開け放した戸口から、ふくよかな手が伸びて少女が顔を出す。鴉の鳴き声が外から聞こえる夕暮れ時、沈みかけた太陽の光を招き入れる部屋のソファ。少女のほうに背を凭れ、母親が座っている。
石鹸の匂いがする手には、物騒な匂いの残る拳銃が握られていた。部品が取り外され、本来の力は発揮出来ないが、少女はそれが危険なものだと承知している。持っているときは近づいては行けないと言う母親の言い付けを、忠実に守っていた。
ガラス張りのローテーブルに並ぶ小さな拳銃の部品。母親は一つずつ取って、手慣れた動作で組み立てていく。セーフティを確認し、足元に置かれたケースに仕舞う。
振り向いて、手招きをした。少女は直ぐさま駆け寄り母親に甘える。腕にかかる重さに母親は、
「もう、いつまで経っても甘えん坊ね。誰に似たのかしら」
「えへへー」
頭を撫でる母親の手が気持ちいい。石鹸と、微かに混じる硝煙の匂いも少女はとても好きだった。
「お母さん」
「なあに?」
「何時かわたしにあれ、ちょうだい」
少女は母親が銃を仕舞ったばかりの箱を指差した。
母親はわずかに目を見張り、
「どうして?」
「だってお母さん言ってた。『これは大切なものを守る為に使うのよ』って。わたしもたくさん守りたいものがあるから。お母さんに、お父さん。お兄ちゃんたちも」
幼いながらも、確固たる意志を灯した瞳に母親は一体誰に似たのかしらと思った。すぐに下で夕飯の準備をしている男を脳裏に浮かべる。あれほど女の子らしく、なんて言っているくせに、我が子が一番影響を受けているのは彼自身ではないか。
争えないものだ。
でも、悪くない。
母親は嬉しくなる。
「いいわ」
頷いた母親に、少女の顔が輝いた。
「ほんとう?」
「ええ。でも一つだけ」
人さし指を立て、母親は少女の目の間に寄せる。つられて二つの眼が中央に寄った。
「あなたがもっと大きくなって、その『力』を間違いなく使えるなら、あげる」
「……ちから。……まちがいなく……?」
「いつか、あなたにも分かるわ」
母親は両手で少女の頬を包み、額を寄せあう。腕の中に入る愛しい子。この子は間違えず迷わないで自分の道を進んでほしい。
「おーい。メシ出来たぞ!」
階下から二人を呼ぶ大声が飛ぶ。空気に乗って緩やかに昇る温かな匂いに、たまらず少女の腹が鳴いた。腹を押さえる少女の背中を押し、母親も立ち上がる。
「ほら、父さんが呼んでるから。早く行こう」
「うん」
ソファから降り、少女は母親の優しい指先を小さな掌一杯に握りしめる。急かしながら自分を引いて歩く娘に、母親の唇は自然に笑みの形を作った。
指先が痺れそうないら立ちが教室を埋め尽くしていた。殺気立った室内に一歩踏みこんで、暁斗は思わず眉をしかめる。
3-Cはどちらかと言えば、おおらかで仲良し気質の人間が多い。両手を広げ入れるような雰囲気が、ここ最近殺伐としたものへと擦り変わってしまって、戸惑ってしまう。
黒板の前に、皆守と八千穂がいる。暁斗は発見するなり、これ幸いと机に鞄を置いてすぐ二人の元へ向かった。
「おはよう、甲。八千穂」
「……よォ」
「おはよう、暁斗クン」
変わりない挨拶のやり取りに、暁斗はほっとする。どんなことでも二人と一緒にいれば、いつもの自分でいられるような気がした。
「ねぇねぇ、スゴいよねぇ、ファントム!」
興奮ぎみに八千穂は拳を握る。興味津々に輝いた瞳は熱く燃えていた。
「最近じゃあ、ファントム同盟なんてものの出来たし------」
熱っぽく語る八千穂。暁斗と皆守は、横目を合わせて肩を竦めた。
ファントム。
