運ばれてきたカレーライスによって居心地の悪い雰囲気もなくなり、暁斗は安心してスプーンでカレーを掬った。皆守もさっきまでの不機嫌は嘘のように消え、食を進めている。
「そう言えば、知っていますの?」
ティカップの紅茶も飲んでしまい、手持ちぶたさになっていたリカが徐に暁斗に聞いてくる。
「ん? 何が?」
「デ部が主催している《隣人倶楽部》のことですわ」
「デ、デ部?」
耳なれない言葉に、思わず手を止めて聞き返した。
「デジタル部のことだ。うちではそう略して言ってるんだよ」
皆守がスプーンを揺らしながら、口を挟む。なんとも大胆な呼び方に、暁斗は「そんなものなのか…?」と首を傾げた。
「で、そのデ部とやらがどうかしたのか。椎名」
「そこに貴方のお友達が熱心に行っているところを、リカ何度も見まして」
「……八千穂が?」
「そうですの」
リカは形のいい眉をきゅ、と寄せた。
「あそこはとぉっても危険な場所ですわ。だから御忠告を申し上げようと思いまして」
「危険? どうして」
八千穂は嬉しそうに、そこでそこで教わったことを実践して、それは暁斗の眼にも良いように映っていたのに。どうして椎名はそんなことを言うんだろうか。暁斗は困惑した。
「……リカは行ったことはないですの。でも確か聞いた話では、その《隣人倶楽部》に参加した人たちは、皆救われたような穏やかな顔つきになるらしいですわ。さらに女子の間ではダイエットの効果もあると大評判らしいですの。それから」
「それから?」
「それを主催している人も女子の間では人気があるようですわ。『可愛い』って」
「………ふぅん」
「噂が絶えなくて、その分興味にひかれる人も大勢いるらしいですの」
「じゃあ、もしかしてお前も参加したいクチか?」
皆守が皮肉げに言う。
「御冗談を」
リカははっきり首を振り、微笑む。
「神様にも、ただの隣人にもリカを救うことなんて出来ませんでしたわ。それが出来たのは一人だけ……。ねッ、暁斗クン」
「うん。オレも椎名の力になれて嬉しいよ」
暗さも消えて心から綺麗だと思えるリカの表情に、暁斗も頬を緩めて笑った。
傷付いても、あの時助けられてよかったと暁斗は思う。だからこうやって仲良く食事を一緒に出来て、楽しんで笑える。今のリカのような笑顔を見ると、暁斗の心は暖かくなれた。
「ふふッ。やっぱり暁斗クンは素敵なお方ですわ。だから助けたくなっちゃいますの。−−この学園にはまだこわ〜い人たちがたくさんいますの。だから暁斗クンも気を付けてくださいましね」
リカは自分の伝票を手に取り、席から小さくジャンプするようにして降りた。そして優雅に暁斗へ向けて会釈をする。
「それでは、またですの」
「じゃあな」
「今度はお弁当、一緒に食べましょうね」
「おう」手を振って、にこやかにリカを見送り、再び暁斗は手が止まったままのカレーを掬って口に入れた。嬉しそうに顔を緩めている彼とは対称的に、皆守はむっと不機嫌が戻ったような顔つきで、暁斗を半眼で睨んだ。
「……浮かれやがって。今の自分の立場を考えろよな」
呟いた言葉は小さく、暁斗にまで届かない。それでも口が動いたのが見えたのか、暁斗はきょとんと皆守を見た。
「何?」
「……何でもない。それよりもさっさと食え。せっかくのカレーが冷める」
黙ってカレーを食べる皆守を怪訝に思いながら、暁斗も素直にカレーを口に運びかけ、手が止まった。
咳が、出てきた。
「−−ッ」
なかなか治まらず、思わず暁斗は口を押さえる。背を折り曲げてむせるように咳を吐き出した。喉が詰まり、苦しさから涙が滲む。
「おい、無理するな」
押さえ込もうとしていると、皆守が水が入ったグラスを差し出してきた。躊躇う間もなく受け取り、一気に喉へと流し込む。
