暁斗が吹き飛ばされ、身体が天井高く浮く。ぱたぱたと取手の数メートル前で、赤いものが落ちて来た。
鈍い音。
暁斗が床に叩き付けられる。取手は肝が冷える思いで、怪我の痛みも忘れて駆け寄る。
以前、自分を助ける時も、彼は大怪我をしていたと、八千穂が言っていた。彼女もその時こんな気持ちだったのだろうか。
なんて、身体に悪い。苦しく嫌なものだろう。
「……暁斗君」
うつ伏せのままぴくりとも動かない暁斗をそっと仰向けにする。
酷い怪我だ。思っている以上の状態に、取手は拳を握りしめ、歯がゆくなった。リカに近づく為、爆風に曝された暁斗の服は所々破れ、覗く肌は火傷で赤く腫れている。頭も強く打ち付けて、何度名前を呼んでも反応がなかった。
取手は、暁斗を庇うように化人の前に立ちはだかる。
不思議と恐怖はない。
自分が何とかしなければ、暁斗が死んでしまう。
死なせてたまるか。その想いが、取手の心を奮い立たせていた。
化人の、大きな壷に張り付けられた男の顔が、こちらを見て取手を嘲るように、にやりと笑う。薄茶けた歯を見せた。乗せられていた蓋が小刻みに揺れ、ゆっくりと上にあがる。中から、白い着物の男が現れた。数珠を持った手が合わさる。同時に、壷の口が大きく開いた。
空気が、振動する。
「……なッ」
全身が総毛立った。咄嗟に取手は腕を目の前で組み、盾を作る。
壷の口が、鼓膜を突き破らんような超音波を吐き出した。びりびりと、それは取手を襲い強烈な痛みをもたらす。
それでも必死で耐え、止んだ所で即座に取手は暁斗から離れるように走り出した。
『すごい、一生懸命だったんだよ』
自分を救ってくれた日から少しして、こっそり八千穂が教えてくれた言葉を思い出す。暁斗は怪我を負いながらも、必死で化人になってしまった自分に立ち向かってくれたのだと。
取手の意識はその時、黒い砂に囲まれてとてもあやふやだった。微かな記憶すらも虚ろで思い出せない。
でも、今なら分かる気がする。
きっと、さっきみたいにボロボロになりながらも、手を差し伸べていてくれたのだ。
自分が傷付くのも構わずに、今もリカに向かって手を伸ばしている。
だったら、自分はその手が届くように、助けて、護ってやりたい。
その為の《力》を、持っているのだから。
取手は掌が熱くなっていくのを感じた。どくんどくんと脈打つように、だんだん強さを増していく。
大きいが動きの鈍い化人の後ろに回りこんだ。そして、掌を前に突き出す。
「……僕のこの《力》、見せてあげるよ」
言葉に呼応して、取手の掌からホルスの眼が浮かび上がる。光と一緒に点滅して、その眼は瞬く間に化人の精気を吸い始めた。
びしり、と乾いた音がして、脆くなった部分にひびが入る。
右手はそのまま化人に向けて、左手は暁斗に向ける。先程よりも大きさの小さくなったホルスの眼が、暁斗の上にも現れた。今化人から吸い続けている精気を、癒しの光に変えて彼の上に降らせる。
身体の中を通る氣の奔流は余りにも強く、眼の前に光がちらつき、脳がかき混ぜられるような気持ち悪さが襲っても、取手は早く暁斗を助けたい一心で《力》を使い続けた。
「………」
ひびが広がる壷が、ゆっくり方向を変えて取手を、壷と男の4つの眼で睨み付ける。男が静かに手を合わせた。壷の口が大きく開く。空気が振動を始めた。
きっとまたあの超音波が来るんだろう。取手はそれでも逃げなかった。怪我を覚悟で留まり、《力》を使う手を緩めない。
壷の口の奥で、細かな音がした。
逃げない。歯を食いしばり、足に力を込めた。
今度こそ、大切なものを護ると、決めたから。
