「すごいっ……!」
 少年は手を強く握りしめ、瞳を爛々に輝かせた。
 古く味を醸し出すような渋い色合いの木で作られた本棚には、和装本、古書、洋書。ジャンルや装丁に関係なく無造作に並べられている。六畳一間の小さな部屋。壁は全て本棚に隠れ、窓も紙の劣化を防ぐ為に閉め切られている。あとは小さな文机が隅っこに置かれているだけだ。床も本に埋もれ、人の座るスペースを見つける方が難しい。
「まさか、緋勇さんがこれほどまでに素晴らしい本を持っているなんて、思いませんでした!」
「それはなによりです」
 弥幸は狂喜する少年に眼を細め、
「…………」
 暁斗は複雑そうに見つめる。
 身体の入れ代わってしまった暁斗と七瀬は、弥幸に保護される形で、彼の家に匿わせてもらうことになった。最初は、女子寮に戻って、元に戻る方法を探すと七瀬は意気込んでいたが、その提案はすぐに却下されてしまった。
 弥幸が言うには、「暁斗さんだと、やはり目立つと思いますので」
 確かに色んな意味で有名人になりつつ暁斗は反論の余地はない。今の状況で目立ったら、狙われるのは暁斗ではなく、七瀬なのだ。《宝探し屋》としての暁斗とは無関係の七瀬の命を、巻き込む訳にはいかない。
「でも、それじゃあ調べられるものも調べられません。ネットとかも使おうと思ってましたから……」
 食い下がらない七瀬に、弥幸は「それなら」と自分の家を提供してくれた。
 もしかして、宝を見つけた時のオレって、こんな感じなのかな? 暁斗は七瀬にとっての宝----ものすごい数の本に舞い上がっている彼女に、思わず笑ってしまった。中身は七瀬でも、外見は自分なのでどうにも素直に見れない。
「ありがとうございます。さっそく調べてみますね!」
 半分本来の目的が頭から飛んでるかもしれない七瀬は、うきうきと部屋に入り、ふすまを閉めた。完全に自分だけの世界へと行ってしまっている。
「僕達は下に降りましょう。ここにいてもすることはありませんから。七瀬さんに任せましょう」
 促されるまま暁斗は階段を降り、居間に通される。さっきとはうって変わって、何もない殺風景な部屋だった。とりあえずと言う形で、置かれたようなちゃぶ台。その上に、煎れられたばかりの緑茶と、和菓子が並んでおかれている。
「どうぞ、自分の家だと思って、寛いでくださいね」
 そう言うと弥幸も用事があるからと部屋を出ていってしまった。暁斗は静かな部屋で一人、茶を啜る。
 視線を巡らせてみても、やはり何もない部屋はどこか落ち着かない。寮の自室が物に溢れている分広い空間は慣れない。
 でも、足をゆっくりのばせるのもいいかも。暁斗は何気なく足を伸ばす。ズボンに隠れたそれじゃなく、白い肌の足が見え慌ててまた折り戻した。
 今は七瀬の身体なんだった。暁斗は改めてスカートの端を持ち上げる。女の子って、こういうものはいたりするんだよな。柔らかいし、いかにも弱そうな、護らないといけないような感じがする。
「……どうしよう」
 溜め息をつき、隠し持っていたHANTを取り出す。ロゼッタ協会のシンボルマークを、そっと指でなぞった。
 このまま、元の戻れないとすると、課せられた任務を遂行し続けるのは至難の技だ。たとえ中身が七瀬だとしても、あの『身体』が《宝探し屋》のIDを持っている。こんな時に、本部から何らかの接触があったら--------。
「……やめよう。下手なことを考えて、ヘコんでいる場合じゃない」
 今はこの状況を打破することだけを考えなければ。
 HANTから、唐突に音が鳴る。暁斗は驚き身体を震わせ、アヴェ・マリアの旋律に慌ててHANTを起動させる。誰かから、メールが届いた。
 もしかして、皆守かな。
 淡い暁斗の期待は、すぐに呆気無く打ち消された。今宵七時と件名に書かれていたメールは、予想にしなかった人物からのものだった。
「------真理野?」
 暁斗はメールを開いて読み、顔色を怒りで赤く変える。
「……何が、罠を仕掛ける時間がないから、だ。お前だってしかけてるじゃねえかよ……!」
 真理野が、雛川を人質に取った。暁斗が闘いから逃げない為に。もし、時間までに現れなかったら、闘いを放棄したと見なして、殺す、とまで書かれている。
 時間は五時を過ぎていた。余裕はない。未開地の区画だから、少しでも早く行かないと間に合わないかもしれない。
 最早、選択肢は一つしかなかった。七瀬の身体のまま、真理野と闘うほかない。
「くそっ」
 暁斗は立ち上がり、二階に上がる。七瀬が閉じこもったままの部屋のふすまに立て掛けていた、自分のデイバックの口を開いて、荷物を全部取り出す。
 敷いていたナイロンの底を取り外すと、そこにはジュラルミン製の箱がある。それはことさらゆっくり丁寧に目の前に出した。
 蓋を開けると、分解された銃の部品の数々がきれいに収まっている。毎日手入れをして、非常時に使えるように用意しておいた物だ。
 暁斗は黙ったまま、隣に聞こえないよう最新の注意を払い銃を組み立てていく。弾を取り出し銃に収め安全装置をかけると、ホルダを腰に巻き付け銃を入れる。銃はできるならもう一つ欲しいが、贅沢は言っていられない。
 七瀬の身体一つで行くのは、はっきり言って不安だった。だが、皆守たちをバディに頼めないし、武器を取りに男子寮に戻るのも、彼女のことを考えたら、躊躇ってしまう。
 やるしかないんだ。
 暁斗は眼を閉じ、空を仰ぎ見て成功を祈る。
 よし、行こう。決意を胸に階段の手すりを掴んだ暁斗は、廊下の突き当たりで無造作に立て掛けられている物が、眼についた。
「………?」
 それは刀だった。黒い漆塗りの鞘が、つややかに光る。手に持つと、七瀬の身には余り、重く感じた。今持っていっても邪魔になるだろう。だが、刀から眼が離せない。
 連れていけ。
 俺を連れていけと、刀が叫んでいるように聞こえた。
 僅かに鞘を引き、刀身を空気に晒す。成功に彫られた龍の細工。
 連れていけ。
 龍が吠える。
「…………」
 暁斗は刀を収める。
 弥幸さん、ごめんなさい。必ず返しますから。
 心の中で謝って、刀の鞘と柄に紐を結わえ邪魔にならないよう背負い、暁斗はこっそり外に出て、遺跡を目指し一人走る。
 西に傾いている太陽。完全に太陽が空から消え、漆黒が空を覆ったら、雛川が殺されてしまう。
 そんなこと、絶対させない。先生も助け出して、元の身体に戻ってやるんだ。
 暁斗は決意を胸に、薄暗い森へと消えていった。



