きな臭さが鼻をつく。レルカーで三つ並んだ中州のうち、西は陰惨たる光景だった。ついさっきまで繰り広げられていた会戦で、火が放たれ、建物は殆ど燃え尽きている。
 戦火を免れた中央と東の中州もまた、負傷した人たちや、後片付けに追われていた。慌ただしい空気が、レルカーを包み込む。
 何処も彼処も人で溢れている街道を、カイルは両手に荷物を抱え、走っていた。人の隙間を縫うように走り、顔役の一人であるワシールの屋敷へ入る。
 そこもまた、人が多い。床に作られた即席の寝台に、負傷者が横たえられ、看護を受けていた。刀傷は勿論、火傷を負った人も少なくなく、カイルは顔をそっと顰めながら、奥の部屋へと向かった。

「おまたせしました、シルヴァ殿。頼まれたもの、持ってきましたよー」
「すまないな」

 シルヴァが振り向かずに礼を言った。会戦が終わってから、ずっと負傷者を見続けているが、疲れの色は見せていない。

「その机に置いておいてくれ」

 指示をしながらも、シルヴァは手際良く適切な処置を施していく。流れるような動きに、カイルは流石だ、と感心しながら荷物を言われたように置いた。

「他にやることありますか?」
「じゃあ、水を汲んできてくれないか。なるべく上流のきれいなものを頼む」
「分かりました」

 カイルは頷き、部屋を出た。途中物置部屋から桶を二つ取り出し両手に持ち、屋敷を出る。
 外は相変わらず喧噪が耐えない。桶をぶつけないよう気をつけながら急ぐカイルの耳に、嘆く男の声が聞こえる。全身煤けていたその男は、西の中州でティーを不要の王子、と居丈高に蔑んでいたが、今はその素振りを欠片も見せず震えている。

「……何故女王騎士が、俺たちを見捨てるような真似をするんだ。街に火を放って、自分達だけ逃げるなんて……!」

 男の疑問は、カイルにとても同じだった。
 自分だって眼を疑ったさ。
 船着き場に着いたカイルは、さっきの男の声に考えが蟠らせながらも憮然と桶を軽く濯ぎ、水を汲む。そこは戦火の影響を受けずに済み、いつもと変わらず清らかな河の流れがあった。同じ街でも、西の中州で水を汲めば。煤も一緒に混じるだろう。
 あそこは全部燃えてしまった。カイルと同じ女王騎士――ザハークの命によって。
 女王騎士はその身を盾にして命を守る。そして女王の志もまた、守るものの一つであった。
 ファレナの民も守ることもまた然り。民を守ることは国を守ること、ひいては女王の志を守ることにも繋がっていく。
 だが、ザハークは火を放った。ゴドウィンを指示していた西の中州の人間に向けて。逃げ道を確保する為に、橋まで落として味方だったはずの人たちを見殺しにした。
 国を発展させようと力を求め、どんなものも利用し、そして捨てる。
 それがゴドウィンのやり方なんだろうか。

「……やってられないな」

 カイルは溜め息を吐く。そして、頭を振って考えを払うと、水で一杯になった桶を両手にシルヴァの元へと帰った。
 答えの出ない問答をするより、やれることをやらなければならない。ティーを覇王の器ではないと切って捨てたザハークの冷徹な言葉を、無理矢理頭の隅へと押しやる。思い出しただけで、苛立ちに腹が煮え繰り返りそうだった。


 切羽詰まった表情をしたリオンが、カイルに近づいたのは、一通り手伝いを終え、太陽が西に沈みかけていた夕暮れだった。彼女らしくない落ち着きのなさに、カイルは「どうしたの?」と首を傾げて訊ねる。

「王子を見ませんでしたか!?」
「ティー様を?」

 カイルは眼を丸くする。事態の収集に、ティーもまた忙しいはずだった。レレイやキサラと難しい顔を突き合わせて、相談をしている姿も見ている。そして確かにリオンもまた、ティーの傍に控えていた。

「一緒じゃなかったの?」
「実は……。姿を消してしまわれて、何処を探しても見つからないんです」

 言い難そうにリオンが呟き、表情を曇らせる。「先程まで、一緒だったんですが」と声音に不安を滲ませた。
 戦は終わっているが、逃げ遅れたゴドウィン兵の残党がいないとは限らない。燃え盛る炎にまかれても、ティーを殺して功を得ようと血眼になっていた連中だ。もしかしたら何処かに潜み、一人になったティーを狙っていると、十分に考えられる。

