「――では、これからオボロさんたちは王子の――ハイティエンラン軍に協力していただく、と言うことでよろしいですか?」
涼やかな声に、シグレは我に返りゆっくり面を上げた。羽扇を手にした女性と、オボロが向かい合って話している。オボロの後ろには、サギリが静かに微笑み、二人の様子をじっと見ている。
サギリの隣に胡座をかいて座っているシグレは、誰にも聞こえないように、そっと溜め息をついた。
ラフトフリートを率いる旗艦、ダハーカの最上部に位置する大広間。そこで幽閉されていたアゲイト監獄から脱出し、ティーの軍師となった女性――ルクレティア・メルセスが、羽扇を持つ手を変えて「本当に構いませんか?」とオボロに訊ねた。
「シグレ君だけでも、構わないんですよ?」
いえ、とオボロは首を横に振る。
「ロードレイク暴動の真実を知り、ここまで関わった以上、知らんふりなんて出来ません。それに王子殿下を助けることは、女王陛下やフェリド様への恩義を返すことにも繋がるでしょう。微力ではありますが、大儀が果たせるよう協力させていただきます」
「…………」
サギリが俯く。それを見て「お前が気にすることは何もねえからしっかりしとけ」とシグレが言った。
探偵事務所の面々がティーへの協力を承諾する中で、ただ一人、サギリだけはそれを拒否した。軍に身を置くと、どうしても何らかの形で戦争に関わってしまう。その中で、人を殺したくない、とサギリは静かに微笑んで言った。
自分だけ拒否したことで罪悪感があるんだろう。強制ではないから、堂々としていればいい。
俯いたままのサギリを横から見ていると、ルクレティアがつい、と視線を向けた。
「では、これからよろしくお願いしますね、シグレ君」
「……なんで俺に言う」
「何となくです」
的を得ないあやふやなルクレティアの発言に、シグレは「オボロのおっさんに言うべきだろが」とにべもなく返した。第一、探偵事務所の主であるオボロに言うべき言葉だろう。
「それだけ頼りにされているんですよ」
オボロは何も気にせず笑う。
ハイティエンラン軍への参入が正式に決まってから、シグレたちは簡単な打ち合わせを終えた後、揃ってその場を後にした。シグレは一番後ろを歩き、階段を降りるオボロの背中をじっと見つめる。
「シグレ、どうしたの……?」
視線に気付いたサギリが肩ごしに振り向き、小首を傾げて訊ねる。
「……いいや、なんでもねえ」
シグレは曖昧に言葉を濁し、口を噤んだ。
朝からカイルは深く悩んでいた。昨日からろくに寝ておらず、東の空から太陽が上ると同時に、ティーの部屋へと向かう。
だが、そこに入る勇気はなく。扉の一歩手前で立ち止まったまま。
昨夜、ロードレイク暴動の真実を知って眠れないティーを抱き締め、カイルはその胸に押し込めた辛い心情を無理矢理吐露させた。
サルム・バロウズが犯した罪――ロードレイクの民衆を煽って東の離宮を襲わせ、黎明の紋章を奪ったことを考えれば、どれだけ辛かったか。ロードレイク無くしては産まれてすらいなかったティーにとって、あまりにも残酷な真実。
腕の中でティーは、勝手に争う貴族に対する憤りをぶちまけてくれた。だが、それをすぐに悔いるように、カイルから逃げた。
振り返りもせずに走り去ったティーの手に光る、紋章の光。全ての元凶の元となった黎明の紋章は今、ティーの左手に宿され、主に呼応するように光を零す。まるで、泣いているように。本当はティー自身が、そうしたかったんじゃないかと思えるような。
どうしているんだろう。
カイルは気になってしょうがない。だけど昨夜のことがあるせいで、何となく気まずい。無理矢理自分の気持ちを言わせるように強制して、ティーを傷つけたから。顔を合わせた途端、逃げられそうな予感がする。
会いたい。でも、逃げられたら。
二つの考えがぐるぐる巡り、カイルは忙しなく部屋の前を行き来する。そわそわと歩く度に、気合いを込めて結んだ髪の結い紐が揺れた。
「あー、どーしよっかなー」
いつまでたっても勇気の沸かない自分に、半分自己嫌悪しながら、カイルは爪を噛む。故郷では迷わず考えず動いてばかりだったのに、ティーのことだけに関しては、悩みっぱなし考えっぱなしで頭が破裂しそうになる。
だが、考えを放って逃げる、という考えはカイルには端からない。このままだとティーが部屋から出てくるまで落ち着きなく廊下を歩きそうなカイルを、一人の少女が声を掛けて止めた。
「どうかされたんですか、カイル様?」
「あ、おはよーリオンちゃ……」
振り向いてリオンに挨拶を交そうとしたカイルは、彼女の後ろにいるティーを見て、思わず驚き肩を震わせた。てっきり部屋に居るとばかり考えていたので、ぽかんと口を開けティーを見つめる。
