サギリが事務所船に戻ると、フヨウが「おかえりなさい、サギリちゃん!」と出迎えた。にこにこと人好きのする笑みを浮かべるフヨウに「ただいま」とサギリは返す。
 フヨウの笑顔は好きだ。自分のそれとは違って、見る人の心を暖かくする力があるから。

「お帰りなさい」

 机に向かっていたオボロもまた、振り返りサギリに笑いかけてくれる。昔は目の色が血のように赤く見え、怖いと思ったことがあった。だけど今は暖かな火の色に見える。手を翳せば暖まるように、心もまた暖かくしてくれる。
 サギリは部屋を見回し、ソファからはみ出ていた足を見つけた。ゆっくり近づき、背もたれ越しに覗き込んでみる。
 シグレが背中を丸めて眠っていた。それでも窮屈そうに、手すりを足に乗せ、何とか収まっている。いつもは腰に括りつけてある刀を、鞘がついたまま握りしめ、耳を澄まさなければ聞こえない程の小さな寝息を立てている。
 サギリはいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、シグレをじっと見つめた。

「……シグレ、いつ帰ってきたの?」
「ついさっきですよ」

 オボロが答えた。机に向き直り、作り掛けの報告書を手にする。

「帰ってきたと思ったら。いきなりソファに倒れこんでそのまま――ずっと寝てます」
「そうそう! 寝るんだったらちゃんとお布団で寝ないと疲れは取れないのに……。シグレちゃんったらしょうがないわねえ」

 溜め息をつきつつ、フヨウは奥の部屋へ入っていく。そして、毛布を抱えて戻ってくると、シグレにかけた。ソファからはみ出ている足の部分まで丁寧に被せ、ふう、と手を腰に当てる。

「探偵の仕事に、王子様のお手伝い。一生懸命働くのは良いことだけど……。ちゃんと休んでもらわなきゃ。倒れたりしたら大変だものね」
「……うん」

 サギリは頷き、シグレの向い側のソファに座る。フヨウは、サギリの為にお茶を煎れにまた置くへ行き、オボロは静かに作業へと戻っていく。寝ているシグレは、毛布の感触が気持ちいいらしく、もぞもぞと毛布を肩まで引っぱり上げていた。
 足をソファから投げ出して、楽にしているように見えるが、手は刀を握りしめたままだ。丸まった背も、気が張っている。これでは休めない、とサギリは思う。
 サギリを除く、探偵事務所の面々がティーの軍へ入って、随分月日が経った。中でも、一番忙しく働いているのはシグレ。オボロから渡される依頼以外にも、ルクレティアにまで仕事を頼まれている。さらにはティーの同行も誘われれば断らず、ついていった。もちろん戦いに狩り出されることもあり、疲れは溜まる。
 それでもシグレは何も言わない。いつも見せる気怠るさも素振りだけで、いつもティーの為に惜しまず力を振っている。
 サギリは、毛布から出ていたシグレの手を見つめた。肉刺が出来ては潰れ、固くなった皮膚。もっと近くで見れば、切り傷や刺し傷の痕も見つかるだろう。
 傷だらけの手。その手がしてきたことを全部ではないが、サギリは知っていた。自分を『あそこ』から連れ出してくれたのも、シグレが手を引いてくれたからだ。
 オボロとも、その後すぐに会えた。これからは一緒だと言ってくれた。
 探偵業を始めて、フヨウも居てくれるようになった。優しく、不器用な自分をずっと見守っていてくれる。
 みんな優しい。そうサギリは思う。ファレナで起こっている戦から遠ざけてくれていた。戦いたくない、と言う気持ちを理解して、ひとり軍に参加しない自分を一言も責めたりしなかった。
 だがサギリは、このままでいいんだろうか、と疑問を持ち始める。守られていることに甘えて、逃げているんじゃないだろうか。
 そっと羽織の懐に手を滑らせた。指先に冷たいものが触れる。びくりと身体が強張り、すぐ手を膝に戻した。

