仕事は予定通り早く終わった。だが、終わると同時にサギリは用事があるとだけ言って、何処かに行ってしまう。どんな用事か、シグレは気になったが、それ以上何も言わずサギリはさっさと行ってしまった。
 仕方なくシグレはひとりでティーの居室まで赴く。ノックして返事が返ってくるまで、シグレは隣の部屋に神経を向けた。いつ扉が開いて、微笑みながら軍師が仕事を持ってくるんじゃないか、と不安になる。
 幸いにも、すぐ扉は開いた。戸口に立つシグレにティーは笑って部屋を出る。そして、後ろからやっぱり浮かない表情のリオンが続いた。
 いないサギリの姿を探して、ティーはきょろきょろ首を回した。

「あれ、サギリは?」
「ちょっと用事だとよ。すぐ戻るから、船着き場で待っていてほしい、とか言ってたな。急ぐようだったら、先に戻っててもいいとも言ってたが……」
「ううん、大丈夫。待ってるよ」
「そうか。じゃあ、行くか。陽が暮れる前にはここに戻った方がいいんだろ? そこの嬢ちゃんも」
「えっ、はい……」

 シグレの言葉にリオンは目を瞬かせながら、頷く。戸惑うリオンに、なんで自分が気を使ってんだろう、と思いながらシグレは「行くぞ」と踵を返す。
 塔の一階に降りると、急にティーが立ち止まった。リオンが怪訝な顔をして、ティーの向いている方向を見ると、眉を跳ね上げる。
 瞬きの鏡の前で、ビッキー相手にティーの格好をしたロイが何かを話していた。みるみるうちにリオンの形相が変わっていく。

「ロイ君! 何やってるんですか!!」

 怒り、リオンは走り出した。絶対に自分とティーを見分ける相手の出現に、ロイは驚き肩を竦ませる。

「リ、リオン……!」

 鬼気迫るリオンに、ロイは愛想笑いを浮かべる。潔く謝れば納まっただろう怒りは、誤魔化されたことにより、どんどん加熱されていく。

「また王子の格好をして! その格好で悪さをしないでくださいと、何度言ったら分かるんですか!!」
「いいじゃねえか。王子さんになりきるには練習あるのみだろ?」

「なぁ」とロイは、状況を理解していないビッキーに訊ねた。

「あんただって、完璧オレを王子さんだと思ってたんじゃねえか?」
「えっ」

 ビッキーは目を丸くして、ティーの格好をしたロイを爪先から頭の天辺まで見回す。

「すごいねぇ。わたしずっと王子様だと思っちゃった!」

 感嘆するビッキーに、「ほうらな」とロイは胸を反らした。
 勿論、リオンの怒りが収まらない。

「だからって悪さをしていい理由にはなりません! ビッキーさんも感心しないでください!」

 リオンに怒鳴られても、ロイは拗ねるでもむくれるでもなく、何処か嬉しそうだった。わざと下手な言い訳をして、リオンの意識を向けさせているようにも見える。
 分かりやすい。二人のやり取りを見て、シグレは呆れた。ロイはリオンのことが気になっているんだろう。人伝だが、切っ掛けはティーを嘲るロイをリオンが一喝したのが原因ではないか、と聞いている。ただ、肝心のリオンは、全く気付いていないようだったが。
 喧嘩は幾らでもすればいい。だが、このままではずっと立ち往生して、ラフトフリートに戻るのが遅れる。

「おい……」

 シグレは、ティーにリオンを止めさせよう促しかけ、彼の寂しそうな顔に肩を叩きかけた手を止めた。孤独と不安が入り混じった、泣き出す子供の表情。

「ティエン?」

 肩を掴んで、揺さぶった。ティーははっとシグレを見た。哀しみの色が濃くなった瞳に「大丈夫か?」とシグレは訊ねる。
 ティーは無理矢理口元を上げた。

「――何が? 僕は何ともないよ」

 早口で言い繕い、ティーはわざとらしく「あっ」と言って身を翻した。

「ティエン!?」
「ごめん、ちょっと用事思い出した。すぐ戻るから船着き場で待ってて」
「おいっ」
「本当にごめん。――じゃあ!」

 言うが早いか、ティーはシグレを振り切って、階段を昇っていった。引き止めかけた手を戻し、シグレは焦燥感に駆られる。あの表情はあまり良い類いのものではない。たいてい良からぬことを考えている時の顔だ。放っておけばまた、自分で自分を追い詰めるだろう。
 ――面倒くせえ奴だ。
 シグレは大きく溜め息をつき、ティーの後を追う。