 ふと聞こえた鳥の羽音に、真理野は面を上げた。
 袴に差した刀の柄を掌に押し当て、握りこむ。沸き上がる熱とこれから起きる闘いに、知らず動悸が増した。
 これまで幾度となく立ちはばかってきた《執行委員》を倒してきた《宝探し屋》。彼との手合わせを前に笑みが浮かぶ。
 どんな闘いを見せてくれるのか? 葉佩暁斗よ。
 羽音が聞こえる。
 そして、重く開いていく扉の軋んだ音が続いた。
「------来たか」
 ようやく待ち望んでいた時がやってきた。
 だが、現れた人物に真理野はわずかにたじろぐ。
 自分の前に立ったのはあの少年ではなく、セーラー服に身を包んだ眼鏡の少女。肩につくかどうかの髪を足を前に出す度揺らし、レンズ越しにこちらを睨み付けてくる。
 彼女には、見覚えがあった。
「お主は確か、葉佩と共にいた----」
 七瀬とか言う女子生徒だった筈だ。
「拙者が呼んだのは、葉佩暁斗。お主を呼んだ訳ではない」
「それよりもちゃんと時間通りに来てやったんだ。早く、ヒナ先生を解放しろ!」
「ヒナ先生?」
 真理野は少女の言葉を受け止めかねた。ヒナ先生とは、初めて葉佩と会った時に会話の邪魔をした職員だろうが、言葉の意味が分からない。
「一体何のことだ?」
 だから、正直に言うしかなかった。分からないのだから、仕方ない。
「ふざけるな!」
 真理野の答えに、少女が怒りを爆発させる。
「お前がヒナ先生を攫って、オレが来なかったら殺すってメールを送ったの、お前だろ!!」
「------何だと?」
 寝耳に水だ。自分は、この身と木刀一本でここにやってきた。見知らぬ少女に、そんなやってもいない罪を責められ黙っていられる程、真理野は大人にはなれない。
 そもそも、どうして葉佩の代わりにこの少女が来るのか。
「………」
「おい、聞いてんのかよ!」
「------そうか、分かったぞ。お主、葉佩に言われてきたのだろう」
「------は?」
 少女が瞠目する。
「大方、葉佩に頼まれてここまで来たのだろうと言ったのだ。拙者が女子には全力を出せぬと踏んだのだろう。あることないことを吹き込ませて」
 あの《影》の言葉は正しかった。
 一時は如何なる強さを持っているのか、期待に胸膨らませていたが、それも崩れ去り、代わりに怒りが込み上げて
くる。
「色仕掛けで拙者を懐柔しようとは------葉佩暁斗、卑怯千万也!」
「ちょっと待てよ。人の話を----」
「黙れ。拙者にはもう通じぬ」
 真理野は木刀を抜いた。切っ先を少女に突き付ける。
「お主に恨みはないが、女子と言えどこの《墓》に入る者は《生徒会執行委員》の名において処罰せねばならぬ」
「この、分からずやが」
 少女がホルダから拳銃を抜いた。安全装置を外し、引き金に指をかける。
「勝負を付けてから、お前とゆっくり話し合ってやる。------覚悟しろっ」
「望む所だっ!」
 八双の構えを取り、真理野は木刀を握る。
 少女がじり、と地面を踏み締め直した。
「…………」
「…………」
 天井の隙間から、染み出た水が滑り落ち床を濡らす。
 沈黙。
 二人は同時に地を蹴った。
「おおおおおおっ!」
 吠えあがり、真理野は少女目掛け一撃をうち下ろす。少女は瞬間的な早さで飛んだ。タイミング良く木刀の上に降り、それをバネにして高く空を宙返る。頭を下に向け、不安定な体勢ながらも銃口は迷わず真理野に向けられた。
 ぱぱん、と繋がって出てくる発砲音。弾は二発。それぞれ真理野の右手と左足を狙っている。
「はあっ!」