「分かった。オレも探してみる」
「ありがとうございます!」

 心強い返事に、リオンの顔は明るくなった。
 二人はさっそく二手に別れ、主を探し始める。カイルにとってレルカーは十四歳まで暮らしていた、言わば故郷だ。焼けた西は兎も角、後は代わりばえのない街並に、リオンよりは探しやすいだろうと、カイルは踏む。これで後は目撃情報が得られれば、すぐに見つかるだろうと思っていたのだが。

「……何処行ったんだろう」

 探せど探せどティーは見つからない。仲間に会う度、居所を聞いてもみんな首を横に振る。誰もが目の前の状況に気を捕われて、そこまで気が回っていなかった。
 暗くなり始める空に、カイルは焦りながら頬を掻く。直ぐ見つかるだろうと楽観視していただけに、この状況はあまり嬉しくない。このままだと陽が暮れて、余計に見つかり難くなる。
 西の空は沈みゆく太陽が、名残惜しく光を放つ。眼を細めて見つめ、カイルは唐突に既視感に捕われた。
 太陽宮の片隅。
 抱き締めあうティーと――シグレ。
 それを呆然と見つめる、自分。


「――――おい」


 いきなり呼ばれ、カイルはびくりと肩を震わせた。
 思い出していた情景から抜け出したように、シグレがカイルの目の前に立っていた。ぼんやりしていたとは言え、こんなに近くにいるまで気付かなかったことに、驚く。ここまで完璧に気配を消せるなんて。
 カイルは驚きを顔に出さないよう、すうっと眼を細め、表情を取り繕う。

「……何の用かなー? オレ忙しいんだけど」

 カイルの口から出てきた声は、とても冷たかった。苦い思い出に胸を痛めていた時に、当人に会ってしまい、つい気持ちを引きずってしまう。
 シグレは唇を引き結んで黙り、カイルを見つめていたが、徐に羽織を探り出した。懐から取り出した小袋を取り出すと、カイルへと投げ渡す。

「西の中州の外れ――。そこに小屋があるだろう?」
「あ、ああ」

 思わず小袋を受け止めてしまったカイルは、動揺しながら頷いた。シグレの言う通りの場所には、石伝いに飛んでいける離れ小島がある。そこに建てられている物置き小屋は人の出入りも少なくて、隠れて逢い引きするには打ってつけだった。
 何度かそこを使ったことのあるカイルは、複雑な心境になる。

「あるけど……、そこがどうかした?」
「あそこにティエンがいる。早く行ってやれ」

 思い掛けない言葉に、カイルは息を飲んだ。シグレには、ティーを探しているなど一言も言っていないし、気取らせたつもりもない。
 用件を伝えさっさと背を向けるシグレに「ちょっと待った!」とカイルは慌てて呼び止めた。

「……何だよ」
「あんた、ティー様の居場所を知っているなら、どうして行かない? それにこれも」

 寄越された小袋をカイルは掲げてみせる。ティーに対してシグレが渡したものならば、決して害を為すものではないんだろう。それでもわざわざ恋敵に塩を送るシグレを、カイルは疑問に思う。自分だったら、絶対にこんなことしない。
 それに。

「……もしかしたら、ティー様はあんたを待っているのかもしれないんだ。……それでも?」
「…………行けるかよ」

 ごく小さな声で呟いて、シグレはそのまま踵を返し歩いて行った。カイルが再度呼び止めても聞かず、喧噪の中へと消えていく。

「なんなんだ、あいつ……」

 小袋を握りしめ、カイルは呆然と雑踏を見つめた。


 幸いにも壊されなかった橋を渡り、カイルは西の中州にある小島に向かった。道中、焼けこげた建物を横目に眺める。火は鎮火しているが、まだまだ焦げ臭さが漂う。
 建物は殆どが燃やされ、復興に掛かる時間は膨大だとすぐに窺い知れた。それに復興しても、もう以前と全く同じようには直らない。
 ファレナを守る女王騎士の手によって焼かれた街の成れの果て。ティーはどんな気持ちで歩いていたんだろう。
 カイルの故郷だと聞いて、何処か嬉しそうにレルカーの街を見ていたティーを思い出す。
 一人で、泣いてなければいいが。
 カイルは足早にシグレに言われた小島へ辿り着き、奇跡的に焼けていなかった小屋に入った。陽は沈み、暗くてよく中は見えない。
 手探りで進みながら、カイルは「ティー様」と名前を呼んだ。だが、何度呼んでも返事はない。
 もしかして、嘘を教えられたんじゃ。カイルの脳裏に不安が掠める。シグレが冗談を言う人間だとは考え難いが、ティーが絡むと途端に一切の感情をそこに向ける男だ。もしかしたら、と疑念が捨て切れない。
 探そうかどうか迷うカイルの眼に、壁際に置かれた荷物の影から三節棍が映る。黒と赤を基調にしたそれはティーのものに間違いなかった。
 やっぱりここにいたんだ。急いでカイルは近寄り、見つけたティーの姿に動きを止める。

