昼食を取る為に、マミーズに行ったとしても、購買で済ませるにしても、暁斗には教室に置いてきた財布が必要だった。身近にお金を借りれる存在もなく、暁斗は教室に戻ろうと怪談を昇っていた。
 視線は、段差に引っ掛からないように、下がっている。一歩ずつ段差を踏み締めていくと、不意に足袋と袴の端が見え、嫌な予感とともに足を止める。
「葉佩暁斗よ。先刻は邪魔が入ったな」
 真理野剣介だ。
 彼はようやく暁斗に会えたことを待ちわびたように笑っている。
「続きを素直に言おう。先刻も言ったと思うが、《墓》の奥にて手合わせを願いたいのだ」
「手合わせ? ------勝負か」
「そうだ」
 真理野の眼が、鋭くなる。
「お主の噂を聞くにつけ、ぜひともその腕前を見てみたくなってな。もしお主の腕前が噂通り本物なら、待ち受ける化人と罠を超えて拙者の元までたどり着けるはず。どうかな?拙者の申し出を受けてもらえぬか?」
「………いやだ」
 絞り出すように呟く暁斗に、真理野は眼を見張る。
「……何だと?」
「オレは、ただ闘うことだけのために、そんなことはしたくない」
 暁斗が今まで《執行委員》と闘ってきたのは、少なからず対峙した彼らの心に潜む闇を垣間見てしまったから。暁斗は目の前にいる苦しんでいる存在を、少しでも救いたくて銃を取ってきた。真理野のように、ただ自らの本能に従うような闘いあいなどはしたくない。
 だが、真理野は聞く耳を持たなかった。暁斗をねめつけ、怒りを漏らす。
「何を今さら。お主はあの墓を侵す者で、拙者は墓を護る者。断り続けてもいつかはぶつかりあうのが摂理」
「…………」
「それとも、罠を仕込む時間がなく、正攻法では拙者に勝てぬと?」
「--------なんだと?」
 罠なんて、暁斗には全く身の覚えがない話だ。いぶかしる彼は真理野に眼で問いかける。だが、彼は全く意に介さない。それどころか。
「お主のやっていることを、拙者が知らぬとでも思ったか。どうあってもお主とは闘ってもらう」
 半ば強引に約束を取り付けさせ、さっさと暁斗に背中を向けてしまった。
 ----今宵暮六ツ半----夜の七時新たに開いた扉から続く区画の最奥で待つ。そう言い残して。
「罠ってどう言うことだよ」
 どうしてもそれだけが腑に落ちなかった。初めて足を踏み入れる未開の地。仕掛けも分からないのに、どうして罠を仕掛けられようか。
 真理野はどうも真直ぐ物事を考えるきらいがある。罠を仕掛けるなんて、思い付くようなタイプには見えなかった。
「……誰かが真理野に入れ知恵をしている?」

 誰が。

「あっきとク〜ン!」
 地面が揺れた。いきなり強く背中を押され、前につんのめったのだ。暁斗は両手をぐるぐる振り回し、慌てて側の手すりに死にものぐるいで掴まる。あともう少し距離があったら、階段を転がり、本気で危なかっただろう。階段で転げ落ちて死ぬ《宝探し屋》なんて聞いたことがない。
 心臓がものすごい早さで脈打っている。
「や〜〜ち〜〜ほ〜〜〜〜っ!!」
 驚きから喉を震わせ怒り振り向くと、案の定犯人の八千穂は困り顔で後ずさり、ぱんっと目の前で掌を叩きあわせた。
「ごめんごめんっ! まさかそうなるとは思っていなかったから」
「思っても思ってなくても! 時と場合と行動を考えろよなっ」
 まさかで死んでしまったらこっちはたまったものじゃない。
「でもさぁ、暁斗クン、真剣な顔してたねえ」
「--------そうか?」
「うんっ。ねえもしかして」
 八千穂は一瞬息を溜めて眼を輝かせると、嬉しそうに言った。
「ツチノコのこと、考えてた?」
「は?」
 暁斗は思わず聞き返した。だが八千穂は一人納得して頷き、お構いなしだ。
「だよねえ。何て言ったってツチノコだからねえ。気になっちゃうよね!」
 どうやら八千穂の中では、朝の教室で皆守たちと三人掛かりで消したツチノコへの情熱が再発しているらしい。それが彼女らしいと言われればそれまでだが。
「八千穂」
 暁斗は口調を厳しく彼女を呼ぶ。
「朝、オレや甲たちが言ったこと、もう忘れたのかよ」