 真理野は先程の攻撃から生きたままの勢いを活かし、素早く身体を回転させた。剣から強い風が生まれる。弾の速度が風の反発を受けて、弱まった。
 木刀を二度振るう。
 真っ二つにされた弾丸がばらばらと真理野の足元に落ちた。
 銃での攻撃を無効化され、着地した少女は眼を見張る。
「驚いたか」
 真理野は木刀を青眼に構えた。
「拙者の眼は万物を流れる氣の流れを見ることができる。この世にあるすべてのものには、例外なくどこかに《緩み》が無数に存在する。その《緩み》を断つことができれば、この世に斬れぬものなど何もない。つまり拙者の剣は、次元を切り裂ける剣術」
「…………」
「安心しろ。痛みなど感じぬ。感じる前に、死ぬのだからな」
「だからって、『はいそうですか』なんて言えるかよっ!」
 少女は真直ぐ両腕を伸ばし、連続的に引き金を引いた。銃声が一つ鳴る度に、反動が少女の身体を後ずらさせる。薬莢が、ばらばらと床に落ちていった。
 すべての弾薬が打ち出されて、肩で息をする少女は、悉く弾丸を切り捨て、無傷で平然と立つ真理野にちっ、と舌打ちをして、再び引き金を引く。
 かちり、と機械が空回りした。繰り返しても、虚しい音が響くばかりだ。
「これで終りか?」
 真理野は笑い、木刀を血振るいさせる。《力》の残滓か、刀身の向こうは熱気で揺らめく。
「では、今度はこちらから行くぞ」
「くっ!」
 少女は銃をホルダに仕舞い、腰に差していた刀を抜いた。光の刺さない暗がりにも、冴え渡る刃は輝き、刀はその存在を大きく示す。刀身に彫られた龍が、威嚇するように真理野を睨んだように見えた。
 面白い。
 真理野は感情の昂りに歓喜して、木刀を振りかざした。暁斗が来ず、いかにも非力そうな少女が現れた時、卑怯な手に憤慨した。また存分に力もふるえず、悔しくもあった。だが、実際少女は対等に真理野と渡り合っている。
 何の気兼ねもなく、刀を交えられる。
 真理野は渾身の力で木刀を振り落とした。少女が刀を水平に構え、受け止める。
「------こざかしいっ」
 木刀の軌道を無理矢理横に流し、神速の身のこなしで身体ごと回転する。勢いが上乗せられ、加えて《力》の威力まで付けられた木刀が、細かい氣の粒子を放った。
 少女の身体を、切り捨てた弾丸のようにしてやろうと木刀が迫る。至近距離で最早、上か後ろへ飛び逃げる余裕などない。
「!?」
 木刀が刀に弾かれた。まるでそれ自体が生きて動いているように。
 攻撃が阻まれ硬直した隙に、少女は後退し、間合いを取る。信じられないように持っている刀を凝視していた。それは、必殺の一撃を繰り出した真理野も同じだった。まさかあれが止められるとは。
「だが、状況は変わっていまい」
 真理野は連撃を繰り返し放ち、少女を壁際に誘導するよう追い詰める。どうあっても逃げられないように。
 少女の刀の扱いは銃のそれよりも劣っていた。ただひたすら木刀を受け止め流すのに必死で、追い込まれているとは気付いていない。
 やがて、逃げ道はなくなる。
 冷たい石の感触に、少女は後ろを見た。強固な壁にようやく危機的状況だと知ってしまう。
 だが、彼女は諦めず、強い意志を持った眼で真理野を見据えた。
 身を滅ぼしていく逆境に放り込まれても、前へ進もうとする光。ここで呆気無く切り捨てるのは惜しい。せめて《墓》などではなくて、ごくありふれた出会いだったならば------。
 真理野は心の底から、それを惜しんだ。
 だが。
「ここで終りにせねばならぬ。------許せ」
 刃が少女の命を吹き消そう煌めいた。
「お、おおおおおおおおおおっ!!」
 力の限り少女は吠える。
 刀を下から上に振り上げた。

