頬を撫でる風に、テラスに出ていたカイルは顔を上げた。
フェリムアル城にある一際目立つ高い塔。そこのテラスから見える景色は、とても幻想的だった。鏡のみたいな湖面は星空を映し、まるで城全体を包み込んでいるような錯覚に陥る。手を伸ばしたら、星に届きそうな気さえ、した。
ぼんやり欄干に肘を突き、カイルは遠くを眺める。脳裏にはサギリの声が繰り返し木霊していた。
「シグレを知ってくれ、か」
それが出来れば苦労しない。初めて会った時の衝撃が強すぎて、そこからなかなか考えが離れてくれないのだ。
だが、疑問はいくつもある。
何故、太陽宮に出入りしているのか。どのようにして、フェリドと知り合ったのか。それに探偵の調査員にしては、やけに戦い慣れている。荒事を片付ける時もあるとは言え、太陽宮で見せたシグレの腕は、カイルの目からも素人離れしていた。どこで、どんな風に手解きを受けているんだろう。
答えの出ない考えに、カイルは欄干に身を凭れ、溜め息を吐いた。
「――カイル様?」
階段からリオンがカイルを見つけてやってくる。見回りの途中らしく、いつでも刀を出せるよう、油断なく長巻を持っていた。
カイルは身を起し、リオンを振り向いた。
「カイル様も見回りですか?」
「あー……、うん。そんなところ」
考えに夢中で気が漫ろになり、あまりやれていないが、カイルは曖昧に笑って頷いた。
「でも星がきれいだから。ついつい魅入っちゃって」
「……分かります」とリオンはカイルの隣に立ち、揃って星空を見上げる。
「ソルファレナではここまで見えませんから」
太陽の紋章が石像に安置されている時、眩い一線の光が常に空に向かって伸びていた。そのせいで夜は星を輝かせるにはほんの少し明るく、見える数も少ない。
アルシュタートが紋章を宿してからは、空を見上げる余裕もなくなっていた。
リオンの言葉にカイルは頷く。
「王子にも見せてあげたいなー。疲れも取れそうだし」
「いつも忙しそうにされて、休んでおられないみたいですから……」
リオンは胸を押え俯き、表情を沈ませる。
ティーはレルカー、セーブルで起こった出来事に心身共に負担をかけながら、それでも休まない。中には、彼の体調を気にかける者まで続出する始末だ。ルクレティアが遠回しに休むよう言っているが、効果は見られない。
いっそのこと、寝台に縛り付けてしまおうか。
不穏な考えがカイルの頭を過った。だが、こうでもしなければティーは休まないだろう。
カイルはリオンに聞いてみようと視線を下ろし、彼女と目があった。「あっ」とリオンはすぐ目を反らすが、何か言いたげにカイルを気にしている。
「……リオンちゃん。どうかした?」
声を潜めるカイルに「あの……」とリオンが控えめに口を開いた。
「シグレさんの、ことなんですが」
「シグレ?」
思い掛けない名前に、カイルは思わず過敏な反応を示した。今まさにシグレのことで頭を抱えていたカイルは、リオンの肩を掴んで詰め寄る。
「あいつのこと、何か知ってるの!?」
「え、ええと」
問いかけるカイルの真剣な眼差しに、リオンはたじろぎながら言う。
「初めて会った時から思ってたんですが……。わたし、あの人が誰かに似ていると思うんです」
「誰かって……」
「分かりません。だけど、そう、思うんです……」
「それに」とリオンは記憶の糸を辿りながら呟いた。
「昔何処かであっているような」
「何処かで、会った……?」
何処で。
さらにカイルは訊ねかけ、南の空の赤さに目を奪われる。
「………?」
カイルは手を離し、欄干から身を乗り出すようにして目を凝らした。フェリムアル城の南、セラス湖から流れる河の途中で、何かが赤い光に揺らめいている。それはだんだんと、村一つ包み込めそうなぐらいの大きさになった。
「何だあれ……、火事……?」
「あっ!」とリオンが青くなり大声を上げた。
「あそこっ……、ビーバーロッジですよ!」
「――何だって!?」
炎に包まれたビーバーロッジは陰惨たる有り様だった。木の建物はあっという間に燃え広がり、黒い煙が空へと昇る。
突然の出火に、ビーバーたちは慌てふためき、訳も分からぬまま、でたらめに逃げていた。中には炎の熱さに耐え切れず、水の飛び込む者もいた。
「ひどい……!」
駆けつけたティーたちは、あまりの惨状に言葉を失う。風も強く、このままではあっという間に全て燃え尽くされてしまうだろう。