 リオンを宥めながら、ロイはこっちを見て、いきなり来た道を戻るティーを眺めていた。続いて必ず自分がロイだと見破ってくれる、無気力な男が追い掛けていく。

「………」

 ロイはその情景に引っ張られるように中央の階段へ足を向けた。「ちょ、ロイ君!?」と怒り足りないリオンにひらりと手を振る。
 リオンの気も引きたかった。でもそれ以外に気になることも出来てしまった。

「悪いっ。説教はまた今度ってことで、またなっ!」

 そのまま振り向かずに走り出す。
 ――もうひとりの、自分のところへ。


 運が良かったか。それとも余程うまく隠れたのか、ロイはシグレより早くティーを見つけられた。主のいない部屋の片隅で、自分を抱き締めるティーは、何かに怯えるように震えている。

「おい――――」

 ロイが呼ぶと、びくりと身体を震わせて、ティーが恐る恐る振り向いた。自分と同じ格好をしているロイを、明らかに見ないよう努めている。
 目を反らすティーに、ロイは苛立った。おどおどしていて怯えている様が滑稽だ。まるで乱稜山で出会ったばかりのこいつみたいだ、とロイは思う。自分の気持ちを言おうとしない憶病者。
 ロイはゆっくりティーに近づいた。

「あんた、オレを見て逃げただろう?」
「………っ」

 気まずく口を閉じ俯くティーの態度は、ロイの問いを肯定しているのと同じだった。
「やっぱりな」とロイは肩を竦め、頭を掻く。その動作の一つ一つを見ないよう、ティーは更に俯いた。
 それが更にロイの気に触る。どうしてそこまで自分に怯える必要があるんだろう。一度は叩きのめした相手なのに。

「……何で逃げる必要があるんだよ。大体さ、あんたここで一番偉いんだから、もっと堂々としていればいいだろ。セーブルを出る時だって」

 セーブルでティーに着せられた濡れ衣は、ロイを負かし、サイアリーズが黒幕のユーラムを一芝居打って誘き寄せたことで、事実が民の前で明らかになった。無実は証明され、セーブルもハイティエンラン軍に入って、共にゴドウィンと戦うことを誓い、ソルファレナを取り戻せる日が近づいた。
 だが、ティーは半分逃げるようにセーブルを出ている。非礼を詫び、自分を讃える声から。
 もしロイだったら、悪い気はしない。むしろ疑われていたのだから、もっと威張っていただろう。考えていることの正反対をゆくティーが、ロイは不思議でならなかった。
 今のティーの行動は、その時の頃と良く似ている。

「もうちょっとさ、自分を出しても良くねえ? サシで勝負した、あの時みたいにさ」

 一時はロイが押していた一騎討ち。ぼろぼろになっても怒濤の勢いで巻き返していたティーの目をロイはまだ鮮明に覚えている。それまでの穏やかさが嘘のように怒りに燃え、視線に射抜かれた瞬間、背筋に電流のような震えが走った。
 それを見てから、ロイにはいつも浮かべている顔が嘘のように見えた。

「僕は…………」

 ティーは俯いたまま、唇を噛み締める。握りこんだ手が震えていて、泣きそうだ、とロイは思った。
 ティーの顔を覗き込もうとしたロイを、後ろから影が覆う。振り向けばそこにシグレが居た。

「ちょっと来い」

 そっくりな姿をしている二人のうち、シグレは迷わずロイの首巻きを掴んで引いた。仰け反り倒れかけ、ロイは冷や汗をかく。何しやがる、と罵倒しかけ、突き刺さる殺気に言葉を飲み込んだ。
 ところ構わず捜しまわったのか、肩を上下させながら、シグレはロイの手を掴んだ。「来い」といつになく怖い声で言い、答えを聞かずロイを引きずっていく。

「――何するんだよっ!」

 軍議の間まで引きずられたところで、ようやくロイはシグレの手を振り解いた。締って苦しくなっていた喉を擦り、涙目でシグレを睨む。

「それはこっちの台詞だ」

 シグレがロイの胸ぐらを掴んだ。

「ティエンに余計なことを言うな」
「はあっ……? 何だよそれ、何でテメエなんかに――」

 ロイはシグレの前髪から覗いた目に、言葉を失った。普段無気力な男が向けてくるものにしては、物騒で、危険な目。まるで自分を叩きのめした時のティーのそれと同じだった。
 目を見開くロイに、「何にも」とシグレは震える声で呟く。

