「――あれ?」
訪れた探偵事務所には誰も居らず、訪ねたティーは首を捻った。「すいません。誰か居られませんか?」と呼んでも、やはり返事はない。
部屋に数歩進み入っても静かで、やってきたティーたち以外の気配は感じられなかった。
「フヨウさんも居ないなんて珍しいですね……」
「うん……」
珍しさに不思議がるティーとリオンとは違い、カイルは安堵して胸を撫で下ろした。気を張り過ぎていたせいか、拍子抜けする。
「一回出直しましょうよー。いつ帰ってくるか分からないですし、留守の家にいつまでも上がってたら失礼ですしねっ」
「……カイル、嬉しそうだね?」
頻りに帰ろうと促すカイルに、ティーは冷たく半眼を向けた。
「そっ、そんなことありませんよー」
胸のうちを読まれたかのような問いかけ。カイルは冷や汗を掻きながら、愛想笑いを浮かべた。
「オレは本当のことを言ったまでですって!」
「…………」
「でも確かにいつまでも居る訳にはいきませんよ、王子」
半分自棄なカイルの意見に、そっとリオンが賛成した。流石にティーも無礼だと分かっていたらしく、「……そうだよね」と頷く。
「早くお礼が言いたかったんだけど……。また今度にしようか」
願ってもない言葉。シグレに会わずに済んで、カイルの表情は一気に明るく綻んだ。ティーの後ろに回りこみ、肩を押す。
「じゃあ早く戻ってロードレイクに行く準備を――――っ!?」
急に震えを感じるような気配を感じる。カイルはティーを自分の後ろへやると、扉を見つめた。陥落した太陽宮で嫌と言う程味わった、冷たく心臓を止めてしまいそうな気配。
「カイル?」
怪訝に見上げるティーに、カイルは立てた指を唇に当て「静かに」と注意した。
「王子、そこを動かないでください」
リオンもまた、カイルと同じく扉の向こうにある気配を警戒し、長巻の柄を取る。カイルもまた柄に手をかけ、いつでも抜けるように構えた。
戸が、ゆっくり開く。
新たにやってきた来訪者は、いきなり武器を手にした先客に出迎えられ、わずかに目を見張る。だが、すぐ落ち着きを取り戻し、そのまま臆さずに身を部屋へと滑り込ませて扉を閉めた。
ゆっくりとリオンに、感情のない目が向けられる。
「これは驚いた。ここで君に会えるとは――ミスマル」
呼ばれた忌み名に、リオンは大きく目を広げ「――ミカフツ!」と来訪者――ドルフを怒りを剥き出しにして睨み付けた。
「止めてください! わたしはそんな名前じゃありません!!」
声を荒げ、ミスマルと言う名を拒否するように、リオンは頭を横に振る。あまりの怒りように、カイルは驚いた。温厚な彼女が、ティーに関すること以外でここまで怒るなんて、初めて見る。幽世の門で関わった人間に会ったからなのか。
ミスマルが、かつてリオンが居た暗殺集団――幽世の門で呼ばれていた名前だと、カイルはサイアリーズから聞いた。ならば、その名は、忌わしい記憶が付きまとう、リオンにとってもう関わりたくないものだろう。ドルフの存在は、それを増長させる。
「…………」
カイルはティーとリオンの前に立ち、ドルフからの視線を遮る盾になった。
「で、一体何しに来たのかなー?」
にっこり笑い、カイルは剣呑に言った。答え次第ではいつでも剣を抜けるように、柄を握る力を込める。
だがドルフはあくまでも冷静に答えた。
「……僕はただある人に会いに来ただけだよ。でも、丁度良かった」
ドルフはカイルの肩ごしにリオンを見た。
「君にも話があるんだ」
「――何です?」
「戻ってこないか?」
「なっ……!?」
リオンは息を飲み、絶句した。震える身体を、ティーが心配そうに見つめる。
「そんな話! わたしが聞くとでも思ってるんですか!」
リオンは怒り、カイルを押し退け前に進み出る。昂る気持ちを抑えられないまま、ドルフに噛み付く。
