夜も更けた学園の領地内は静かで、草むらで鳴く虫や、遠くの道路を走る車のエンジン音が微かに聞こえるのみ。人の姿はなく、昼間と比べるととてもさみしい。その代わり、一日を無事に終えた生徒が帰っていく寮だけが明るく、賑わいを見せている。
窓からこぼれる明り。それを避けて女子寮とフェンスの間をくぐり抜ける怪しい影が蠢く。
「……」
それは物音を立てずに進み、ぴたりとある窓の下で止まった。向こう側から聞こえる女子生徒の声と、衣擦れの音。
口元が緩み、それはしまらなくいやらしい笑みを浮かべる。
「くっくっく……。今日も大漁のようじゃな」
影−−境は、自分の幸運に感謝して、掌をすり合わせる。
この場所は、何度も失敗を繰り返し−男子寮の風呂を覗いてしまった事もある−ようやく見つけた絶好の覗き場所だ。下手な事をしない限り、見つかる心配はない。
つばを飲み込み、境はゆっくりとつま先を立てはじめる。だんだんと視界が上がり、窓の向こうにある天国が近づいてきた。
深まる笑みに、皺がますます増える。
その時、
「−−むッ?」
風が何の前触れもなく吹いた。それは爪先立ちの境の体勢を崩させ、容赦なくガラス窓を叩く。大きな音に、女子生徒は一斉に外を見た為、境は慌てて頭を下げた。
「そこまでです」
境の鼻先にモップが突き付けられた。自分自身で使い込んできたその異臭に、思わず鼻を摘んで見上げると、そこには一番会いたくなかった人物がこちらを見下ろしていた。
「……ひ、緋勇ッ」
「何、やってるんです?」
モップを片手に、弥幸は冷ややかな微笑をたたえている。自分の楽しみを悉く奪っていく怖い怖い同僚に、境は肩を縮めた。まさか、ここまでやってくるとは思わなかった。
「まだ、仕事が残っているのに、どうしてこんな所にいるんです?」
壮絶に綺麗な笑みが逆に恐ろしい。境は後ずさり逃げようとするが、その分弥幸が前に出る。一向に、縮まりも広がりもしない距離。
「どうして、逃げるんですか?」
「お……、おお、お主が追ってくるからじゃ」
「貴方が、こんな所に来るからでしょう?」
「それは、生徒の安全をだなァ……、……ひィ!」
弥幸が無造作にモップを振り上げ、境の顔面をすれすれに掠めさせる。その眉間に微かな皺が寄った。
「なら、男子寮も見回ってくださいよ。仕事なんですから」
「それはゴメンじゃ!!」
境は眼を大きく見開き、大袈裟に首を横に振った。
「なんで儂がわざわざムサい男の所なんぞに−−」
周りの温度が一気に下がり、弥幸は無言で懐からロープを取り出す。そして、見事な腕前で境を捕縛した。両手の自由を奪われ、境は身動きが取れず、そのまま引きずられていく。
「いやじゃ。儂は天国を拝むまでは帰らん!!」
「大人しく従ってください」
後ろでわめく境の言葉を一蹴して、弥幸は紐を引き続ける。彼のこの行動は、今に始まった事ではないが、仕事に支障が出るから困りものだ。
とりあえず、ここから出ないと。細い隙間を歩く弥幸は、ふと横目で何かが眩しく光っている事に気付く。部屋の明りにしてはやけに眩しい。不審だと足を止めるが、そうするとすぐに境が、儂の楽しみを奪う気か。生い先短い年寄りに何たる仕打ちかと喚き立ててしまう為、また歩き始める。光も気にはなるが、後ろの男をどうにかする方が先決だと思う。
「……くッ。儂は、儂は、諦めんぞ〜ッ!!」
「……はいはい。分かりましたから、とっとと帰りますよ」
見苦しく喚く境に、弥幸は重く溜め息をついた。
眩しい。
暁斗は、固くつむった瞼の裏まで届く白い光に眼を刺され、眠りの縁から追いやられた。
はっきり覚醒する意識。なのに、身体は動かない。とても重く、指すらまともに動かせない。胸が押しつぶされるように息苦しく、何とか口を開けて空気を求めた。生温い、湿った感じのするそれが、肺に入り、顔を顰める。
ここは、どこだ?