冷たい感触が喉を通り過ぎていった。水に流されるように苦しみは下がっていって、ようやく咳が治まる。
「っあーー。治ったァ」
グラスをテーブルに置く暁斗に、皆守はまだ窺うようにこちらを見ている。
「暁斗。お前教室でも咳していただろ。どこか身体を悪くしてるんじゃないか?」
「いや、いつも通り。熱もないし、トレーニングしてても全然平気だし。−−強いて言えば」
「………」
「寝不足なだけ」
「じゃあ、とっとと保健室に行って寝ていろ。お前に風邪なんかひかれたら、面倒になる」
皆守は、二人の間に置かれていた伝票を自分の方へと引き寄せた。手で暁斗を追い払う仕草をする。
「温情だ。ここは奢ってやるから。さっさと行け」
「えッ、本当か?」
暁斗は眼を丸くした。皆守が奢ってくるのはこれが初めてだった。
「ああ、最初で最後のな」
「……ワーイ、アリガトウゴザイマース」
本気で言う皆守に、暁斗は口元を引きつらせながら立ち上がった。だが、本音は嬉しい。あんなことを言われても、今みたいに眼に見える優しさを皆守は滅多に出してくれない。これからもそうそうないかもしれないので、暁斗は素直に甘えることにした。
「じゃあ、オレ行くな。皆守もサボるなよー」
「さっさと行け」
語尾を凄める皆守に、暁斗は肩を竦め苦笑いをすると、軽く手を振って店内から出ていった。ガラス越しに小さい背中を見送り、皆守はアロマプロップを取り出す。先端に火を付けて、肺一杯にラベンダーの香りを吸った。
「……どうせなら、具合でも悪くなって行けなくなればいいんだがな……」
皆守は顔を顰めた。
「失礼しまーす。ルイせんせー、具合悪いんでベット使わせてほしいんですがー」
入って直ぐ矢継ぎ早に言葉を投げる暁斗は、奥の席に瑞麗が座っていないのに気付いた。
お昼時だから食事に行ってるのかもしれないな。理由を言い繕う手間が省け、暁斗はほくそ笑む。このままベットに直行して眠ってしまおう。
奢ってもらったカレーでお腹も膨れ、満腹感から重たくなった瞼を擦りつつ、暁斗は学ランのボタンを片手で器用に外しながら、ベットへ向かおうとした。
「あ」暁斗は立ち止まる。
先客がいた。おおよそ病気や身体が弱そうには見えない外見を持つ男が、ベットに腰をかけてこちらを向く。
「お、葉佩じゃないか」
「夕薙」
「今日はここで昼寝か?」
決めつけているような夕薙の台詞に、暁斗は唇を尖らせる。ここでサボっているのはだいたい皆守で、自分ではないのだ。どうにも、一纏めにされることがこの頃多くなってきている気がする。
「違う。さっき言ってただろ。具合が悪いから、横になりに来たの」
「どっちにしろ、寝るんじゃないか」
「うっさい」
「ふむ」夕薙は、暁斗の顔を検分するようにじっと見つめる。
「俺が見たところでは、いつもと変わりはないようだが。……どこが悪いんだ?」
「ん、咳が出るんだよ。俺は別にいいって言ったんだけど、皆守がうるさくてさ」
出てきた皆守の名前に、夕薙が意外そうに眼を丸くした。
「甲太郎が?」
「うん」
「そうか、甲太郎がか。珍しいな。そんな風に心配するとは」
「……まァ、それは同感だが」
逆に言えば、あからさまに心配なんてされないものだから、それを何となく受け止めきれないことを、暁斗は少し寂しく感じる。
「素直に聞いて、寝るよオレは。夕薙はもう出るんだろ。譲ってくれ」
返事も聞かず、暁斗はベットへ上がり込み、もそもそと布団を自分の身体にかける。さっきまで夕薙が使っていたせいか、あたたかい。
「お休み。お前も帰るんなら、早く帰って休めよ」
「待ってくれ」
瞼を閉じかける暁斗を、夕薙は止めた。
「お前に、聞きたいことがあるんだ」
「……聞きたいこと?」
「ああ」と改まって頷く夕薙に、暁斗は片腕を突いて起き上がった。彼から初めて受ける真剣な問いかけ。身体が自然と緊張する。
