今日は朝から調子が優れなかった。
 頑張って稼動させていた身体も、二時間目辺りで早くも精一杯。青白い顔を現国の授業中、雛川先生に見つけられ、取手は保健室に行くよう命じられてしまう。
 無理をして悪化したら、余計に人の心配を買ってしまう。大人しく保健室に向かうと、少し機嫌の悪い瑞麗が窓側に立っていた。開け放した窓の側で燻らせていた煙管の煙はいつもより多かったし、髪をかきあげたり腕を組む仕草も荒々しい。
 遠慮した方がいいのだろうか。思わず取手は帰りかけたが、窓越しに長身の彼に気付いた瑞麗に見付かった。
 彼女は非礼を詫び、取手を招き入れる。いつも通りの診察をして、症状を調べると薬棚の鍵を白衣のポケットから取り出す。
「……どうか、されたんですか?」
 ちょっとした興味心から質問したら、「ちょっと、喧嘩みたいなものをしてしまってな」と決まり悪そうに水場から水を汲んだコップと、薬を手渡す。
「……ルイ先生も、誰かと喧嘩する事、あるんですね……」
 取手にとって瑞麗は大人だった。しっかりし、子供にちゃんとした道を指し示す。確固たる意志を持った人。そんな彼女が誰かと喧嘩するなど、余り想像出来ない。
 瑞麗は率直な物言いに、苦笑する。
「私とて人間だ。誰かと意見をぶつけあう事もあれば、それに対して憤ったりもする。それはお前も同じだろう?」
「……そう、ですね……」
「だが、今回のは少々引きずりすぎたか。居心地の悪い思いをさせてすまなかった。薬を飲んだら、しばらくベッドで横になっていろ。それでも治らなかったら、今日は帰った方がいい」
 そこまで言って、瑞麗はふと考え直す。
「……いや。ここで様子を見る間でもなく、寮でゆっくり休んだ方がいいんじゃないか?」
「……え?」
「実はな、頼まれてほしい事がある。今、葉佩が調子を崩して寮で休ませているんだ」
「……暁斗、くんが?」
 瑞麗が頷く。
 昨日暁斗は、不慮の事故に巻き込まれた。大怪我こそなかったものの、精神的疲労が大きく、寮に戻る事もままならなかったらしい。保護された弥幸の家で看病されていたが、皆守の迎えで、今は寮で一人眠っている。
 大人しく説明を聞いていた取手は、皆守の名に拳を握る。
「そこで、だ。お前に葉佩の様子を見に来てほしいんだ。担任からは私から連絡しておこう」
「いいんですか?」
 瑞麗が片目をつむる。ウィンクをしてるのだと、後で気がついた。
「保健医公認だ。堂々と行け」
 学校の教員にしてはあまりいい事ではないかもしれないが、取手は迷いなく瑞麗の頼みを受け入れた。暁斗に対しては、どんな事でも無条件に心配だったから。
 頼り無くても、力になりたかった。



 取手が校舎を出る少し前、寮の自室で暁斗は落ち込んでいた。
 理由はたくさんある。七瀬の身体から無事元に戻れたが、その後みっともなく弥幸の前で泣いてしまったこと。やたらと気をつかってくれたのに、大した例も言えなかったこと。それから、皆守がせっかく迎えに来てくれたのに、「ありがとう」すら言えなかったこと、だ。
 弥幸と皆守は犬猿の仲。きっとメールを受け取ったり、ましてや弥幸の家に赴くなど、嫌で仕方ないだろう。
 それでも来てくれた。
 それぐらいしてくれる程、仲良くなれたと思うと、天にも昇る気持ちだった。だが、先日七瀬と入れ代わった自分を、信じてくれなかった皆守を思い出して、天の邪鬼になってしまう。
「バカなことをした」
 部屋に戻るなり、着替えもせずベッドに潜り込んで、暁斗は頭を抱える。いくら何でも、あの素っ気無さは駄目だろう。自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。
 落ち着いて考えれば分かることだ。人間の中身が入れ代わる、なんて非現実的なこと(少なくとも、普通の人間ならそうだろう)端から信じるなんて出来ない。当事者だった自分も、最初はそうだった。
 遠ざかる皆守を罵倒していた自分が恥ずかしい。でも、今度会ったらどう謝ればいいのか。
 どうしよう。
 考え続けても混乱した暁斗の頭では答えが得られそうになかった。