あらん限りの力を使い、暁斗は自分の意志とは裏腹に開かない瞼をあけようと懸命に努力する。
周りから聞こえる、日本語とも英語とも、アラビア語ともつかない話し声が、さらに不安を煽った。
爪が冷たい床を引っ掻き、耳障りな音を立てる。ようやく瞼が少しずつ開き始めた。眼球を動かし、必死に周りの様子を確認する。
身体の上で惨然と輝く白熱の光。それは丸く円を描くように幾重にも並んでいる。寝かされているのは寝台のような。そして、周りを眺め、ある事に気付く。
まるで、ここは、手術室のような、気が。
まさか。
掠めた考えを裏付けるかのように、真っ白く細長い指が暁斗の頬に触れる。
それらは、一斉にこちらを覗き込んできた。
異様に大きくぎょろりとした眼。細く、人間ではあり得ない骨格。小さい穴のような口を開けば、飛び出てくるのは到底理解出来ない言語。
そいつらは暁斗を囲み、顔を突き合わせて何やら話し合っている。しばらく続いたそれがぴたりと止むと、そのうちの一人が動けない身体に手を伸ばした。
止めろ。何をする。暁斗はひどく喚き、抵抗を試みたい衝動にかられる。なのに、身体は言う事を聞いてくれない。
止めろ。
指先が触れてくる。
止めろって。
「−−ぎゃあああああ!!」
黒板に文法を書いていた雛川が、あまりにも突然の悲鳴に驚きチョークを折ってしまう。チョークを落ちてころころ転がった。
クラス中の人間が皆同じ方向を見る。集中する視線の先には、椅子を蹴り倒し、肩で荒く息をつきながら涙目の暁斗が震えていた。額には脂汗も流れ、顔色も平素の彼に比べたら驚く程悪い。
両手に頭を当て、叫ぶ彼の表情は恐怖に満ちている。だが、どうリアクションを返せば良いか、みんな戸惑った。
不幸にも、彼のツッコミ役に適している人物は、サボり中で、残っているクラスメートでは対応に困ってしまう状況。
静かに、時だけが進んでいく。
雛川は、折れたチョークを屈んで取り、そして立ち上がると、笑顔を何とか繕った。
戸惑いながらも沈黙を破る。
「……葉佩君。今は授業中だから、眠っちゃダメよ?」
だが、暁斗は固まったまま動かず、また静かに時計の針が動いた。
授業が終わり、机に突っ伏した暁斗の顔は重く、眼はまるで死んだ魚のように虚ろっている。先程大声で叫んだせいもあって、ほとんど誰も近寄ろうとしない。八千穂や皆守もまだ教室に来ないので、半ば放置されている状況だ。
「よォ。そんな重苦しい顔してどうしたんだ?」
その代わり、珍しく教室で授業を受けていた夕薙が、話し掛けてくる。面白そうな話のネタを見つけた彼の表情は緩く笑んでいる。
ぎぎぎ、と暁斗はぎこちない動きで頭を夕薙の方へと向け、恨めしく睨んだ。
「……人事のように、喜んでくれるな。こっちは、……し、死ぬかと、思ったんだぞ」
「はははッ。悪い悪い」
そんな風に絶対思ってないだろ。説得感を微塵も見せない夕薙に、暁斗はふて腐れる。わざとらしく、身を大袈裟に震わせ両手で肩を抱く。
「あああ。今思い出しても、身の毛がよだつ……」
「重症だな。一体どんな夢を見たんだ?」
無頓着に夕薙は聞いてきた。今この様子を見ても尚、聞くのか。
「嫌だ」
ふるふる子犬のように首を振ったが、目の前の大男は引き下がらない。興味津々に眼を光らせてさらに尋ねてくる。
「教えてくれるぐらい、良いだろう」
「……笑いそうだから嫌だ」
「何、笑わないさ」
暁斗は考え込む。確かに夕薙は自分より二年多めに高校生をやっている分、人生経験も多いだろうし、ちゃんと聞いてくれるかもしれない。何より暁斗自身も、さっさと吐き出して楽になりたかった。いつまでも胸の中に入れておくと、気持ち悪くてしょうがない。
暁斗は頭を起こし、机の上で手を組んだ。そして、ゆっくりと夢の内容を語り始める。
「どこか、とても冷たい所に寝かされていたんだ。腕や足は拘束されていて、身動き一つ取れない」
「それは、物騒な夢だな」
「だろ? でさァ、瞼もあけられないけど、それ以上に何かすっごく眩しかったんだよ。オレは、必死に眼を開けて、そして、見たんだ」
ごくりと暁斗はつばを飲む。
「オレの、周りを取り囲む、大勢の宇宙人を!!」
ぎゃあああとその光景を思い出して、暁斗は怖がり両手で顔を隠す。それに対し、夕薙はリアクションもなく、妙に醒めた眼で暁斗を見ていた。
「……もしかして、お前は宇宙人とか信じているクチか?」
「まさか」
暁斗は即座に否定する。腕組をして椅子の背に体重をかけた。
「実際、見た事ないし」
「じゃあ、何で夢に見るんだ?」
もっともな夕薙の質問に、暁斗はげんなりとうなだれる。
