以前ウルスから助けてもらった時の情景が重なり、トーマの頭に血が上った。手を叩かれ、呆然とするティーを強く見据える。

「マルーンもだっ! オレは、お前たちに助けてくれだなんて、頼んだおぼえねえよ!」
「トーマ……」
「ごめんよ、トーマ」

 悲しくティーがトーマを見つめ、マルーンもまた、肩を落とす。

「あんたたちが謝る必要なんて、これっぽっちもないよ」

 サイアリーズが、そっぽを向くトーマを眉間に皺を寄せ、怒りを露にした。

「トーマ、どうして勝手なことをしたんだい? 離れるなって言っただろうに、危ないことは分かってたんだろう?」
「後ろで追い掛けられるの見て、ひやっとしましたしね」

 カイルがサイアリーズの後に口を挟む。

「ティー様やマルーンが何とか倒せたから良かったものの……。下手してたら、誰かが大怪我してたかもしれない」
「うっ……うるさい! ロードレイクに水を取り返す為なんだ、こんなところでちんたらやってられないだろっ!」

 これまでに何度も繰り返されたトーマの主張。ずっと聞いてきたサイアリーズは溜め息をついた。トーマはようやく見えてきたロードレイク再生の手立てに、気持ちが向いてしまっている。そして、なかなかその方法があるセラス湖に辿り着けない状況に、焦ってムキになっていた。
 そっと息を吐き、サイアリーズは昂っていた気持ちを落ち着かせる。

「トーマ。あんたの気持ちは良く分かる。でもね、だからって助けてもらった礼もないのはあんまりじゃないかい?」
「………っ」

 トーマは一歩後ずさり、ティーたちを見回す。誰もが悲しい目をして、まるでこっちが悪いことをしたような気分にさせられた。
 どうしてオレが。

「……オレが、悪いのかよ」
「トーマ、そうじゃない」

 向き直り、諭すような口調で話し掛けるティーに、トーマは口を苛立ちに歪めた。

「じゃあなんだってんだ。何であんたたちがそんな顔してんだよっ。オレが悪いって言いたいんだろっ!?」

 興奮して言い募るトーマに「……ちょっと、マズいかもこれ」とカイルが呟いた。

「え?」

 真横に居たリオンが、呟きを聞きカイルを見上げる。言い知れぬ嫌な予感に、カイルの表情は苦い。
 今のトーマは、ティーを悪いものとしか思っていない。ロードレイクを不毛の地にした女王の子。その認識が、トーマの心を凝り固まらせ、辛辣な言葉ばかり紡いでしまう。
 そしてティーが理不尽な怒りをぶつけられているせいで、サイアリーズもまた冷静さを欠いていた。まだ、感情を抑えながらティーとトーマのやり取りを見ているが、このまま続けば爆発してしまうだろう。そうなれば一気に状況は悪化する。
 危機感に捕われ、カイルは何とかこの場を仲裁すべく「あの」と間に入ろうとした。

「――オレが悪いって言うんなら、あんたはどうなんだよ」

 興奮しているトーマに、カイルの声は届かなかった。怒りで顔を赤くして、ティーに指を突き付ける。

「オレは知ってるんだ。ロードレイクがあんなにまで酷い状態になったのは、全部あんたのせいだってな!」
「っ!?」

 ティーの頬が強張り、トーマを大きく見開いた目で見つめる。

「……何言ってんだい」

 サイアリーズの声も、震えている。

「どうしてティーが原因になるんだ……? この子は何もしてないだろっ!?」
「でも大人たちはみんな言ってた。十年前、ロヴェレ卿が暗殺されかけた王子を保護してしまったから、バロウズやゴドウィンを怒らせたんだって」

 作物は枯れ、多くの住人が乾きの苦しみに耐えかね、村を出た。日に日に追い込まれていく中、大人は口を開く度、同じことを言い続けた。
 十年前の、内乱寸前にまで発展した、王位継承権争いのことを。何人もの王族や貴族が暗殺され、激しさを増していくその内に、ティーもまた、暗殺の標的にされていた、と。

「ロヴェレ卿が、あんたを助けなかったら、ゴドウィンがあの城塞を造ることもなかったかもしれないんだ。そうしたらこんなに苦しまずに済んだ! なのに、あんたがいたせいで、あんたを助けたせいでオレたちがこんな目にあって――」

 親を喪うこともなかった。
 緑溢れる至宝の故郷で、幸せに囲まれて笑っていただろう。
 今この現実は――地獄だ。全て無くして、ずっと苦しんでいる。
 もういやだ。こんなの。