「だって〜。気になるんだもん」
 駄々をこねる八千穂に、仕方がないととっておきの台詞を言うことにした。本来なら使いたくはなかったが。
 わざとらしく八千穂から視線を外し、物憂気に眼を伏せて暁斗は呟いた。
「じゃあ、スペシャルジャンボパフェはなしだな。せっかくだから、いつも頑張っている八千穂にハンバーガーのセットも付けてやろうと思ったのに。……残念だよ」
「えっ」
 効果は覿面だった。たちまち八千穂の顔色が変わり、腹を空かせた子犬のように悲しく訴えてくる。
「そっ、そんなこと言わないでよ。もう言わないからさっ。考え直して、暁斗クン」
「よし」
「……本当は残念だけど」
「何か言ったか?」
「ううんっ。何にもっ!」
「……ふうん」と暁斗は一段ずつ階段を昇りきり、踊り場から上を見上げる。
「…………?」
 それまで静かだった三階が、にわかに騒がしくなってきた。「捕まえろ」だの、「不審者だ!」だの叫び声と、不連続に連なる幾つもの足音。
 音は次第に近くなり、はっきりと形になった。
「泥棒だぁッ! 誰かッ、そいつを捕まえてくれ!!」
 男子生徒の叫びが暁斗の耳を劈いた。
 暁斗と八千穂は思わず顔を見合わせる。
「泥棒………? あっ、ヒナ先生が言ってた不審者かな?」
「八千穂、そんなのんびり言うことか?  --------っ!」
 影が二人の上にかぶさり、大きな物体が階段を跳躍して踊り場に着地した。いきなり現れた姿に、呆気に取られる。
 サングラスに派手なピンク色のシャツ。立てた髪の毛と無精髭が眼についた。暁斗はそれを知っている。
「う、宇宙刑事!」
「よ、ハロー」
 宇宙刑事----鴉室洋介は女子寮の裏で始めてあった時と同じものすごい軽さで手を振る。
「お、おまっ。なんで、ここに!」
 鴉室は眼につかないところで調査に励むと公言してたが、白昼堂々校舎内に入り込む無謀さに、目眩がする。見付かったらどうするつもりなんだろうか。
「おいおい、まさか俺がどうしてここにいるのか知りたいのかい?」
 暁斗の心情など知らぬ鴉室は色男めかして、片目をつむる。
「嬉しいけど、そいつはトップシークレットってやつでね。残念だが、もう行かせてもらう。またなベイビー」
 疾風のように階段をかけ降り、二階の廊下を曲っていった鴉室は、まるで台風を思わせる凄まじさだ。暁斗は二の句も告げず、あんぐり口を開けたまま、消えていく革ジャケットの裾を眼で追う。
「ちょっと、暁斗クン!」
 八千穂が暁斗の肩を強く揺らした。
「どう言うことか分からないけど、早く追い掛けないと逃げちゃうよ。いいの?」
 良くない。
 暁斗は我に返った。理由は何であろうと、知り合いが《生徒会》に処罰されてしまったら、目覚めが悪くなってしまう。
 両手で頬を叩き、暁斗は自分自身に喝を入れた。眼に鋭い光が灯る。任務を遂行する、狙った獲物を逃がさない獣の眼。
「行くぞ。とっちめて、校舎からたたき出してやる」
「うんっ。頼りにしてるよ暁斗クンっ!」
 夜は遺跡を探索していても、まだ倦怠的な日常を感じているらしい。八千穂は振って沸いてきた騒動が楽しくて仕方がないようだ。学園が荒らされている危機感もなく、鴉室を捕まえにかかる暁斗の後をついていく。
 八千穂にかかったら、泥棒捕獲も子供の鬼ごっこだな。薄く苦笑をしいて暁斗は走り角を曲る。そして自分より十は下の学生らを大人気なくまき散らしながら疾走する、鴉室の背中を見据える。あれだけ派手に走ったら、遭遇した人間の記憶にも強く擦り付けられてしまう。職業柄、隠密行動が多いだろう彼にとっては、お世辞でもいい探偵とは言い難い。
「待てよっ!」
 暁斗は地を蹴った。鴉室に眼を止め動かない学生たちを避け、徐々に速度を上げ、黒い風になる。広がっていた距離も埋まり、あっという間に追い付いた。
 暁斗は標的を定め、身を低くしながら鋭い角度で跳躍する。伸ばした手は、鴉室の革ジャケットを掴み、追いかけっこは収束する筈だった。
「ええっと。次は--------」
「!」