故郷の危機に、ティーと一緒にやってきたムルーンももまた、呆然と立ち竦んでいる。「そんな……」と呟き、目の前の現実を受け入れられないでいた。
生まれ育った土地だ。いきなり燃えていると聞かされて、動揺しない方がおかしい、とカイルは思いながら、右手の甲を見つめた。水の紋章が宿されているが、ここまで規模の大きい火事となると、ひとりで消すのは難しい。使ったところで直ぐに使い果たしてしまうだろう。
「王子、あれを!」
リオンが指差す先に、マルーンが所々の毛を焦がしながら走ってきた。「兄さん!」と叫ぶムルーンに気付き、こちらへと走ってくる。
「ムルーン! 王子様!!」
「マルーン……!」
兄の元へ駆け寄るムルーンを追い掛け、ティーも前へ走る。その時、炎の中からゆらりと人形の影が揺らめいた。何、と思う間もなく、炎を刃に照り返させながら、仮面を被った人間が飛び出てくる。太陽宮を襲った、幽世の門の暗殺者だった。
暗殺者は迷うことなく、ティーを狙っている。
「王子!」とリオンが叫び、カイルが剣を手に掛け、走り出す。突然向けられた殺意に、ティーは呆然と暗殺者を見上げた。横から「王子様!」とムルーンの声が、何処か遠く聞こえる。
「――がっ!?」
暗殺者の胸に、深々と苦無が刺さった。心臓を貫き、血泡を吐くとそのまま背中から水に落ち、ぷかりと浮き上がる。
足を止め、苦無の飛んできた方向を見たカイルは、立っていたシグレに驚いた。
「……シグレ!?」
ビーバーロッジの異変に気付いた後、カイルは出来るだけの仲間を起しに奔走したが、シグレは城にはいなかった。ラフトフリートで気付いたとしても、ここまで早く来れるとは考え難い。
「なんで……?」
「……ちっ、まさかこうくるなんてな」
ひとり納得したようにシグレは呟く。何が、と聞く前にシグレはティーの元へ行き、カイルも慌てて向かった。
「ティエン、大丈夫か?」
「怪我してませんか、ティー様?」
カイルとシグレ。同時に訊ねられ、ティーは交互に二人を見て頷く。
「大丈夫。どこも、怪我してないよ」
「でも、どうして幽世の門の暗殺者が……」
浮かんだまま動かない暗殺者を見て、リオンが不安を漏らした。幽世の門は今ゴドウィンの配下にある。ビーバーロッジの火事がその手の者なら、指示したのもまたゴドウィンになる。
「ビーバーロッジを攻めて、どうするつもりなんだ……?」
あまり利があるとは思えない、とカイルは考える。確かに木造建築に関しては、ビーバー族の技術は素晴らしい。だが、ヘイドリッド城塞を造らされたことにより、争いに関わるのは嫌だと、ビーバーたちは自分たちの集落に閉じ篭っている。無抵抗な相手に一部隊出し、余計な兵力を使ってしまうのではなかろうか。フェリムアル城に近いここなら、助けが来て兵が倒されるのは、目に見えているだろうに。
「そんなこと、考えている場合じゃないよっ!」
マルーンが慌てる。
「みんな、慌てすぎてどう逃げていいか分からないみたいだし、それから長老がまだ家の中にいるみたいなんだっ!」
「何だって!? じゃあ、早く助けないと!」
ティーは走り出したマルーンとムルーンの後に続き、炎へ突っ込んでいく。「王子待ってください!」と危険に飛び込むティーを、リオンもまた追い掛けていった。
「……あんたはどうするの?」
カイルはシグレに訊ねる。本音は嫌だが、こんな時にまで意地を張っている場合じゃない。幽世の門の暗殺者も、ひとりだけで終わりであるはずがない。悔しいが、今は少しでも戦力が欲しい。
シグレは自ら殺した暗殺者をじっと見つめている。カイルはシグレから焦燥と危機感が入り混じった、不安定な雰囲気を垣間見た。
「シグレ……?」
「行くに決まってんだろ」
苛立って言い、シグレは走り出す。「これ以上、傷付かせてたまるか」と呟きがカイルの耳に届いた。
一体何を焦っているんだろう。カイルは疑問を抱えながらも、炎の中を走っていく。
燃え盛る家の中に、カイルは飛び込んだ。そこには既に突入していたティーたちが、前方を睨み付けている。
そう広くない部屋の奥に、ビーバー族の長老フワラフワルはいた。だが、その喉元にはナイフが突き付けられている。少しでも動けば、容赦ない刃が命を奪うだろう。
「――ミカフツ……!!」
驚くリオンの言葉に、ドルフが闖入者を横目で見遣る。
「ミスマル。――また会えたね」
「わたしはミスマルじゃありません! リオンと言う列記とした名前があるんです!」