「わたしはっ、わたしは! 王子の護衛なんです! 王子を守ってくれと、フェリド様から仰せつかっているんです! その邪魔をすることは誰であっても許しません!!」
「リオン……」
感情のまま叫ぶリオンを見て、ティーは寂しげに口を噤んだ。置き去りにされたような子供みたいな姿で立ち竦む。
カイルはかけようとした言葉を飲み込み、そっとティーから目を反らした。
「――そう」
左程がっかりした様子もなく、ドルフは落ち込んでいるティーに視線を転じた。右手を胸元へ引き、手首を返す。すると何処から取り出したのか、ドルフの手に投げナイフが握られていた。細い刀身が、冷たく光る。
「つまり……王子殿下がいなくなればいいんだね?」
「なっ!」
淡々と紡ぎ出された物騒な台詞に、カイルは瞠目した。反射的にティーの前に立ち、ドルフから姿を見させないようにする。ドルフは、太陽宮でティーの命を狙った。ここでも本気でそうするなら、阻止しなければならない。
「……させません」
殺気を隠さず、リオンは長巻を抜いた。
「貴方がやると言うのなら、わたしは貴方を本気で殺します!」
「…………自分で気付いてないのかい? ミスマル」
ドルフは持っていたナイフを、静かに下ろす。
「今の君の目……、僕達と同じだよ」
多くの人間、命を奪ってきた暗殺者たちと同じ。暗く、目の前の標的を殺すことだけに固執して。いつ喉元に刃を走らせようか、殺気で血走る目を向ける。
リオンの目は、正にその暗殺者たちと同等のもの。
「何とでも言ってください」
リオンは否定しない。ドルフを見据えたまま、はっきり言った。
「わたしは、王子を守るためなら、獣にでも、鬼にでも、何にでもなります!!」
それが、フェリド様のご恩返しに繋がるのなら。
――何だって。
「止めるんだリオン!」
カイルの背を押し、そこからティーが抜け出す。両手を大きく広げ、リオンとドルフの間に割って入った。悲痛な面持ちで「止めるんだ」と重ねて言い、首を横に振る。
「そんなことしても……、父上は……喜ばないよ、リオン」
「…………っ」
ティーの言葉に、リオンは我に返った。悲しげなティーの表情に「……王子」と睫毛を震わせ目を閉じる。昂る怒りと殺気を裡へと押しやって、潰した。
ティーの言う通りだ。ここで怒りに捕われドルフを殺していたら、フェリドは喜ばず逆に咎められるだろう。生きていてくれたなら、そうしていたに違いない。
何とか平静を取り戻し、リオンは目を開ける。ゆっくり笑ってみせ、王子、とティーを呼んだ。
元通りになったリオンに、ティーは広げていた両手を下ろす。
その時。
「――あれ、お客さんですか?」
外から船内を窺う声が飛び、緊迫した空気を壊していった。
ドルフはティーを殺す気が削がれたのか、ナイフを袖口へ仕舞った。動向を窺うティーたちを一瞥し、無言のまま出ていく。
「おや、お客さんですか」
船から出てきたドルフに、シグレとサギリを連れ立って帰ってきたオボロは人の良い笑みを浮かべた。「お待たせしてすいません」と謝り、ドルフの元へ歩み寄る。
シグレが、じっとドルフを凝視していた。
ドルフもまた、シグレを見る。だがすぐに視線は反らされ、オボロの方を向く。
「ようやくお帰りですか」
「はい。ご依頼の仕事ですか? 私は――ええと」
胸のポケットを弄び、オボロは見つけた名刺をドルフに差し出す。四角く白い紙切れを見つめ、「何ですか、これは」と無感情に訊ねた。
「あれ、ご存知ない? 名刺って言うんですけど。ほら、ここに私の名前が――」
「必要ありません」
名刺に書かれた名前を指差すオボロに、ドルフは言葉をすげなく遮った。
「貴方のことは、知っていますから」
「おや、そうですか……」
あっさり納得し、オボロは名刺を仕舞う。
「…………シグレ」
サギリがさり気なくシグレの羽織を引いた。不安そうにオボロとドルフを見ている。ああ、と頷きシグレもまた、ドルフの目に寒気を覚えた。