 控えめなノックに、布団で盛り上がった山が崩れ去る。意識が覚醒し、暁斗はあのまま考えながら眠ったらしいと気がついた。
 布団をはね除け、口から垂らしたよだれを袖で拭い反射的に「どうぞ」と答える。すぐにノックの相手が皆守だったらどうするんだと、暁斗は大いに慌てた。
「……暁斗君?」
 ゆっくり扉が開く。隙間から見えたのは、皆守ではなく、取手だった。もともと白い顔だったが、さらに青白く見える。
「……あの、入ってもいいかな?」
「あ、うん。どうぞ」
「お邪魔します」と遠慮しがちに上がる取手を迎えようと暁斗は床に立ちかける。すかさず「そのまま寝ていて」と止められた。
「ルイ先生から聞いてきたんだ。体調が悪いんなら、寝てなきゃ駄目だよ」
 有無を言わさず横にされ、暁斗は布団をかけさせられる。保健室では暁斗が取手に布団をかけてあげるのが常だったせいか、くすぐったい気分になる。取手もいつもこんな感じだったのかとこっそり思った。
 ぽんぽんと軽く布団を叩いて満足した取手は、ベッドの傍らに座り、暁斗の様子を窺う。
「顔色が悪いね。熱はある?」
「熱とかはないよ。ちょっと疲労が溜まっちゃって。それから、慣れないこともあって。……自分の不甲斐無さに落ち込んでた」
 力なく暁斗は笑う。不意に目から涙が盛り上がりこぼれる。慌てて拭い隠したつもりだったが、取手はしっかり見つけ、目を隠す手首を掴んで持ち上げる。
「暁斗君」
 白く細い、ピアノを弾きこなす指が、不器用に濡れる目の匙に触れる。
 暁斗の肩が小刻みに震えた。
「ごめん、取手。……オレだってわかってるんだ。他の奴が同じ目にあっても、オレ同じことをしていたかもしれない」
 でも、どうして甲にされたら、こんなに胸が苦しくなるんだろう。
「………何か、ヘコむなぁ……」
 あんなに泣いたのに、また泣きたくなってしまった。


 随分泣き腫らした赤い目に、新たな涙を浮かべる暁斗を見て、取手はいたたまれなくなる。
 指に触れる彼女の肌は熱い。何度拭っても止まらない涙。
「大丈夫だよ」とは言えなかった。
 皆守が原因で泣いていると、薄ら分かってしまったから。取手もそこまで鈍くはない。暁斗に皆守に関する慰めを言っても効果は薄く、逆に彼女を落ち込ませる要因になってしまう。
 優しく暁斗の頭を撫でた。
「……皆守君なら、怒ってないと思う」
「------よく分かったね。甲のことだって」
 暁斗の皆守への呼び方に、悲しくなるのをぎゅっと堪え、取手は出来るだけ笑うよう心掛ける。
「分かるよ。だって君のことだから」
「……オレってそんなに分かりやすい?」
「ううん。でも、分かるんだ」
 だって、ずっと見ているから。
「取手は、すごいなぁ」
 暁斗は気持ち良さそうに、頭を梳く手の感触を楽しむ。
「オレも、もっと上手く人に接するようになりたい」
「出来てるよ。僕は、そのままの暁斗君で大丈夫だよ」
「本当?」
「本当。だから皆守君にも、ちゃんと君らしく言葉を伝えればいい」
 確信する。彼女の人となりを知ってしまった人間は、彼女に弱くなってしまうから。真摯で嘘をつかない言葉が、届かない筈がない。
「ありがとう、取手。オレ、やってみるよ」
 暁斗が手だけを布団から出し、ベッドの端を掴んでいた取手の手に触れる。
「お前って、いい奴、だな」
「----------ありがとう」
 頼りにされて嬉しいはずなのに。
 手に触れる温かさはいつも優しいのに。

 取手の胸は、痛く軋んだ。



 自室に戻り、戸口で取手は崩れ落ちる。
 薬をもらって落ち着いた痛みは、だんだん戻りつつあった。頭を押えても治まりそうにない。
 今頃、暁斗は皆守に許しを請いに行って、皆守はすぐに暁斗を許すだろう。そしていつもの二人に戻っていく。
 喜ばしい。でも嬉しくない。
『いい奴』だなんて言われても。そんな風に思われたくなかった。
 もっと彼女の特別な存在になりたいんだ。
 頭が痛む。視界がぼやけた。頬に触れた指先が濡れている。泣いていた。
 君のことなら、多分、何だって分かるよ。
 君が誰の側にいるのが一番嬉しいのか。いつも見ているから分かる。
 でもそれは僕じゃないんだ。悔しいけど。
 僕でありたかったけど。僕じゃない。
「----------切ないなぁ」
 天井を仰ぎ見て吐息を漏らし、取手は折り曲げた膝頭に顔を埋めた。


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