いっそ憎らしいぐらいに晴れ渡った空を見上げ、シグレは右手で左の肩を揉み解しながら、首を回す。ばきぼき骨の鳴る音が聞こえ、疲れてると物憂い気分になる。
 魔力は使い慣れてないので、紋章を発動する際は妙に肩肘張ってしまう。シグレはフェイタス河の水面を滑るように進む船の船尾に立っていた。風の紋章を宿している左手を突き出して、神経を集中させている。緑の光に包まれている左手を中心に風の紋章が浮かび上がり、そこから風が流れ出て船を押し進めていた。
 もともと、シグレは紋章の扱いが得意ではない。まどろっこしい魔法に頼るより、腰に差している刀で斬り付けたほうがよっぽど早く終る。だが、オボロは「何事も力押しで解決するのは良くないですよ」と言い含め、こうして機会があれば、シグレに訓練を兼ねて紋章を使わせていた。こうして紋章を使っていけば、いつかは巧みに使いこなせるだろうと考えているんだろう。
 紋章の扱いには、とにかく神経を集中させることが必要だ。気の緩みが、思わぬ暴走を引き起こす切っ掛けとなってしまう。気を入れ直し、握りしめた左手に意識を集中させるシグレの横に、ティーが船縁にも垂れ込む格好で座っていた。いつもの王族服ではなく、ラフトフリートの服を着ている。それでも目立つ銀髪は、サギリから借りた帽子ですっぽり隠れていた。
 ティーは日光を反射して煌めく水面を見て、歓声を上げている。シグレの手から流れ出る風を直ぐ側で感じながら、景色を楽しんでいた。
 うらやましい、とシグレは思う。こっちだってどうせなら、何も考えず昼寝がしたい。どうも最近は探偵業が忙しく、働かされてばかりだ。主に自分が。
 紋章を使い続ける気疲れも相まって、シグレは深い溜め息をつく。
 呼び出されたのは、つい数日前の事だ。連絡を受け、太陽宮の女王騎士長執務室に忍び込んだシグレを待ち構えていたのはフェリドと、既に旅支度を終えているティーの姿。何事かと首を傾げるシグレに、フェリドは前置きもなくすぐに用件を切り出してきた。
「お前には今からティーを連れてエストライズまで言ってもらいたい」
「……は?」
 話が見えず、シグレは困惑した。何故いきなりエストライズなのか。
「いやな、女王騎士を一人増やそうと思ってだな」
「それとエストライズと、何の関係があるんだよ」
「話は最後まで聞け。その女王騎士の候補なんだが、実は俺の親友なんだ。各地を渡り歩いていて、剣の腕も今いる女王騎士には引けを取らん。それでそいつがもうすぐファレナにやってくるんだ。その出迎えを、お前と――ティーに頼もうと思っている」
「ちょっと待て」とシグレは手でフェリドの言葉を制した。
「何で俺がそんなこと。ティエンが行くんなら、他の女王騎士に護衛させればすむ話だろ」
 ティーは王位継承権がなくとも、王族なのだ。一端の探偵調査員よりも女王騎士が護衛をするべきだろう。
「まぁそう言うな。俺はお前の腕を見込んでいるんだ」
 フェリドは快活に笑いながらシグレに近づき、肩に腕を回した。力任せに引き寄せ、よろけるシグレの耳に口を寄せる。
「もうすぐ闘神祭だ。王家があまり大っぴらに行動出来んのはお前も分かっているだろう?」
 神妙なフェリドに、シグレは黙ってしまう。
 闘神祭は次期女王の婿を決める武道会だ。最後まで勝ち残れば、次期女王の婿と女王騎士長の座が与えられる。それは将来の栄光とファレナの権力を得たも同然だった。誰もが目の色を変え、対戦者を蹴落としにかかる。裏を探れば探るほど、きな臭い話も多く、王家は表立って動けない。動くには貴族の眼が過敏になり過ぎている。
「俺もアルも、今は動く訳にはいかんのだ。眼を離した隙に何があるか、分からないからな。女王騎士とてそうだ」
「なら、行くのは俺だけで良いんじゃないか。どうしてわざわざティエンを迎えによこす?」
 動けば目立つのは、ティーもそうだろう。腑に落ちないシグレを見て、フェリドが薄く笑った。
「何、ちょっとした息抜きだ」
 嘘臭え、とシグレは思う。企むように笑う男の言葉をどう信じるべきなのか判断に困った。
「……なら、いつもべったりくっついている見習いの嬢ちゃんはどう誤魔化すんだ。それにあの金髪だってそうだ。ソルファレナからエストライズまでどれだけかかると思ってる? とばっちり喰らうのはごめんだからな」