最近無抵抗の相手に、銃を向ける《執行委員》の被害にあう生徒の危機を救うように現れた存在だ。夜のような暗闇のマントに、目元を隠す仮面。正体の知れない幻想的な出で立ち。何処からともなく現れては生徒を守る。その回数は多く、今では一部の生徒から正義の使者として崇められている程だ。おそらく同盟を立ち上げたのも彼らなのだろう。
「何だそりゃ。徒党でも組んで、《生徒会》に反旗を翻すつもりか?」
八千穂に反して、皆守は冷めた眼で、ファントムに信頼を寄せる言葉を呟くクラスメートらを見る。
指を顎に当て、八千穂は考え込む。
「うーん。わかんない。ファントムを応援する会とか?」
「阿呆か」と皆守は呆れた。
「自分から何かをする勇気のない奴に限って、ああいうのを祭り上げたがる。大衆と言うのは、哀れなもんだ。なァ、暁斗」
「……確かに分かるけど、祭り上げたがるあいつらの気持ちも否定出来ないよ」
勇気がないから、何かに縋りたくなる。行動する理由にして、少しでも今の状況を変えたい。動こうとしないより、そっちの方がずっとマシだと暁斗は思う。
皆守は眉を曇らせ、
「……お前はまだ分かっていない。本当の《生徒会》がどういうものなのかを」
「……え?」
低い声音に、暁斗は皆守を見た。皆守は、アキトから視線を反らした。誤魔化すように口を開く。
「とにかくだ。小さな力をどれほど寄せ集めても絶対にかなわないものもあると言うことを、奴らは知るべきなのさ」
「……皆守クン……」
後ろ向きな物言いに、八千穂が淋しそうに唇を尖らせた。しんみりした空気に、皆守は舌打ちをすると、二人に背を向ける。
「あッ、どこ行くの、皆守クン」
「保健室だよ。今日は早起きしたせいで頭が痛むんだ。ひと休みしてくる」
「あ、オレも行くよ」
挙手しながら皆守を追う暁斗に、八千穂は「ええーッ!」と非難を上げる。
「暁斗クンまでサボっちゃうの?」
「サボるって……」
暁斗は苦笑いをして、
「ちょっと調子が悪いし。それにオレはルイ先生公認だから………」
最近、体調を崩すことの多い暁斗は頻繁に保健室で休息をとっている。瑞麗の診察も同様で、彼女から「調子がよくても、たまには診せに来るように」とのお達しも受けていた。雛川の許可も取っているので、暁斗はいつでも大手を振って保健室に行ける。もちろん、暁斗はそれを皆守のようにサボりに使わず、体調を崩してしまった時だけ行くようにしていた。
「………」
分かっていても、面白くないのだろう。八千穂は恨みがましく二人を睨んだ。クラスでは、暁斗、皆守、八千穂、と三人一括りにされて扱われている感じがある。彼女もそれを認識しているから、二人していなくなると、置いてきぼりにされたように淋しくなってしまうだろう。
申し訳ない気持ちで暁斗は一杯になる。
「ご」
めん、と続けかけ、暁斗は皆守の腕に攫われる。
「ほら、さっさと行くぞ。俺は休みたいんだ」
後ろ向きで引きずられ、暁斗は「わかったから離せよ、このバカ」と喚きながら出ていく。
遠のく声を聞きながら、八千穂は二人を羨ましく思った。
暁斗と皆守は喧嘩をしながらも、以前よりしっかりと仲が深まっている。友達らしい人が周りにいなかった皆守を、遠くから心配していた身としては、暁斗はまさに救世主、なのだろう。
それでも自分一人だけ蚊屋の外は、やっぱり淋しかった。
暁斗は体調を崩しているのに、「大丈夫」だと言い張って。
皆守は、最近何かを隠しているように見える。
「……何にも話してくれないし。二人とももっとあたしを頼ってよね」
八千穂は不満たっぷりの呟きを漏らした。
当然のように、皆守は保健室のベッドに腰を下ろす。靴を脱ぎ、最早自分のもののように布団をかけて横になると、安いスプリングが軋みを上げた。
半分開いているカーテンの向こう側で、暁斗は瑞麗と向かい合って座っている。手には薬局で渡されそうな紙袋を持っていた。