「何にも、知らねえくせに………!!」
「……なっ!?」


『何にも知らないくせに』


 シグレの言葉が、ティーの言葉と重なる。

「あれー、ロイ君まだティー様の格好して――」

 声が聞こえたのか、ひょいとカイルが入り口から顔を覗かせた。そしてロイに掴み掛かるシグレの姿に、眉を潜める。
 シグレは舌打ちをしてロイを解放すると、そのままカイルには目もくれず、横を通って軍議の間を出ていく。
 掴まれていた胸を擦るロイに「大丈夫?」とカイルが近づき心配した。

「何か、ヤバい雰囲気だったけど……。どうしたの?」
「いや、ちょっと王子さんにちょっかい出したらアイツがな……」

 落ち着きを取り戻し、ロイは息を大きく吐いてカイルを見た。

「吃驚したぜ。だって、アイツと同じこと言うんだからよ」
「あいつって……ティー様?」

 ああ、とロイは頷く。

「何にも知らないくせにって……。王子さんとサシで勝負した時に言われたこと、アイツにも言われた」
「何にも、知らないくせに……か」

 カイルはシグレが出ていった入り口を見つめて呟く。



 一応念のため、カイルはロイをシルヴァの元へ連れていった。勿論その後で悪さをされても困る。しっかり言い含めながら、普段の格好に戻ってもらい、逃げないよう医務室まで送り届ける。「そこまでしなくても」とげんなりした呟きは聞こえない振りをした。

 ――何にも知らないくせに、か。

 来た道を戻りながら、カイルはロイから聞かされた言葉を口の中で転がす。
 同じことをティーとシグレは言った。そう言うのなら、二人は何を知っているんだろう。
 もう十年近く見てきたティーの言いたいことは、カイルもおおよその見当はついている。
 乱稜山でロイはティーを「苦労もしないでぬくぬく育った王子」と称した。だが実際は違う。男の王族と言うだけで謂れのない陰口を叩かれ、白い目で見られる。普通だったら投げ出したくなる苦痛を、ティーは幼い頃からずっと受けてきたのだ。大切な、家族の為に。
 それを散々貶めたロイの言葉に、許せないものがあったんだろう。
 なら、シグレはどうなのか。
 カイルはシグレを知らない。否知ろうとしなかった。あの夕暮れの日。ティーを抱き締めていた姿が目に焼き付き、シグレは自分とティーの間を阻む、邪魔者だと決め付け、ずっと嫌悪している。
 シグレのことなんて知ってどうするんだ。忌避してきたことが、仇になろうとは。カイルはそう考えていた頃の自分を殴りたくなる。
 今更歩み寄るなんて。ずっと喧嘩腰に接してきたカイルとしては、意地と自尊心が許さない。
 堂々巡りだ。
 重く長い溜め息をつく。これからどうすればいいんだろう。

「――騎士様」

 何処からか呼ばれ「えっ」とカイルは辺りを見回した。
 ラフトフリートの羽織を着た女性が、カイルに近づいてくる。浮かべる穏やかな微笑みは、覚えがあった。

「ええっと……、サギリちゃん、だよね」

 訊ねるカイルに、サギリはこくりと頷いた。そのままじっとカイルを凝視する。穏やかな微笑みを浮かべる彼女の視線は思いのほか強く、気落とされたカイルはつい身を引いた。
 どこか底の知れないオボロといい、行動の読めないシグレといい、あの探偵事務所の面々は得体の知れない人間が多い。
 口元を引き攣らせながらも、カイルは「オレに何か用かなー?」とわざと明るく訊ねた。

「………」
「サギリちゃん?」
「………シグレのこと、あまり嫌わないで」
「えっ?」

 カイルは目を丸くした。今までサギリと行動を共にしたことはない。そんな彼女にまで分かってしまう程、自分はシグレを毛嫌いしているように見えるのか。

「どうして、そんなことを聞くのかな?」
「ラフトフリートで初めて会った時……、騎士様は怖い目でシグレを見てた。でも……目を合わせようともしなかった」

 初対面のあの一瞬だけで、仲の悪さを示すには十分だったようだ。
 サギリは俯き、続けて言う。気のせいだろうか。何だか笑顔が哀しげに見えた。

「シグレは何も言わない……。わたしが知っているものよりも多く、嫌なこと背負ってる。でも何も言わない……。……どうして騎士様がシグレを嫌っているのか、分からないけど……。でも少しでもいい……。シグレのこと、知ろうと、して……」
「サギリちゃん……」

 言葉が出ない。ここまで自分を考えてくれる存在がいてくれるシグレを、カイルは何だか羨ましく思えた。
 ティーもそんな風に思ってくれたらいいなのにな、とカイルは思う。

「……それじゃあ、シグレが心配するから……」

 サギリはカイルの返事を待たず、最後まで微笑みを消さないまま去っていく。呼び止める間もなく、その姿はすぐ見えなくなってしまった。
 


07/03/08