瞼をぎゅうと強くつむる。
「取手ッ!!」
銃弾が横から壷を貫いた。取手の《力》によって脆くなった表面は、容易く穴が開く。
取手は声がした方を振り向いた。暁斗が銃を手に立ち上がっている。額に流れている血は痛々しかったが、彼はちゃんと眼を開けていた。
「暁斗君ッ!!」
「こっちにッ」
力強い言葉に、取手は何度も頷き、化人が苦しんでいるうちに走って暁斗の元へと向かった。
嬉しい。彼がちゃんと生きている。
「ごめん。手間をかけさせた」
「いいよ、そんなの。それよりも、あれを倒して。早く椎名さんを」
暁斗は頷き、取手の前に立つ。腿と腰のホルスターから二つの拳銃を抜いた。
背中はまかせて。《力》を使いすぎて、疲れが滲む取手の、それでも頼りになる言葉を背に、化人の前に立った。
化人の壷には、取手の《力》と一発の銃弾によって、全身にひびが回っていた。白装束の男が頼り無く姿を揺らめかせる。
静かに、銃を構えた。
「……椎名」
大切な人が亡くなる痛み。それから彼女は逃げた。でも、それは暁斗も良く分かる気持ち。自分だって、目の前で大切な人が死んでしまったら、同じ事をしただろう。
逃げたいと。忘れてしまいたいとすら願うかも。
だが、それは想い出の中に生きるその人を、もう一度死なせてしまう。だから、逃げたら駄目なんだ。
引き金にかけた指が揺れた。
彼女が次に目覚めた時は、泣いてしまうのかもしれない。夢から覚めて、何一つ大切なものは帰ってこない現実に、うちひしがれるかも。
でも、そんな目にはあわせない。
ずっとは無理でも、せめて、心の傷が癒えるまでは。
「オレが、そばに、いるから……」
だから、
「戻ってこい、−−椎名ァッ!!」
銃声が飛んだ。弾は壷の眉間に命中し、乾いた音を立てて、割れた。白装束の男も蜃気楼のように静かに消えていった。
破片の一つ一つが、黒い砂になって落ちていく。一際大きな固まりから、リカが出てきて、ゆっくりと暁斗の腕の中に降りていく。
彼女は怪我一つなく、憑き物が落ちたような安らかな顔で眠っていた。暁斗と取手は顔を見合わせて笑いあった。
優しい音が、した。二人は口を閉じ、リカの胸の上を見る。
そこにはオルゴールがあった。綺麗な装飾が施された、小さな箱。蓋が開いて、音楽がつま弾かれる。
まるで夜、寝台に潜り込んだ子供に母親が聞かせる、子守唄のように。
夢を見た。
母親の棺の前で、リカの前に膝をつき、父親がすまなそうに謝る。
「ベロックも、他のものも別物なんだ。お前を哀しませたくなかったから」
「別物? じゃあ、本当のベロックは?」
父親は静かに目を閉じて、首を横に振る。
「死んでしまったんだ。もう、会う事は出来ないんだよ」
「……じゃあ、お母様も?」
「ああ」
「……そんな」
じゃあ、もう母親には会えないのか。すぐそこに居るのに。じわりと、眼の裏が熱くなって、涙が浮かんでくる。
泣く娘に、父親は静かに問いかける。
「リカ、お前は他の人がお母様の代わりになれると思うかい?」
「いやッ! お母様はお母様よ。他の誰にもなれないわ」
「……そうだね」
父親はリカの言葉に微かに笑い、立ち上がる。戸棚を開くと、そこから小振りな箱を取り出した。底面の螺子を巻いて、蓋を開ける。
音楽が流れ始めた。いつか、両親の間に座り、何度も飽きずに聞いていた。今は懐かしくても、すぐに分かる優しい旋律。
「お母様はもう、帰ってこない。……眼を、閉じてごらん」
「……うん」
「思い出せるかい? お母様の姿を」
