あんなふうに自分を突き刺す視線が。恐ろしくて、怖い。
男は不思議に思う。これは学園の為を思っての行動だ。なのに何故、そんな眼で見られなければならない!?
「自分はッ……。自分は、何の為ニッ……!」
マスクからは男の声がくぐもらせて出てくる。まるで、彼の迷いを象徴するように。
「この銃を、使うノカ……」
引き金を引く度に、相手が見せる眼の色が恐ろしい。
身体が震える。
「----案ずることはない。お前の《力》は学園の秩序を守る為にある」
耳障りな声が聞こえ、男は後ろを振り向いた。
「貴殿ハ……」
気配もなく、男の後ろに仮面を付けた男が立っていた。マントを翻し、歪な笑みを口に乗せている。
「お前の銃は、悪を挫き、正義を貫く為にこそある----。お前の《力》は邪悪なる魂を狩る為にあるのだ。今もなお、墓を侵す罪人の魂をな」
仮面の男が声を発する度に、脳が震えている感覚がする。世界が明瞭さを失い、上手く前を見ることが出来なくなる。思考も、次第に視界と同調するようにぼやけた。
「自分の銃ハ、正義の為ニ」
「そうだ。そして正義の名の元に、罪人----葉佩暁斗を、殺せ」
「……葉佩、暁斗……。殺ス……」
仮面の男の声はすうっと心の奥へと染みていった。そして、それは正しいことのように思えてくる。判断が、つかなくなる。
殺さなければ。彼の者が、天香を混沌に陥れる元凶なのだから。《執行委員》である自分が、裁きの鉄槌を下さなければ。
「……感謝、しマス……」
頭を下げ、男は覚束ない足取りで歩いていく。男の背を見つめ、仮面の男は低く笑った。
「----容易いものだ。闇に呑まれかけたニンゲンを操るなど」
全く愉快でたまらない。
仮面の男は笑いながらマントで自分の身を隠した。それはたちまち足元にあった自分の影に呑まれ、消えていく。
「あー。雨だ」
暁斗は空を見上げる。朝から居座り始めた黒い雲が、とうとう機嫌を損ねたようで、地面に大粒の雨を落としはじめる。
「マミーズに行こうとした途端これかよ。誰かさんの行いが悪いせいじゃないのか?」
ちろりと皆守は暁斗を見下ろす。
「なんだよう。オレのは仕事なの! 仕方ないの!オレ以上に凄いことやっている人だっているんだからな!」
あんまり威張れないことを言いながら胸を張る暁斗。「ああ、そうかよ」皆守はさくっと躱し、空を見る。地面はもうすっかり雨によって濡れきってしまっている。思いのほか勢いが強い。傘を差さないと、すぐ暁斗たちも濡れてしまうだろう。
どうするか思案する皆守の横で、
「どうする。今日は止めとく? オレ、購買でもいいよ?」
暁斗は提案する。マミーズにしろ、購買にしろ、どうせ口に入るのはカレーなのだ。なら、どっちでも同じだろう。
だが皆守は首を縦に振らなかった。
「駄目だ。今日はどうしてもマミーズな気分なんだよ」
カレーに関してこだわりを持っている皆守。彼がこうと決めたら、意見を返ることなど絶対あり得ない。他のこともそうだといいのに、と暁斗はこっそり思う。
「仕方ない」皆守は暁斗を置いて踵を返した。
「傘を取りに言ってくるから、お前はそこで待っていてくれ。なるべくすぐ戻るから」
「早くな。オレ腹減ってるんだから」
「俺だって減ってるさ」
「じゃあ早く行ってこい」
「しつこいな……」とぼやきつつ、皆守は小走りで走っていく。暁斗は見送り、下駄箱に背を凭れ、降り始めの雨を観察する。
「遺跡、大丈夫かな……」
一応入り口は隠してあるが、雨が降ったら隙間から中に雨水が入り込んでしまうかもしれない。地盤が弛んで落盤してしまうかもしれないし。それに、せっかく隠したものが、雨によって台なしにされたら困る。
