皆守は、有無を言わさないまま暁斗の手を引き続け、教室に入ったところでようやく解放する。だらりと垂れ下がる腕の動きをなぞるように、暁斗の頭も重く俯く。
「お前、何か余計なことを考えてるんじゃないだろうな」
皆守は苛つきながら、自分の鞄と暁斗のデイバックをひっつかみ、暁斗に押しつける。
「そんな顔しやがって」
「−−えぇ?」
「肥後と会ってから、様子が変だと言ってるんだ」
「……そんなこと、ないよ」
嘘だな。皆守は直感した。両手を伸ばし、暁斗の頭を挟むように掴むと、無理矢理持ち上げる。
「じゃあ、俺の眼を見て同じことを言え」
「………」
暁斗は自分を見つめる皆守の視線に耐えきれなくなり、目線を反らす。いつもは迷いない彼の眼が、今は迷いで揺らめいている。
「皆守、はなしてくれ」
暁斗が泣きそうな震える声で言う。自分の頭を強く引き、皆守の手から逃れると、押し付けられたデイバックを抱える。
「オレ、ちょっと用事があるから、先に行く。皆守も早く帰ろよ。いつ見回りが来るか、わからないんだからな」
「おい、暁斗」
「じゃッ」
皆守が口を開く前に、暁斗は素早くデイバックを背負い教室を出ていく。廊下から慌ただしい足音が響き、それは階段を降りる音へと変わって、そして静かになった。
「−−あの、バカが」
逃げやがった。
自分に何も言わず、下手な嘘をついて去っていった暁斗の後ろ姿を見ていて皆守は苛つく。ぎりりとアロマプロップの先端を噛み締め、皆守はすぐ近くの机を蹴った。
嘘をついてしまった。
暁斗は走って階段を降り、靴を帰るのもそぞろに校舎を飛び出した。そのまま温室まで走り続け、建物の壁に手をつきようやく止まる。
息は切れていないが、心臓ははちきれんばかりに強く、速く脈を打っている。
泣き出しそうな表情が、さらに歪んだ。
どうしよう。わからなくなってしまった。
暁斗は壁に背をつけ、ずり落ちるように地面に座り込んだ。膝を曲げて身体に寄せ、膝頭に頭を埋める。
今まで聞いた言葉と色々な考えが、脳を埋め尽くして錯綜する。それは大きな固まりに変わって、暁斗の前に突き出された。
暁斗は口を噤む。
《汝の隣人を愛せ》−−−。
前にあるべきものが欠けた言葉。それを説いている肥後の言っていることと、自分がやっていることは同じなのではないのだろうか。
暁斗は今までのことを思い返す。取手の時も椎名の時も、いやそれよりも以前《ロゼッタ協会》にいた時から、ずっと自分は他人を助ける為に、自ら傷付くような行動をとってきていた。
誰か、友達や家族が傷付くところなんて見たくない。そうさせてしまうのなら、いっそ自分が危険にさらされたほうが何倍もマシだった。
母親をなくした時から、暁斗はずっとそう思っていた。
だけど。
『裏を返せば、自らを愛することなく、他者を愛することなど出来ない……』
『……自らを省みない者に、真に他者を思い遣ることなど出来ない……か』
白岐と皆守はそう言っていた。
それは《隣人倶楽部》ひいては肥後に対して言った言葉なのかもしれないが、同時に暁斗の心にも鋭い棘のように深く突き刺さった。
オレのやっていることって、ちゃんとあっているのかな? もし、皆守にそうだと言われたら。そう考えると怖くなる。
だから暁斗は、皆守に何か言われる前に逃げてしまった。
「……どうしよう」
泣きそうな声で呟く。
こんな気持ちじゃあ。あそこで、遺跡で肥後と向き合うなんてできっこない。
瞼の裏が、熱くなる。
「−−どうされました?」
優しい声がして、暁斗の前で土を踏むような音がする。柔らかい調子で誰かが暁斗の肩を叩いた。びくりと身体を震わせて、暁斗が顔をゆっくり上げると、心配そうにこちらを覗き込む弥幸の姿。
弥幸は何故か驚いたような顔をして、すぐにジャンパーからハンカチを取り出す。
「はい」