「……うん。この音楽を聞きながら、お母様はリカの頭を撫でてくれたわ」
その時の優しい眼差しを。頭を撫でてくれた暖かい感触を。
『−−梨花』
優しく名前を呼んでくれたあの声も。このオルゴールから聞こえる音楽の中で、すぐに思い出せる。
「梨花。こうして、お母様は、私や梨花の心の中で生きている。お前が覚えている限り、ずっと」
「……うん」
想い出は優しすぎて、……辛くて、一度は忘れようとしたけど、もう手放さない。
このオルゴールが、大切な事を思い出させてくれたから。
静かに眼を開けたリカの前には、オルゴールと優しく自分を見つめてくれる暁斗の姿があった。
取手と別れて、暁斗は自室からつり下げたままのロープを手に壁をよじ登る。深夜も遅く、殆どの生徒は寝たようで、外から見える明りは少ない。
あれ、おっかしいな。暁斗は登りながら、首を傾げた。何故か、自室からは明りが見える。確かに消して、確認もしたんだけど。
登りきり、窓を開け桟に足を乗せて部屋に入り、暁斗は無事に生還を果たす。そして、目の前のを見つけて絶句した。
「よォ、遅かったな」
「……みっ、皆守ッ!!」
ベットに腰をかけ、我が物顔でアロマを吸っていた皆守は、ボロボロになっている暁斗を睨み付け、立ち上がると大股で歩き近寄った。何も言わず、手を伸ばし暁斗の両頬を摘むと遠慮なく横に引っ張る。
「あだっだだだだっ!」
痛みに暁斗はわめき、手を払おうとしても、皆守は器用に避けて、さらに引っ張る。
「……今日お前は俺の言った事聞いてなかったのかよ」
「いひゃいいひゃいいひゃい」
「お前が勝手にいなくなるから、いらん心配をした俺の時間を返せ。この大バカが」
「……みにゃかみ……」
暁斗が皆守を見上げた。柄にもなく、焦りと不安が混じった表情に抵抗して振り回していた手を止める。
「……ちッ。何言ってんだかな、俺も」
ぶっきらぼうに頬を解放されても、暁斗は痛む場所を擦らず、皆守を見た。ここで、彼は自分を待ちながら、何を思っていてくれたのだろうか。少なくとも、ここがラベンダーの香りで一杯になるぐらいは、心配させたのかもしれない。
そうさせたくなくて、一人で行くと決意したのに。これでは、何も変わっていない。
「……ごめん」
眼を伏せて、小さく謝ると、頭を軽く叩かれた。
「……そう思っているんなら、これからは勝手に行くな」
「……え?」
それは、どう言う意味だ?
頭を上げると、皆守は頭を掻きながらそっぽを向いて言った。
「これからは、俺も付いて行ってやるよ。お前みたいなのは、眼を離すと何をやらかすか分からないからな」
暁斗は驚いた。まさか、いつも眠たいだるいとしか言わなさそうな男の口からそんな言葉が出るなんて。
「……遺跡に行くなって言ったくせに」
「知らない所で死なれても後味が悪い。……それだけだからなッ」
そう言い捨てると、皆守はあっさりと部屋を出て行く。残ったのは、さっきまで彼が吸っていたラベンダーの、残り香。
呆然と立ち尽くす暁斗の手から、持っていたゴーグルが滑り落ちて、床に転がった。
『死なれても後味が悪い』
それって、少しはオレの事を思ってくれてる、んだよな。じゃなきゃ、深夜まで待っててくれないし、怒ったりもしない。
そう考えると、何だか胸がドキドキした。
どうしてだろう。なんか、凄く嬉しくなる。
「……素直じゃないな……」
小さく呟き、武器を片付け始めた暁斗の頬は、皆守に引っ張られた時以上に赤く染まっていた。
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