「……ティー様」

 隠れるように踞り、ようやく見つけたティーは、静かに瞼を閉じていた。身動き一つなく、壁に頭を預けている。三節棍を握りしめる手は、力が篭っているが、どうやらティーはそのまま眠っているようだった。
 休む、と言うには気が張りすぎている。
 カイルはティーを起さないように、そっと膝をつき、主を見つめた。前に比べたら筋肉も綺麗につき、しなやかでしっかりしてきたように見える身体。成長していると分かる反面、顔は疲れの色が濃く出ていた。頬が痩け、ほっそりした顔つき。化粧で誤魔化しているが、目元の隈に、カイルはぐっと悔しさに唇を噛んだ。もっと早く見つけていれば、事前に休ませてやれた。
 ――シグレは知っていたんだろうか。カイルは不思議に思う。ならば何故会いに来ない? 居場所をわざわざ自分に教えてまで。

「………」

 カイルはわだかまりを押し出すように、長く息を吐いた。取り合えず今は、ティーをちゃんとした場所で休ませてやるべきだろう。

「――失礼します」

 カイルはティーの背と膝裏に腕を回し、起さないよう細心の注意を払って抱き上げた。しっかり肩を自分の方へと押さえ、ぐらつく頭を胸元で固定させる。
 カイルに体重を預けて、横抱きにされている状態でも尚、ティーは起きる気配を見せなかった。ほっとして外に向かいながら、カイルは思っていたよりもずっと軽いティーの重みに、戸惑いを隠せなかった。


 ティーは人に弱みを見せることを嫌う。
 カイルは後のことを考え、見つからぬよう船着き場まで戻り、ある一隻の船に乗り込んだ。案の定、そこに待機していたキサラは、ティーを抱えたカイルに驚く。

「――王子……。どうかされたんですか?」
「話は後で、とりあえず寝かせてやりたいんだけど……」

 口籠るカイルに、大体の事情は察したのだろう。キサラはそれ以上何も言わずに、船室へ案内する。移動手段であり、また住む家でもあるラフトフリートの船は、一通りの家具が船室に備えられていた。
「こちらへどうぞ」と寝台を整えるキサラの好意に甘え、カイルはそっとティーを横たえる。

「わたしは暫く外にいます。誰かが王子を探しに来ても、ここには居ないって答えておきますね」
「――ありがとうございます」

 頭を下げ感謝するカイルに「いいんですよ」とキサラは笑って船室を出る。
 二人きりになり、カイルはティーの肩まで毛布をかけた。椅子を引き寄せ傍に座り、そっと額に掌を当てる。
 熱い。普通だったら立っていられないだろう熱の高さに、カイルは眉を顰めた。頬も赤く、呼吸だって荒い。今まで無茶をしてきた反動が、ここに来てようやく出てきたようだった。
 こんな身体で動き回っていたなんて。無茶にも程がある。
 カイルはキサラに薬を頼もうと、腰を浮かしかけ、シグレに渡された小袋の存在を思い出す。まさか、と頭に浮かんだ考えを否定しながら口を開け、中を取り出す。
 そこにあったのは、白い紙の包み。中身は薬なんだろう。――恐らく、熱を下げる類いのものだ。今のティーにはお誂え向きにぴったり症状が当てはまっている。

「………何で」

 ここまでティーを分かっているなら、どうしてシグレ本人が行かない。シグレの行動の不可解さに、カイルは混乱する。分かっておきながら、苦しんでいるティーを放っておくなんて。

「…………んっ」

 ゆっくりと瞼を開け、目覚めたティーがぼんやり当たりを見渡した。傍にいるカイルの姿を見つけ、熱く息を吐く。

「……カイル? どうして……」
「どうしてなのは、こちらの台詞です」

 カイルは怒ってティーを睨んだ。

「どうしてあんなところで寝てたりするんですか! 休むんだったら、もっとちゃんとした場所が……!」
「ごめん」

 ティーが謝り、カイルの口に手を当て、言葉を遮った。

「でもすぐに戻るつもりだったんだ。疲れているのはみんな同じなのに、僕だけがゆっくりするなんてできないし」
「その身体でまだ働こうとしてたんですか!? 冗談は止めてください。倒れてしまいますよ!」
「そんなことない……。ほら、もう大丈夫だから……」