ハンカチを暁斗に差し出してきた。
「……え?」
「何故かは聞きません。ですが、涙はふいたほうが良いですよ」
「え」
暁斗が指先で頬に触れると、確かにそこは濡れている。自分でも自覚がないまま泣いてしまったことに、暁斗は顔を紅潮させた。
弥幸は暁斗の掌に、ハンカチをそっと乗せる。それを握りしめ、「す、すいま、せ……」と上手く言葉にならない口を動かしながら、暁斗は瞼の上にハンカチを強く押さえた。
弥幸は暁斗が泣き止むまでずっと側に付き添い、その後校内の校務員室まで連れてきてくれた。《生徒会》の眼があるから生徒を連れ込んだ彼を暁斗は不安そうに見つめる。
「大丈夫ですよ」
弥幸は人さし指を立て、悪戯を仕掛ける子供のような眼をして笑った。
彼の奇妙な自信のせいか、誰とも会わず二人は無事に校務員室に辿り着いた。暁斗が先に中へと入り、弥幸が後に続く。音もなく扉を閉め「念のためですから」と鍵をかけた。これで誰か来ても、慌てる必要はない。
初めて入った校務員室はきれいに片付けられ、整然としていた。スイッチを入れ明りがつくと、それがさらに際立つ。もう一人の校務員、境玄道だけではこうはいかないだろう。
「さあ、どうぞ」
座ぶとんを進める弥幸の好意を素直に受け取り、暁斗は背筋を伸ばして正座をした。
「普通にしてていいんですよ」
また弥幸が笑う。そして彼は壁に付けられたようにして置かれている冷蔵庫を開けると缶を二つ取り出した。
「はい、どうぞ。冷たいのしかなくてすいませんが」
「いえ……。そんな。ありがとうございます」
受け取ってみてみると、缶には見覚えのあるラベル。暁斗がよく飲む銘柄のコーヒー。だが、ブラックではなくて、砂糖もミルクもたっぷり入ったカフェ・オレ。
プルトップを開け、一口含むと甘味が口の中で広がる。飲んでいくうちに、考え過ぎてがちがちに固まってしまった脳が解れていく感じがした。
黙って飲み続ける暁斗を、眼を細めながら見て弥幸も自分が持っていた缶のプルトップを開けた。
小さな音がした。それを最後に室内は沈黙する。だが、気まずさは微塵もなく、寧ろ安心して落ち着く。まるで昔からいたような気すら、暁斗は感じた。
暁斗はこっそり弥幸の様子を窺う。彼は暁斗と同じように姿勢を崩しコーヒーを飲んでいる。いつも正座をして礼儀正しそうな感じのする弥幸が、胡座をかいているところは、なんだか大人びている彼を年相応に見せた。
缶から口が離れ、弥幸がこちらを向いた。凝視していたことに、気をたてるでもなく、逆に優しく見つめられて。暁斗は思わず口を開いていた。
「あの、聞いてほしいことが、あるんです」
無闇矢鱈と人に話してはいけないことだと、暁斗は十分承知している。だが、弥幸を見て、無性に聞いてほしいと思ってしまった。彼なら、どんな突拍子もないことでも、ちゃんと聞いて受け止めてくれる気がするから。
「−−なんですか?」
弥幸は、静かに続きを促した。
許された。そう思った途端、暁斗は口火をきったように喋りはじめる。
「わからないんです。今まで自分がやってきたことが、本当に正しいのか。あっているのか。わからなくなってしまったんです。今までは、それでいいと思っていたんです。オレが損をしても、傷付いても。自分を省みなくても、大切な人が笑ってくれるなら、それでいいって。でも」
唇を噛み締める。
「わからないんです。ちゃんと自分も省みないと他人を、大切な人を思い遣ることにはならないんですか?」
オレは。
「オレは−−間違っているんでしょうか」
膝の上で手を握りしめ、暁斗は伏せ眼がちに俯いた。机の上で組み合わせている弥幸の腕が上がるのが視界の端で映る。
暁斗はまるで審判を待っている咎人のように、返事が帰ってくるのをひたすら待った。
「−−例えば」
弥幸が静かに言いはじめる。暁斗は面を上げた。