ティーは困惑し、決まり悪げにそっぽを向いた。やはり昨夜の出来事を気にしているらしい。
カイルは顔を反らしたティーの、細い首筋の痛々しさに眉間に皺を寄せ、すぐに戻した。昨日抱き締めた感触が思い出せなくて、触れたくなる。だけど触れたらすぐに折れてしまいそうで、怖い。
「おはようございます、カイル様」
リオンだけがいつもと変わらない。快活に挨拶し、礼儀正しく頭を下げる。知らないって言うのは楽だよな。そう思いつつ「おはよう、リオンちゃん」と改めて挨拶をしたカイルは、そのままの勢いで「ティー様も、おはようございます」と続ける。
「…………」
ティーは横目でカイルを見る。瞼を閉じ、唇を引き結ぶと気まずさを払い飛ばすように面を上げ、作った笑みを浮かべた。
「おはようカイル。早起きだね」
「……そりゃーもう! だって今日から本格的に活動開始なんですから、朝寝坊なんて出来ませーんっ」
ね、と戯けるカイルに「カイル様ったら」とリオンは手を口に当てくすくす笑う。
「ティー様だって、気持ちが昂っているからそんな早起きじゃないんですかー?」
「きっちり着替えているカイル程じゃないよ」
女王騎士の鎧に身を固めているカイルに、まだ寝衣のままのティーは「そこまでカイルは準備良かったかな?」と揶揄る。太陽宮にいた頃、欠勤になれば昼を過ぎても寝ていたこともあったので、しっかりしている姿は不思議だった。
「えー、と」
まさかティーと話すのが気まずくて、気合いを入れる為に着替えた。なんて言えない。カイルは苦し紛れに「オレにも真面目なところ、あるんですよー」と言い訳する。
ティーは眉を潜め怪訝な顔つきになった。じいっとカイルを凝視して「真面目なカイルね……」と明後日の方向を向く。
「雨が降らなければいいけど」
「王子ったら」
軽口にリオンがまた笑う。それにつられてカイルも笑った。だが、心は冷静にティーを観察する。
意識して、軽口を叩いている。カイルは直感した。人を揶揄するなんて殆どないのに、ティーは今意識して言葉を選んでいる。見せる笑みは昨日見たものと遜色なく、綺麗な作り笑顔。平気なふりをして、カイルからの追求を拒む。
昨夜のことを、なかったことにしたいのか。
あの時、言った気持ちを聞かなかったことにしてしまいたいのか。
ざわざわとカイルの心が掻き立てられた。
口には出さない。何も知らないリオンが笑っているから。言ってしまえば、リオンはティーに事情を聞き、ティーは逃げてしまうだろう。
カイルは笑う。慣れない作り笑いは、頬が強張ってとても疲れた。
よく、あんなに綺麗な顔で笑える。ティーの笑顔に、カイルは感嘆する。すっかり板について、ぱっと見ただけではそれが作ったものとは気づけない。
そこまで慣れるのに、きっと辛いことや哀しいことがたくさんティーの身に起きたんだろう。可哀想だとカイルは思うが、本当は止めてほしかった。
だって、全然似合ってないから。
一度部屋に戻ったティーは、いつもと同じ、橙を基調とした服を着て出てきた。それは太陽宮にいた頃から着ていた服で、カイルは首を傾げる。
「たしか新しい衣装貰ってませんでしたっけ?」
確かラフトフリートに本拠を移し、ロードレイクを助ける方針を固めたティーに、いつ用意したのかルクレティアが衣装を渡していたはずだ。ハイティエンラン軍の主として、まずは形から入るために。
その衣装がどんなものか知らないカイルは、一番最初に見れるかもしれない期待を裏切られ、がっかりする。
「また時間があるし……、やっておきたいことがあって」
「やっておきたいこと?」
不思議そうに訊ねるカイルの横で、リオンが控えめに答えた。
「オボロさんの所に行くんです」
「オボロって……探偵の?」
はい、とリオンは頷いた。
バロウズ家の悪事を暴き、真実の一端へティーを導いたやせ長の男をカイルは思い出す。一見穏やかな表情をしていたが、血の色に似た目は底知れない光を宿しているようで、ぞっとした。そう言えば、つい最近同じような感じを味わったような。
「ロードレイクで暴動の原因を突き止めてくれたこと、それに……カイルを助けてくれたお礼をちゃんとしなくちゃいけないしね」
「へっ?」
ティーの言っていることが分からなくて、カイルはぽかんと口を開けて聞いた。オボロに助けられた記憶なんて、どこにもない。
「オレを、助けた? 何でです」
「忘れたの?」
呆れたようにティーは言った。
「オボロさんから聞いたんだよ。シグレがわざわざ太陽宮まで行ってカイルを連れ出してきたって」