 風が巻き起こる。

 少女の刀から、渦巻く旋風が起こり、そこから一羽の鴉が生まれた。夜色の翼をはためかせ、少女と真理野、二人を散らした羽で覆っていく。ごうごうと渦巻く風が耳元で暴れて通り過ぎた。
 羽に遮られる視界に思わず真理野は眼を閉じて、すぐに開ける。鴉が生み出した闇はすでに空気に溶けている。
 同時に、少女の姿も消えていた。まるで闇と同化したように。
「最終段階、クリア。------憑依完了」
 氷の囁きが、真理野の背中に突き刺さった。後ろに回っていた少女が、旋風の中心に浮いている。あり得ない程の氣の強さに、真理野の《力》を持ってしても緩みを見つけられない。
「魂魄安定。氣の乱れ、皆無。全ての行程において、異常なし。----ありがとう、榊。面倒をかけた」
 少女の腕に鴉が舞い降りる。誇らしく鳴き声を上げ、彼女の手に持つ刀の刀身へ吸い込まれて消える。宙に浮いた身体が、床に着地した。

「さて」
 落ち着き払った声で、少女は真理野を見た。
「お前には何の恨みもない。だが、このままだと『あの子』の身が危うくなるんでね。早々に勝負を付けさせてもらう」
「笑止。まさか勝つつもりでいるのか。拙者に斬れぬものはない」
「ああ、そうだな。その通りだ。だったら」
 少女は易々と持っていた刀を、青眼に構える。
「斬れる前に、斬るだけだ」

 風が、薙ぐ。

「っ!?」
 真理野が握っていた木刀が、柄だけを残し乾いた音を立てて砕け散った。木っ端となり、床に散らばる。
 少女が何をしたのか、真理野は見えなかった。刀を動かした素振りもない。近づいた気配もなく。そもそも自分は、彼女から目を反らしてもいなかった。
 そんな馬鹿な。
 今の少女は、『彼女』ではない。強いて言うなら、得体の知れない何かに、身体を奪われているように見える。例えば、戯れに空から降りてきた神に。