「……今日も行こうかと思ってたのに。…………ッ」
暁斗は喉を押えた。急に呼吸が苦しくなり、心臓が直に掴まれたような圧迫感に襲われる。
口を押え、身体を折り曲げ、咳を吐いた。謀らずとも閉じた瞼から涙が滲む。
暁斗の体調は、真理野との一件、黒い影と出会い、意識を無くして悲しい夢を見た時から、一気に悪化してしまった。場所や時を選ばず、咳が込み上げ呼吸が苦しくなる。酷いと、発熱を起こす時もあった。
瑞麗の処方してくれた薬で抑えているが、完全にはいかない。明らかに、任務の遂行を滞らせてしまう状態だった。もどかしさを感じながら、ようやく治まった咳に胸をなで下ろし、涙を拭う。
こんなに体調が悪いとなると、少し本部の方に相談をした方がいいかもしれない。考え倦ねいていると、靴と床が擦れあう高い音が聞こえ、暁斗はそちらを振り向く。
ちらりと、赤く立った髪が見えた。
「う、ううッ……」
男子生徒が靴箱についた手を支えにして踞っている。頭を辛そうに押えてはいるが、顔がガスマスクで覆われてるせいで、表情が分からない。
体調の悪そうな男子生徒に、暁斗は自分の状況をほっぽりだして「おい、大丈夫か?」と寄ろうとした。
だが、男は暁斗の気配に敏感な反応で返し、掌で自分の顔を隠す。
「み、見ルナッ……!」
あまりに切羽詰まった声に、暁斗は慌てて「ごめん」と謝りながら男子生徒に背を向ける。だが、男子生徒の様子も気になるし。どうしたらいいか。
「あんた、大丈夫か? 具合が悪いなら、保健室に行った方がいいと思うけど」
余計なお世話かもしれないが、言ってみる。
「ルイ先生だったら、ちゃんと診てくれるからさ。辛いのは嫌だろ?」
「…………いえ」
沈黙が間を挟み、男子生徒から返事がかけってくる。
「大丈夫でありマス。……ありがとう、で、ありマス……」
堅苦しい口調。ガスマスクのせいか、くぐもって聞こえるが、彼の声はどこか弱さを感じた。
「いいっていいって。困っている人には手を貸す。オレにとっては当たり前だからな。お前が気にすることじゃないよ」
「……貴殿は、優しい方でありマス……」
「そうか?」
そんなことを言われてしまうと、くすぐったくなる。ただ男子生徒の方を見ないようにして、ほんの少し、気遣っただけだったのに。
「その……どうしても、怖いのでありマス。自分を見る人の視線ガ……。痛くて、苦しくて、怖いのでありマス……」
途切れ途切れの言葉が切れ、自虐気味な笑いを男子生徒はする。
「……は、ハハ……。何故見も知らぬ方に、自分はこんなことを話しているでありマスカ……。全く、情けないでありマス……」
「本当にそうか?」
「……エ?」
「オレは、凄いと思うけどなあ。ちゃんと自分が恐れているものを知っていて、誰かに話せるなんて。少なくとも、オレには無理だ」
きっと強がってしまうから。
「……情けない所は全部隠して、何もない風を装っちゃう。話せない。でも、お前はそれが出来るだろ? それって何とかしたいって言う心の表れがあるからだよ」
「……貴殿ハ。貴殿の言葉は、何故か自分を安心させてくれるでありマス……。見も知らぬ方だからこそ、安心して話せるのかもしれないでありマス」
男子生徒は、ふらつきながらも立ち上がった。まだ背中を向けたままの暁斗を見て、苦し気に顔を反らす。
「クッ……。こんな事では正義を貫くことなど出来ナイ。こんな事デハ……」
男子生徒が、足早に廊下を走っていく。足音に、暁斗は振り向くが、もう遠くまで行ってしまった。一体、何だったんだろう彼は。
「あッ」
男子生徒が走っていった方向から、今度は二つのお団子頭が元気良く飛び出した。それは暁斗を見つけるなり、すぐに突進してきた。