 ティーは肘をつき、のろのろと起き上がった。ゆっくりと向きを変え、寝台から降りる。

「ほら、へいき――――」

 笑ったティーの顔がざっと白くなる。口を押さえると、身体から力が抜けよろめき倒れる。

「――――危ない!」

 カイルがティーの手を掴み、自身の方へと引き寄せた。逃げようと踏ん張る力をものともせず、力強く抱き締める。熱があるせいか、ティーの体温は高く、移ってしまいそうだ、とカイルは思う。
 ティーの抵抗はすぐに無くなり、力の抜けた身体がカイルの胸に凭れた。

「ほらやっぱり。もう今日は大人しく寝てください」
「……やだ」

 駄々をこねる子供のように、ティーは首を振った。寝台に寝かし付けるカイルを潤んだ瞳で見つめ、弱く首を振る。

「だって、まだやらなきゃいけないこと、たくさん」
「ティー様」

 強く名前を呼び、カイルはティーを黙らせる。びくりと怯えるティーに優しい笑みして、あやすように肩をゆっくり叩いた。

「貴方の気持ちは良く分かります。ですがティー様、貴方はハイティエンラン軍の軍主なんですよ。貴方の代わりはいないし、倒れてしまったらそれこそ軍の身動きが取れなくなる。はやくソルファレナをゴドウィンから取り戻す為にも、今はお休みください」
「カイル……」

 深い空色の眼が、揺れ戸惑う。本当に休んでいいのか、計りかねていた。
 カイルはティーに聞こえないよう舌打ちをし、その身体に覆い被さる。手首を掴んで拘束し、丸くなる眼をじっと見つめた。

「休むって言ってください。でなければ、無理矢理にでも疲れさせて眠ってもらいます」
「無理矢理……?」
「ええ。分かっているんでしょう?」

 かあっとティーの頬が朱に染まったのは、熱のせいではないだろう。いくら色恋に疎くても、半ば押し倒されている状態で言われれば、どう言うことか分かるはずだ。

「どうするんですか?」

 耳元に唇を寄せ、低く囁けばイヤだ、と弱々しく返事が聞こえる。「じゃあ、休んでくれるんですよね」と再び聞くと、今度は素直に頷かれ、カイルは少し傷付く。分かっていたが、ここまで拒否されるとやっぱり辛い。
 苦く笑みを敷きながら、カイルはティーから退いた。覆い被さった時に乱れた毛布を掛け直すと、ティーはカイルに背を向け、身体を丸めた。
 赤い耳朶に震える肩。少しやりすぎたか、と思いながら、カイルは反省の色を見せず、小袋を取り出す。

「これ……シグレからです」

 小袋を、ティーの枕元に置いた。

「恐らく解熱剤でしょうから。飲んでおいてくださいね」

 ティーは何も答えない。
 また怒らせたか。カイルは苦笑する。ここのところ自分はティーを怒らせてばかりだ。
 部屋にあった水差をティーの手の届く場所に置き、カイルは背を向けたままのティーを見る。

「それじゃあオレは一度出ますけど……。抜け出そうだなんて考えないでくださいね。……じゃあ、また」

 カイルが船室を出ようとした時「……カイル」とか細い声でティーが呼んだ。振り向くと、ティーは背中を向けたまま「……ごめんね」と謝罪する。

「レルカー……カイルの故郷だったのに……。守れなくて……ごめん……」

 辛そうなティーの言葉にカイルは「そんな」と語尾を震わせ否定した。
 悪いのはティーじゃない。西の中州に火を放ち、橋を壊して被害を甚大にしたザハークこそが悪いのだ。
 そうカイルは口にしたかったが、言ったところでティーの気持ちは晴れやしない。余計に気に病んでしまい、苦しんでしまう。
 見えないと分かっていても、カイルは出来るだけ優しい笑みをした。

「……ゆっくり、休んでくださいね……」

 後ろ髪引かれる思いを断ち切り、カイルは船を出る。



「………………」

 扉の閉まる音を聞き、ティーは強く瞑っていた眼を開けた。
 手を伸ばして枕元の小袋を手に取る。微かに煙草の匂いがした。
 さっき、カイルに掴まれた手首を見る。赤く痕がついたそこは、まだ力強い感触が残っていた。