「どうしたの?」

 暖かい紅茶が入ったカップをサギリの前に置き、フヨウが心配そうに訊ねた。サギリは「……なんでもない」と首を振る。フヨウがオボロにお茶を持っていくのを横目で見ながら、視線をシグレの方へ向け直した。
 膝に乗せた手を、握りしめる。

「……分かってる。逃げちゃ駄目だって。でも、怖いの……、あの時みたいに……人を、殺すのが。それに、」

 表情一つ変えない、自分も。『あそこ』で教え込まれたことが、今も尚抜けないことが。
 誰にも聞こえないように、サギリはそっとシグレに向けて呟いた。

「シグレは、怖くない? 人を……殺すの。辛いこと……沢山背負うの……」

 声は寝ているシグレにまで届かず、途中で霧散した。元々シグレは人の気配に敏感だが、余程疲れているんだろう。珍しく深く眠っている。
 オボロもフヨウも、気付かない。
 それにサギリは安堵して――自分の汚さに嫌悪する。
 甘えちゃいけないと思っていながら、縋ってしまう自分を、サギリは嫌だと思った。



「――カイル!」

 暇を弄んでいたカイルが、フェリムアル城の店が集まっている区画でぶらついていると、後ろから軽快な足音が聞こえた。振り向けば、ティーが手を振りながら走ってくる。

「あれぇ、ティー様どうしたんです。そんなに走っちゃって。息切れませんー?」
「だって、カイル見つけたら嬉しくなっちゃって。……つい」

 息を弾ませ、苦しい胸を擦りながらもティーはにっこり笑う。「うれしーこと言ってくれますねぇ」とカイルもつられて笑った。

「で、どうしたんです?」
「あのね、欲しいものがあるんだ」

 ティーはカイルの腕に自分のを絡ませ、指を差す。その先にはシンロウの店に飾られてある装飾品があった。金を彫られて作られたエンブレムは、見るからに高そうだ。
 エンブレムを見て「ふぅん」とカイルが刷りよってくるティーに訊ねる。

「あれが欲しいんですか?」
「うん。でも今お金がなくて……。それで、カイルに買ってほしいんだけど。あ、もちろんお金は後で返すよ。だから……いいかな?」

 甘く強請ってくるティーに、「どうしよっかなー」とカイルは考える。そして「うん」と頷き、目を細めてティーを見た。

「ティー様のお強請りなら、オレ何でも叶えてさしあげたいですよー」
「えっ、本当!?」

 ティーは目を輝かせ「カイル大好き」と抱きついた。乗る重みに、カイルは何故か残念そうな顔をして言った。

「あーあ、これが本当にティー様だったらどんなに良かったか……。ねぇ、ロイ君?」
「――げっ」

 ティーに変装していたロイは、さっきまでの甘い声音を一変させ、カイルから離れた。

「なんでバレんだよ!」

 会った時の反応から、ついロイはカイルが自分をティーだと思い込んだように見えた。だから、このまま騙して高い装飾品を買わせようかと目論んでいたが、当てが外れる。
 ロイは悔しげに地団駄を踏む。その姿は最早、さっきまで見せたティーと同じ立ち振る舞いの欠片もなかった。
「甘いね」とカイルはロイに指を突き付ける。

「ティー様は嫌なことに我が侭言わない人なの! ロイ君とは違うの!!」

 カイルとしては、ティーに我が侭を言ってもらいたかった。だが本人は言う気配すら見せない。戦いに身を置いてからは、尚更その傾向が強くなった。あまりに謙虚なので、ロイの爪の垢を煎じて飲ませたい気分になったことも、ある。
 力説するカイルに、ロイは舌打ちし銀糸のカツラを頭から取った。纏めていた後ろ髪を解き、粗雑に手で梳く。

「ったく、なんであんたはオレとあいつを悉く見分けるんだよ!」
「だって全然違うし」

 カイルは軽く手を振って、ロイの叫びを一蹴した。初めて会った時こそ、見間違えそうになった。だが、一度違いを見い出してしまえば、すぐにどっちがティーか分かるようになってくる。
 ティーは、ロイ程に目でものを言わない。