 ----勝てない。

 無意識のうちに真理野は悟る。ただ静かに見つめられているだけでも、押しつぶされそうな力を与えられ、指一本動かせない。汗が顔を流れ、立つだけで精一杯だ。
「そんな怖い顔しないでよ。殺したりしないからさ」
 震える真理野に、少女はほんの少し困った顔で笑う。
「ちゃんとお前の大切なものも取ってきてやるよ。----だから安心して、お休み」
 後ろから強い衝撃が真理野の頭を直撃した。痛みに眩み、意識が暗く遠のいていく。黒い砂に包まれ、横たわりかけた身体が宙に浮く感触がした。完全に瞼を閉じきる寸前、真理野を見上げる少女は刀の切っ先をこちらに向け、勝ち気に笑っていた。

「さぁ、来いよ-------------」




「ん…………」
 木々を揺らし葉音を鳴らす風と、頬に当たる土が冷たい。ふるりと睫毛を震わせて、暁斗は真っ暗な夜空を見上げた。
「ここは……、墓地、なのか?」
 意識が遠のいてから今まで、記憶がない。暁斗は軋むように痛む身体を動かし、起き上がる。淡い期待を抱いて見た姿は、七瀬のままだった。
 どうして、こんな所で倒れてたのか。真理野との勝負の行方はどうなったのか? 辺りを見回し、暁斗と同じく倒れている真理野を見つける。悲鳴をあげる筋肉を宥めながら、彼に近づく。一瞬、死んでいるかと悪い想像が働いたが、ちゃんと胸が上下していた。
「真理野。おい、真理野!」
 着物の合わせに差し込まれている手紙に首を捻りながら、暁斗は真理野を揺り起こす。「おい!」と一際大きい声で呼び掛けると、彼も暁斗と同じようにゆっくりと眼を開けた。何度か瞬きを繰り返し、状況を理解しようと揺れ、そして暁斗を見てあからさまに驚く。身体を揺さぶる暁斗の手を払い除け、後ろにずり下がった。
 そんなに嫌なのかよ。さっきまで敵対していたとは言え暁斗は何だか悲しくなった。
「あ、いや。すまない。----どうやら元に戻ったみたいだな」
「? 何のことだ?」
「……お主は知らぬのか」
 真理野は黙して地に座りなおし、神妙に暁斗を見つめる。
「拙者がお主を斬らんとした時、何かに取り憑かれたように拙者をいとも容易く破った。あの強さは人など及ばぬ。お主は心当たりがないのか?」
「……ないよ」
 寧ろこっちが知りたいぐらいだ。
「……そうか。だが、お主に負けたことは事実。……拙者は生まれてからずっと、剣の道に生きてきた。己を鍛練する為に、己の技を高める為に。そして崇高なる道の果てを垣間見ん為に……」
 真理野はきつく握りしめた手を握りしめ、うなだれた。出会った時、いつも真理野を突き動かすような凛とした強さが、吹き消されそうな弱々しい灯火に変わっている。
「真理野……」
「だが、こんなことで費えることになろうとは……。不甲斐無きはこの腕よ。かくなる上は------っ」
「わーーーーっ! このバカっ!!」
 懐から脇差しを取り出し、鞘から抜いて腹に突きかける真理野を、暁斗は眼をむいて慌てて腕にしがみつく。
「一回敗れただけで、死のうとすんなよなっ!」
「止めるなっ! もう拙者はどうしたらいいのか分からぬ。拙者はっ……」
 歯を食いしばり俯く真理野を、暁斗は無言で頬を叩いた。虚を突かれ、呆然と見る彼に口調も厳しく怒りを露にする。
「どうしていいのか分からないなら、もっと足掻けよ! 道に迷ったんなら這いつくばっても捜せ! オレはなぁ、今のお前の何倍も落ち込んだことなんてザラにあるんだぞ!! それでもここまでやってきたんだ。お前にだってやれるはずだ!」
「……お主は……」
「それとも、卑怯者の言葉なんて聞けないか?」
「……いいや。そんなことはござらん」
 真理野は静かに刃を鞘に納める。
「あの時、刀を交えた時のお主は、ずっと拙者を真直ぐ見てきた。それまで実直な眼を、拙者は見たことがない。そして、そんなお主が卑怯などとはとても思えぬ……。お主がそうなんだから、葉佩も同じ心を持っているに違いない。……すまなかった。危うく拙者は過ちを犯す所だった」
 真理野は立ち上がる。暁斗に手を差し伸べ、自分を救った少女を立たせて笑う。
「感謝する。……お主に会えて良かった」
「ああ。ありがとう」
 固く握りあい、ほどける二つの手。何故か真理野の頬が赤く、熱っぽい眼で暁斗を見つめる。
「……真理野?」
「いや、何でもない。……拙者はこれで失礼する」
「これからは、葉佩暁斗に協力しよう」そう言い残し、真理野はさっさと帰ってしまった。
「………変な奴。……それにしても」
 真理野は雛川を人質にしていなかった。さっき話した様子の彼は、まさに剣だけの為に生きてきている。それこそ、卑怯と呼ぶには程遠い。
 ----では、誰が?