一体どんなことを聞かれるのか、予想もつかない。だが、次に暁斗が聞いたのは、あまりにも意外な人名だった。
「−−白岐のことなんだが」
「白岐? 彼女がどうしたんだ?」
「……君は彼女のことをどう思っている?」
「どうって……。友達だよ」
それしか答えようがなかった。
時々温室に行って、そこに彼女がいれば他愛無い話をする。その会話も、暁斗が一方的にするほうが多いので、友達と言ってもいいか怪しいぐらいだ。
「……夕薙は、どうなんだよ」
質問から夕薙の真意が読めず、暁斗は彼に聞き返した。
夕薙は、静かに笑う。
「俺は興味があるよ。彼女が何を考え、何をしようとしているのか。葉佩、お前は気にならないのか?」
「……そんなの、オレの勝手だろ。だけど、オレはずかずか白岐の内に入ろうとは思わない」
寂しそうに窓から何かを見つめ、温室で咲く花の側に佇む彼女。背筋を伸ばして、でも俯き長い髪に表情を隠してしまう姿を、暁斗は悲しいと思う。
何となく、分かっていた。彼女はきっと途方もないものをその身に抱え込んでいる。
だが、暁斗はそれを無理に暴くつもりはなかった。心を抉じ開けて、白岐の想いを見てしまうことは彼女を傷つけることに繋がるし、そうして知ってしまっても、暁斗は全然嬉しくない。
暁斗は、きつくシーツを握りしめ、夕薙を睨み付けた。
「……そうか」
夕薙は、睨みをとぼけたように躱し、暁斗に背を向けた。
扉を開き、出ようとする寸前にまた暁斗の方を振り向く。
「葉佩、俺は彼女のように神秘的な女性は初めて見るよ。……どうにかして、彼女の秘密を解きあかしてみたいものだ。……君が恋敵にならないことを祈っているよ」
保健室を出て、夕薙が扉を閉める。暁斗は思わず上げてしまった腰を下ろし、さっきの言葉を頭の中で反復させた。
『……君が恋敵にならないことを祈っているよ』
要は、夕薙は白岐のことが好きで、何故か自分を恋敵として見ているらしい。邪魔をするなと、牽制しているのか。
「……ありえないよ。夕薙」
頭からベットに倒れこんだ。何度かバウンドしながら白い天井を見上げる。
暁斗には分かりきっていたことだった。自分が白岐を『そう言う対象』として見ることは、万に一つもない。
だって、オレは。
「−−おや、葉佩か。どうした」
保健室に入って早々、寝転がっている暁斗を見つけ、苦味を混ぜた笑いを浮かべながら瑞麗が近づき、顔を覗き込む。
「またサボりか。皆守はどうした」
「今回はサボりじゃないですよ。咳が出たり出なかったりで、皆守に行けと命令されたんです」
「ほう?」瑞麗は暁斗の前髪を掻き揚げ、掌を額に押し当てた。
「……熱はないようだな。念のため咳止めをやるから、飲んでしばらく寝ていけ」
「どうも」
足で捲り上げてしまっていた毛布を引っ掛け、肩まで引き上げると、暁斗は頭を枕に埋めた。昨晩は一睡もしていないせいで、今はよく眠れそうだ。
「葉佩、薬を置いておくぞ」
「……ふぁい。どぉも」
微睡んで聞こえる暁斗の声に、瑞麗はふと彼に眼を止める。
「……葉佩。頑張るのもいいが、休める時は休んでおけ。でないと途中で息切れをしてしまうぞ」
だが、暁斗は答えない。もう眠りの波へ意識を投げてしまっていたようだった。
寝息を立てながら、ゆっくり上下する毛布を見て、瑞麗はそっと溜め息をつくとカーテンを閉め、暁斗と外を遮断した。
バスケットボールが、磨かれて光る体育館の床を、音を立てて跳ねる。チームメートからパスを受け、保健室から復活した暁斗は、ドリブルしながら敵の間を抜け、軽やかに味方へボールを投げる。
繋がったパスは、暁斗のチームに運を傾かせ、見事にシュートが決まる。元々離れていた点差がさらに広まった。暁斗は仲間たちのほうから一斉に歓声を浴びている。
