ソルファレナで、ゴドウィンが謀反を起してから、数日が経った。
 争いから逃げるように、フェイタス河を下っていた船団、ラフトフリートから一隻の船がゆっくり離れていく。川上へと船首を向け、風もなく穏やかな川面を、船は滑らかに上っていった。
 船尾の端にシグレがしゃがみ込んでいる。縁へと身を凭れ、左手の甲を外にして突き出し、風の紋章を発動させていた。光る紋章から風が吹き、船をゆっくり押していく。揺れないよう、巧みに力を加減しながら、シグレはちらちらとある方向を見ていた。

「………」

 使う必要のなくなった櫂を立て掛け、サギリはシグレと同じ方向を向いた。昼間の明るさでも良く見える白く眩い光が、柱となって空へと伸びていた。その柱の下には、ファレナの王都ソルファレナがある。
 シグレたち、オボロ探偵事務所の面々もそこにいた。名君と讃えられた女王アルシュタートが、夫であり女王騎士長のフェリドと共に死に、ゴドウィンの手に落ちる前日まで。
 頻りにソルファレナの方向を見つめるシグレの後ろに、そっとサギリは立った。いつもと変わらぬ微笑みを浮かべて、だが心配している声音で呟く。

「………王子様のこと、心配?」
「………」

 シグレは、答えない。



「あれからずっとソルファレナを気にしているみたいです。……シグレちゃん」

 船室で机に向かっていたオボロに茶を差し入れ、フヨウは心配そうに窓から、シグレたちを見た。船を紋章で動かしているシグレが、何となく気落ちしているように見える。

「元気もないですし……。サギリちゃんも心配していて、わたしはどうすれば」
「フヨウさんはそのままでいてください」

 何もしてやれず悄気るフヨウを、オボロは優しく慰めた。今までだって朗らかなその人柄と笑みに、どれだけ救われたか、計りしれない。
 でもフヨウは表情が晴れず、不安そうにオボロを見上げる。

「フヨウさんが気に病む事ではないんです」

 重ねてオボロは言った。

「ソルファレナ――いえ、太陽宮に思い入れのある人間は多い。シグレ君もそのうちの一人なんです。その思い入れが、大切で護りたいものであればある程、不安もまた強くなるんでしょう」
「そう、ですね……」

 フヨウは持っていた盆を胸元で抱き締め、唇を噛んだ。シグレが落ち込んでいる理由――太陽宮で思い入れのある存在をフヨウは知っているが、それを解決する手立てを持っていない。自分一人では彼の会いたい人を連れてくるなんて無理だった。

 アル・ティエン。

 シグレが会いたいと思っているであろう、人物。アルシュタートとフェリドの間に生まれた、第一子。
 母親譲りの美しい風貌と、父親譲りの芯の強さを合わせ持った子は、男であるが故に、王位継承権を持っていない。多くの貴族から『不要の王子』と蔑まれ、それでも優しく育った王子。
 そんなティーとシグレに昔どんな事があったのか、知らない。だが、文句を言いながら太陽宮に出向く度ティーに会っている優しい姿は知っている。
 噂では、ティーは女王を暗殺したとされている女王騎士、ゲオルグ・プライムに叔母のサイアリーズ共々人質にされていると聞いた。ゴドウィンはティーたちを保護する名目で捜索しているが、真実は違う。ゴドウィンにとって、女王殺しの元凶を知っているティーたちは邪魔だ。見つけたら直ぐに殺されてしまうだろう。
 もし、ティーが死んでしまうようなことがあれば。シグレはまた、出会った頃のように戻ってしまうんじゃないか。思わず浮かんだ考えを振り払い、フヨウは「王子様、無事だといいですね」と自分に言い聞かせるように言った。

「そうですね……」

 知らず震えているフヨウの指先を見つめ、オボロはそっと目を伏せる。



 辿り着いたレインウォールでは、逃げ落ちたティーの話で持ち切りだった。無事だと言うことにシグレは安堵したが、噂の内容に心が曇る。
 ゴドウィンに追われ、ティーたちはレインウォールのサルム・バロウズに保護された。王子が、自らの領地にやってきたことで何か思い付いたのか、サルムはリムスレーアとソルファレナを奪還する名目を付け、軍を起す。目まぐるしく変わる状況に、ついていくのがやっとのティーを、軍主に据えて。
 卑劣な手で全てを奪われた、哀れな王子。そう謳い、自らの正当性を押し出す。そうすれば民の同情を得て、何かしらの利益を得ようと考えているんだろう。
 レインウォールの住民も多くが、サルムと同じよう考えていた。戦によって武具が売れれば相当な利益になる。懐に転がり込む金に目が眩み、皆舌舐めずりをしてティーの活躍を待ち望んでいた。
 シグレは余りに勝手なレインウォールの考えに呆れ、憤った。ティーは両親を亡くし、妹を奪われ、住む場所を追われた。その心は深く傷付いているはずなのに、ここの人間は些細なこととして切り捨てている。
 いら立ちに髪を掻きむしりながら、シグレは坂の階段を降りていく。途中の通りで「ダメ王子」と調子をとって歌う子供とすれ違い、怒気も露に睨み付ける。
 子供はシグレを汚いものを見るような目をして怯え、走って逃げた。
 何処に行っても、言い様に扱われてしまうティー。シグレはやるせない虚しさを抱きながら、街の出入り口近くにある船着き場へ戻った。
 岸に船を止め、流されないように紐を結わえ付けていたサギリが、シグレに気付き出迎える。

