――誰を憎めば、いい?


 乾き、ひび割れた大地。歩く度、砂礫が舞う。迂闊に口を開けばそれは喉の奥に張り付いて、嫌なむず痒さを齎してくる。
 トーマは口を固く引き結び、枯れた森を歩いた。かさかさの手で、軽い桶を持つ。唾を飲む度に、水が欲しいと喉が訴えた。
 ろくにものも食えず、痩せ細る身体では否応なく体力も減って、歩くだけでもふらふらになる。このまま倒れて瞼を閉じたら、楽になれるだろうか。
 水が飲みたい。
 母親にしがみつき泣き叫ぶ、自分より小さい子供を思い出す。今も乾きに喘ぎながら、水が来るのを待ち焦がれている。

「……これぐらいでくたばってたまるか……!」

 流れ落ちる汗を掬い、重い身体を引きずって歩く。
 森の近くの小さな窪み。最近見つけたそこには、水があった。だが、砂で濁りきり、喉を潤すにはためらいも生まれそうな程汚い。でもそれは些細なことにしかならない程、この街は水に飢えている。身体を壊すと分かりきっていても、手を伸ばさずにはいられない。
 はっ、と息を吐く。すっかり慣れた喉の痛みがした。表情を変えず唾を飲み込み、真直ぐ目的地へ向かう。あともう少しで、水が汲める。
 覚えのある場所を見つけ、ふらつきながらも安堵し、急いだ。これでチビたちに水を飲ませてやれる。

「――――そんな!?」

 先日まで確かにあった水が、枯れてしまっていた。最初からそこには水など存在してないように。
 桶が手から落ち、転がる。縁を掴んで覗き込み、目を凝らして底を見ても、見えるのはひび割れた土と小石、それだけだ。
 力が抜け、その場に座り込む。地面についた手を握りしめた。爪に土が入り込み、小さく痛む。「ちくしょう」と呻きながら、ぽろりと零れた涙が手の甲に落ちた。
 同じことの繰り返しだ。水を探し、見つけ、そして枯れる。何度も喜び、何度も嘆いた。あとそれを、何回繰り返せばいいんだろう。
 頭から後ろに倒れ、仰向けに空を見上げた。
 憎らしく晴れ渡った空は、雨雲に覆われる心配もなく、痛いぐらいに青い。太陽が、涙色にぼやけ、土で汚れた袖を濡れた目に当てた。
 涙が水みたいに飲めればいいのに、と思ってもそれは哀しみが強くて飲み込めない。

 どうしてロードレイクなんだろう。
 何でオレたちが、
 オレたちが、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだ?



「――トーマッ!」

 草原を大股に歩くトーマは、追ってくる足跡を聞いて、不快に顰めっ面をした。わざと聞こえないフリをして、歩みを速める。
 足を前に出す毎に踏み締める、緑の色。柔らかな草が辺り一面に生え、そよぐ風は心地良い。
 自然溢れる光景。ニ年前まではロードレイクでも、それは当たり前の光景だった。女王アルシュタートが宿した、太陽の紋章で制裁されるまでは。