「毎食後に各種一包みずつ服用しろ。無くなったらすぐに連絡を入れれば、また新しく作る」
「ありがとうございます。いつもすいません」
「礼はいいさ。それよりも自分の体調を良くすることを優先した方がいい」
「………はい」
暁斗は礼儀正しく頭を下げる。
暁斗と七瀬が入れ代わった事件の後、彼はこうして定期的に薬を処方してもらっている。常人にはあり得ない体験と、日頃転校してからの慣れない環境から来るストレスと疲労。それらが絡まり、暁斗の体調を狂わせている。渋い顔をして瑞麗はそう言っていた。
日ごとに咳き込む回数が多くなる。遺跡から帰ると疲れ果て、泥のように眠り続ける。それでも心配かけないように笑いかける暁斗が、皆守には痛々しかった。だが、現状で皆守に出来ることは何もない。傍で見ているしかない。
皆守はもどかしさを感じ、寝返りを打つ。寝ればそれも消えるかと思ったが、上手く寝れない。
暁斗が立ち上がった。ゆっくり歩いて開いているカーテンから頭を突っ込み、皆守を見る。
「皆守。オレ用事が済んだから、戻るな」
「----ああ」
大きく息を吸うと、シーツに染み付いた消毒薬と、皆守自身のラベンダーの香りが混じりあう。
暁斗は頷いて、
「分かった。でもなるべく早く戻ってきてくれよ?」
「それじゃ」と暁斗は紙袋を手に保健室を出ていく。
「少しは葉佩を見習って真面目に授業に出たらどうだ」
瑞麗が棘のある言葉を、ベットに出来た山へと投げ付けた。
「うるさい」皆守は布団を引き寄せ、頭から被る。外からの情報を努めて遮断させ、強く眼を瞑った。
朝早くから頭痛がするのは本当だ。昨日は殆ど眠っていなかったから。身体と脳が睡眠と休息を欲している。
ラベンダーの香りに力が抜け、波のように意識が遠ざかる。気持ちいい。何も、考えたくない。
久しぶりの休息に、皆守は側にある気配に気付かないまま、眠りについた。
「………」
気配の主----緋勇弥幸は皆守を見下ろす。彼は寝息を立て、呑気に夢の中に潜ってしまっている。
普段は無気力な癖して、人の気配に敏感な皆守は、特に弥幸に対して警戒心の強い野良猫のように、近づくとさっさとどこかへ消えていってしまう。二人が合間見えるのは、暁斗が皆守を伴わせてくる時か、皆守自身が何らかの目的を持ってくるか。二つに一つ。だから、弥幸はまたいつものように皆守は逃げるのだろうと思っていた。
だが予想は外れた。皆守は天敵がすぐ側に立っているにも関わらず、起きる気配すら見せない。
「………昨日は忙しかったみたいだからな」
昨日たまたま通りかかった建物から聞こえてきた会話。外部に漏れることを恐れ、幾重にも張られた《力》の結界によってどんなに耳を澄ませても、殆ど会話を捕らえることは出来なかった。
辛うじて分かったのは、その声の主が皆守と言うことと、それから。
『そろそろ見極めねばならないようだな。あの《転校生》の存在が何をもたらすのか----』
「どうせ、『お前ら』にとって、暁斗は排除すべき存在なんだろう………?」
弥幸は口を押さえる。本人の知らない所で、言うのは卑怯だと思う。でも、
「お前がそのまま不変を望むなら、俺は絶対に暁斗を渡さない。あの子には、解放されることが必要なんだ」
「……弥幸殿」
瑞麗が弥幸の肩を掴んだ。首を横に振り、彼を諌める。
弥幸は悲しそうに笑って、瑞麗の手の上に自分の手を重ねる。
「分かってる。誰の側にいるか、それを決めるのは、暁斗だ。俺じゃない」
「今は、これから起こることについてどう対処すべきか決めるべきだろう。まだまだ問題が山積みだ」
「………そうだな」
促され、弥幸は皆守から離れる。息苦しさを感じて、胸を押えた。
「早く、なんとかしなきゃな……」
窓から、雲が押し迫る空が見える。
雨が、降りそうだった。
|