「あっきとクーン!」
大きく手を広げられ、暁斗は強く抱き締められた。腕にぶつかる大きくて柔らかい感触に思わず顔を赤くし、「や、八千穂!」と叫ぶ。だが八千穂は抱き着いたまま離れず、暁斗を軽く睨む。
「もう、四時間目の途中でいきなりいなくなっちゃうからあたし探したんだよ!」
「そ、それは…。甲が腹が減ったってうるさいから。それに自習なんて……暇だろ?」
普通ならいつも通りの授業がある時間だが、何故か教師が急な負傷を負った為に、暁斗のクラスは自習となっている。
原因は、《執行委員》による処罰だった。
授業が始まっても女子生徒と話をしていた教師は、その現場を見咎められ、その場で発砲された。怪我は軽いものだったが、精神的なショックが酷かったらしい。
新たな被害者の発生と、些細な事が引き金になった惨事に、クラス中は《生徒会》への憤りと、ファントムへの期待が高まる結果に拍車をかけてしまう。
あまりの居心地の悪さに、暁斗は「昼飯を一緒に」の皆守の誘いに乗って、自習中の教室から逃げ出した。
だが、まさか八千穂がずっと探してくれているとは思わなかった。驚きが素直に顔に出てしまい、それを見た八千穂は「もう」と暁斗から離れ、両手を腰に当てた。
「ヒマなのも、抜け出したくなるのも分かるけど。せめてあたしに一声ぐらいかけてくれたっていいじゃない。友達なんだからさ」
「あ、あははははは………」
どうやら八千穂は大層ご立腹のようだった。
八千穂は怒ると怖い。いつぞやのように、朱堂と同じ眼にあうかもしれない。もしかしたら、テニス部で鍛え上げられた、化人をも倒すスマッシュが飛ぶかも。
「ごめん」
顔を青くしながら、暁斗は速攻謝った。
「待たせたな……って八千穂も来たのかよ」
傘をニ本手に戻ってきた皆守は、頭を下げる暁斗と、ふんぞり返っている八千穂に眼を丸くした。
「そうだよ。今日は三人でご飯だからね」
びしりと皆守に指を突き付け宣言し、八千穂は有無を言わさず傘を一本奪い取った。呆然とする二人を余所に、彼女は「早く早く!」と開いた傘の下で手を振る。
「……一体どうしたんだ、あいつ」
皆守は暁斗に尋ねる。
暁斗は肩を落とし「スマッシュくらいたくないから」と力なく呟いた。
「まぁ、そうだな……。化人をボールで倒せる威力を持っているんだから、逆らわない方が賢明か」
渋々納得し皆守も昇降口の近くで傘を開いた。透明なビニール傘の表面を雨が叩いて滑り落ちていく。
「ほら来いよ。お前の分は八千穂に取られたからな。ちょっと狭いが入っていけよ」
とってつけたように言った皆守は、何処か照れくさそうに見えた。
雨が、ガラスで出来た天井を叩く。
色濃く鮮やかに咲く花。
温室は花の香りで満ちていた。季節毎に変わる花のように、それに時期によって変わっていくが、ただ一つ、いつまでも残り続けるものがある。
紫の淡い花弁を揺らし、『彼』を捕らえ続ける香り。ラベンダー。
「もしくは『彼女』がそうしようと思っていたのか。どちらにしろ、悪趣味だ」
弥幸の眉間に皺がよる。花に囲まれるようにぽっかりと開いた広場の中央に立ち、彼は目を閉じている。両手を胸の前で交差して、ゆっくり深呼吸をする。
息を吸う。吐く。吸って、吐いて。
繰り返し、呼吸の数が多くなっていくうちに、弥幸の身体に沿って、淡く黄金に輝く光の粒子がふわりと彼自身を包みこむ。室内で起こり得ないはずの風が、花を大きく揺らした。葉が擦れあい、音を立て、音楽を奏でる。
それが最高潮に達した時、弥幸の足は地面から浮いていた。重力から解き放たれ、今にも飛びそうなぐらい、軽く。
「---------------おおッ!」
ばちん!