「トーマ、待って」

 声は何度もトーマを呼んだ。

「トーマ」
「………」
「トーマッ」
「………」
「トー――」
「うるさいっ!」

 あまりのしつこさに、トーマは立ち止まって振り返ると怒鳴った。追い掛けてきたティーが、息を乱しながら、ようやく追い付いたトーマにほっとして笑いかける。

「良かった、追い付いて」

 胸を撫で下ろし、ティーは弾む息を整える。

「先に行ったら危ないよ。ここは魔物も出るし、一人だと狙われやすくなる」

 ティーは膝に手をつき、トーマの視線に屈む。睨み付けられても微笑み、ゆっくり言い聞かせる。

「急ぐ気持ちも分かるけど――」
「うるさい」

 皆のところに戻ろうと、伸ばされた手をトーマは叩き払い、そっぽを向いた。「あ……」とティーは一瞬哀しみに瞳を曇らせるが、すぐに気を取り直して笑った。

「何、へらへら笑ってんだよ」

 トーマはティーの笑顔に神経を逆撫でされ、さらにきつく睨み付けた。

「そう言うの、気に入らねえんだっ。……それに、オレは全然疲れてねえのに、ちょっと走っただけで息切らすなんて、アンタだらしなさすぎるだろ」
「……ごめん」

 ティーは謝り、「でも」と後ろの仲間を肩ごしに振り返る。トーマが急いでいたせいか、距離は随分離れていた。

「一人は危ないから。一緒に行こう?」
「………」

 優しく諭すティーの瞳を、トーマは真直ぐ見た。
 深い空色。ロードレイクの晴れ過ぎた空を思わせる、目に痛い青色。

「――あっちが早く来ればいい話だろっ。わざわざ戻るなんて、オレはいやだからなっ」

 口を尖らせ、トーマはティーを振り切り再び歩き出した。「トーマッ」と制止する声も聞かないまま、草を踏み締める。
 苛々する。
 太陽の紋章を使って、故郷を不毛の大地に変えた女王の息子と、自分から言ったとはいえ共に旅をすることになるなんて。
 王子についていく。そう大人たちに言ったら、皆信じられないような顔をされた。
 可愛がってくれた兄貴分の男は、止めておけ、とトーマを止めた。
 最後には口を揃えて同じことを言う。

 あんな王子に、何が出来る、と。

 それはトーマも同じことだった。いつだって穏やかな笑みを浮かべ、他人の機嫌を窺う人間が、ロードレイクの水を取り戻せるものか。
 一度助けられたことはある。だがそれは、共に着いていた隻眼の女王騎士がいたからこそ、やれたんだろう。ティー一人に助けられた訳じゃない。
 だからその口から、水を取り返してみせる、と言われても信じられず、啖呵をきってトーマは無理矢理ついてきた。けれどほんの少し走っただけで息を乱す様は頼り無く、本当に言ったことを成してくれるのか不安にさせる。
 ――大丈夫かよ。あんな奴で。
 考え込むトーマは俯きがちになり、地面を睨みながら歩く速さを上げていく。また離れていく距離にティーは「トーマッ」と呼んでその背中を再び追い掛けた。

「待ってください!」

 少年を追い掛ける主を見て、リオンは青くなる。連れ戻してくるよ、とティーは言ったが逆に二人して、仲間たちとどんどん離れていってしまう。
 広い草原は、視界を遮るものはなく、敵や魔物に見つかりやすい。また隠れる場所もないので、襲われたらやれることは限られてしまう。それに離れた時を狙って襲われでもしたら、守れるものも守れなくなってしまう。
 トーマ一人を守りながら、ティーは満足に単身で戦えない。心配をありありと浮かべながら、リオンは「すいません、わたし王子たちを追い掛けてきます」と言い、軽く頭を下げ走り出した。

「あっ、オレも――――」

 カイルはリオンに続こうとしたが、「ちょいと待ちなっ!」とサイアリーズに襷を強く引かれてしまう。その反動で後ろにのけ反ったカイルは、襷が解けるまで引っ張られ、上体を起こせず、後ろに倒れた。地面に丸めた背中を打ち付け、一瞬呼吸が止まる。ついでに頭も打って、昼間の空に星が散った。

「――――ったああっ……」

 頭を押えて、カイルはサイアリーズを見上げた。サイアリーズのカイルを見る視線は冷たく、眉間に皺を寄せている。せっかくの美貌も台無しだ、と思いながら。それになんだか怖い。
 カイルは曖昧に笑って、起き上がる。背中の襷は完全に解けていた。もともと裾が長いせいで、結び目がとれたそれは、背の高いカイルが立っても、地面に引きずってしまう。それに後ろについている為、一人で結べないのも面倒だった。
 カイルはサイアリーズに恐る恐る尋ねる。