「――どうだった?」

 シグレは苦虫を噛み潰したように唇を歪め、サギリの問いに答えた。

「生きてはいた。だがバロウズのタヌキが、ティーの名前を使って好き勝手していやがる。あいつの意志なんざ、まるっきり無視だ」

 さっきまで聞いていた、住民たちのくだらない儲け話の数々を思い出し、シグレの機嫌は更に悪くなる。「虫酸が走るぜ」と吐き捨て苛立った。
 それを黙って聞いていたサギリが、再び訊ねた

「……会いに、行かないの?」
「……は?」
「王子様。きっとシグレを……心配してるよ?」

 シグレは謀反の前日に会ったきり、ティーとはそのままだった。

『また、会えるよね……?』

 そう聞いたティーの、不安そうな顔を思い出し、シグレは「……会わねえよ」と首を横に振る。
 サルムの屋敷に身を寄せるティーに、会いに行くのは危険だった。金に目の眩んだ住民が、シグレの姿を目敏く見つけ、サルムに知らせるかもしれない。金にうるさい狸が、ティーに親しい存在を利用しない筈がなく、策をうって出るだろう。
 己の親しい人物が利用されれば、ティーは苦しむ。自分が苦しい時は、じっと耐えるくせに。他人がそうなれば、あっという間に心が揺れ折れてしまうだろう。

「これ以上、タヌキの思うがままにさせてたまるか」

 それに、とシグレはティーが居るであろう丘の上の屋敷を見上げる。

「あいつには……金髪がついているだろうからな」

 幼い頃からティーを護衛し、その任を外されても、彼を慕っている女王騎士。男の王族だからと見下さず、常に彼の立場に立って考えていたあの存在が、傍にいるならきっと大丈夫だろう。

「…………」

 笑んだ表情は変わらないまま、サギリは納得いかないと言わんばかりの目でシグレを見つめた。真直ぐな視線を受け、「……サギリ、あのな」とどう言い聞かせれば良いか、考える。
 すると不意に、後ろからこちらへ駆けてくる足音が聞こえた。サギリが面を上げ、シグレの肩ごしに後ろを見る。

「――王子様」
「はっ?」
「――――シグレっ!!」

 久しく聞いてなかった懐かしい声。
 驚き振り向いたシグレの視界に、さっきまで話していた渦中の人物が飛び込んできた。頬を紅潮させ走り、激突する勢いでシグレに抱きついてくる。

「う、おっ」

 シグレは後ろによろめきながら足を踏ん張り、それを受け止める。背中に手が回った。しっかり抱き締められ、感触を確かめるように擦り寄ってくる。

「シグレ……シグレっ!」
「ティエン……!」

 名前を呼ばれ、ティーは何度も頷き、今にも泣きそうな目でシグレを見た。

「無事だったんだね……! 本当に良かった……!!」

 感極まって言い、再びティーはシグレの胸に顔を埋める。細い手が力を込め羽織を掴み、しがみついて離れない。
 昔、太陽宮でも同じことをされた想い出のあるシグレは、頬を赤くしながら「離れろって!」と無理矢理ティーを身体から引き剥がした。あの時とは違い、人の目があることを理解してほしい。

「ごめん。シグレ見つけたら嬉しくなっちゃって……」

 照れ笑うティーに「謝るならするな」とシグレは肩で大きく息をする。はあ、溜め息をつきつつ見上げると、橋の欄干から身を乗り出している人影を見つけた。身を硬直させて、こちらをじっと凝視している。
 シグレはすぐに人影が、今の王子護衛であるリオンだと思い至った。黒に白の鎧からしてまず間違いない。黒と白、二つの色が組み合わさった鎧を身に付けられるのは、ファレナで女王騎士だけだからだ。見習いの略式と言えど、リオンのそれも変わりない。

「サギリも無事で良かった」
「……ありがとう。先生と、フヨウさんも、無事だから安心して……」
「……そっか」

 固まるリオンに気付いていないティーは、サギリと手を取り合い、お互いの無事を喜びあう。優しさを滲ませ、サギリも「王子様も……無事で良かった……」と微笑んだ。

「………」

 シグレは、置いてきぼりにされてしまったリオンが哀れになり、「嬢ちゃん!」と顎をしゃくって横に振り、こっちに来るように促した。硬直が解け、降りてくるリオンを確認しつつ、サギリからティーを引き剥がす。肩を掴んで向き合うと、ティーはきょとんと目を瞬かせた。