忌み名を呼ばれ、リオンは憤った。
「それじゃ、僕のこともミカフツじゃなくてドルフと呼んでもらおうか」
ドルフが起こるリオンを見て、無表情に呟く。そして、後ろに立っているシグレに目を向ける。その隙を狙い、マルーンとムルーンはフワラフワルの救助を試みたが、すぐ足元にナイフが投げられ阻止される。
「動かないでもらおう」
「……どうして、こんなことをする!? ビーバーたちはゴドウィンに危害を加えていないのに!」
叫ぶティーを、ドルフは理解出来ないような目で見つめた。
「君こそ分からないのか……? ファレナに亜人は必要無いんだ」
はっきりとドルフは言う。その台詞に、誰もが絶句した。
「異なる人種、亜人の民は国を揺るがしかねない。だからいらない方がいい、と言うのがお館様とギゼル様のお考えだ」
「そんな考え、間違っている! オイラたちは」
「君たちだって、同じだ」
ドルフが冷ややかにマルーンを見た。
「君たちもビーバー族だけで暮らし、他の民は受け入れない。そのやり方は僕たちと変わりないよ。異分子は無くすべき。――そうでしょう? 王子殿下」
「……え?」
不意に訊ねられ、ティーは目を丸くした。
「亜人がファレナにいらないように、貴方も……かつてファルズラーム様の命で殺されかけた貴方だって、いらないものなんじゃないですか?」
「なっ……!」
ドルフの言葉に、ティーは動揺を隠せない。耳を塞いで、瞼を強く瞑る。言われたことを首を振って拒絶し、後ずさった。
「そうやって、聞こうとしないのが何よりの証拠。貴方もそうだと理解しているのでは――」
「――テメエッ!!」
シグレの左手から風が巻き起こった。昂る感情に、紋章が勝手に発動して力を解放する。熱風が部屋を包み、ドルフは思わず手で顔を庇う。
マルーンが走り、フワラフワルの手を掴んだ。大急ぎで戻り、ティーたちの後ろへ隠れる。
シグレが刀を抜いた。ティーたちを後ろへ追いやり、ドルフに切り掛かる。
「――シグレッ!」
ティーの叫びと同時に、燃えて重みに耐え切れなくなった梁が、間を阻むように落ちた。巻き起こる風で、一気に火の勢いが強くなる。あっという間に、シグレとドルフの姿は見えなくなった。
「シグレ」とティーは炎を乗り越えようとする。だが「危険です!」と必死にリオンに止められてしまった。
「でも、このままだと……!」
「リオンちゃん。ティー様たちをお願い」
カイルがティーたちを後ろの出口へ追いやった。突然の行動に、ティーは呆然とカイルを見上げる。
カイルは、笑った。
「オレが、アイツを助けに行ってきます。水の紋章を使えば、一時的に炎を弱らせることも出来ますから」
「なら僕も――」
「それは駄目です。だって、貴方は狙われている身なんだ。敵の懐に潜り込むのは感心しません」
「でも……」
深い哀しみがティーの瞳を覆う。「カイルだって危ないじゃない」と呟き、カイルの手をぎゅっと掴んだ。
「オレは平気です。――それに、あの時の借りも返さないと……」
「……借り?」
首を傾げるティーに、カイルはウィンクで誤魔化し、今度こそリオンへ預ける。
「早く外に連れ出して。マルーン君たちも、ティー様、よろしくね」
「あっ、ああ……」
「必ず……無事に帰ってきてくださいね!」
リオンとマルーンたちが、ティーを引っ張って外へ出た。抵抗しても叶わず「カイル!」と叫ぶティーを確認して、カイルは炎を向き合い、右手を掲げた。
借りを返さなければならない。太陽宮で、不本意でも助けてくれたシグレを。今度はこっちが助けて御破算にしてやろう。
それに。
「あいつの為なんかに、ティー様泣かせてたまるかよ……!」
カイルは紋章を発動させた。炎の勢いが水気に押され、弱まる。シグレのボサボサ頭が見えた瞬間、カイルは炎の中へと突っ込んでいった。
「――腕は鈍っていないようですね」
ナイフで刀を弾く。後ろへ避け、ドルフは感慨もなくシグレを見た。
「流石は、と言うべきでしょうか。――だからこそ、残念でならない。なぜ、あんなことをしたのか」
投げられたナイフを、シグレは躱す。そのままシグレは短い距離を駆け、ドルフに体当たりをした。寸前で躱されることを見越し、すかさず左の拳で横から殴りつける。
ドルフは跳んだ。シグレの肩をばねに、その後側へと回る。ちっと、シグレは舌打ちし素早くドルフを向いた。ドルフもナイフを新たに取り出し、構える。
一瞬の硬直。