「ほう。まさか別の人間の身体でマリヤに勝つとははな。それとも、お前に組みする者の手のお陰か。どちらにしても興味深い……」
 鼓膜を不快に震わせる、耳障りな声が耳を劈いた。
「誰だ!」
 辺りを見回しても、全てが影と夜の薄闇に同化して、上手く見れない。懸命に探す暁斗を嘲るように、墓石かと思っていた一つが、ゆっくりと動く。
「今夜はいい夜だ。月も隠れ、《幻影》もこの空の下へ這い出て来れる。
「お前は誰かと聞いているんだ!」
 いきり立つ暁斗。影は静かに答える。
「我の正体が知りたいか? 慌てるな……。近いうちに我とお前はまた会うことになる」
 一言一言、影の声を聞いていく度に、暁斗は心の奥で暴れる何かに感情を突き動かれる。慟哭や怒り。誰もが隠し持っている闇を暴き出す力が、影の声にはあった。
 暁斗は銃のグリップを掴む。だが、弾が無いことに思い当たり、地面を踏みつけたくなった。刀一本では到底、あの影は倒せない。
「安心しろ。今はまだ、闘う気は無い」
 暁斗の心を読み、また影は、勘に触る嫌な笑い方をした。
「今日はこれを返しにきただけだ。------こっちに来いっ!」
「きゃっ」
「------ヒナ先生!」
 腕を伸ばし、自分の方へと引き寄せた影の動作につられ、雛川が足元を取られながら出てくる。眼は布で隠され、両手も縄で縛られ自由を奪われている。やっぱり真理野は人質など取っていなかった。暁斗は確信する。本当に悪いのは、コイツだ!
「こいつは、お前とマリヤを闘わせる為に攫わせてもらった。今となっては用も無い。返してやろう」
「そんなことの為に……。いいからとっとと解放しろ!」
「いいだろう」
 影の腕がまた伸びる。空で何かを斬る仕草をし、戻った時には雛川を封じていた目隠しと縄が、斬れて地面に力なく落ちる。
 突然自由になり、戸惑いながらも必死に状況を理解しようとした雛川は、銃に刀を持つ少女の姿に、困惑した。
「そこにいるのは、七瀬さん? どうしてこんなところに……」
 そして近くで暁斗と向かい合っている影を見つけ、雛川は咄嗟に暁斗を庇い、腕を広げ自らを盾にした。
「貴方は誰っ? もしかして、生徒が噂をしている《ファントム》なの!?」
「……先生」
 雛川は恐怖で震えていた。だが生徒を護る為に、気丈にも得体の知れない存在を前に自らを奮い立たせている。
 なんて強い人なんだろう。そう思いながら、暁斗は雛川を自分の後ろに追いやる。
「七瀬さんっ!」
「……大丈夫です」
 雛川を、これ以上学園の闇に触れさせてはいけない。暁斗は毅然と影を見据える。
「クククッ……。葉佩暁斗。お前の身体に起きた異変は、この学園を覆いつつある混沌がもたらした結果だ。お前には、《生徒会》を相手にもっと働いてもらう必要がある。----------同じ目的を持つ仲間としてな」
「貴方は誰なのっ! 生徒に手を出したら------」
 雛川の叫びを、影は遮る。
「この学園は呪われている」
「……え?」
 地面が、微かに揺れ始めた。
「見るがいい。《墓》を彷徨い、地上へ這い出んと苦悶の叫びを上げる魂たちの姿を!」
「な-------っ!」
 無気味なうめきが墓地を埋め突くし、怨念や痛みに歪んだ悪霊が現れ、暁斗と雛川を囲う。生きている者への執念や羨望が恨みにとって変わり、身体を奪おうと襲いかかる。
「先生っ!」
 暁斗は雛川を、身を呈して覆いかぶさるように庇う。身体に群がる霊が、どんどん内側へと入り込んできた。その度に肺の空気が追い出され、脳がかき混ぜられるような吐き気がする。全身が冷えていく。
「七瀬さん。七瀬さんっ!」
 雛川の呼び掛けも虚しく、耐えきれなくなった精神はもう限界だった。暁斗は崩れ落ち、そのまま意識を失う。