 暁斗の目の前に、図書室からメモを片手に持った七瀬が、進路上に運悪く出てきてしまった。もちろん彼女が外の様子など知る訳もなく、ゆったりとした足取りで廊下の真ん中に立つ。
「--------七瀬っ!」
「月魅っ。危ない--------!!」
 暁斗と八千穂の叫びが重なった。
「え?」
 びっくりして七瀬が立ち止まり、暁斗の方を向いた。ものすごい勢いで眼前に飛び込む暁斗に眼を向き、反射的に持っていたメモを落として本を盾にする。
「っ。きゃああああああっ!!」
「くっそー!」
 七瀬と衝突した暁斗は、彼女を庇いながら床にもつれて倒れる。咄嗟に受け身も取れず、強かに頭を打ち付けた。頭蓋骨が振動し、直接脳が震えるような感覚に、吐き気がする。喉が詰まり、衝動を押えながら奥歯を強く噛み締めた。
「あ、ああっ」
 耳元で、どこか聞き覚えのある声がする。いつもより、高めに聞こえた。
「月魅っ! 暁斗クンっ!!」
 二人の元に、駆け寄ってきた八千穂が駆け寄り傍らにしゃがみ込む。不安そうに暁斗の頭に触れる。
「大丈夫? 頭とか打ってない?」
「打ったけど。大丈夫」
「本当? 良かったあ」
 級友の無事をひとしきり喜んでから、八千穂は廊下の向こうを残念そうに見つめる。
「これじゃ、もう追い掛けられないなぁ……」
「あきらめるな、八千穂」
 こめかみを押え、暁斗は起き上がる。側にポケットからこぼれ落ちたHANTを見つけ、手に取る。幸いにも足は捻っていない。これなら、まだいける。追いつける。
「八千穂は、七瀬を頼むっ!」
「えっ。ちょっ、ちょっと」
 何か言いそうな八千穂を置いて、暁斗は再び走り始めた。耳を済ませ、鴉室の足音を探り当てると、廊下を走り切った先にある階段を上から一気に飛び下りた。



 暁斗は司書室を抜けた後の階段を一気にかけ降り、一階に降り立つ。足音が聞こえる方向----今は鍵がかかっていて、袋小路になっている講堂前の廊下に向かって走った。
 少し走っただけなのに、軽く息が上がっている。だが、それを不審に思う暇もなく、暁斗は視線を張り巡らせ不審者を探した。
「どこだ。隠れてないで出てこい!」
 授業が始まり、静かな空間で怒鳴る。近くには、先生が一人はいるはずだろう職員室があったが、《生徒会》を恐れているのだろう。誰も出てくる気配はなかった。
「おい、いい加減に-------っ!」
 視界がいきなり遮られ、真っ暗になる。
「おっと。これ以上騒がないでもらおうか」
 耳元で軽薄な声が囁かれる。
 煙草の匂い----間違いない。鴉室だ。気配に気づけなかったなんて、迂闊だった。
「どうやら、ここに来たのは君だけのようだな。中々、いい勘してるじゃないか」
「……そりゃ、どーも!」
 淡々と答えながら、暁斗はさり気なく鴉室の腕を掴み、手前に引いて引き剥がす。だが、思いのほか鴉室の力が強く、びくともしない。これぐらい、なんてことないのに。暁斗は内心焦った。
「……大人しくしてもらおうか。君には俺が校舎を出るまで付き合ってもらう。安心しな。痛い思いはさせないから、よ」
 まるっきりなめた言動と、まるで女性を扱うような仕草に暁斗は腹が立った。
「------誰がお前のいうことなんて聞くかっ!」
 暁斗は鴉室の腕から手を離し、高く振り上げる。そして、肘を鋭く無防備な彼の腹に突き刺した。「うぐおっ」と潰れた悲鳴がして、思わず暁斗を戒めていた手を離した。
 自由になった暁斗は続けざまに上段蹴りを放つ。爪先がこめかみに当たり、時間差で襲われる痛みに呻きその場にしゃがみ込んだ。
「……なんて、ガキだ」
 涙目で鴉室は暁斗を見つめる。
「そんな力一杯暴力を振るうこたねえだろ?」
「無断で構内に入り込んで、大騒ぎしたんだ。それぐらいして然るべきだっ!!」
 暁斗は容赦なく毅然と言い返す。当たり前のことに、鴉室はぐっと息を詰まらせ、黙り込んだ。
 居辛い空気が漂いはじめる。
「そいつが校内で目撃されたっていう不審者か?」
 突如沸いた第三者の声に、二人は同時に顔を上げた。四つの眼に見つめられ。彼は少したじろぐ。