ティーたちが立っていた場所はもう、炎に包まれ誰も見えない。大丈夫だろうか。シグレは思わず、気をそらす。
ドルフがナイフを投げた。
「貴方がそう動いたせいで、幽世の門は解体に追い込まれた」
シグレの髪を掠り、ナイフが壁に突き刺さる。続けて投げられたナイフは、刀で弾いた。
こっちも苦無で対抗すべきか。懐に指を滑らせ、シグレは不意に、炎の勢いが弱まったことに怪訝な顔をする。
向こうから、水の揺らめきが見えた。誰かの手に宿された、紋章の光。
金色が、見えた。こちらに向かって、走ってくる。
ドルフも気付いているだろう。だが、彼は構わず話し続ける。シグレの口から「止めろ」と言葉が吐いて出たが、ドルフは止めなかった。
「何故、貴方は――十年前に王子殿下を暗殺しなかったのですか?」
「…………っ!?」
炎の中を突っ切って、シグレを助けに来たカイルは、話の内容に耳を疑った。十年前に、暗殺されかけたティー。その場にいた暗殺者がシグレだと、ドルフは言うのか。
二人の間で、呆然と立ち尽くすカイルをちらりと見て、ドルフはすぐシグレに視線を返す。
「それどころか、暗殺を拒んだ貴方は、その場を共にした仲間を殺し、駆けつけたフェリド様に事の次第を全て言ってしまった。組織の解体を懇願したのも――貴方だそうですね。そのせいでシナツ様はフェリド様の側に付き、組織は解体された」
「理解出来ない」とドルフは首を振る。
「今まで組織に従属していた貴方が……、分からない」
「別に理解してほしいだなんて思っちゃいねえよ」
シグレは刀を仕舞い、苦無を抜く。
「ただ俺はそうしたい理由を見つけた――それだけだ」
「……そうですか。出来るなら、貴方には戻ってきてもらいたかったんですが、これ以上は相容れないみたいですね」
ドルフが、シグレを見る。何処か、哀しそうに見えた。
「残念ですよ。――――――兄さん」
考えてもいなかった言葉に、カイルの目が見開かれ、シグレを凝視した。
シグレは何も答えず、苦無を投げる。先程のドルフの言葉では、気持ちが揺らぎもせず、真直ぐにその喉元へと飛んでいく。
避けかけて、ドルフは後ろからも飛んでくる苦無に気付いた。どちらかを避けたら、残った方に身を貫かれる。はっとカイルが後ろを見ると、入り口でサギリが、幾つもの苦無を手に立っていた。静かに微笑みながら、狙いはドルフに定まっている。
思い掛けない助太刀。だけど、シグレは「何で来るんだ」と怒って言った。
「くっ………」
ドルフの右手から、緑の光が溢れた。風の紋章が発動され、前と後ろそれぞれ飛んできた苦無を吹き飛ばす。風の勢いは増し、炎を巻き込んでいく。
「これ以上は不利のようですね」
近くにいたはずのドルフが、上の梁に立っていた。炎と風に紛れて、逃げていたらしい。屋根は焼け落ち、下で起こっている騒動など知らず、星たちが輝く空が広がっていた。
「――待てっ!」
むざむざと逃がしたくない。カイルは叫ぶが、無表情に戻ったドルフは、冷たく見下ろす。
「…………」
黙ってシグレを見ていたドルフは、やがて踵を返す。再び紋章を発動させると、そのまま風に紛れて姿を消した。
余波が、下のカイルたちをも襲う。熱風に包まれ、思わずカイルは瞼を閉じた。
「…………っ」
ゆっくり瞼を開ける。
視線の先にシグレがいた。風に煽られ、長く伸ばしている前髪が後ろへ靡く。
いつもは見れない顔。どさくさに紛れて見てしまったカイルは、息を呑む。
深い深い闇を、焼きつけたような目の色。
額から鼻筋にかけて、真直ぐ走る刀傷の痕。
始めて見たシグレの顔は、さっきのドルフの言葉を裏付けるように、弟のそれとよく似ていた。
カイルは、やっぱりティーを先に逃がしておいて良かった、と心から思う。
シグレが嘗て、自分の暗殺をしようとしていたこと。ドルフが、シグレの弟だったこと。
知ってしまえば、ティーの心が不安定になってしまう。動揺して、悩んで、ひとりで深みに嵌っていく様が、容易に思い浮かんだ。
「…………くそっ」
ドルフが消えていった空を見上げ、シグレが舌打ちする。カイルを睨み「さっさと脱出するぞ」と非難を促した。「ああ……」と頷くカイルに、シグレは言う。
「このことは、ティエンに言うなよ」
「え……?」
「……俺はもう、あの時みたいなティエンを見たくないから」
そう呟くシグレの声は弱々しく、まるで何かを悔やんでいるように、聞こえた。
← ↑ →
07/03/11
|