「あの、サイアリーズ様? これ良かったら結んでもらえると嬉しいなーって思うんですけど」
「直す? 何でわたしが」

 すげなく断られ、分かっていながらもカイルは肩を落とす。

「なんか、冷たくないですか?」

「そりゃあ、あんた」とサイアリーズは大袈裟に肩を竦める。怒り半分、呆れ半分の冷たい目がカイルを射抜く。

「可愛い甥っ子を貶されて、わたしが怒らないとでも? あんたはそう思うのかい?」
「う………」

 凄みが増した笑顔に、カイルは思わず盾代わりに自分の腕でサイアリーズの視線を遮った。顔を反らす疚しい態度に、サイアリーズは鼻を鳴らす。

「はっ、やっぱり自覚があるんじゃないか!!」



 時間はラフトフリートでシグレたちと会った後。ダハーカに戻り、ティーの自室の前でカイルとリオンが、並んで待っている頃にまで遡る。
 ティーはルクレティアに渡された衣装に着替えるべく、一人で着替えに勤しんでいた。最初に見られる特権に、リオンはわくわくしながら、着替えが終わるのを待つ。そしてカイルは、難しい顔で壁に凭れ、考え込んでいた。
 会いたくなかったシグレにあっさり再会したカイルは、焦っていた。太陽宮で幽世の門が放った暗殺者をあっさり倒した実力。自分がティーの護衛をしていた時から、既に二人が仲良くなっていた事実。物臭そうに見え、実は見えないところでティーを気遣っている、優しさ。シグレは、多大な壁で立ち塞がっているような存在感を醸し出す厄介な人物だった。
 それにこれからは、ハイティエンラン軍に入ると聞いて、愕然とする。
 冗談じゃない、とカイルは歯噛みする。ティーは、今カイルよりシグレに心を許しているような状態だ。仲間になって、共に行動する時間が増えたら、気持ちが移ってしまうのではないかと、思わず危惧してしまう。
 言い様のない不安が押し寄せ、カイルの心は苛まれた。
 ティーが自分を好きだと、カイルは分かっている。だが、どうしてもティーの口から言わせたくて、算段をしている途中なのだ。カイルから想いを伝えるのは憚られる。
 想いに苦しむティーが、シグレに優しくされたら。
 もしかして。
 カイルの脳裏に、太陽宮の片隅で隠れるように抱き締めあう二人が映し出される。あの時、ティーがなく理由が分からなかったカイルにとって、己の無知を突き付けられた、苦い思い出。
 思い出す度に心が焦がれ、ちりちりと痛んだ。

 だから、と言う訳ではない。
 八つ当たりだったと、罵られても仕方なかっただろう。

 着替えを終えたティーが開いた扉の隙間から、ひょっこり顔を覗かせた。恥ずかしげに頬を赤く染め、「終わったよ」と伝える。

「部屋に入ってもいいですか?」

 リオンが伺いを立て、王子の了承を得ると、部屋に入った。直後に「お似合いです!」とはしゃぐ声がして、カイルは思考に耽っていた意識を浮上させ、部屋に足を踏み入れる。

「見てくださいカイル様! 王子、とってもお似合いですよね!」

 自分のことみたいに喜びながら、リオンは脇へと場所をずらし、カイルに王子の姿を見せた。はにかんでいる王子に、カイルは絆されかけ、だがその格好に開いた口が塞がなくなる。

「なっ、ななな何ですかその服!」

 王子の服はぴったりとした、動きやすいものだった。今までのゆったりしていた王族服や、お忍び用のそれとは違い、身体の線が露になるものばかり。
 革を張り合わせた上衣に、見慣れた腰帯。膝上の丈がかなり短いキュロット。手や足はぴったりとした布で覆われて、肩や背中はマフラーで多少隠れているとは言え、むき出しの素肌を晒していた。
 あの軍師は一体何を考えている!
 羽扇で口元を隠し、涼しく笑むルクレティアに、カイルは内心抗議した。彼女のことだ。軍を有利な方向へ持っていくために、使えるものはどんどん使っていくんだろう。
 ――母親譲りである、ティーの風貌さえも。