「なんだよ」
 ぶっきらぼうに言った。
「お〜〜。君はあの時の無気力高校生じゃないか」
 驚いていた鴉室が、第三者----皆守甲太郎の姿に、締まらない笑みを浮かべ、まだ痛む頭と腹を押えながら立ち上がる。
「あんたは、……あの時のおっさんじゃないか。確か、人目に付かないような場所で潜んで調査するだの何だの言ってなかったか?」
「いや、そうなんだが……。調べた居場所があったんでな。生徒が別のことに気を取られれいる間に、調べようかと」
「別のこと?」
 皆守は解せないように眉を潜めた。
「ああ」と自信満々に鴉室は笑う。
「ツチノコ騒動----中々名案だろ?」
「……おっさんが噂を広げたのかよ……」
「まぁな。思った以上に騒ぎが大きくなっちまって、俺自身も驚いているがな」
 鴉室は、ここまで天香学園に怪談が浸透しているとは、思ってなかったのだろう。効果の高さに、戸惑っているようだった。ありがたくもないし。人騒がせで、迷惑な話だ。
 元凶を暁斗は睨んだ。こいつのせいで、今日は朝から疲れてばかりだ。
「ちっ。人騒がせな話だ」
 皆守も、鴉室の無計画さに呆れている。深く疲れた溜め息に、鴉室もさすがに頭にきたようだった。
「あのな、俺だって----」
「そんなことより、早く逃げた方がいいんじゃないのか? じきにここも人が来るぜ」
「……へ」
 鴉室は眼を丸くした。力が抜けた顔で皆守に訪ねる。
「なんだ、逃がしてくれんのか?」
「別に俺はあんたが掴まろうが、どうなろううが、知ったことじゃない。だがな、《生徒会》や教師連中から事情聴取なんて、かったるいことこの上ないからな」
 一度言葉を切り、皆守は暁斗を見遣る。
「お前も逃がしてやってもいいと思うだろ?」
「駄目だ」
 暁斗はきっぱりと言い切った。
「そうやって甘やかすと、つけあがるんだよこう言うのは! 厳しく突き放すべきだ」
「そりゃねえぜ……」
 泣きそうに鴉室が呟く。
「黙れ」
「お前ならそういうと思っていたが……。何か口調がおかしくないか?」
「どこが? 変なこと言うなよな、甲」
「………」
 どこか納得行かず、見つめあう暁斗と皆守に挟まれて鴉室は一人事情を知ったかぶったように、深く頷く。
「まぁまぁ、喧嘩はするなよ。同じ学園の生徒だろ? 俺が好きなのは分かるが、仲良くしないと」
「…………」
 何言ってんだこいつ。暁斗と皆守は白けて鴉室を向くが、彼は嘘くさい爽やかさをかもしながら、
「じゃ、縁があったらまた会おうぜ、ベイビー」
 と手を振りながら走り去ってしまう。
「何だったんだ、アイツは……」
 暁斗は拍子抜けすると同時に、どっと疲れが全身に生まれ、無駄にテンションが高い人間とは余り会いたくないと思った。こちらまで無理矢理テンションが上げられられて、後でそれを後悔する羽目になってしまう。
 ツチノコ騒動の原因が分かったのは良かったかもしれないが、その喜びよりも、徒労感が強い。
 皆守は面倒くさそうに鴉室が走っていった方を見つめ、学ランのポケットからアロマプロップを取り出しくわえる。先端に火を付け、ラベンダーの香りを吸った。
「……ったく。ただでさえ肥後をそそのかした男の件でゴタゴタしている時に……」
「……?」
「これはお前に言ってもしょうがないか」
 そう言って、皆守は暁斗に背を向ける。
「俺はもう行くぞ? だるいんで今日は早退することにしたんだ」
「ちょっと待てよ!」

「じゃあな」と立ち去ろうとする皆守の腕を、暁斗は手に取った。
「ちゃんと授業受けなきゃ駄目だろ? ヒナ先生だけじゃなくて、オレも泣くぞっ!」
 せっかく出席率が上がってきているのに。ここで帰ってしまったら、またサボり癖が戻ってきてしまう。暁斗は必死だった。
 だが、皆守は訳も分からず暁斗を怪訝に見下ろした。
「何言ってるんだ? 今日のお前本当に変だぞ」
 掴まれた腕を振り解き、鏡を指差す。
「髪や服もぐちゃぐちゃだ。授業に出るんならちゃんと見て直しておけ」