「げぇ、あいつと同じことを言いやがる」

 うんざりするロイに「それってリオンちゃんのこと?」とカイルは聞いた。リオンもまたカイルと同じく、ティーとロイを完璧に見分けられる人間の一人だ。
「リオンもそうだけど!」と苛つきながら髪を掻き乱して、ロイは言う。

「あの……、なんだっけ? 煙管銜えた、無気力なボサボサ頭!」
「………シグレ?」

 僅かに声を潜めたカイルに気付かず「そう、そいつ!」とロイは頷く。

「あいつもあんたと同じこと言ってさ、すーぐ見破りやがるんだよ。すっげえムカつく」
「ふーん……」

 カイルは曖昧に返し、ラフトフリートの方向に顔を向ける。
 確かにシグレは、常日頃からティーを気にかけていた。こっちが考えるよりもずっと、付き合いは長いらしい。太陽宮陥落やレルカーの時にしてきたことを考えると、シグレがティーとロイを見分けられるのも、自然なんだろう。
 ――でも、なんかしっくりこない。
 考え込むカイルを見て、ロイはこっそり後ずさる。そのまま逃走を試みて、忍び足でそろそろ歩くロイの首音を、カイルはすかさず掴んだ。

「で、どうしてティー様の格好をしているのか、教えてもらおっかなー? 今、必要無いよね。変装するの。ティー様いるんだし」

 にっこり笑うカイルに、ロイは「……う」と口籠る。



 ラフトフリートからフェリムアル城へと続く櫓の階段を登るシグレは、後ろのサギリを気にしていた。本来なら一人でやるはずだった仕事を、サギリもすると申し出てきたのだ。シグレは断ったが、オボロとフヨウがサギリの味方をしたので、仕方なく折れる羽目になる。
 ソファで、熟睡しているところを見られただけでも恥ずかしい。それに仕事まで手伝ってもらったら、余計に居心地が悪くなりそうな気がする。
 シグレは肩ごしにサギリを見た。

「……本当にオレだけで良いんだぞ? 簡単な仕事だし、お前の手を煩わせるものじゃ」
「……ううん、手伝わせて」

 目を通していた書類から、サギリは面を上げる。

「最近……、忙しいんでしょ? 先生の依頼以外にも軍師様の頼まれごととかもやってるみたいだし……。一人でこんなにいっぱい……」
「いいんだよ」

 シグレは顔を戻して俯いた。

「俺は良いんだ」
「………………」

 沈黙が降り、二人はそのまま櫓を上がりきった。あとは丘を登ってセラス湖の遺跡まで歩き、そこから湖に掛けられた橋を渡れば城に着く。
 何度も往復しているシグレは慣れているように歩く。その後ろをサギリは、広がる景色を珍しそうに眺めながら続いた。
 城に近づいてゆくに従って、人の姿も見られるようになってくる。ラフトフリートは勿論、レルカー、セーブル。二年前から王家の人間を憎んできたロードレイクの人もいた。様々な街から来た人たちが、フェリムアル城に集まっていく。
 橋を渡り終え、フェリムアル城に着いた二人の前を、ロードレイクの少年が元気良く走っていった。あの子も戦に参加しているのか。自分より幼い子の背を見つめ、サギリは思う。

