カイルは夢から覚めた。
 そろりと瞼を開けて、ぼんやりした意識のまま、天井を見上げる。気怠るく髪を掻き上げながら、それが昨日までと違うものなのは何故だろう、と思考の定まらない頭で考える。
 肘をつき、身体を軽く起こして辺りを見回し、ようやく今いる場所がラフトフリートのダハーカで宛てがわれた一室だと思い出した。開け放したままの窓から、月明かりが朧げに差し込んでくる。
 寝台から抜け出して外を見てみると、フェイタス河の川面が月光を反射しながら揺らめいていた。
 カイルは桟に凭れ掛かり、静かな夜の景色を眺めた。そして今更のようにレインウォールからラフトフリートに移ったんだ、と思い出す。
 もうレインウォールに再び来る事はきっとないだろう。バロウズ家が王家にしてきた事を考えれば、それは当たり前の事で、カイル自身も到底許せるものではなかった。
 全てのきっかけとも言える、ロードレイクの暴動。東の離宮まで暴徒が攻め入り、王家の至宝の一つである黎明の紋章が奪われた。
 ロードレイクの民を扇動し、東の離宮を襲うように仕向けたのはバロウズ家。黎明の紋章は大切に屋敷の地下に隠されていた。
 太陽の紋章を宿して、精神的に不安定だった女王の怒りに触れ、ロードレイクが不毛の地と化したのも、何の罪もないロヴェレ卿が処刑されたのも、真実を突き詰めれば元凶は明らかだった。あんな私腹を肥やす人間のせいで、どれだけの苦しみが生まれたか。
 沸き上がる苛立ちに、カイルは歯を噛み締める。
 本当は、殺してしまいたかった。あんな人間、生きている価値もない。
 真実を確かなものにする為、ルセリナと共に地下室に向かったティー達を送り、サルムやユーラムを足留めしている間、カイルは何度、柄を握りしめ剣を抜きかけたか分からない。その度にゲオルグやルクレティアに目で諌められ、堪えてきたが、よく押さえ付けられたと自分でも驚く。あそこまで殺意をはっきり持ったのは久しぶりだった。
 一つ一つ思い出す度に、感情は昂り落ち着かず、目が冴えてしまう。月を見上げると、床についた時とさほど位置は違わず、それから時間があまり経っていないと知れた。本拠地をラフトフリートに移した今、やる事は多くなり、明日からまた忙しくなるだろう。眠れなくとも、横になって身体を休ませるべきなのかもしれない。
 けれど。
 そこにあってはならないものを見つけ、地下室から戻ってきたティーをカイルは思い出した。重く残酷な真実を右手に宿し、その光に照らされた表情は、今にも崩れ落ちそうで、泣くんじゃないか、とカイルは思った。実際は泣かなかったが、今彼は一人で何を思い、心のうちにどんな感情を押さえ付けているのだろう。そう考えると、カイルは無性にティーが気になってしまう。嫌な予感がして、弾みを付けて凭れていた桟から離れると、そのまま部屋を出ていった。
 夜も遅く、誰もが寝静まっている。足音を立ててはいけないと分かっていたが、それでもティーを早く見つけたくて気持ちが急いた。案の定、ティーは部屋には居らず、シーツが乱れていた寝台がもぬけの殻になっている。
 誰か他の人間がいる場所にいるとは、思えなかった。あの子は脆さを押し隠す気丈さがある。悩みを抱えたとしても、それを誰かに容易く吐き出すとは考えられない。打ち明けて、誰かに重荷を背負わせてしまう事を、恐れている。
 カイルは甲板に出た。注意深く辺りを窺いながら、歩を進める。足を踏み出す毎に、ぎしりと板が軋んだ。まるで自分が緊張している心音みたいだ、とカイルは思う。ティーに会ったら、何を言おう。かける言葉の一つも碌に考えていなかった。それでも、何も言えなくても、傍にいてやりたいと思う。あの子は今、独りぼっちだ。
 ぐるりと半周を探して、反対側を探そうかと言うところでカイルはティーを見つけた。船縁に手を乗せて、ぼんやり川面を眺めている。解かれて夜風に靡く髪の隙間から、哀しく伏せられた瞳が覗いていた。レインウォールで再開した時から、その哀しみが瞳から消えた事はない。否、それは日を重ねていく毎に、色を重ね、深く濃くなっていく。
 ティーは左手で右手の甲を擦っていた。何度も。そこにあるものを確かめるように。

「………っ」

 ティーの右手には、黎明の紋章が宿っている。全ての発端となった証が。
 バロウズ家の地下室に隠されていたそれは、自らティーを主に選んでその手に宿った。力を望まない、彼の意志を無視して。そしてあまりにも辛く、残酷な真実をティーの眼前に突き出し続けている。
 サルムが黎明の紋章を手に入れた時、ティーはどれだけ大切なものを失ったか。

