夜の帳が落ちて、空へ昇り始めた月が青白く中庭を照らしている。昼間の活気も失せ、人の気配もなく不気味に静まり返るなか、一人の男子生徒が校舎へ足早と向かっていた。
部屋着の上にジャンパーを羽織り、ポケットに手を入れながらきょろきょろと辺りを窺い、何かから隠れるように移動を続けている。怯えているようにも、見えた。
今、彼は規則を破ろうとしている。
どうしても必要なものを校舎に忘れてきてしまったのだ。すぐに思いだせたなら下校の鐘が鳴る前に取りに行けたが、そんなことを後悔しても遅く、こうして人目を忍んで歩く羽目になってしまった。
ついてない。心のなかでひとりごちる。さっさと取り戻して、見つかる前に帰ろう。
「−−いい夜だ……」
どこからともなく男の声が聞こえる。男子生徒は身体を竦ませ、辺りを見回した。しかし誰も見つけられない。
「参之『えい』の川田だな?」
「だっ、誰だ! 誰だよッ。隠れてないで、出てこいッ!」
名前を言い当てられ、男子生徒は怯えながら後ずさる。言い様のない不安が彼を覆う。だが、どんなに呼び掛けても、声の主は一向に姿を現さない。淡々と言葉を紡いで一層不安を煽っていく。
「何故このような時間に校舎の近くを歩いている? 放課後に校舎内に入ることは《生徒会》の定められた校則で禁じられているはずだ。その禁を破ろうとする者は、処罰しなければならない」
《生徒会》。処罰。その二つの単語からあることに思い至り、男子生徒の顔が青ざめた。
「……まッ、まさか。お前は、執行委員?」
「だとしたら、どうする?」
問いかけに、声の主は否定しない。
男子生徒は今自分が置かれている事態に、逃げ出したい衝動にかられた。このままでは自分はこれまで処罰された人たちの、一番新しい仲間入りされてしまう。
「おッ、おい待てよ! 俺はただ忘れ物を取りに来ただけだ……。中には入っていないじゃないか」
何とか処罰を逃れようと、男子生徒は必死でどこにいるかわからない声の主に聞こえるように、声を張り上げる。
だが、帰ってきた答えは、彼にとってあまりにも非情なものだった。
「規則を破る前に罰を下すのも、《生徒会》の役目だ」
「ふッ、ふざけるなッ! 何でそんな規則に縛られなきゃならないんだ!」
理不尽な物言いに、男子生徒は激昂する。どうして校舎に近づくだけで、こんな恐怖にさらされなければならないのだ。
「そもそも、生徒会が勝手に決めた校則を守る義務なんて俺たちにはないぜッ? そうだろッ?」
「この学園を支配しているのはただの生徒会ではない。《生徒会》と言う特別な者たちだと言うことを忘れるな」
「何が特別な−−−−」
言いつのろうとした男子生徒は、最後まで言葉を言い切ることは出来なかった。突然目の前に現れた影が気配もなく眼前に迫ってくる。それが誰か、認識する前に彼の身体に鋭い痛みが走った。
悲鳴を上げて、男子生徒は意識を失い、地に伏せた。
「安心しろ、峰打ちだ」
うつ伏せに倒れた男子生徒を見下ろした男に、月に光が照らされる。着流しに袴。腰に差された木刀。右目には刀の鍔で作られた眼帯が当てられている。その出で立ちは、まるで現代に取り残された侍のよう。
「これで、正しかったのか?」
男は、男子生徒を挟んだ向こう側へと顔を向けた。
「もちろんだ」
耳障りな声が暗がりから聞こえる。
「この生徒は規則を犯そうとしていた。悪は罰せられなければならない」
「…………」
顎に手をやり、男は黙り込む。
「甘いことを考えているのではないだろうな。−−マリヤよ」
風が吹き、葉が擦れあう音を立てる。月が隠れ、生まれた闇から滲むように、不気味な影が人の形を成して男−−真理野剣介の前に立った。
影は耳障りな声で言う。
「規則を犯してからでは遅すぎるのだ」
「…………」
「世の中を見ろ。誰かが殺められ、その加害者を処罰したとしても死者は蘇らない。戦争が起きてから、それを止めようとしても失われた物は元には戻らない。起きてしまったことに対して、何かをしようとして、どんな意味がある? 悪の眼は早いうちに摘まなければならない。《生徒会》や《執行委員》によってな。この学園は、《生徒会》の崇高なる秩序によって管理されるべきなのだ」