「あんたのせいだ……」

 トーマはティーの目を見て、今まで溜めてきた感情をぶつけるようにはっきり言った。

「ロードレイクがあんなになったのはあんたのせいだ。あんたがいなけりゃ良かったんだ。あんたなんか――十年前に殺されてしまえば良かったんだよ!!」
「トーマ!」

 サイアリーズが眦を釣り上げて怒鳴った。叩きたくなる衝動を抑え、強く拳を握り耐える。

「それ以上言ったら、承知しないよ」

 サイアリーズは剣幕の強さに身を竦ませたトーマを見据えた。握りしめられた手の隙間から、血が流れる。

「許さないから」
「本当のことじゃないか! こいつが、」

 指を差し掛け、トーマは言葉を飲み込む。表情の抜け落ちた顔をしているティーに、鋭く突き刺さる痛みが心を抉る。

「……そう」

 ティーは肌が白くなる程に強く手を握りしめた。

「そっか。ぼくのせい、か。……ロードレイクはぼくのせいで……」

 だんだんティーは握りしめていた手を額に押し当て、身体を縮こませた。リオンが「王子」と傍らに寄り添い、「そんなことありません。ありませんから……!」と悲痛な声で否定した。

「そんなことない訳ない! あんたがいたからあんなことになったんだ。――嘘じゃねえからなっ!」

 言うや否や、ティーたちに背を向けて、トーマは走ってもと来た道を下っていった。全力で走っていく姿は、あっという間に見えなくなってしまう。
 崩れ落ちそうなティーを支えながら、リオンはどうするべきか迷った。山道には魔物が出る。トーマを一人にしてはいけない。だが、主を放っておくことはもっと出来ない。

「オレが行くよ。リオンちゃんはティー様とサイアリーズ様をお願いっ」

 カイルがリオンの肩を叩くと、そのまま走り出した。「オイラも行くよっ」とマルーンも慌てて後を追う。ひらひらと揺れるカイルの襷が見えなくなるまでリオンは見つめ、ティーに視線を移した。

「王子……」
「ごめん……、しばらく、このままでいさせて……。もう少ししたら……ちゃんとするから……」

 俯いたままティーは謝る。リオンは首を横に振り「無理をしなくてもいいんですよ」と呟くが、ティーには届かなかった。
 己の無力さにリオンは口を噤み、目を伏せる。
 真っ向から憎しみをぶつけられ、それでもなおティーは辛さを口に出さず、ひたすら耐える。丸まる背を見つめ、サイアリーズは自分の無力さに、唇を噛み締めた。


 がむしゃらにトーマは走った。頭の中は真っ白で、何も考えられない。
 息が苦しい。肺が痛い。心臓が五月蝿い。喉がからからに乾く。目からは――涙が零れた。
 オレは悪くない。全部あいつが悪いんだ。だから本当のことを言っただけ。それを聞いて、あんな顔をするのがおかしいんだ。

「――トーマっ!」

 追い掛けてきたカイルが、大声でトーマを呼んだ。トーマは目を剥き肩ごしに振り向き「ついてくんなっ!」と大声で喚く。
 更に遠くから、マルーンの声も聞こえた。カイルと同じく、トーマの名前を呼び続けている。

「ついてくんなよっ!」

 トーマが叫び足を速め駆けると、被った帽子が頭から落ちていった。
 涙でふやけていく視界の中、ひたすら追い掛けてくるカイルたちから逃げる。
 嘘じゃない。嘘じゃない。嘘じゃない。
 オレは本当のことしか言っていない。

『ロヴェレ卿が王子を保護さえしなければ』

 みんながそう、口を揃えて言っていた。

『王子がいなければ』

 あんな奴、いなくなってしまえば。

「っ!?」

 地面に出っ張っていた石に躓き、トーマはつんのめる。勢いがつきすぎて均衡を取る間もなく、そのまま地面に転ぶ。さっきの戦闘で擦りむいた膝頭はもちろん、額や鼻まで打ち付けて痛みがじいん、と広がっていく。額を手で押さえると滑り、見れば血で濡れている。
 顔を上げ、呆然と手についた血を見つめるトーマの目から、また涙が滲んだ。みるみる間に溢れ、落ち、手の血と混じる。

『――ごめん』

 痛い。転んで出来た傷が痛むんじゃなく、思い出してしまったティーの姿に、胸が痛む。
 あんたなんか十年前に殺されてしまえば良かった。
 そう言った時の、色を失った表情が頭から離れてくれない。ぐるぐる回り、口に出した罪悪感を重くのしかからせる。