「アーハッハッハッハッハ!!」


 影が、笑った。






 白い水と、同じ高さと音程で繰り返される音に抱かれながら、『私』はわずかに眼を開けた。
 そこは水の中。
 『私』は透明な筒に満たされた水中に浮かび、身体中に細い管の付いた針を全身に刺され、漂う。
 口に取り付けられた覆いから常に送られる空気を受け、『私』は眠りと覚醒を繰り返していく。
「蛋白質結晶化しました。酵素融合安定しています。また第三培養槽の育種に蠕動」
 感情の伴わない声。
 筒の向こう側で、異なる水音が響きあう。
「それでは、実験を次の段階に移行しろ」
「まだ時期尚早ではないか?」
「何を恐れている。我々の計算に誤りはない」
「そうだ」
「何の為に、多くの被験体を無駄にしてきたと思っておるのだ?」
「我々にはもう時間が残されてはいない……」
 無数の声が、声高に言う。
「早く、培養槽を開けるのだ」
「早くしろ-----------」
「全ての培養槽を開け放つのだ-------------」
 管から得体の知れない液体が、細い針を通して身体に入り、内側を巡る。
『私』は筒の向こう側を見た。
 少女が立ちすくんでこちらを見ている。黒く長い髪の隙間から、泣きそうな瞳で唇を噛み締めていた。
『私』は手を伸ばして少女の頭を優しく撫でたかった。
 だが、透明な壁が、目的を遮る。

 どうか泣かないでくれ。
 優しい娘よ。




「--------殺してやる」
 血と硝煙と死の匂いが、辺りで混じりあう。
 傷だらけの身体を抱えられ、少女は痛みに朦朧としながら、息も絶え絶えに見上げる。
 ぼやけた視界に、自分を支える誰かがきつく前を見据えていた。
「てめえら、みんな、全部。壊してやる………っ!!」
 血が乾き張り付いていた少女の頬に、水が落ち赤くなる。
 手を伸ばしたかった。だけど、切り裂かれ指一本すら動かせない。
 もう、泣かないで。

 ねえ。


「------------」
 両目に溢れた涙が、こめかみを通り横たわった布団を濡らす。
 墓地でも遺跡でもない。ごくありふれた家の天井。痛みが消えた身体は酷く楽で、暁斗はまじまじと中に仕舞われた手を外にだし、見つめる。
 傷や肉刺。《宝探し屋》での鍛練で皮膚が固くなった掌。紛うことなき、葉佩暁斗、自分自身の掌。
 戻っている。
 不幸中の幸いか。霊の干渉によってまた入れ替れたのか。それとも遺跡での出来事で何かあったのか。どちらせよ、もう考えようがない。その時の記憶がないのだから。
 戻れたのだから、いいじゃないか。
 だが、涙が止まらない。留まることを知らず、ぼろぼろ転がり出ていく。「ああ」と喉を詰まらせ、掌を閉じた瞼の上から押さえ込んだ。
「元に、戻れたんですね」
 掌に、もう一枚温もりが重なる。
「どうして、泣かれてるんですか?」
「分かりません。分からなっ……」
「無理に言わなくても、いいです。思わぬことで疲れたでしょう? 七瀬さんのことは任せて、今はゆっくり休みなさい」
 温もりが感触を確かめるように強く握りしめ、離れていく。遠ざかる足音が消えた後、暁斗は布団に潜り込み、声を殺して泣いた。
 白と赤。
 水と血。
 二つの情景はせめぎ合いながら、一つの感情を暁斗に痛い程感じさせた。

 哀しい。
 哀しいとしか、思えない。

 自分に夢見させていた者たちは、一体何を思い、腕を伸ばしただろうか。届かないでどう思ったのか。考えるだけで、胸が切なく痛む。
 夢の向こう側。黒髪の少女と支えてくれた手の持ち主を思い、暁斗はずっと、泣き続けた。

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