「………分かったよ」
 仕方なく暁斗は鏡に向かう。今日の皆守はどこか余所余所しい。まるで他人と接しているみたいだった。
 オレ、甲と喧嘩とかしてたっけ。がっくり肩を落とし、ゆっくり鏡の自分と向かい合う。そこには髪がぼさぼさで、丸っこい眼を持つ少年が写る、はずだった。

 が。

「----------っ!?」
 そんな、馬鹿な。暁斗の血の気が一気に引いていく。
「……おい。どうしたんだ?」
 自分の後ろから、鏡の中の皆守が訪ねてきた。そして、思わず鏡に手をついた『少女』に、
「おい。何かあったのかよ。------七瀬」
 決定的な一撃を与える。
 鏡に写ったのは暁斗ではなかった。いつも本を手に、知識の探究を突き進める少女、七瀬月魅の姿。だが、その意識は、葉佩暁斗のままで。
 現状が理解出来ず、恐る恐る首から下を見れば、学ランではなくて、セーラー服が眼に入る。耳に手を伸ばせば、彼女が付けていたピアスが指先に触れた。
「--------こ、古人曰く」
 喉から出る声も七瀬のもの。もう、現実から逃げられず、悟らざるを得ない」
 オレ、七瀬になっちゃったんだ------!!
「----こ、甲っ!」
 暁斗は勢い良く振り向き、様子を窺っていた皆守にしがみついた。「うおっ」と驚き、彼は暁斗の肩を掴んで慌てて引き剥がす。
「いきなり何をするんだ。七瀬」
「違う。オレ七瀬じゃない。暁斗だよ。----葉佩暁斗!」
 必死で皆守を揺さぶり、自身の存在をアピールする。突然降り掛かった災難。普通ならあり得ない状況に、どう対処したらいいか分からなかった。一人でも。----皆守に理解してもらって、手助けしてほしかった。
「オレ、七瀬と入れ変わっちゃんたんだよ! 多分、あの時。ぶつかっちゃった時に……。甲、信じてくれよ!」
 信じて。切なる思いを込めた瞳を、皆守は見つめて、そして不機嫌そうに眼を細めた。
「おかしなことを言いやがって。お前、ノイローゼか、本の読みすぎじゃないか?」
「なっ」
「お前が暁斗だなんて、ある訳ないだろ。調子が悪いんなら、さっさと保健室に行って、カウンセラーにでも相談してろ」
 皆守は冷たくしがみつく腕を振り解いた。暁斗の目の前が真っ白になる。姿は違えど、中身は暁斗自身。口調や動作は変わらないから、少しぐらいは疑問を持って、問いただしてほしかった。なのに、彼にはそんな素振りは全くない。
 ショックで動けなくなった暁斗を横目に、「じゃあな」と皆守が通り過ぎ、そのまま振り向くことなく歩いていってしまう。
 どうしよう。暁斗の頭には、もう何も浮かばない。自分が七瀬になった現実を受け入れることで精一杯だ。どんなに夢だと思い込みたくても、思わず抓った頬は痛かったし、その腫れが鏡にちゃんと映っている。
 鏡の中で、少女は悲しそうに自分を見つめた。知らず溜まっていた涙を、眼鏡を上に押し上げながら、指の背で拭う。どうしてこんなに悲しいんだろう。
 一体どうなっちゃうんだろう……。
「おい、何をやっとるんじゃ?」
 甲高い声に、暁斗は弾かれたように後ろを向いた。もしかして、異変に気付いた誰かが来てくれたのか? 期待に満ちた顔は、すぐに萎んでしまう。
 モップを手にした男。天香学園中の女性の敵とも言える境玄道が、暁斗の方へ近づいてくる。
「お主は確か……。A組の七瀬とか言う女子じゃったかの。もう授業は始まっておるのに、こんな所で何を突っ立っておるんじゃ?」
 暁斗はとっさに俯いて、ぼそぼそと呟いて答える。
「いえ、別に……。ちょっと、気分が悪くて」
 女子への好感度が最悪への一途を辿っている境に『身体が入れ変わった』なんて馬鹿正直に言ったりなんてしたら、そう信じてくれなくとも信じたフリをして、良からぬことをするに違いない。今、七瀬の身体で動いている以上、そんなことを絶対にさせる訳にはいかない。
 だがその言い訳も、境は自分の都合が言い様に解釈してしまったようだった。いやらしさを全面に押し出した笑みを浮かべ、
「そうか? だったら儂が優しく介抱してやろうかの?」