「昨日さ、プレイルームって言われてる、あの大広間で、無理矢理田辺と相田に引っ張られて一緒に見ちゃったんだよ。トワイライトファイルって特番」
トワイライトファイルとはUFOや非科学的な出来事を検証していく内容で、学園内で妙に人気のある番組だ。もともと見るつもりがなかった暁斗が、見る羽目になってしまったのは、たまたま遺跡探索を休み、皆守の所へ行こうとしたが、たまたま彼がおらず、仕方なく戻る途中、ばったり偶然に会ってしまったクラスメートの手によって引きずられ、テレビの前に座らせられたからだ。
妙にリアルに作られた宇宙人はとても恐ろしく、夢にまで出てくる程で、見なければ良かったと、暁斗は後悔しっぱなしだ。
「オレが、宇宙人を怖がるのは、あの作り物がリアルだからで、本当にいるとは思ってないよ」
暁斗を引っ張りこんだ張本人の田辺と相田は、まだ熱く宇宙人論議を繰り広げている。金髪とか、勾配実験とか、ほとんどあり得ない事を夢見ている彼らに、暁斗は呆れて眺めた。よくも、まぁ、飽きないもんだ。
「そうか。それを聞いて安心したよ」
夕薙は何処か嬉しそうに喋る。
「この世には、呪いや迷信の類いなどある筈がない。この学園にはそう言う話が多いからか、間違って信じているやつも沢山いるからな」
「そういう、話?」
暁斗が訝しむ。何だ知らないのか、と夕薙が最近聞いたうわさ話を教えてくれた。
天香学園に伝わる怪談の一つで、『二つ目の光る目』と呼ばれるそれは、真夜中寝ていると突如窓の外が眩く光り、見れば外から部屋の中を覗く巨大な二つの眼。それと眼が合えば最期、その人物は身体を焼かれ、魂だけの存在になると言われている。壁に、その身体の影だけを残して。
「……」
「……実際、そうやって消える奴が何人もいるらしい。失踪の理由として作ったうわさ話と言うだけなら、どうってことはないが。多くの人間はそう思っていないらしいな」
「……《力》」
取手や椎名が持っている《力》に類するそれなら、可能ではないだろうか。二度《執行委員》と対峙して、思い知らされている身の暁斗としては、夕薙の話を簡単に頷く訳にはいかなかった。もしかして、影だけを残して消えた人は、《生徒会》に、逆らって。
「……葉佩?」
「あ? あ、ああ。……ごめん。考え事してた」
「急にぼおっとして。どうしたんだ? 何か思い当たる事でもあるのか?」
「い、や。なんでもない」
暁斗は曖昧に愛想良く笑った。夕薙は何ら関係のない生徒だ。下手に喋り巻き込んでしまうのは本意ではない。
「……んッ?」
突然暁斗の背中から、アヴェ・マリアが流れ出した。HANTがメールを着信したのだ。
ちょっとごめんと暁斗は軽く断りを入れて、学ランを捲ると、背中からHANTを取り出し起動する。メールを開いて、その差出人の名前に眉を上げる。
「……うわ、皆守からだ!!」
今までこちらから何度送っても、返信してこない皆守から初めてのメール。嬉しくなって、暁斗は心が踊る。
「甲太郎からか」
「見るなよ。オレのメールなんだからな」
覗き込む夕薙の手を躱し、嬉々として暁斗はさっそくメールを読む。
「……」
固まった。授業中に起きた事件の再来に、周りの同級生が何事かと振り向く。
そっと、夕薙は暁斗の手からHANTを取り、文面を眼で追い、吹き出した。
「はははッ。いかにも甲太郎らしい。《転校生》相手に堂々とカレーパンを持ってこい。だなんてな」
内容はカレーパンが食いたい。誰か俺の望みを叶えてくれる神様はいないものかと言うものだったが、やや表現を遠回しにしたパシリメールだと言う事は、誰の眼から見ても明らかだった。どんな内容かと思いきや、楽しみにしていた暁斗は、先程の宇宙人の比ではない程落ち込む。
「オレ、オレよりも。カレー、パン、かよ……」
「落ち込むな、葉佩。あいつがこんな風にメールを送ってくるのは初めて見るぞ。ちゃんと友達と思われている証拠だと思えば良いじゃないか」
「……」
友達。そう夕薙に宥めれられるように言われ、暁斗は何とか気を持ち直す。うん、そうだよな。最初に比べたら、ちゃんと仲良しになっているよな。
「……そうだな。じゃあオレ、皆守の為にカレーパンを運んでくるよ!」
かけがえのない、友情の為に!! 意気込み、暁斗は夕薙からHANTを取りかえし、教室を駆け足で出ていく。呆気に取られて見送る同級生たち。
夕薙は薄く苦笑いを浮かべ、ふと表情を暗くした。
「−−お前は、何もかも信用しすぎだよ。葉佩」
その呟きは、次第に戻ってきた昼休みの喧噪にかき消された。
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