「――トーマ」

 足音がトーマに近づいていくうちに、だんだんゆっくりしたものに変わった。そしてぴたりと真後ろで止まり、カイルが転んだままのトーマを見下ろす。

「……分かってるよっ! マルーンや王子さんたちは悪くないって」

 トーマは拳を固め、苦しく声を絞り出した。
 バロウズが、ロードレイクの怒りを煽って、東の離宮を襲わせなかったら。きっと黎明の紋章を盗んだ濡れ衣を着せられなかった。
 ゴドウィンが、城塞で河を塞き止めていなかったら。きっとロードレイクはあそこまで荒れ果てなかった。
 王家やビーバーたちもまた、貴族の奸計に巻き込まれた被害者。ロードレイクと何ら立場は変わらない。

「でも、本当のことが分かったって……ロードレイクは戻らないし、父さんや母さんだって帰ってこない」

 自らの不幸を嘆いて絶望する民。
 状況を何一つ変えられない、無力な自分。

「……嫌なものが溜まっていくんだ。苦しいとか、もうこんなのは嫌だとか。どうしてオレたちばかりとか。それが一杯になって、胸がムカムカして、溜まった気持ち、吐き出したくなる。だけど、言えなくて」

 周りは皆、同じ境遇の人間ばかりだ。苦しいのもまた、同じだから言えない。
 でも黙っていたら、もっと苦しくて心が破裂してしまいそうになる。
 だから選んだ。心を蝕む、嫌な感情をぶつけられる相手を。
 太陽の紋章でロードレイクを裁いた、女王の息子。大人たちの言っていることを間に受けたフリをし、理由をつけ、言った。
 悪いのはあんただ。いなくなれ、と。
 心に溜まっていたものを、全部ぶつけた。

「……ティー様に言って、トーマはすっきりした?」

 怒るでもなく、カイルが平坦な声で聞く。「全然」とトーマは目を閉じ、強く首を横に振った。

「それどころか、もっと苦しくて、自分が嫌になる」

 眦からぽたぽたと涙が零れ、地面に丸い染みを作る。迫り上がる嗚咽が抑え切れなくなり、とうとうトーマは顔を伏せ泣いた。

「ちくしょお……っ!」

 後悔しても遅い。口に出していった言葉はもう、取り消しが効かないのだから。
 殺されてしまえば、などと面と向かって言われ、傷付かない人間なんていないのに。分かってて口に出した。ティーが傷付く言葉をわざと選んで。
 ――一番悪いのは、オレだ。

「トーマ……」

 ちくしょう、と声を引き攣らせて泣くトーマを、カイルは不憫に感じた。リムスレーアと同じ年頃の少年が、周りの環境のせいで色んなことを我慢して――我慢しすぎて感情を爆発させた。それでもティーを傷つけて、自分が嫌だと泣いている姿は、自分の心に正直に見え、ティーにもそういうのがあったら、と思う。
 トーマに言われた時だって、泣いてしまえばどんなに良かったか。

「……やっと追いついた」

 マルーンが息を荒げながら、走ってきた。トーマが落としたままだった帽子を手にしている。そして地に伏して泣いているトーマに慌てた。

「トーマ、怪我でもしたのかい? 早く起きて見てみないと。オイラおくすり持っているから早く――」
「お前もそうだっ」

 トーマが涙を隠さず、顔を上げた。

「ビーバーロッジの時から、ずっと冷たくしてきたのに……。なんでオレに優しくするんだよっ」
「なんでって言われても、わからないよ」

 マルーンは困ったように言い、トーマの頭に拾った帽子を被せた。帽子の広い鍔は、視界の上半分を隠してしまう。地面に伏したままのトーマには、マルーンの足しか見えなかった。

「オイラは難しいことを考えるのは苦手だ。だから、行動にいちいち理由なんて付けられない。でもトーマが気になったから」
「…………な」
「泣きそうな顔をするから。放っておけないって思っただけだよ」

 マルーンは涙でぐちゃぐちゃになった顔を、帽子を被せて隠してくれた、とトーマは気付いた。さり気ない優しさに、また涙が出てくる。
 ゆっくりとトーマは頭を上げた。ロードレイクを出てから、ずっと何も見ていない気がする。ちゃんと見てみなければいけない気がした。
 トーマの動作に合わせて、マルーンが小さく丸まるように屈みこむ。初めて怒った表情以外の顔を見て「オイラは怒っているトーマよりそっちの方が好きだな」とマルーンは笑った。