光が一斉に弾けた。ぴたりと風は止み、静けさが舞い戻る。空気が綺麗に清浄されていた。
猫のしなやかさで爪先から地面に降り立ち、弥幸は外から聞こえるがなり声に神妙な顔つきになった。
何度も出てくるのは、ファントムの名。
「…………」
唇をへの字に歪め、それを聞く。
「…………あれ?」
いきなり素っ頓狂な声をあげた暁斗に、傘からはみ出た右半身を庇いながら歩く皆守は、怪訝に左下を向く。
同じく左半身を雨水から庇っていた暁斗は、驚いたように眼を丸くして、喉に手を当てている。
「どうした?」
「何か急に、身体が軽くなった」
確かに、暁斗の顔色は元気だった時のように明るい。だが、唐突すぎて少し複雑そうに喉を擦る。
「今まで、こんな事なかったのになぁ」
「薬の効果が出たんじゃないのか」
皆守は言いながら、以前暁斗に見せてもらった瑞麗特製の処方薬の色や匂いを思い出す。殆ど漢方で作られたと言うそれは、見るからに不味そうで、匂いも強烈だった。その反面、こんなものを飲んでたら、どんなものでも治りそうな気になってくるのも確かだ。
「悪くなるよりはいいだろう。身体、楽なんだろう?」
「う、うん。まぁ、そうなんだけど。そうだよなあ。……ルイ先生にお礼言っておかないと。わざわざ作ってくれてるんだし」
頷きながらも暁斗は、「あんなに苦いんだし、聞いてもらわなきゃ困る」とこっそり呟き、苦い顔をして舌を出す。薬の味を思い出したようだった。
皆守は真直ぐ前を向いて、
「……まぁ、元気のないお前は、玉ねぎのないカレーみたいなものだからな」
「オレはお前にとって玉ねぎかよ」
「ね、あれ見て見て!」と元気良く暁斗たちを先導していた八千穂は、雨が降っているにも関わらず生徒で賑わっている壇の方を指差す。
壇上に男子生徒が握りこぶしを熱く握り、
「諸君! 我々は今こそ立ち上がるべき時である! ファントムこそ、この学園の真の守護神であり、我々を生徒会の圧制から解放する救世主である!」
声高く叫び、語る。
《生徒会》が聞いていたら即処罰だろうが、壇上を囲み、男子生徒の叫びに呼応する人の多さが、ファントムに向けられる期待の大きさが如何に高いかを如実に現していた。皆、今の状況に不安や不満を持っている。
「うわ〜、あれが今をときめくファントム同盟?」
物珍しそうにひさしを作り、八千穂は人だかりを見つめる。彼女の興味心に火がついたのだろう。
「この雨の中、よくやるよねぇ!」
聞こえてくる演説を聞きながら、皆守はふんと鼻を鳴らした。
「何がファントムだ。馬鹿馬鹿しくて付き合ってられないぜ」
「やっぱり甲はああいうの苦手?」
暁斗は尋ねる。
「当たり前だ」
皆守は即答した。
「自分達だけじゃ何も出来ない奴ら程、ああして群れると途端に強気になりやがる」
「…………」
「それこそ、ファントムの思う壷なんじゃないのか?」
「……え? それってどう言う事……?」
首を傾げ、八千穂は皆守に尋ね返した。
暁斗の脳裏には、皆守と教室を抜け出した後会った、黒塚の言葉が浮かんでくる。
『生徒会が腐敗し始めたからファントムが現れたのか。それともその逆なのか』
彼自身は憶測で言ったのかもしれないが、暁斗にはそれはとても意味深な響きを持って聞こえた。もし前者が正解だとすれば、正しくファントムは救世主となりうるだろう。けれど後者だったら、ファントムこそこの学園を脅かす黒い影になってしまう。
《生徒会》か、《幻影》か。
本当の敵は、どっちなんだろう。
「暁斗」
皆守が徐に暁斗の肩に手を回し、自分の方へと引き寄せた。二人の身体が密着して、隙間が埋まる。
「わっ……。こ、甲?」
「何ぼおっとしてんだ。濡れるぞ」
皆守が喋ると同時に、銜えられたアロマプロップもつられて動く。ラベンダーの香りが届いた。引き寄せられた弾みで、皆守を見上げた暁斗は、間近に見えるその顔に、思わず顔を赤くした。
よく見れば、皆守の顔は整っていて、とても端整だ。眠そうな眼も、すっと通った鼻立ちも。アロマプロップを銜えている唇も。
あれ?