「貴方がとても大事な宝物を無くして、探しても見つからないとします。どんなに探しても見つからなくて途方にくれていると、貴方の一番大切な人が一緒に探してくれると手助けを申し出てくれました。今度は二人で探し続け、ようやく見つけることが出来たのですが、その時起きた不慮の事故で、大切な人が大怪我をしてしまいました。心配する貴方を余所に、その人は笑って言いました。『君の大切な物が見つかったんだ。こんな怪我、大したことないから心配するな』と」
「そんなの嫌だ」
暁斗が声を荒げる。
「そんなことになるんだったら、オレ大切な物が見つからなくても良い。見ているだけでも辛くなるから」
「−−それですよ」
弥幸がにっこり笑う。
「え?」
「貴方が行動して怪我をしたら、それを見ている人も痛みを感じることがあると言うことです。貴方が怪我をする人を見て、そうなるように」
呆然とする暁斗に、弥幸が優しく微笑んだ。
まるで、父親のようだと暁斗は思う。おかしいものだ。彼とは普通の父子ほど年は離れていないのに。不思議だった。
「僕はね。人やその人自身の人生は、その本人だけの為にあるのではないと思っています。自覚があろうとなかろうと、行動を起こせば、その経過や結果が誰かに影響を与えている。−−自分を愛し、大切にすることで誰かを幸せにすることも出来るんですよ」
《自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ》−−。
弥幸の言葉と、それはどこか通じるものがある。
一緒に行動していた仲間、−−一番遺跡に連れていく回数の多い皆守も、自分が怪我をしても笑って『大丈夫』と言っていた時、彼はどんな思いだったのだろうか。覚えている限りでは、どの場面でも渋い顔をしていたから、きっと怒っていたんだろうなと暁斗は思う。自分だって、多分誰かがこうなったら同じ顔をしてしまうだろう。
でも。
「オレがすることは、どう足掻いたって自分や誰かを傷付けてしまうんです」
「それは、どうしてですか。−−そもそも、貴方がしようとしていることは何なのですか?」
「それは、言えません」
自分がこの学園の地下に眠る遺跡から《秘宝》を探しに来たなんて、無関係の弥幸には言えない。それに本来この仕事は暁斗一人で完遂すべき仕事だったのだ。これ以上、無関係の人間を巻き込むべきではない。
「言えないけど、オレはどうしてもそれをしなくちゃいけなくて。その為には怪我も仕方ないと思っているし。でも、オレの知っている誰かが傷付くのは嫌なんだ! ……でもオレが怪我をして、それを見た誰かが傷付くのも嫌で、」
巡り回ってしまう質疑応答に、暁斗は途方にくれてしまう。これでは、どうあっても、誰かが傷付いてしまうのは避けられない。
「−−どうすれば、いいんでしょう」
「それは、貴方が考えるしかないことです。だけど、忘れないでください。貴方の周りには人がいることを。−−貴方は独りではないのですから」
「あ……」
学ランのポケットからアヴェ・マリアの旋律が流れた。
届いたのは皆守のメール。それを見た瞬間、暁斗の胸は一気に熱くなり、唇を思いきり横に引いて、何かに耐えるように息を詰まらせる。
「……すいません。オレ行きます。コーヒーご馳走様でした」
「どういたしまして」
弥幸は笑って立ち上がり、扉の鍵を開ける。開かれると、暁斗は急いで校務員室を後にした。
それを見送る弥幸の眼が細まる。
「−−さて、どうなるか見物だな」
彼の口の端が上がり、校務員室へ引っ込むと弥幸の姿はどこからともなく吹いてきた風にまぎれて消えていった。
人のいない下校時間が既に過ぎてしまった廊下を、暁斗は走り続ける。彼の行動を咎める者はいない。うるさく足音を立てて、昇降口に駆け込んだ。
先程と同じように勢いよく上履きを脱いで、下駄箱から靴を取り出し、履き替える。