 シグレは粗を探るように言うが、フェリドは眉一つ動かさない。 「それぐらいは、こっちでどうにでもなる」とあっさり答えられ、ぐうの音も言えなくなった。
 シグレの肩を叩きながら、フェリドは笑う。
「なぁに、お前はティーをエストライズまで護衛、連れていくだけでいいんだ。簡単だろ。それにお前ならティーも懐いているし、強いし、安心して任せられる」
 そしてフェリドはティーを振り向き「ティーもシグレと一緒なら安心だろう?」と尋ねた。
 二人のやり取りを横で眺めていたティーは、面白そうにくすくす笑いながら「はい」と頷く。
「ほら、ティーもいいと言っている。断る訳ないよなぁ?」
「………」
 こうしてフェリドに押し切られる形で、シグレは任務を引き受けた。事情を聞いたオボロやサギリらは、渋らずに快くティーを迎え、これでは自分だけが聞き分けない奴みたいだ、とシグレは内心むくれている。いや、今ごろ太陽宮でティーの不在をごねているだろう人物を幾らか知ってはいるが、それでも面白くなかった。
 口を不満に歪めるシグレを見上げたティーが「どうしたの?」と気遣う。
「紋章の使いすぎで、気持ち悪くなったの?」
「あ、いや……」
 太陽宮でごねているだろう金髪の不良騎士が脳裏に浮かび、何となく腹が立った、とは言い辛い。シグレは「まぁ、な」と曖昧に言葉を濁した。
「じゃあ、少し休んだほうがいいよ。紋章は使い続けるとすごく疲れるんだ。あまり根をつめるのは駄目だよ」
「じゃあそうさせてもらうわ」
 渡りに船とばかりに、シグレはティーの提案に喜んで乗った。いい加減、左手に神経を集中させるのも疲れたし、飽きてきた。握りしめていた左手の力を緩め、紋章の発動を止める。緑色の光が消え、船を押していた風が止んだ。風を生み出すのは風の紋章を使う上で、初歩中の初歩だが長時間やり続けていたせいで、左手が重い。身体も倦怠感が包み、ずるずるとティーの隣に座り込む。これだから紋章を使うのは嫌なんだ。
「だりぃ」とシグレは手を振り、腰に括りつけた筒へ伸ばした。仕舞っておいた煙管を取り出し、煙草をつめる。火をつけ、肺の奥まで深く紫煙を吸い込むと、ようやく一心地つけた安らぎを感じた。
「ねぇ、エストライズって紋章を使わないといけないほど遠いところにあるの?」
 シグレの口から細く吐き出される紫煙を見つめ、ティーが尋ねた。
 船縁に背を凭れながら、シグレはティーを見た。
「ティエンは初めてだったか、エストライズ」
「うん。ロードレイクとか、ラフトフリートならあるけれど、それ以外は。それよりも遠い?」
「遠いも何も、ファレナの端っこにあるんだよ」
 エストライズは群島諸国を中心に、貿易で発展してきた港町だ。ロードレイクは山と河に挟まれた内陸部にあるし、ラフトフリートに至っては、ソルファレナの近くに来た時のみ、ティーは来れる。ソルファレナからエストライズへは、時間をかければ紋章を使わずともいけるが、手こぎや河の流れに身を任せるには、気軽に行こうと言える距離ではない。
「そこ、橋が見えるだろ」
 シグレは北の方向を指差した。ちょうど分断されている河が合流している地点、遠く見えるところに架けられた橋と、近くの丘に街が見える。
「あれが、レインウォール。エストライズはそこからもっと河を南下したところだ」
 レインウォールを差していた指を、船の進行方向へ動かし、シグレは説明した。「目印は?」と質問するティーに「海の匂いがすれば一発で分かる」と続けて答える。
 ふうん、とティーは頷きながら膝を抱えて座り直す。
「僕、海ってまだ見たことないんだ。シグレはある?」
「まぁ、仕事上エストライズに行くこともあるからな」
「そっかぁ」と感慨深く応え、膝頭に顎をのせるティーの眼は、期待で輝いていた。
「父上が言っていたよ。海はいいものだって。きっとすごく綺麗なんだろうね。どんなのだろう。早く見てみたいなあ」
 はしゃぐティーはいつもより口数が多い。今まであまりソルファレナから出なかったから、道の領域である海を見るのが、本当に楽しみなんだろう。
 そわそわするティーにシグレは煙管を吸いながら「これから好きなだけ見れるだろ」と言った。だがティーは、シグレの言葉に何故か笑みを切なくさせ「そうだね」と寂しそうに言った。