暁斗は、心臓がいつもより早く脈打つのを感じた。治っていたと思っていた苦しさが、また戻ってくる。
「……暁斗?」
じっと見つめられ、皆守が怪訝に暁斗を見返す。
「なっ、なんでもない。ありがと」
気恥ずかしくなり、俯く暁斗に、皆守は首を傾げた。
八千穂が振り向き、
「暁斗クン、顔、赤いよ。また熱が出たの?」
「えっ」
暁斗は八千穂の言葉に、つい肩を引き寄せてくる手を強く意識してしまう。
「でっ、出てないよッ!」
邪気のない(寧ろそっちの方がたちが悪い)質問に、破れかぶれになって答えた。
一度気になってしまうと、今まで認識していなかった事が、だんだんと見えてくる。皆守の手は意外とがっしりしていて、大きい。身長差も、悔しいが結構ある。細っこいくせに、筋肉もしっかり付いていて------。
それらとラベンダーの香りが相まって、暁斗はますます不可解な感情に苛まれた。目の前がぐらぐらしそうになる。
「……変な暁斗クン」
赤くなったり慌てたりする百面相の暁斗を放って、八千穂は校舎を見て、「あっ」と眼を輝かせた。
「あそこにいるの、白岐さんじゃないかな」
確かに。今暁斗たちが歩いている中庭から見える温室のひさしに、白岐はいた。傘を閉じ、表面に付いていた水滴を軽く振って落としている。恐らく温室の花を、世話しに来たんだろう。一人静かに窓際から外を見つめる彼女の、数少ない自発的な行動だ。
「何をするんだろう」
そわそわ落ち着かない様子で、八千穂は白岐を見ている。構ってくれと言わんばかりに、好奇心旺盛な子犬の尻尾が見えたような気がして、ようやく落ち着きを取り戻した暁斗は、こっそり笑った。
「気になるんだったら、声かけてみたらどうだ?」
「面倒な事を」
暁斗の提案に、皆守は舌打ちをした。
だが八千穂は皆守の反応など全く気にせず、「うん!」と破顔して、
「そうだよねっ。よーし、ご飯に誘っちゃおう!」
言うが早いが、「おーい、白岐サーン!」と元気良く走っていってしまった。
慌てて暁斗と皆守も、雨に濡れないように追い掛ける。途中で、肩から皆守の手が離れ、暁斗は安心した。
いきなり呼ばれた白岐は、当惑気味に声の主を探して、八千穂を見つける。
「……八千穂さん?」
続けざまに後ろから来る二人を見つけ、困惑の色が深まる。
「葉佩さんに皆守さんも……。私に何か用かしら」
八千穂は傘を閉じ、うきうきしながら白岐に尋ねる。
「あのね、お昼ご飯、一緒に食べない?」
「いえ。私はもうすませたから」
「そうなんだ。う〜、残念だなぁ」
悔しがる八千穂の後ろで、肩にかかった水を払いながら、暁斗はふと思い付いた事を白岐に聞いてみた。
「ちなみに、何食べたの?」
「え? あの、サラダ……」
「それから?」
「……それだけだけど」
「えええええええっ!」
八千穂が大きく叫んだ。あまりの音量に、暁斗と皆守は耳を塞ぎ、八千穂を睨む。前触れもなかったので、防ぎきれなかった余韻が、耳の奥で木霊した。
「八千穂ッ。いきなり大声出すなって」
「ゴメン。でも、サラダだけだなんて」
思いあまって、八千穂は勢いから白岐の両手を掴んだ。
「そんなのご飯じゃないよ〜! ご飯は美味しく一杯食べないと! ね、暁斗クン!」
「そうだな。腹八部目ってのもあるけど、もう少し食べなきゃ。白岐が倒れちゃうのはゴメンだし」
暁斗は深く頷く。ただでさえ白岐は線が細くて、儚気なのに、これ以上そうなったら、自分だけじゃなく、八千穂も心配するだろう。
白岐が、暁斗と八千穂を交互に見て、そして暁斗に視線をあわせる。
「そう言えば、葉佩さんとは食事の約束をしていたのだったわね」
「えええええええっ!」
大声再び。今度は幾分非難の混じった睨みを受け、八千穂は畏縮しながら「だって」と白岐から手を離し、人さし指の先を突つきあう。
「何時の間にそんな事があったなんて……。葉佩クンずるいよ。あたしだって一緒にご飯が食べたいし、白岐さんと色んな事喋りたいのに!」
「……」
力強く話す八千穂を白岐は驚いて見つめ、そして、
「ありがとう、八千穂さん……」
微かに照れ入りながら微笑んだ。八千穂も、それが移り、照れながらはにかむ。友達になりたての僅かな距離感が微笑ましく見えた。
その様子を見て暁斗が、
「じゃあさ、今度皆でマミーズに行こっか」
提案する。
「わあっ、暁斗クンいい考え!」
八千穂はすぐに手を叩いて賛同する。
「だろ? オレと八千穂と白岐。----夕薙も入れないと怒る気がするし、後は」
指で横を差す。
「甲も」
「……何で俺もなんだよ」