「……ここには、沢山人が集まっているね」
「そりゃ……軍の本拠地だからな」
「みんな……戦うの?」

 シグレが一瞬口を噤み、ゆっくり首を振る。

「みんながみんなって訳でもねえよ。まだちいせえガキとかもいるし」
「だったら……もっと人が居た方がいいのかな? 戦える人が」

 足を止め、シグレはサギリの方を向いた。長い前髪でどんな顔をしているのか、分からない。だが、サギリはシグレが怒っていると思った。

「お前……妙なこと考えてんじゃないだろうな?」

 考えていたことを読まれ、サギリは口を閉ざした。「ったく」とシグレは小さくぼやく。

「あのなサギリ。他の奴が戦っているからって、お前までそうする必要はないんだ。やりたい奴だけさせておけばいい」
「……シグレは?」

 穏やかな笑みのまま、表情を変えずサギリは静かに問いかける。

「じゃあシグレはどうして戦っているの……?」
「それは――」

 シグレは答えに詰まる。気まずくサギリの目から逃げるように背を向けた。言いたくないことと言いたいことが混じりあって、胸の中をぐるぐる気持ち悪く駆け回る。

「あれ?」

 高台からシグレを発見したティーが、階段を降りて船着き場にやってきた。「待ってください、王子」とリオンが続き、更にその後ろをビーバー族のムルーンが追い掛ける。

「シグレ――それにサギリも」

 軽く頭を下げるサギリに会釈を返し、ティーは珍しそうに目を丸くする。

「サギリがこっちに来るのは珍しいね。お仕事なの?」
「ええ……」

 微笑みをティーに向け、サギリは頷いた。

「王子様は……?」
「ここも大分人が増えたからね。船の数も多くなってるんだ。だから船着き場を広くしたらどうだろうって――、今からムルーンに見てもらうところなんだ。――ね?」
「あ、はい」

 眼鏡を掛け直しながらムルーンは頷いた。
 ムルーンはフェリムアル城でたったひとりのビーバー族だった。他のビーバーはみな、ロードレイクを救う為にティーたちと協力して、ヘイドリッド城塞を陥とした後、役目は終わったと集落に篭ってしまっている。

「大変だな、お前も」

 木造建築では、ムルーンの右に出るものはいない。シグレは、忙しく働くところを何度か見かけたこともある。

「そうですね……」

 ムルーンが苦笑した。

「ですが、ロードレイクの人たちを苦しめるものを作った時のことを思えば、辛くありません。それどころか、今は皆さんのお役に立ててとても嬉しいんです。ですから遠慮なく言ってくださいね。僕で出来ることでしたら力になりますから」
「ありがとう、ムルーン」

 ティーはムルーンに笑いかけた。シグレの目に、それは柔らかくて暖かいもののように見える。そして、どことなく感じる、居心地の悪さ。
 そう思うのは、自分自身がティーに対して――。

「――シグレ」
「っ。……なんだ?」

 いきなり呼ばれ、シグレは驚きながらも、冷静を装って応えた。ティーはシグレの動揺に気付かず「仕事はどれくらいかかるの?」と訊ねる。

「あっ、ああ……。サギリもいるから、そんなに時間はかからない」
「終わったら、ラフトフリートに帰るんだよね?」
「ああ」

 シグレの言葉にサギリもこくこく頷く。
「そっか」とティーは言い、ほんの少し控え目にシグレを見つめる。

「えっと……。帰る時、僕も一緒に行っていいかな? ちょっとオボロさんにこれまでの調査の結果を、聞きに行きたいんだ」
「俺は別に構わねえけど……」

 ちらりと横を見ると、サギリが「王子様が来ると……フヨウさんも喜ぶよ……」と言った。それを聞いてティーは、嬉しそうにはにかんだ。

「じゃあ、仕事が終わったら僕の部屋に来てもらっていいかな? こっちは多分早く終わるから」
「ああ…………」

 シグレは頷きかけ、ふとリオンがこっちを見ていることに気付いた。こうなることをあまり歓迎していない表情をしている。主にそう言い出せないもどかしさや、シグレに対する何かしらの疑問が含まれた視線を向けていた。
 どうやら、リオンに自分は嫌われているようだとシグレは悟る。でも、それは些細なことだった。別に嫌われていようが、自分がやることに代わりはない。
 だが、早々にこの場は立ち去った方がいいだろう。ティーがリオンの視線に気付いて気まずくなる前に。
 シグレは一つ息を吐いて言った。

「じゃあ、俺たちは行くわ。――サギリ」
「……うん。それじゃあ、王子様また後で……」
「二人とも、仕事頑張ってね」

 手を振るティーに見送られ、シグレとサギリはその場を離れる。階段を昇って、姿が見えるまで、リオンの視線は突き刺さったままだった。

 


07/03/07