「………」

 カイルはじっと物陰からティーの背中を見つめる。太陽宮で別れてから、ティーは武器を手に闘い、数々の困難に立ち向かって強くなったはずなのに、どうしても儚く見えてしまった。不用意に触ったら最後、呆気無く切れてしまいそうな危うさがある。
 そのまま放っておいたら、消えてしまいそうだ。
 自分でふと考えた事に青ざめ、カイルは思わず「ティー様」と声に出して呼んでしまった。突然名前を呼ばれたティーは、目を見開きカイルを振り向いて驚いている。早まった、とカイルは焦りながら、慌てて足を止め、気まずく頬を掻き視線を彷徨わせる。幾つかの言葉が、脳内を駆け巡り、声に出せないまま消えていく。

「………眠れないの?」

 しばらくの間の後、沈黙を破ったのはティーだった。窺うような問いかけに「あ、はい」とカイルは答え、そのまま勢いに任せて言葉を続ける。

「ティー様も、オレと同じですよね。駄目ですよ、ずっと働きっぱなしだったんですから。眠れなくても横にならないと」

 言いながらカイルはティーの隣に立つ。ちらりとティーは横目でカイルを見て、すぐフェイタス河へ視線を向け直した。
 さらさらと風が流れる。ティーの綺麗な銀色の髪が、彼自身の頬を撫でて、流れるように肩口を滑った。
 自分の肩ぐらいまでしかない小さな身体は、やはり触れ難いものがある。ほんの少しの距離がもどかしい。夢で見たあの距離と、なんら変わらないのに。
 カイルは、ティーがどんどん遠くなっていく錯覚を起こす。
 川面から目を離さないまま「………それはカイルにも言える事だよ」と言った。

「太陽宮からこっちに来て、僕は休んでいるところを見た事がない」
「オレはいいんです」

 カイルはゆっくり首を振った。

「オレは貴方を守らなきゃいけない。太陽宮で、約束を果たせませんでしたから」

 リムスレーアを助けだせなかった事実は、ちくちくとカイルの心に針を刺す痛みを齎している。もし助けだせてたら、現状はぐんと良くなっていたはずだ。何よりも、ティーが喜んでいただろう。

「そんなこと、言わないで」

 ティーが哀しくカイルを見る。

「僕、何度も言ったよね。カイルは悪くない。貴方は無事で、生きていてくれた。それだけで、十分なんだ」
「----でも」

 カイルは言いかけた言葉を飲み込み、黙してティーを見つめる。
 この人は、こんな風に笑う子供だっただろうか。
 昔からいらぬ荒事を引き起こさないように、作った笑みを浮かべていたが、今のそれはもっと酷かった。とても綺麗に作られた、上辺だけの笑顔。自分の感情を殺して、裡に踏み込まれるのを拒絶している。
 笑えるから、平気だからと昔より断然上手くなってしまった作り笑顔で他人を騙す。
 だけどカイルは騙せられなかった。知っているからだ。ティーがどれだけ大切なものを持っていて、それを奪われてしまったのかが。
 哀しくない訳がない。なのに他人を優先させて、自分を殺してしまっている。それが、正しい事であるかのように。
 どうか、気持ちを正直に出してほしい。そう願いながらカイルは口を開く。

「……ティー様、それ以上自分を追い詰めないでください」
「………」
「言いたい事、ぶちまけてもいいんですよ? ここには、オレしかいないんですから」
「っ」

 ティーはわずかに瞠目し、カイルから一歩後ずさった。頭を振り、か細く「出来ないよ、そんな事」と拒否をする。

「どうして」
「だって僕だけじゃない」

 理由を問いつめようとするカイルよりも早く、ティーが言葉を紡いだ。カイルの言葉を続けさせないように、早口で言う。

「太陽宮にはまだリム達がいるんだ。こうしている間にも、ロードレイクの人たちは明日に怯えている。それにノルデンって人も、ずっと苦しんでいたんだ」

 バロウズ家の警備隊で副隊長を勤めていた男は、ロードレイクの暴動激化の真相を誰よりも詳しく知っていた。それ故に無理矢理金を握らされ、口止めをされ、何も、誰にも打ち明けられない苦しみから逃げようと、酒に溺れていた。自分は間違っているとずっと分かっていたのに、自らを偽らなければならず苦しむ姿は、今でもティーの目に焼き付いている。

「僕だけが、苦しいんじゃないよ。他にも沢山の人が同じ思いをしている。だから」

 自分だけ楽になるなんて、無理だ。

「ティー様………」

 頑なティーにカイルは歯がゆくなった。自分より他人を思い遣る精神はうつくしく高尚だが、今そんなもの剥ぎ取って遠くに捨ててしまいたくなる。
 自分だけじゃないから、気持ちを吐き出せないなら、最後の一人になるまで、ずっと苦しみを胸に抱くつもりか。その時が来るのがいつになるのか、分からないのに。

「だから、いいんだ。もう」

 哀しく笑ってティーは「もう部屋に戻った方がいい」とカイルを促す。

「明日から忙しくなる。もう休んだ方がいい」
「ティー様は」
「僕はもう少ししたらちゃんと戻るよ」

 それじゃあ、と居心地悪くティーは踵を返しカイルに背を向けて歩き出した。その細い肩が、二年前ロードレイクが母親の手で制裁を受けたと聞き、崩れ落ちた時のそれと重なる。その時もティーは、弱音を吐き出す事を、しなかった。
 ずっとティーは苦しみを、渦巻く感情を誰かに打ち明ける事はないのか。一人で全てを押さえ込んでしまうのか。
 カイルは危機感を感じた。そうなってしまったら、ティーはずっと独りのまま。