急いで外へ出ようとして、
「おい」
横から不機嫌な声がした。
走り出そうとした暁斗は、踵に重心を傾け急ブレーキをかける。声のしたほうを振り向いて、眼を大きく開いた。
「み、皆守」
皆守が下駄箱に背を凭れて立っている。声と同じで、やっぱり不機嫌な表情をして鞄を持ちながら両手を組み、間抜けな顔をして見ている暁斗を睨んでいた。
怒ってる。暁斗は敏感に察知して、後ずさる。ついさっき逃げ出してしまったこともあって、罪悪感からかどうも顔があわせられない。
「俺はずっと前から口が酸っぱくなる程言っているよなぁ。下校の鐘がなった後の校舎をうろつくのは危険だと」
「そういう、お前は、どうなんだよッ」
暁斗は精一杯に言い返すが、
「俺はいいんだよ」
とあっさり皆守に打ち落とされてしまう。
さらにはゆっくり距離を取ろうとした暁斗の腕を、逃げられないように掴み、「暁斗」と真剣な眼差しで言ってくる。
「……どうして、逃げた」
「え」
暁斗の視線が宙を泳いだ。
「……な、なんでも」
「ない訳ないよな。嘘つきが」
大きな溜め息と共に、腕を解放されると今度は皆守に思いきり頬を抓られ、そして左右に引っ張られる。
「あいだだだだ」
加減ない皆守の攻撃に、暁斗は彼の両腕を掴んで、無理矢理頬から離した。痛みの余韻が頬に広がる。皆守が脇に挟んでいた鞄が床に落ちた。だが皆守は鞄を拾おうとせず、暁斗を見つめる。
「あんな泣きそうな顔をしておいて、何もない訳、ないだろう。−−正直に、言え」
はぐらかすのは、許さない。言外にそう滲ませ、皆守は静かに言った。有無を言わさない口調。暁斗は口を閉じ、何度か声を出さずにぱくついて、そして言う。
「皆守、言ってた」
「……何をだ」
「『自らを省みない者に、真に他者を思い遣ることなど出来ない』」
「………」
「だから、オレ、わからなくなったんだよ。自分がやってきたことが、本当にあっているのか。よく考えてみたら、けっこう無茶ばっかりしているし。それでよく、皆守にも叩かれるし。だから」
「何だ」
驚く程普段と変わらない口調で、皆守が言う。
「ちゃんと自分がしていることを理解出来る判断力があるんじゃないか」
本当のことを言われ、暁斗はぐうの音も出ずに唸る。皆守は眼を細めて、手を改めて伸ばし優しく頭を撫でる。叩かれるかと反射条件で身を竦ませた暁斗は、驚いて固まりされるがままに頭を撫でられた。
「だが、そんなお前でも今までやってきたんだろう。例え無茶苦茶ばかりでもな。だから今までの自分を否定するな」
「え」
思い掛けない言葉に、暁斗は眼を丸くした。
「でも、皆守」
「俺の言ったことが気になるか?」
ふんと皆守が鼻をならして笑う。
「確かに俺はそう言った。だがな、お前のことまで否定するつもりなんてない。大体、お前聞かないだろう。どんなことを言ったって、どうせは突っ込んで行く。−−違うか?」
「う……」
やっぱり言い返せない。悔しくなって、暁斗は口を尖らせる。言葉でのやり取りでは、どうも皆守にかなわない。
皆守が、笑った。
「それでいいんだ。そうじゃなければお前らしくないだろう」
「皆守……」
優しい声音に、暁斗の頬と涙腺が一気に弛んだ。思わず抱きつこうと大きく手を広げ駆け寄るが、すげなく皆守に躱された。
「とっとと帰るぞ。今夜もどうせ行くんだろう。付き合ってやるから、早く来い」
のらりくらりと皆守が落ちた鞄を拾い、校舎を出ていく。
広げた両腕を虚しく下ろして、暁斗は小さく舌打ちをしながらゆっくり遠ざかる背中を見つめた。口を尖らせていたが、すぐに直る。笑顔に変わった。
暁斗は皆守を追い掛ける。足取りは軽く、風を切る。
彼の表情に、もう迷いはなかった。
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