「――っ!?」
『テメエを迎えに来たんだよ。ティエンの事を考えない、大馬鹿野郎をな』
『俺はアイツが傷付くのはゴメンだ。だからティエンを優先させる。お前の事情なんか、知ったこっちゃねえよ』
「っあああーー!!」
カイルは太陽宮で出会った男を思い出し、いきなり絶叫した。忘れてしまいたかったのに、ティーのお陰で見事に忌わしい記憶が蘇った。
「いきなりなに!? 大声出して!」
驚き、後ずさるティーは挙動不審なカイルに怯えつつ訊ねる。カイルは驚きが覚めやらぬまま「あ、あいつっ」と言葉に詰りながら聞いた。
「あいつもっ、探偵事務所の奴なんですかっ!?」
「……もしかしてカイル様、シグレさんのこと知らないんですか?」
リオンが目を丸くして、手を口元に当てる。
「シグレさんはカイル様を知っているようでしたから、てっきり……」
「知らない知らない。ぜーんぜんっ、知らない」
そもそも太陽宮でシグレは、一言も名乗りを上げていない。カイルもリムスレーアを助け、ティーの元へ連れていくことだけに頭が一杯で、シグレのことを聞く余裕もなかった。思い返せば、ほぼ喧嘩腰の会話しかしていない。強引に脱出させられた後は、険悪な雰囲気になり、どちらも無言だったし、バロウズ家の領地に入った途端、カイルは船を降ろされてしまった。
『ティエンを泣かすなよ』
それだけをいきなり降ろされ呆然とするカイルに言い捨て、シグレはとっととフェイタス河を下っていった。その姿は、さもティーの理解者だと言わんばかりの風情があって、カイルのいら立ちを増長させられたのも記憶に新しい。
なるべく思い出さないように努めていたのに。努力が水の泡になって、きりきりとカイルの胃が痛む。
まさかあの男――シグレが同じラフトフリートに居るなんて。うわあ、と嫌悪感から来る寒気に震え、カイルは自分を抱き締めるように腕を回す。なんて嫌な巡り合わせなんだ。
「そっか……」
ティーは震えているカイルをちろりと見て、頷いた。
「だったらカイルも一緒にお礼を言いに行かないとね」
「えっ……」
ティーの提案に、カイルは頬を引き攣らせた。
「ど、どうしてオレもなんですかー!?」
「当たり前でしょ?」
すげなくティーは、半眼でカイルを睨んだ。
「助けてもらった張本人なのに。……まさか、お礼も何も言わずにそのまま済ませようとか思ってたんじゃないよね?」
「………」
あまり、と言うか絶対に行きたくない。
返事を渋りながら、カイルは目で咎めてくるティーを見ながら、心中で本音を呟く。顔を合わせてどんな会話をするのか見当もつかない。それに敵視している人間に、礼なんて屈辱にしかならない。
だが、ここでティーを怒らせても、良いことはないだろう。前よりもティーとの間で壁を感じる中、怒らせてしまったら、本気でこっちには見向きもしなくなって、シグレにばかり頼ってしまう可能性が高くなる。
ざっとカイルは青ざめた。頭を過った考えが、現実になってしまいそうで怖くなる。
「……分かりました。行きます」
カイルは折れた。シグレに会うのは非常に嫌だが、今はティーの言うことを聞くしかなさそうだった。
態度を軟化させたカイルに、ティーは満足して笑った。「それじゃあ」と降りる階段へと足を向ける。
「決まったところで行こうか、オボロさんの所へ」
「はい!」
「はーい……」
元気な返事のリオンとは対照的に、カイルはおもい空気を背負ってげんなりと答えた。
とんだやぶ蛇だったかも、とカイルは己の不幸を呪う。
ティーを迎え、ハイティエンラン軍の本拠地となったラフトフリートは誰も皆、慌ただしかった。だが、人々の浮かべる表情は明るい。ゴドウィンに立ち向かう新しく灯った希望を見い出して、生き生きしていた。
総ては祖国をゴドウィンから救うべく立ち上がった王子――アル・ティエンの名の元に。
「………………」
活気溢れる船団を、男が一人丘から見つめていた。暗い色をした感情のない瞳で、船団へと視線を彷徨わせ、何かを探している。
「…………見つけた」
男は一隻の船を見つけた。他のよりも少し大きい、戸口に帽子と喫煙具の絵が描かれた絵の看板が取り付けられている、船。
「………………」
男は瞼を閉じた。常よりも深く呼吸を繰り返し、瞼を開く。そして見つけた船をもう一度見つめ、ラフトフリートへと歩き始めた。
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07/02/03
07/02/04 文章追加
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