「………」

 カイルはティーに近づき、腕を伸ばした。

「………!?」

 戸惑うティーを後ろから引き寄せ、抱き締める。力の加減もなくきつく閉じ込められたティーは「離して!」と身体をばたつかせて無駄な抵抗をした。

「嫌です」

 カイルはティーの拒否を切って捨てる。こうして抱き締めると、やはりティーは儚さが滲んで捕まえておかないと消えてしまいそうだった。
 怖くなる。腹の底が冷え、あってはならない事だと自分に言い聞かせる。

「今、胸に溜めている事、言ってくれなきゃ離しません」
「なんで僕が」
「言ってください」

 願うようにカイルは言う。この行為はティーを傷つけるのは分かりきっていた。だが、それでも思いを吐き出して、楽になってほしかった。ほんの少しでも。

「---------言って」
「……………」

 ティーは見開いていた目を、厳しく細め眉間に皺を寄せる。手のひらに爪が食い込む程強く、手を握りしめた。
 言ってはいけない、とティーは自分に言い聞かせても、喉から迫り上がる言葉を押さえ付けられない。
 抱き締めてくれる腕の体温が、心を弱くする。
 縋りたくない。言いたくない。聞かせたくないのに。
 他ならぬカイルがそれを邪魔する。


「----------ムカつく」


 ティーは身体を震わせ、絞り出すように呟いた。
 ああ、もう止まらない。これ以上優しいカイルに縋りたくないのに。

「…………なんで、なんで父上が母上が、ロヴェレ卿が死ななければならないんだ」

 生きててほしかったのに。

「どうしてロードレイクがああならなければならない」

 大切なもう一つの故郷だったのに。

「どうして、リムがあんな目にあわなければならない」

 妹には何があっても幸せでいてほしかったのに。

「どうして、そっとしておいてくれないんだ………っ!!」

 あの時のままでいられれば、僕は十分に幸せだった。
 貴族同士の諍いなど勝手にやればいい。だけど余所でやってくれ。こっちまで巻き込んで、大切なものたちを、自らの利益を得る為だけに使う、駒なんかにしてほしくない。
 せっかく集めてきた幸せ。どんどん手のひらを擦り抜けて消えていく。それに伴うように、幸せだった居場所が、音を立てて崩れていくんだ。
 それは、何も持てないくせに傲慢にも願ってしまった罰なのだろうか。

「……ティー様」
「カイル離して」

 強い口調でティーが命令する。短い躊躇の後、力が抜けた腕から逃げ、ティーはカイルを見ないまま「それ以上、言わないで」と懇願した。
 身体が震える。一瞬でも油断したら、泣いてしまいそうだ。あの時、もう、泣かないと決めたのに。少しカイルに優しくされるだけで、その思いが瓦解してしまいそうで怖くなる。
 泣いたら駄目だ。
 立てなくなる。
 まだ、何も、取り戻せていないのに。

「----強くならないと」

 自分に言い聞かせるように、言った。

「ちょっとやそっとじゃ、倒れないぐらいに」

 これ位で泣いてたまるか。
 リムスレーアを救い、ソルファレナを取り戻さなければならない重責を背負えるのは自分だけだ。このままゴドウィンの思うままにしていたら、両親が愛し守ってきたファレナが、踏みにじられ滅茶苦茶になってしまう。その為にも剣を取り、戦いの頭となって軍を率いていかなければ。
 そうすることで、何千何万の人間が集い闘い、死んでいくとしても。その命をも背負って、進んでいかなければならない。
 僕にしなければならない事。
 ソルファレナを取り戻す事。一人でも多くの命を消さないよう闘う事。
 それを叶える為には、今よりももっと強くなるべきだ。
 いつまでも、同じ場所にはいられない。どんなに居たかった場所でも。

「……もう、立ち止まっちゃいけないんだよ………」
「----ティー様っ」

 伸ばした手を擦り抜けて、ティーは振り向かず、そのまま走り去った。カイルはティーを捕まえられなかった手を握り、怒りを込めて縁を殴りつけた。じわりとした痛みが広がる。だがそれよりも、ティーが助けを求めてくれない事の方が、余程痛かった。


 カイルを振り切り船尾まで走ったティーは、人目につきにくい物陰に隠れてしゃがみ込んだ。自分を抱き締めるように腕を回し、壁に凭れてしゃがみ込む。

「駄目なんだよ。もう」

 僕の居たかったところは消えてしまった。掻き集めていた幸せも散って、僕はもう、歩かざるを得なくなった。
 もう、あの幸せな時には帰れないから。

 ----終わってしまったから。

 きつく腕を握り込む右手の甲から光が零れた。宿っていた黎明の紋章が、昂った感情に呼応して、淡く光っている。
 絶える事なく光るそれは、まるで泣けないティーの代わりに涙を零している様だった。


06/10/21