「秩序か……」
「そうだ」
未だに納得していない様子の真理野に、影ははっきりと言い切った。そして、調子を強めたまま、
「そう言えば、もう一人、−−悪の芽を発見した」
と言う。真理野が顔を上げ、影を見る。
「……誰だ?」
「3−Cの葉佩暁斗。先月この学園に来た《転校生》だ」
「葉佩、だと?」
暁斗の名前に、真理野は左眼を面白そうに細める。
「知っておる。《執行委員》を次々と倒していると言う強者か。実は拙者も気になっていた」
「強者? そいつは卑劣な罠を張り巡らせ、《生徒会》の者を倒し、自分がこの学園を支配しようとする、邪悪なる意志を持つ者だ」
「……何と−−。では、今までの《執行委員》は」
「−−そうだ」
「……卑怯な」
真理野は怒りに震えた。正々堂々と戦わず、奸計を仕組んで仲間を倒してきた《転校生》。それは今まで相手と真正面に対峙し、剣一本の正攻法で戦ってきた彼にとっては、許し難い行為だった。そして、《転校生》は学園を支配しようと目論んでいる。それもまた、絶対にあってはならない事。
「仇を、討ちたいか?」
真理野の心を読むように影が言う。
「無論だ」
真理野は即答した。それを聞き、影が笑うように揺れる。
「ならば、我が力を貸してやろう。二人で葉佩を−−」
「手助けは無用だ」
助力を断り、真理野は誇らしげに腰に差した木刀に触れる。
「拙者も武士の端くれ。堂々と名乗りを上げ、堂々と勝負を挑み、見事撃ち破ってくれる。《執行委員》の名に賭けてな」
「相手は只者じゃない。そんな木刀ごときで倒せるのか?」
「心配無用だ。よしんば、その者が真の武士だったとしても、拙者に斬れぬものはない」
真理野が木刀を抜いた。視界に、丁度いい標的となってしまった石碑が眼に入り、彼はそれと向き合う。剣先を石碑に向け、青眼に構え腰を落とすと、上段に振り上げ、下ろす。
「ふっ……。葉佩暁斗よ……。せいぜい首を洗って待っているがいい。拙者が引導を渡してくれるわ」
口の端を上げながら、真理野は踵を返し、暗闇の中へと去っていく。
風がざわめく。雲間から覗いた月が、残った影を照らした。青い光の元、黒いマントを身に纏った男が現れる。顔の上半分は白い仮面によって隠されていた。
「単純な奴よ」
男は真理野が消えた方向を見て皮肉げに笑った。
「だが、これでまた月の青白い光と共に、学園に混沌の風が吹く。《転校生》と《生徒会》。どちらが倒れても、我にとっては好都合だ。−−しかし」
男は先程真理野が繰り出した剣撃を受け止めた石碑を見る。巨大な石が、真ん中から綺麗な断面を見せて真っ二つになっていた。
「木刀で石を斬るとは、凄まじいものよ。《転校生》と《生徒会》の戦いを見物させてもらうつもりだったが、《転校生》の命運もここで尽きる事になりそうだな」
風がざわめく。男のマントが棚引き、まるで鳥の羽のように大きく広がった。身体が闇と同化してきて、男の姿はどんどん見えなくなっていく。
「まぁ、そうなったとしても、別の手を探すまで。この学園を覆う闇は至る所にある。クククッ。−−アーハッハッハッハッハッハッハッ!!」
耳障りな声で高く笑い、男は完全に闇と化した。
声が余韻を残しながら、木霊していく。
「…………」
中庭の植え込みが揺れる。今まで様子を窺っていたらしい人影がそこから現れ、気絶したまま放っておかれた男子生徒の元へと近づく。しゃがみ込み、うつ伏せになっていた彼の身体を仰向けにしてやり、斬られた箇所を凝視した。
安堵に胸をなで下ろす。
斬られたとは言え、木刀だった事と、真理野自身手加減をしたのだろう。数日間は痛みそうだが、それ以上の支障はなさそうだった。
人影は、男子生徒の肩に腕を回して、持ち上げた。
「……ひ、ゆう、さん?」
身体が動いた衝動に、眼がおぼろげに開いた男子生徒が、自分を助けてくれる恩人の名前を呼ぶ。人影−−緋勇弥幸は、安心するような笑みを彼に見せた。
「大丈夫。すぐにルイ先生の所にまで連れていきますから。それよりも喋らないで。傷に触ります」
「……あ、りが、とう……」
覚束ない足取りだが、男子生徒はちゃんと歩く。彼を補助しながら、弥幸は仮面の男が消えていった暗がりを肩ごしに見つめた。