 目立たないよう少し離れた場所に船をとめ、エストライズに到着した時にはもう、目的の人物が乗っているらしい船は港に停泊していた。貿易の品や輸入品も一緒に乗せられていたからか、港は荷物と人でごった返している。
 港と街を繋ぐ石造りの桟橋から、込み合っている港を手で庇を作って眺めていたシグレは、この中から一人を捜すのは容易じゃねえ、と思った。フェリドから目的の相手に対して迎えが来ることは知らせてあるだろうが、こちらはどんな男なのか、全く知らない。しかも接触するには、人で一杯の港に行かなければならないのだ。人込みで揉まれ、一苦労するのは眼に見えている。
 シグレはすぐ船に戻って、ソファに横になりたくなった。あんなに人が多いところ、行きたくない。だが、戻ったところで「まだ仕事が終ってないでしょう?」と笑顔のオボロに追い返されるのがすぐに想像出来てしまい、己の不遇さが嫌になる。
 こいつなら、おっさんから特徴を聞いているだろう。シグレは同じく横で、呆然と港の様子を眺めているティーに尋ねた。
「ティエン。フェリドのおっさんから聞いてるんだろ。そのゲオルグ・プライムとかいう男の特徴」
「え?」
 いきなり横から尋ねられ、ティーは驚いて肩を跳ね上げ丸くなった眼でシグレを見上げた。
「だから、どう言う男なんだよ。ゲオルグって男」
 重ねてシグレが問うと、ああ、と質問を理解してティーは記憶を探る。口元に手をやりながら、地面に視線を彷徨わせる。
「ええとね。眼帯をしているんだって。右目のほうに」
「眼帯?」
「それから大振りの刀を腰に差してるって。二の太刀いらずなんだって」
 二の太刀いらずは、ゲオルグにつけられた二つ名だ。彼の前に立つ人間はどれほど強くても、一太刀で切り伏せられてしまい、二の太刀は決して振われないと言われているところからきている。
「二の太刀いらずは関係ないだろが」
 シグレはティーの頭を軽く小突いた。二の太刀いらずでゲオルグを捜すなら、剣を抜いて斬り付けて捜せと言っているようなものだ。一番物騒で、いらない騒動を引き起こしそうな方法になってしまう。そんなことをしたら、こちらが危ない人間になってしまうだろう。
「眼帯に、大振りの刀……」
 二の太刀いらずは置いても、かなり目立ちそうな特徴が揃っている。シグレはさっそく遠目からざっと港を見渡してみるが、それらしき姿の男は見つからない。外套のフードを深く被った人が、向側の橋を渡っていくのが眼に入ったが、すぐにその人物は街のほうへと消えていく。
「やっぱ港まで行って捜すしかねえか……」
 頭を掻きながら、シグレは呟いた。このまま突っ立っていてもしょうがない。
 ティーは港に入ることに少し抵抗があるようだった。海が見たいと楽しみにしていたが、流石に人込みでもみくちゃにされるのは慣れていないため、気後れするんだろう。
 ラフトフリートの服を着て、銀髪を帽子で隠している今のティーなら、一見して王子と気づく人間はそういないだろう。橋は港を見下ろす形で作られている。港で捜している間、ティーは橋で待機させておけば、常に安全を確認出来るだろう。
 そう考え、シグレは「ここで待ってるか?」とティーに提案した。だがティーはすぐに首を振った。
「大丈夫だよ。僕も行く」
「あれに突入するんだぞ」
 シグレは港の人込みを指差した。
「いけんのか?」
「頑張ってみる」とティーは意気込み、胸の前で両手を握りしめた。
「父上が言ってたよ。何事も訓練だって」
 何変なことを吹き込んでんだ、あの親父は。自分もその息子も、王族だってことを理解していないんじゃないか。人にもみくちゃにされる王族だなんて、聞いたことがない。
 だが、こうと決めたティーの考えを曲げるのは、難しい。下手に押さえ付けるより、こちらが折れたほうが話が進みやすいと分かるのは、長い付き合いから学習済みだった。
「仕方ねえな」
 もしもの時に備え、シグレは腰に差した刀の柄を確かめるように触った。
「俺からなるべく離れるなよ。はぐれたら捜すの俺なんだからな」
「うん」
 固唾を飲んでシグレを見ていたティーが、ほっと胸を撫で下ろす。緊張がゆるんだ肩をシグレは押しやり、港へと歩き始めた。
 フェリドの友人なら、さぞ目立つだろう。きっとすぐに見つかる。半ばシグレは軽く考えていたが、その考えはその後すぐ捨てることになってしまうことを今はまだ、知らない。
 


08/05/17
08/05/ 22追加