試合終了後にはMVP扱いをされていた暁斗を、皆守は壇上に腰をかけ遠くから見ていた。
「皆守!」
「大活躍だったな」
走ってきた暁斗を迎え、皆守は功労者に一応の賛辞をかける。かなり投げやりな声だったが、暁斗は嬉しそうに笑った。
「へへッ。たくさん寝た後は運動しないとねッ」
「それで、保健室で眠れなかった俺は、雛川に見つかって、体育に強制参加させられたけどな」
近頃袖を通していなかったジャージの裾を掴み、皆守はうんざりする表情を浮かべる。暁斗とうって変わってあまり満足に眠れなかったらしい彼の眼は眠たそうだ。
「あ〜、眠ィ」
「頑張れ、あと少しで終わるぞ。−−ほら」
壇上の両脇の壁に取り付けられたスピーカーから、授業終了を告げるチャイムが鳴る。すぐにやけに声の大きい男の体育教師が招集をかけてきた。
暁斗は駆け足で、皆守はその後をのろのろと追う。
「当番はちゃんと後片付けをして帰るように。では今日はこれで終りだ。−−解散」
帰っていく教師をしり目に、同級生たちも体育館を出ていく。皆守もさっさと帰ろうとしたが、暁斗がいつの間にか皆と反対方向−−女子が授業を受けている校庭が見えていた扉の方へと向かっているのを見つけてしまう。
何をやっているんだ、あいつは。皆守は大股で歩き、暁斗の隣に立つ。
「おい、さっさと戻るぞ」
「ついでだから、八千穂が終わるの待ってようよ。あっちももう終りみたいだからさ」
言うが早いか、女子も一ケ所に集まっていく。どうやら授業が終わるらしい。
暁斗は、その中に八千穂を見つけ、「おーい、やちほーっ!」と大声で呼びながら手を振った。
八千穂はすぐに暁斗たちの方を向く。そして、返事をしようとしたのか、手を上げた。振ろうとしたそれは、ぐらりと身体ごと後ろへと傾く。
「−−八千穂ッ!!」
暁斗が外へ飛び出した。
女子が悲鳴を上げ、怯えた眼で成す術もなく倒れた八千穂を見つめる。
「暁斗ッ!」呼ぶが、走っていってしまった暁斗に、皆守は舌打ちをして靴を履き替えに体育館を出ていく。
暁斗は人の間を縫って八千穂の元へ駆け寄った。
上体を抱き上げる。いつも元気な彼女の顔色は今、蒼白だった。やけに体温が低く感じ、背筋がぞっとする。
「八千穂さんッ」
体育の女教師も駆け寄り八千穂の名前を呼ぶが、応答はない。どうやら気絶している様だった。
突然のことに、教師も驚きを隠せない。集まっている女子の方を見回した。
「誰か、八千穂さんの異変に気がついた人はいる?」
「……いいえ……」
八千穂と仲の良い一人が力なく答えた。
「明日香、−−八千穂さん、いつもと変わりなくて。だから、どうして倒れたのか……」
動揺して、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
「先生。それよりも八千穂を保健室に連れてかないと」
「−−そうね。葉佩君、お願い出来る?」
「はい」
頷き、すぐに八千穂を抱えようとした、その身体が暁斗の手を擦り抜けて浮いた。驚いて見上げると、外靴に履き替えてやってきた皆守が、彼女を抱えている。
「皆守」
「お前みたいな細い奴が持っていけるか。俺はこいつを運んでくるから、お前はとっとと体育館に戻って靴を履き替えてこい」
「分かった」
即座に行動を移す暁斗たち。後ろでまた女子たちが声をあげるが、今度はどこか色めきたっているように聞こえた。
「静かに! まだ授業は終わっていませんよ!」
落ち着かせるような教師の声を背に受けながら、暁斗は急いで靴を履き替え、皆守と八千穂が待っているであろう保健室へと急いだ。
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