オボロは気付かないのか。ドルフの目が、底知れぬ闇を秘めているのに。
あの目はまるで――――。
「くそっ……」
いつもの調子を崩さないオボロに苛ついて、シグレは舌打ちをする。
「……今日は貴方たちに話があってきました。貴方とそれから」
ドルフは、注意深く自分を見ているシグレを見返した。
「そちらの方にも、聞いていただきたいんです」
「…………?」
オボロは兎も角、ただの調査員でしかない自分にどんな話があるのか。シグレは不思議になった。一体何を考えているんだろう。
にっこりとオボロが笑う。
「はいはい、探偵のご用命でしたら喜んでお伺いしますよ。そうだ、よろしかったら中で――」
「オボロさん!」
扉が開き、血相を変えたリオンが飛び出した。後を追って、ティーとカイルも外に出てくる。シグレの姿にティーは安堵して、カイルはむっと顰めっ面になった。
「おや、王子殿下にリオンさん。それにカイルさんも。今日は朝からたくさんお客さんが来られてたんですね」
「駄目です! この人を入れたら!」
来客の多さを素直に喜ぶオボロに危惧を抱いて、リオンは激しく声を荒げた。ドルフはティーを殺しかけた。また妙な考えを起されても困る。これ以上、同じ場所にドルフを留まり続けさせたくない。
「この人は――」
「今日は止めておきます」
一方的にドルフが話を切り上げた。唐突に言われ、リオンは「な……」と言葉を失い唖然となる。
「また、機会があったら。会いに来ますので。それでは、失礼します」
ドルフはそれだけを言い、何事もなかったように立ち去っていく。途中すれ違ったシグレを、一瞬だけ目に焼きつけるように凝視して。
「……変な人でしたねえ」
ラフトフリートを出ていくドルフを見つめながら、オボロは軽く肩を竦めた。そしてティーたちに訊ねる。
「何か、あったんですか?」
「…………」
三人は黙した。ドルフが、ゴドウィン側の者だと言うべきか、迷う。ファレナの闇の象徴である組織、幽世の門の暗殺者だと。
そんな人間がわざわざオボロを訪ねてくるなんて、知らせた方が良いんじゃないか。
「あの」
「リオン」
意を決して口を開きかけたリオンを、ティーが手で制した。どうして、と目で問いかけるリオンに緩く首を振る。
リオンははっとして「い、いえ。何でもないんです」とオボロに返した。
ティーは、災いが無闇に無関係の人間へと広がることを恐れる。ここでオボロたちにドルフの正体を明かしたらどうなるか。またいらないことに巻き込まれて、ティーは心を痛めるだろう。
だが、オボロたちがあの時帰ってこなかったら。もしかしたら、ティーが負傷していた可能性もあった。
「あ、ありがとう……ございました……」
「はて? 私は何もしていませんけどねえ」
いきなりリオンから礼を述べられ、オボロは首を傾げてから笑った。
「ま、ここで立ち話もなんですから中へどうぞ。もうすぐフヨウさんも帰ってきますし、王子殿下の用件をお伺いしましょう」
どうぞどうぞ、とオボロに連れられ、ティーはリオンと一緒に再び船室へと入っていく。
カイルは突っ立ったまま、ドルフが消えた方をじっと見ているシグレを見た。静かに微笑みを浮かべているサギリに気付き「お前も行ってろ」と優しく言う。その姿に初めて会った時の殺意は微塵も感じられない。
サギリはこくりと頷き、カイルの横を通って船室へ戻った。そしてシグレは尚も微動だにせず、気怠るげに同じ方向を見つめる。
改めて見ると、この自分よりも小柄な男が、屈強な暗殺者を何人も倒したとは結び付け難い。太陽宮では暗く分かりにくかったシグレの姿形を、カイルは凝視する。
「…………」
シグレは息をつき、船に戻ろうと向きを変えた。そして戸口に立ったままのカイルに気付き「……何だ、入らねえのか?」と抑揚のない声で言う。
