少女が棺の側に寄り添っている。栗色の髪を波のように揺らし、つぶらな瞳がそこに横たわる母親に、小さくかわいらしい唇を開き語りかける。
「聞いて、お母様。ベロックったら−−−」
 少女は話す。『新しい』ベロックは、とても自分の言う事を聞くいい子で最近は自分の投げたボールを取ってくれるようになってくれた。褒めると尻尾を千切れんばかりに振って、嬉しそうに吠える。友達にそれを話すと、うらやましいと言われ、とても鼻が高かった。
「だって、お父様が連れてきたベロックだもの。でしょう、お母様」
 少女は同意を求めるが、母親は答えない。棺の中に敷き詰められた白い花に埋もれ、固く瞼を閉ざしている。いつもだったら、優しく微笑みを浮かべ、柔らかく暖かい手で自分の頭を撫でてくれるのに。
 いつまで、そんな狭い所で寝ているのかしら。少女は不思議でたまらなかった。
「…お母様?」
 小さく母親を呼び、細い手を伸ばす。以前同じように顔をよせた時に感じた温もりはなく、冷えきっていた。
「−リカ? 何をやってるんだい?」
 部屋の扉が開き、疲弊してやつれ気味の父親が入るなり棺の中に手を入れている少女に気付き、慌てて近づく。腕を回し、小さな身体を抱えると母親から離す。
 少女は訳も分からず眼を丸くした。すぐに再び足に地がついて、父親に向かい合うとその顔を覗き込む。眼の下の隈が、やけに眼についた。
「どうしたの、お父様」
「どうしたのじゃない。駄目じゃないか、お母様にそんな事をしては」
「だってお父様、お母様が起きないもの。せっかくリカがお話をしようとしているのに。ずうっと眼を閉じたまま。どうして眠っているのかしら」
「………リカ」
 父親は少女の肩に手を置いた。そして、赤子をあやすようにゆっくり身体を揺らす。
「…お母様は、もう、起きないんだよ」
「………え?」
 少女は父親の言う事が理解出来ない。
「眠っているのではないよ。…死んでしまったんだ」
「死んで、しまった…?」
「−−−ああ」
 父親は哀しみを堪え、顔を伏せる。手が震えていた。油断をしたら、すぐそこにある現実に飲み込まれてしまいそうだ。
 愛しい妻は、自分と娘を残し逝ってしまった。でも、それを受け入れないといけない。娘の為にも。
「−−−だから、もう、眼は−」
「ふふっ、大丈夫よ。お父様」
 少女は口をたわめ、可憐に笑う。何故笑うのか。父親は虚ろな眼を不思議そうに少女に向けた。
 少女は自分の答えに自信を持って言う。
「−だって、お父様がちゃんと連れてきてくれるもの。『新しいお母様』を」
 父親は昔から何でも願いごとを叶えてくれた。飼っていた犬のベロックが言う事を聞かなくて、石をぶつけ動かなくなった時、新しいベロックを自分の前に連れてきてくれた。
 可愛らしい服。友達。最高の環境。全部父親が自分の為に用意してくれた。望んできたものを全部、全部。
 だから、今度も叶えてくれる。
 お父様が、お母様を連れてきてくれる。
「−−−−−−−」
 父親の顔が失意に歪み、眼を見開き少女の顔を見た。
「…お父様?」
「………」
 少女に背を向け、父親は立ち上がる。足元から黒い砂のようなものが出て、その姿を覆い隠していく。
「−お父様ッ!?」
 少女は大声で父親を呼んだ。しかし、父親は振り向かず黒い砂の中へと進んでいく。棺ももうすでに、消えていた。
 少女はおびえる。暗く寂しい所にひとりぼっち。

 独りに、しないで。

「−いやぁああああッ!!」

 

 

 