「マルーン……」
「確かにトーマの言ったことは酷かった」

 カイルがトーマの身体を掴んで助け起すと、服に付着した土埃を払った。そして血が固まりかけている額へと右手を翳す。

「でも、悪いと自覚している時点で、まだマシだとオレは思うよ」
「え……っ?」
「オレは、そんなの微塵も持ってない人たちをよーっく知っているからねぇ」

 不要の王子と陰口を叩く貴族たちは、見つけ咎めても反省するのはその場限り。時が経てば、懲りず同じ言葉を口にする。それに比べトーマは、自分の言葉でティーが傷付かせたと泣いて悔いた。

「だから、トーマはすごいよ」

 右手に宿した水の紋章が光り、トーマの怪我を癒した。痛みが消え塞がった傷に、トーマは額に手をやり驚いた。

「……自分の気持ちに正直で、うらやましい」

 その素直さが、ティーにもあったなら。トーマを追い掛ける寸前、俯いていたティーを思い出す。
 どうせあの人は泣いていない。貴族に陰口を叩かれた時と同じように、渦巻く感情を抑えこむのに必死なんだ。

「何だよ。人の顔じろじろ見て」

 凝視され、トーマが照れ隠しにぶっきらぼうにそっぽを向いた。赤くなっている頬に「なんでもないよ」とカイルはそっと笑い、立ち上がる。

「で、トーマはこれからどうするの?」
「………」
「……トーマ」

 マルーンが心配そうに服の裾を掴んで、トーマを見上げた。案じてくれる力にトーマは頷き、意を決する。

「謝るよ、ちゃんと。オレだって後味悪いのは嫌だからな。……ちょっと怖いけど」
「オイラも一緒にいるからさ。がんばろう、トーマ」
「……ああ!」

 はっきりと言ったトーマの顔は、清清しい。ティーに溜め込んでいた鬱屈や不満をぶつけたこと。それに思いきり泣いたことが、心の重荷を軽くしたんだろう。
 こっちとしては複雑だけどね。
 仲良く並んで歩き出すトーマとマルーンの後ろを着いて歩き、カイルは小さく溜め息を着いた。
 トーマはこれから謝りに行き、ティーはそれを許すだろう。結果として、これが切っ掛けとなり、二人は少しずつ歩み寄って溝を埋めていく。喜ばしいことだ。
 だけど、言った言葉は消えない。それが間違いだと分かっていても、何らかの形で心に留まり続ける。
 みんなが言っていた。トーマはそう口にした。ならロードレイクの何人かは、本気でそう考えているんだろう。
 聡いティーは、きっと気付いている。これからもふと思い出しては、心を痛めるだろう。
 十年前のことは、サイアリーズから聞いたことぐらいしかカイルは知らない。もし詳しく知っていたら、崩れ落ちたティーに慰めの言葉を掛けられただろうか。
 ――あの男は知っているのか。
 カイルは答えの出ないことに、そっと思いを馳せた。



「ではシグレ君。もうすぐ王子殿下たちがやってくると思いますから。ツヴァイク殿と合流してくださいね」
「………」

 シグレは不満たっぷりに「どうして俺があのおっさんと待たなきゃならねえ」と文句を零す。
 セラス湖のほとりに佇む、大きな岩。その根元にある、人が容易に通れる割れ目の前で、赤い外套を羽織った眼鏡の男が立っていた。男はシグレたちには目もくれず、本を熱心に読んでいる。ぶつぶつ呟く様は無気味で、シグレは帰りたくなる。合流するまで、一緒だなんて。

「やることはやったんだから、帰ってもいいだろ?」
「駄目です」

 ルクレティアは、シグレの問いをすぐに切って捨てた。

「それに貴方だって、すぐ守れる傍に置いておきたいんじゃないですか? 目を離した隙に殺されてしまったら、目覚めが悪いでしょう?」
「――――何が言いたい」

 駘蕩としたシグレの気配が、一瞬にして剣呑なものへと変わる。だがルクレティアは動じず、涼しい顔色のまま言った。

「いいえ、今は何も。ですが、これからはどうか分かりませんけどね」
「っ」

 シグレはシウスとレレイが待つ方へ歩いていくルクレティアを振り向いた。何を、と問いかけたかったが、言えぬまま口を閉ざす。どうせ、答えなんて帰ってこない。

「………」

 シグレは舌打ちをし、湖が臨める場所にある小さな岩に腰を掛け、ティーを待った。ざわめく心を落ち着かせ、ルクレティアの言葉を反芻する。
 面倒くさい。
 どっと沸いて出る疲れに、肩を落とす。
 ルクレティアの、人を食ったような笑みが、どこからか聞こえたような気がした。



07/02/20