 これまたいやらしい動作でゆっくり暁斗の腰に手を回しかける。
 無論、これも許されるものではない。暁斗は邪念を感じ、思いきり膝頭を突き出した。
「この、スケベジジイがッ!!」
 強烈な膝蹴りが綺麗に境の腹にめり込み、ひ弱な身体が吹っ飛んでいく。潰れた蛙の格好で痛がり呻く境に、暁斗は同情すらしなかった。そんなことばかりするから、女子に嫌われるのだ。
「----どうかされましたか?」
 境と仕事を一緒に、それとも監視をしていたのか、慌ただしく足音を立てて弥幸が走ってきた。彼は蹴りの後で荒く息を吐いている少女を見た途端、足を止める。注視され、そう言えばスカートだったと、慌てて大股に開いていた足を閉じて、スカートを整えた。

 弥幸に気付いて、境がのろのろと肘をつき、上体をあげる。
「ひ、緋勇っ。この女子が、儂に酷い暴力を」
「貴方のは当然の報いで、僕は庇うつもりは毛頭ありません。それよりも、大丈夫ですか?」
 弥幸は労るように暁斗の手を取る。
「僕が眼を離した隙に、こんなことになってしまってすいません」
「……い、いえっ。そんなことないです。……ありがとうございます……」
「そうですか。良かった。七瀬さんが無事で」
「…………」
 安堵する弥幸に、暁斗は上手く笑いかけることが出来ない。今の彼が前にしているのは、七瀬月魅であって、葉佩暁斗ではない。他人にも、自分に見せてくれたような笑みを浮かべるのかと思うと、胸と眼の奥が痛くなる。また、涙が出てきてしまいそうだ。
「怖かったんですね。可哀想に」
 弥幸の声は殊更、優しくて。それがさらに涙を押し上げる力を増長させた。眼が次第に潤んでくる。
「一旦、保健室に行きましょう。ゆっくり休んで、落ち着いた方がいいですよ」
「……はい」
「儂だって、怪我人じゃぞ」
 恨みがましく境が、暁斗に付き添う弥幸に呟く。だが、弥幸の言葉は境以上に容赦なく、冷たいものだった。
「貴方にとってはいつものことでしょう。校務員室に救急箱がありますから、そちらをどうぞ」
「この薄情者がっ!」と大きく喚く境を置いて、暁斗と歩き始めた弥幸は、大きく溜め息をついた。
「全く、あの人は……。いつまで経っても進歩がない……。気にしないでいいですからね」
「……はぁ……」
 廊下を歩き、怪談を上がらずそのまま左に曲れば、職員室と向かい合うように保健室がある。暁斗は真直ぐ保健室に向かおうとしたが、伸びてきた弥幸の腕に阻まれる。
「弥幸さん?」
「このまま、怪談を上がってください」
「----え?」
 階段なんて上がる必要がないのに、どうしてこの人はそんなことを言うのだろうか。暁斗はまじまじと弥幸を見つめる。
 弥幸は悪戯っぽく笑った。
「七瀬さんに会った方がいいでしょう? ----『暁斗』さん」
 驚きで、暁斗は一気に眼が冷めた気分になる。
「っ、弥幸さんっ!」
「すいません。境さんにはあなたが七瀬さんに見えていたようでしたから」
「じゃあ、弥幸さん、には」
「ええ」
 深く頷く弥幸を信じられない眼で見つめ、暁斗は思わず弥幸に抱き着いた。
「良かった! オレだって分かってくれる人がいて!」
 ちゃんと自分を分かって名前を呼んでくれる人がいる。それだけでなんて幸せなことなんだろう。皆守が信じてくれなかった分、喜びも大きかった。加減も遠慮も出来ず、思いきり抱き締める力を強める。
「もう、オレ、弥幸さん大好き!」
「……ありがとうございます」
 掛け値なしの好意に、なぜか弥幸は切な気に答え、暁斗の背を叩いた。
「もう、離れた方がいいですよ。恐らく殆どの人間には貴方が七瀬さんに見えるはずですから。七瀬さんにあらぬ噂が立っても困るでしょう?」
「あっ」
 それは確かに困る。暁斗は慌てて弥幸から離れた。
「すいません。嬉しくって」
「いいえ」と弥幸は言い、上を指差す。
「さぁ、行きましょう。七瀬さんが待っています」
「----はい!」

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