「…………」
「入らねえなら退いてくれ。俺が通れねえんだよ」
「…………」
「おい――――」
「あんた、一体何もの?」
カイルは率直にシグレに聞いた。このまま有耶無耶と謎を抱えていたら、頭が痛くなってしまいそうだ。
「…………」
固唾を飲んで答えを待つカイルに、シグレは素っ気無く答える。
「別に」
そして邪険に目を丸くするカイルを脇へ押しやり部屋に入ろうとして、肩ごしに振り向いた。
「……俺は何処にでもいる、人によくこき使われる苦労人だよ」
そうして部屋に入っていったシグレに、カイルはぽかんと口を開け、むくれた。
「どこにでもって……。探偵っていう時点で普通じゃないよね……」
はぐらされた気がしながらも、カイルは仕方なく扉を潜り、ティーたちが居る船室へと入った。
「――殿下、喜んでいましたね」
ティーたちが帰り、出したお茶を片付けるフヨウを微笑ましく見つめながら、オボロは言った。
向いのソファに背を凭れて座っていたシグレは「そうかぁ?」と気怠るく呟く。
「わたしも……そう、思う」
シグレの隣で、サギリがそっと小さくオボロの言葉に頷く。
「シグレが、王子様の軍に入るって聞いて、とても嬉しそうだった」
「ふん…………」
身を起し、シグレは膝に頬杖をつく。
「軍に入るのは俺だけじゃねえ。オボロのおっさんやフヨウさんもだろ。……もっと正確に言やぁ、俺だけに頼んでたんだ、あのねーちゃんは」
人の悪い軍師の顔を思い出し、シグレは口元を歪める。
「ですがそれは、私たちもついてくると見越しての誘いだったと思いますよ」
「…………」
サギリが俯いた。
「……ごめんなさい」
「どうしてサギリが謝るんだ?」
「だってわたしは王子様の軍に入らないから」
あのな、とシグレは頭を掻き、唸りつつ言う。
「あの時も言ったろ。お前が謝ることなんかない。ティエンもそれで構わないって言ったじゃねえか」
サギリだけがハイティエンラン軍に入らない、と聞いてもティーはまったく怒らず、それを了承してくれた。無理強いする訳でもない。ただ徒に戦に巻き込ませたくない、と逆にサギリを気遣ってくれている。だから、サギリが気にすることは何もない。そうはっきりティーは言っている。
でも、サギリはさらに言った。
「でもそうしたら……、わたしの分までシグレが人を」
「俺はいいんだよ」
不安げな瞳を向けるサギリに、シグレは優しく笑いかけた。
「俺はどうってことないさ。だからサギリはそのままここにいればいい。――そうだろ?」
「そうですね」
シグレに水を向けられ、オボロは即答した。二人のやり取りに暖かい眼差しで笑う。
「サギリさんの分は私やフヨウさんが手助けしますし、シグレ君にばかり重荷を背負わせないよう、手を尽くしましょう」
「――――俺は別に一人でも」
「シグレ君」
ゆっくり首を横に振り、オボロはシグレをやんわり窘めた。
「そんなことは、言わないでください。私たちは――家族なんですから」
「…………」
胸が、むずむずする。暖かく得体の知れない感情がそこに宿り、シグレは酷く落ち着かなくなった。
こんなものとは、無縁でいたい。
関わりたくないのに。
「シグレ君」
「――――勝手にしろ」
オボロの眼差しや、胸に灯る暖かいもの。それらから目を背けるように、シグレはそっぽを向いてぶっきらぼうに言った。
本当はそんなものを欲しいとは思わない。持つ資格だってない。
だが、胸の奥に宿るものは確かに暖かくて。
紋章で吹き飛ばせればいいのに、とシグレは左手の甲をそっと撫でた。
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07/02/07
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