あの男がつくり出し纏っている氣の感触を、弥幸は知っていた。怒り、妬み、つらみ。あらゆる負の感情が混じりあった陰氣だ。どうあってもあの存在が引き起こすものはいい事ではない。近いうちにあの男は事を起こすだろう。
−−《幻影》が。あの子がつくり出した綻びから這い出てきやがったか。
弥幸は前を向く。すぐ側にある角を曲れば、灯りが見えるだろう。とりあえずは、男子生徒を安全な所まで連れていかなければならない。
「全く……。次から次に厄介ごとが増えていくな……。−−龍麻の奴、恨むぜ」
男子生徒の耳に届かないぐらい小さな声で呟き、弥幸はゆっくりと歩いていった。
咳がこぼれる口を掌で押え、暁斗は一人で朝の教室に入った。いつもは皆守と一緒に行動するのが常だったが、今日に限って、皆守の部屋を何度ノックしても何の返事もなかった。しつこく、繰り返しても応答すらなく、痺れを切らして彼を見捨てた。だが、思いのほか長く皆守を待っていたせいで、ホームルームを欠席する羽目になってしまった。
ヒナ先生になんか言われないといいけど。溜め息混じりに暁斗は教室に入った。そして、興奮気味の空気に当てられ、思わず足を止める。
殆どのクラスメートが、何処か上の空で辺りを世話しなく見回し、かつ、互いを牽制してきている。目の前を挨拶しながら通り過ぎた男子生徒は、手に虫取り用の網を持っていて、余計に分からなくなる。学校生活ではまず使わないそれに首を傾げながら、意気揚々と出ていった彼を見送った。
「おっはよーっ、暁斗クン!」
「はよ、八千穂」
八千穂が暁斗に駆け寄ってきた。いつも元気な彼女だが、今日は何時にもまして元気そうだ。眼が、好奇心で輝いているのは気のせいか。
案の定、八千穂は自分を期待するような眼差しで見つめてきて、暁斗はこっそり彼女の視線から逃れようとするが、無駄なあがきだった。
「ね、ね。暁斗クンはは聞いた?学園の敷地で謎の生物が目撃されたって話!」
「……謎の、生物?」
記憶を探ってみたが、思い出せない。暁斗は正直に頭を振る。
「知らない。なんだそれ」
「ええっ、本当に知らないの? 昨日も男子、けっこう騒いでたよ?」
「悪いけど、本当に知らないんだ。寮にいる間は殆ど眠っていたし、夜はあそこにいたから」
「ああ、そっか。そうだったね」
八千穂は一人納得し、そして一人で自慢げに胸を反らす。
「それじゃあ、この明日香ちゃんが、今学園で起こっている事を暁斗クンに教えてあげよう!」
「…………」
何となく、関わらないほうが良かったじゃないのか。ぼんやりと暁斗は後悔していたが、もう遅い。八千穂はそれはもう楽しそうに、説明を始めてしまったので、暁斗は仕方なく聞く。
事は数日前にまで遡り、テニス部や他の運動部がツチノコと呼ばれる謎の生き物を目撃した事から始まった。UMA−−未確認生物とも言われるツチノコは、最初墓地を飛んでいるコウモリや、野良猫ではないかと取り合わない人が多かったが、次第に増えていく目撃論に、皆目の色を徐々に変えていき、今では探そうと躍起になっている人間の方が多いらしい。
昨日も、野球部員が校庭でそれらしいものに飛びかかれた事もあり、学園のツチノコ熱は絶頂を向かえつつある。
「で、虫取り網にネット。モップって訳だ」
さっき通った男子生徒もツチノコ取りに夢中になっている一人らしい。大した意気込みだと暁斗は肩を竦める。
「皆異常なまでに大騒ぎだな−」
「そりゃそうだよ。うちの学園に伝わる、『三番目のツチノコ』って怪談みーんな信じているもん。学園に出てくるツチノコを捕まえたら、なんでも願いがかなうって話」
「……そんなんで願いごとがかなうんなら、誰も苦労しないだろ。面白みがない」
「それもそうだけどね。でもさ、ツチノコ自体珍しいじゃない? あたしたちで捕まえてみようよ」
「はァ?」
思わず大きく口を開けてしまった暁斗を余所に、八千穂はうっとりと組み合わせた両手を頬へ持ってくる。
「きっと世紀の大発見になるだろうなァ……。あたし一人じゃ怖いけど、暁斗クンと一緒なら心強いし。−−ね、一緒に行こ?」
おねだりをせがむ子供のような八千穂の視線。暁斗は思いっきり顔を背け、それから逃げながら、
「悪い、オレはパス」