「−へーっくしッ!!!」
 本の背表紙を指で横切らせながらなぞっていた暁斗は、ずっと堪えていた鼻のむず痒さに耐えきれず、大きなくしゃみを出した。静かな図書室に間抜けな語尾が後を引いて響く。結果、一斉に他の生徒から、睨みも混じった視線を集めた。
「あ、あはははは…」
 口の端を引きつらせ笑うと、暁斗は指差していた本を勢いよく抜き取り、奥へと逃げた。 三方が棚に囲まれている、ちょっとしたスペースに潜り込み腰を下ろす。
 本当は書庫室の方がもっと静かで、作業するには打ってつけだと八千穂が言っていたが、鍵がかかっていて入れなかった。鍵の主で図書委員でもある七瀬月魅は、本の隙間に鍵を隠してしまい、さすがの暁斗も探すのを早々に諦めた。大量の本の中を探すより、こうして人の来ない奥で作業をしている方がまだマシだ。
 そして、それ以上に下手に説明して、《宝探し屋》だと知られるのはもっとヤバい。
 八千穂に始まり、皆守、取手。もう三人も自分が《宝探し屋》だと知られている。暁斗は慎重に動くしかなかった。
 ガクランの背の裏に自分で縫い付けたポケットからHANTを取り出すと起動させて、暁斗は本棚に凭れ掛かる。そして、持ってきた本の表紙を見て、がっくり肩を落とした。
「…ちがうじゃーん」
 間違えて持ってきた万葉集を横に置く。本当は古事記が欲しかったんだけど。
 まだ鼻のむず痒さが取れず、くしゃみをして睨まれる可能性があるので暁斗はそのまま作業を続ける。鼻水を啜りながらHANTのデータベースを呼び出し、音が漏れないようボリュ−ムを落とす。画面一杯に緑一色の文字が広がった。暁斗が打ち込んだ遺跡に関するものばかりの文章。取手の事件があってから、暁斗はほぼ毎日遺跡に潜り、丹念に内部を調べては、HANTに情報を詰め込んでいる。成果はまだ、現れない。
「………」
 腕組みをして唸る。
 もしかしたらこの仕事は厄介なものかもしれない。《宝探し屋》としての勘が暁斗をしきりに訴えてくる。
 学園の中に眠る遺跡。呪われた力を持つ《生徒会執行委員》。人の心に巣食う、黒い砂。それに覆われた人間は、巨大なる化人に姿を変え、襲いかかってきた。
 ヘラクレイオンでも思ったが、世界はあり得ざる事が影に潜んでいる。そして、ここはそれが当たり前のように息づいているように思えた。
 暁斗は、最初に立ち塞がった取手を破り、救いだせた。だが、その時点で自分は遺跡の一部分を見ただけに過ぎない。現に穴から降り立った場所にある大広間には、開かない扉が幾つもあった。
 取手のように、あそこで何かを失った人がいるのだろうか。
 暁斗の手が、自然に胸元まで上がる。鎖骨の間、シャツで隠れている固い感触を確かめるように触れた。

 −失うのは、哀しいよな。

「−葉佩さん」
「うわぁあああッ!?」
 いきなり横から声をかけられ、暁斗は思わず声を上げた。さっきのくしゃみとは比べ物にならない程、室内に大きく響く。
 やばい。暁斗は口を押さえたが、もう遅く、呼び掛けてきた少女−七瀬月魅の表情が怖くなっていく。
「…葉佩さん。ここは図書室です。さっきのくしゃみと言い、今と言い、もう少し場所を考えてですね…」
「ああああ、ごめんなさい、ごめんなさい。すいません」
 反論もせず床に額を擦り付ける勢いで平謝りをする暁斗に、七瀬は怒りも削げたらしく、いつもの表情に戻ると今度からは注意してくださいねとやんわり注意した。
「それから、もうそろそろここを閉めないといけません」
「え? もうそんな時間?」
 HANTの内臓時計はもうすぐ昼休みが終わる時間を表示している。慌ててデータベースを閉じると、暁斗はHANTを終了させ仕舞うと、立ち上がる。服についた埃を払った。
「悪い。いま出るわ。それからこれ、しまっといてもらえる?」
 暁斗は間違えて持ってきた万葉集を、照れながら七瀬に渡す。受け取りながら、分かりましたと七瀬は快諾した。
「また、時間の開いた時にでも来てください」
「分かった。それじゃ、またな」
「はい」
 見送られて、暁斗は図書室を後にする。姿が扉に隔たれ見えなくなる直前、何故か七瀬は頬を赤らめて、言った。
「…探索、頑張ってくださいね」
 後で八千穂を問いつめよう。
 暁斗は強く拳を固めた。

 

 

 保健室から、今まで病人でもないのにベットを占領していたサボりの常連が出ていく。扉が仕舞った瞬間を見計らったように、奥のカーテンが開いた。
「ようやく行ったか。全く仕方のない」
 煙管を手に、瑞麗は苦笑いをする。他にもう、ベットを使っている病人はいない。確認して瑞麗は後ろを向いた。
「それに、貴方もそこまでして隠れる必要はなかっただろうに」
 まるでキャンディの包み紙のようにカーテンが丸く何かを包んでいる。瑞麗の呼び掛けにしばらくの沈黙の後、それはゆるりと解かれた。
 出てきた人物を見て、瑞麗は肩を竦める。
「カーテンの中はどうだったか?」
「息苦しいですよ。空気の通りが悪いんですから当たり前です」
 憮然とした声。そして、それは呼吸音に変わっていく。微かに残るラベンダーの香りを吸い込み、途端に彼は顔を顰めた。
「やっぱり僕は、この香りが好きになれそうもない」
「嫌われたものだな、彼も。貴方にそこまで言わされるとは」
「僕にだって、苦手な人物はいます」
「会ってみたら印象が変わるかもしれないぞ?」
「………。それよりも」
「分かっている」
 瑞麗は白色のクリアファイルを差し出した。複雑な表情で彼はさっそく受け取り、挟まれていた紙を取り出す。そこには、本来外に出る事のない機密が、事細やかに書かれていた。内容に目を通し、満足のいくものだと彼は深く頷く。
「確かに。ありがとうございます。一個人の僕にここまでしてくれる人はそうそういない」
「…謙遜だな。呼べばいいだろう。そうすれば幾らでも人が駆け付けるさ」
「…そうだとしても、まぁ、しばらくは僕の自由にさせてもらいますから」
 彼は書類をクリアファイルに戻す。
 ファイルの合間に、クリップで挟まれていた写真がある。
 そこには、暁斗が姿勢を正した格好で写っていた。

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