勝手に数に入れられ、皆守はうんざりしながら溜め息を付いた。
「いいだろ。ご飯は皆で楽しく美味しく一杯だ」
「そうだよ皆守クン! 楽しいご飯で一日を過ごそう!」
「ああ〜。うるせえなお前ら」
喚く二人に閉口して、皆守は耳を掌で塞いだ。すぐさま暁斗が引き剥がしにかかっても、皆守はするりと躱す。
「……面白い人たちね」
小さく笑んで、白岐は賑やかなやり取りを眺めていたが、ふと遠くの人だかりから聞こえるファントムの名に、眉を寄せた。
「……あれは?」
「凄いよねー、ファントム同盟。白岐さんもファントムは正義の味方だと思う?」
軽いノリみたいに尋ねる八千穂に対して、白岐の反応は、重く真面目な響きを持っていた。
「……羊の群れが安全に生きるには、羊飼いが必要なのに……」
「え……?」
「……」
戸惑う八千穂の向こうで、暁斗の手から躱し終えた皆守は、真摯に白岐を見つめた。
「柵を超え、群れから離れた羊を、はたして誰が守ると言うのかしら------。葉佩さん」
「……何」
皆守に躱され続け、追撃を諦めた暁斗は、白岐の呼び掛けに彼女を見る。
「あなたにとって、《生徒会》は何? 学園にとって、不要な存在だと、言い切れるの?」
「…………」
暁斗は返答に詰まった。学園に入ったばかりなら、迷わずに頷いていたかもしれない。だけど、様々な闇を抱えていた《執行委員》に会い、《黒い砂》に解放される様を見続けてからは、頷こうかどうか迷っている。
雛川を攫い、無用の諍いを起こした《幻影》が悪に思えても、また現れた《執行委員》は不必要な処罰で学園を脅かし続けている。
何が悪で、何が正義か。
何が正しくて、何が間違っているのか。
暁斗は答えられない。
黙する暁斗を白岐は真直ぐ見つめる。
「……何を迷っているの? 貴方はこの学園について何を知っている? あなたの敵は誰?」
「…………」
白岐は悲しく瞼を伏せる。
「あなたはもう----いえ、初めからこの学園の守られるべき小羊ではないわ。くれぐれも見誤らない事ね」
それだけを言って、「それじゃあ」と白岐は温室へと入ってしまった。止める間もなく、呼び止めかけた八千穂の手がゆっくり下がっていく。
「……行っちゃった。白岐さん、何が言いたかったんだろ」
「知るかよ」
皆守はアロマプロップの先端を噛む。
「白岐……。あいつこそ、この学園の何を知っていると言うんだ……」
暁斗は何も言わない。
いつか夕薙が言っていた。白岐はこの学園に隠された何かを知っている。ならば、彼女自身も警戒するに値するのではないのだろうか。
生徒会。ファントム。執行委員。白岐。----遺跡。
複雑に糸が絡まり織り成されていく学園の謎。解きあかそうと手を加えたら、こんがらがり、謎を深めていく。
しばらく黙ったまま三人は立っていたが、ぽつりと八千穂が口を開いた。
「……もしかして白岐さんって、いつもあんな難しい事を考えているのかな?」
「はァ?」
皆守が呆れたような声をあげた。
八千穂が皆守を睨む。
「だって、辛そうに見えるし………。う〜ッ、考えていたら余計にお腹が空いてきちゃったよ! 早くマミーズに行こうよッ」
柔軟に考えを切り替えて、八千穂は再び傘を開きマミーズへと歩き出す。「はやくはやく!」と暁斗と皆守を急かした。
溜め息をつき、皆守も傘を開く。
「また八千穂に振り回される羽目になっちまったなぁ。まぁ、大した行動力とは思うが……」
ぼんやり温室に向かい立っていた暁斗の手を掴み、傘へと引き寄せる。
「……行くぞ」
「……うん」
白岐が何を思っているのか。聞こうにも聞けないジレンマに、後ろ髪を引かれながら、暁斗は皆守に連れられて温室を離れた。
温室の中に立つ人影に、白岐は入ってすぐ足を止めた。五感が麻痺したように、何の音も香りもしない。ここは花が咲く場所だ。音がしないのは兎も角、花の香りすらしないのは、おかしい。雨が降り、陰鬱な重さが滞る外とはうって変わり、辺りに清冽な空気が満ちている。黄金の光片が舞っていた。
「……緋勇さん?」
光が消える。清冽さだけは変わらずに、雨の音と花の香りだけが現実に戻る。
花に囲まれるように存在する、小さな広場の真ん中に立っていた緋勇は振り向き、笑った。
「--------あぁ、白岐さん、こんにちは。花の世話に来られたのですか?」
「あなたも、一体、誰?」
唐突な白岐の問いに、それでも弥幸は狼狽えず眼を細める。
「いつか、分かりますよ」
後、もう少しで。
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