はっきり言った。
「ええーッ!」
まさか断られるとは思っていなかったらしい。八千穂が不満げに声を上げた。
「ノリが悪いなぁ。絶対面白そうだと思うのに」
「あのな、八千穂。オレにも都合が、」
ある。と言いかけて、暁斗は咳をした。手の甲で口を押さえる。八千穂が心配そうに覗き込んで、暁斗の背中を擦った。
「大丈夫? 風邪でもひいたの?」
「最近、どうも調子がおかしいんだよ」
咳が治まり、深呼吸をしながら暁斗は咳のしすぎで出てきた涙を学ランの袖で拭う。
「だから、ルイ先生の世話になる事も多くて……。たまにぼおっとしてしまう時もあるし。遺跡に潜る時を考えると、ツチノコには構ってられないのが本音。ごめん」
そもそも、自分は遺跡に眠る《秘宝》を求めてやってきた身。体調が悪くなっていても、任務は遂行しなければならない。ツチノコに構って、もし体調が悪化し、任務が遂行出来ない自体にでもなってしまったら、本部にどう言い訳すればいいのか。
そう考えてしまうと、八千穂に未練がましく見つめられても、暁斗は苦笑で返すしかなかった。
「おい八千穂。暁斗が困っているだろ。これ以上言うのは止めておけ」
気怠そうな声がして、二人は同時に振り向いた。そして、驚き揃って眼を見開く。
「よォ」
皆守がいた。眠たそうな眼で椅子に深く座り、足を机の上に乗せて組んでいる。
今はホームルームが終わった後。その時点で彼が机に座っていると言う事は、暁斗より先に来ていたのだろう。
「甲、お前なんでオレより早く来てるんだよ」
「なんだ、お前気付いてなかったのかよ」
皆守は大きく欠伸をした。
「下の階で二年生が喧嘩を始めてたんだよ。上にまで響くから、うるさくて眼が覚めた。それで起きた奴も結構いたみたいだったな」
「……知らなかった。全然、ぐっすり寝ていたし」
暁斗は呆然として答える。自分はそこまで反応は鈍くないと思っていたのに。やはり、身体の調子が悪いと色んな部分が悪くなる。
そんな彼を見て、皆守は低く笑った。
「おめでたい奴だな。こっちは迷惑だって言うのに。まったく喧嘩をするなら余所でやれってんだ」
「でも、良かったじゃない。早起き出来たんだから」
あっけらかんと言った八千穂の言葉に、皆守は笑みを消し、むっとした顔つきになる。
「あのなぁ、そう言う問題じゃないだろ」
「そっか、へへへっ」
言い返しても笑ってすませてしまう彼女に疲れたのか、皆守はそれ以上口を開かない。それを会話の終りと見なしたのか、彼女は先程暁斗に見せた笑顔を、今度は皆守に向けて再び浮かべる。
暁斗は、八千穂の標的が皆守に移動した事に気付いて、こっそり目立たない所に移動した。
「ねぇねぇ、皆守クン。あたしと一緒にツチノコを捕まえない?」
たちまち皆守の表情が渋くなった。机に上げていた足を下ろし、今度は頬杖をついて八千穂を睨む。
「何が、ツチノコを捕まえる? −−だよ。あんなもん、捕まえられる訳ないだろ。時間の無駄だ。俺だったら、その時間を昼寝に当ててやるぜ」
「ああいいなぁ。オレもぐっすり眠りたいよ」
今は休める時に休みたい暁斗は心から同意した。夢も見ずに、深い眠りに落ちてしまいたい。
「暁斗もそうか?」
皆守は嬉しそうに笑って、
「気が合うな。睡眠って言うのは、有意義な時間の過ごし方だからな」
しみじみ頷く。八千穂はそんな二人に、半ば本気で呆れていた。
「もうっ、二人ともだらけすぎだよっ」
「だって、本当の事だし」
「……もう。それに皆守クン、捕まえられる筈がないって、ツチノコ見た事あるの?」
「ま、まぁな」
八千穂の指摘に、皆守はこめかみを引きつらせた。それを見たのか見ていないのか、八千穂はさらにつっこむように畳み掛けてくる。
「じゃ、どんな姿をしてたの?」
さらなる質問に、今度は視線を彷徨わせる皆守。ああ困ってる。暁斗は皆守を哀れに思うが、あえて助けようとはしなかった。また自分から標的になってしまうのも嫌だ。
頑張れ。生温い視線と共に、暁斗は心の中で声援を皆守に送る。
表情は変えずとも、慌てている様子の皆守は見ていて何だか面白かった。
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