「……やさしくしてくれなくていいのに」

 ティーは手を握りしめる。

「突き放してくれれば、いいのに」



 ――悔しい。
 キサラにティーを頼んだカイルは、苛立ちも露に往来を歩く。夜になり、一端は状況が落ち着いたレルカーは人の姿も疎らで、騒がしさがなくなっている。
 せっかくロードレイクに水が戻って、ティーの重荷が減ったと胸を撫で下ろせば、これだ。まるで安息など与えないよう、見計らって起きる出来事の数々を思い返し、無性に腹が立つ。

「どうしたんだい、カイル。随分酷い顔じゃないか」
「サイアリーズ様……」

 ワシール邸の扉に身を凭れ、サイアリーズはカイルに手を振る。近づき、カイルもサイアリーズを見て笑った。

「サイアリーズ様こそ、顔色悪いですよ」
「さっきまで紋章使い続けていたからね。さすがにくたくただよ。
「大変でしたね。お疲れ様です」

 重傷者の数の多さも考えると、紋章での治療にかかる負担も大きい。カイルが労ると、サイアリーズは「それで?」と意地の悪い眼を向けてきた。

「またティーと喧嘩でもしたかい?」

 ずばりと言い当てられ、カイルは黙り込む。脳裏に、無理をして起き上がろうとするティーの姿が横切った。

「……オレ、悔しいです」

 歯がゆさを滲ませ、カイルは呟く。

「ティー様が一人で全部抱えるのも。ティー様が苦しんでいるの分かっているくせに行かない奴がいるのも。ザハーク殿がレルカーに火をつけたことも」

 みんな、ティーを苦しめている。彼自身すらも。

「どうしてみんな、ティー様を傷つけるんだろう……」
「これは異なことを言う」

 サイアリーズが口元をくっと上げて笑った。嘲りの色を見せて。

「何よりもティーを深く傷つけようとする奴が、そういうことを言うんだね。そうは思わないか、――カイル」

 真意を見透かすサイアリーズに、カイルは息を飲んだ。

「……それは」

 呟きは最後まで続かず、空気に溶ける。カイルは実直なサイアリーズの視線から逃げるように、無理矢理頬を引きつかせながら、笑った。

「オレ、リオンちゃんにティー様のこと伝えてきます。サイアリーズ様もゆっくり休んでくださいよ?」

 それじゃあ、と手を振りカイルは足早にその場を立ち去った。憮然としながらもサイアリーズはカイルの白々しい態度を敢て甘受し、追い掛ける真似はしなかった。軽い男と呼ばれがちだが、あれでカイルは頑固だ。ここで追い掛けたとしても、余計に意固地になるだけだ。
 サイアリーズは扉に凭れ、ゆるゆると溜め息を長く吐く。

「全く。あんたもさっさと言えばいいのに……。怯えてないでさ。……じゃなきゃいつか後悔しちまうよ。あたしみたいにね……」

 悲しくサイアリーズが眼を伏せる。


 夜になり静かなレルカーを歩いていたシグレは、ふと前にサギリが立っているのを見つけた。静かに微笑み佇むサギリは、足音でシグレに気付き「お帰りなさい」と迎えた。

「お前、なんで」

 軍に参加していないサギリは今回、ラフトフリートの事務所船で待機が決まっている。レルカーにいるはずない。
 発言に困るシグレに、サギリが言った。

「……戦いは、好きじゃない。でも人が死んでしまうのも、嫌だから」
「……そうか」
「シグレは、王子さまの、ところ?」
「ああ」
「でも、会わなかったんだね?」
「……ああ」

 シグレの声に、戸惑いが混じる。それを聞き、サギリの眼差しに少しだけ哀しみが見えた。
 風が吹く。夜に吹く風はあまり強くならないでほしい、とシグレはぼんやり思った。そうなったら、怯えてしまう人をシグレはひとり知っている。

「……シグレは、優しくて、可哀想」

 サギリは俯き、微笑みを隠して言った。

「色々なこと知っているのに。――背負っているのに。平気なフリしてる。本当は」
「やめろ。それ以上言うな」

 シグレが強く言った。

「俺は言われたことをやっているだけだ。それだけのことなんだよ。だからお前が気にする必要なんてないんだ……」

 一気に捲し立てて言い、シグレははあっ、と息を吐いて口を閉ざした。胸に渦巻くものが、出てしまわぬように。
『これ』は他の誰かに背負わせるものではない。当事者である、自分が負って然るべきもの。
 だから、自分の胸へと閉じ込めてしまえ。
 深く、静かに。
 ――きつく何重にも鍵をかけて、誰の眼にも触れないように。


『ねえ、僕を――――』


 遠く何処かで聞いた声を、シグレは頭から追い払った。




07/02/26