「カイル……、どうかな、これ。似合う?」

 固まるカイルの前に、おずおずとティーが前に立った。
 恥じ入りながらわずかに小首を傾げ、尋ねるティーはとても可愛い。他の人間が見たら、押し倒したくなる輩が出てくるに違いない。カイルも例外ではないが、ぐっと理性を総動員して我慢する。これで仲間にならないか、と頼まれたら断る方がおかしい。

「もちろん似合っ……」

 唐突にカイルはシグレを思い出した。
 これからティーがずっとこの格好なら、シグレが見るのもまた確実。
 柔らかな脚線。白い肌が眩しい肩や背中。細さを強調するぴったりとした衣装。
 見せたくない。カイルは強く思う。特にシグレになんて見せてたまるか。こんな、ある角度からでは誘っているようにしか見えない服装のティーを、シグレの目に映すなんて。
 嫉妬の熱が一気に上がり、カイルはつい口走る。

「……ていません! 大却下です!!」

 力強く断定したカイルの発言に、部屋の空気が凍る。


「もし、好きな奴に自分の服を見せて、似合ってない、って言われてヘコまない奴が居たら見てみたいもんだ」
「お、仰るとおりでー……」
「なら、ティーが怒るのも頷けるだろ? あれからずっとアンタと口を聞いてないみたいだし」
「そっ、それは、他の……って言うかシグレなんかにティー様のあんな格好見せたくないですから!」
「………」

 口を引き攣らせて笑い、サイアリーズはカイルの手首を掴んだ。そのまま、力の加減もせず捻り上げ、カイルは「いたっ、痛いですって!」と悲鳴を上げる。
 ファレナの国宝の一つ、日輪圏を手に戦うサイアリーズは、見掛けによらず力が強い。あらぬ方向へ曲ってしまいそうな腕の痛みに、カイルはすぐ降参する。

「ふんっ、だらしないね。少しは抵抗したらどうだい。男だろっ!」
「無茶言ってません?」

 解放された腕を擦りながら、カイルはおずおず意見を述べる。女王騎士が王族に手を上げるなんて、以っての外だ。
 だが甥思いの叔母には、カイルの意見など関係ないらしい。腕を組み、絶対零度の双眸でカイルを射竦める。

「あんたのことだ。大方ティーの格好を他の奴等に見せたくなかったんだろ?」
「だってあの服、色々丸分かりじゃないですかーっ! 細い肩とか、身体の線とか……。あんなん、目に毒ですよ!!」
「だからって、傷つけてもいいって思っているのかい」

 カイルの情けない言い訳を、サイアリーズはぴしゃりと撥ね除ける。

「いつか言った筈だよ。あんたが何をしようが、何を言おうが、あたしは口出しするつもりはない。だけど不用意に傷つけることはするなって」
「……分かってますって」

 自分のやり方は、いつか多大な傷をティーの心に負わせる。サイアリーズはその時が来るまで、余計な重荷を出来るだけ背負わせたくないんだろう。だから失言をして、ティーを傷つけたことも、サイアリーズにとって許し難い行為になる。
 神妙な顔つきのカイルに、ようやく反省したと悟ったサイアリーズはやれやれと肩を竦めた。

「ま、ずっととは言わない。あの子の機嫌が治るまで、当分近づくんじゃないよ」
「………」

 遠くでリオンが手を振り、カイルたちを呼ぶ。見てみれば、ティーたちとの距離は随分離れていた。「早く来いよ!」と苛立ち大声を出すトーマに、やれやれ、とサイアリーズは嘆息して、カイルを見る。

「あの子も何かやらかさなきゃいいが。――あんたみたいにね」



07/02/10