「何やってんだ。二人だけで外をうろついて」

 サルムの屋敷なら兎も角、街中は安全じゃない。住人に紛れ込んだ暗殺者が、ティーの命を狙っている可能性もある。幽世の門は、子供二人の状況を見逃す程、甘くない。

「会わなきゃいけない人がいるんだ」

 自嘲気味にティーは呟いた。

「……このままバロウズ卿に使われる訳にはいかない……」

 サルムに利用されていると、ティー自身痛感しているらしい。宙に揺れる手が、強く握られた。

「だから僕の為、ファレナの為に知略を尽くしてくれる軍師が必要なんだ」
「……」

 シグレの頭に、ある人物が思い浮かぶ。

「――ルクレティア、か?」

 思わず零れた呟きを聞き、ティーの深い空色の目が大きく見開かれる。

「……シグレ」

 静かに咎めるサギリに、シグレは失言してしまった口を掌で押えた。それは言ってしまったことが真実だと、強調してしまう形になってしまう。後ずさりかけ、だがティーに羽織を掴まれてしまい、逃げようとするシグレを捕まえる。

「どうして、ルクレティアの名前を?」
「…………」
「王子っ!」

 リオンが息せき切って、ティーの下に辿り着いた。手の力が緩んだ隙に、シグレはティーの手を掴み、街の外れへと引いていく。「王子っ!」と大声を出すリオンにも構わず「サギリ、嬢ちゃんの方、頼むわ」と振り向かないまま頼んだ。返事はなかったが、サギリならうまくやってくれるだろう。
 呼び寄せておきながら悪いとは思うが、リオンの前でルクレティアの説明は出来ない。してしまえば、芋蔓式に自分たち――オボロ探偵事務所が王家と関わっていることまで話さなければならない。
 周りに人気のない所まで歩き、シグレはようやくティーの手を離した。強く掴んだせいで赤く痕がついた手首を擦りながら、ティーは不思議そうにシグレを見る。

「――それで、ルクレティアのことを、知っているの?」
「……ああ。フェリドのおっさんに頼まれて何度か……」

 亡くなってしまった父親の名を聞いて、ティーの頬が強張る。哀しく眉を寄せ唇を噛み締めた。

「……悪ぃ」

 謀反が起こってからまだ日は浅い。平静に振る舞っても、まだ子供のティーには耐え難い哀しみが残っているんだろう。

「……ううん」

 ティーはゆっくり首を振る。手を握りしめる力を強くして、俯いた。

「シグレは悪くない。悪いのは……」

 震える身体は、触れたらすぐに切れてしまいそうな、張り詰めた糸を思わせた。不用意に触ったら、あっけなく倒れてしまいそう。

「大丈夫か?」

 こわごわとシグレはごく弱くティーの肩に触れ、その顔を覗き込む。長く伸びた前髪の隙間から、哀しみと失うかもしれない恐怖に彩られた瞳が、シグレを映す。
 唇が、薄く開いて戦慄く。

「――カイルが、いないんだ」

 小さくティーが言った。哀しみを、押し殺した声で。

「リムや太陽の紋章を持って、僕の所に来るって。でも、来ないんだ。たくさん待ってるのに」

 だんだん、泣きが声に混じり、ティーは落ち着こうと息を整え、失敗する。見る見るうちに頬が熱くなって、目の奥が熱く、潤んでいく。
 とうとう耐えきれなくなって、そのまま顔を手で覆った。

「ティエン」
「カイルは女王騎士で、僕の他に護らなきゃいけないものがあるって、分かってる」
「おい、ティエン」
「――でも、どうしよう!」

 シグレの呼び掛けも聞こえず、ティーは必死に涙を抑え、哀しみに歪んだ表情で叫んだ。

「父上や、母上が死んでしまって。リムと離ればなれになって……。それに、カイルが、カイルまで死んで、いなくなったら……。ぼく……どうしたらいいか、わからないよ…………!」

 とうとう哀しみが理性を超えて、ティーの目からぽろぽろ涙が零れていく。ティーは再び顔を覆い、泣き顔を見られないよう、シグレの胸に身を凭れた。

「……ティエン……」

 悲痛な訴えは、シグレの心に深く突き刺さる。ああ、これはまるでティーがカイルへの想いを諦めた日に会ったことと同じではないか。あの日も、ティーはずっと泣くことを我慢して、一人哀しみに耐えていた。
 カイルに対して、ティーを悲しませている怒りを、シグレは燃やす。こんなに想われていると分かっているのに、どうして傍にいない。
 すべてを失いつつある身体は細くて、ひびだらけで。

「…………」

 ティーの背に回しかけていた手を、そっとシグレは引いた。


 いつだって、何かがティーを傷つける。
 どうしたら、これ以上傷付かせずにすむんだ?


 それから、シグレはラフトフリートに単身戻った。船を調達して、風の紋章を発動させる。
 ――目的地はソルファレナ。
 危険だと承知している。だが、どうしても一発殴ってやらないと、気がすまなかった。
 ――あの、女王騎士を。




07/02/01