歩かないと、いけないんだ。
 そこにはもう、何も残っていないから。










 カイルはティーの部屋に入ると、寝台を見て静かに笑った。
 椅子に座ったリムスレーアが寝台にうつ伏せて眠っている。安らかな寝息を立てている妹の頭を、上体を起こし枕に凭れていたれティーが優しく撫でている。そしてカイルに人さし指を立てて自分の唇に当てると、静かに、と声に出さず動作で示した。
 カイルは頷き足音を忍ばせて近寄る。眠っているリムスレーアの口から、あにうえ、と甘えた声が漏れた。ティーはくすぐったそうに、カイルは嬉しそうに笑う。

「ずっとここにいたんですか、姫様」

 リムスレーアを起こさないように、声を潜めてカイルは言った。うん、と頷きティーもカイルに倣って小さく答える。

「夕食を持ってきてくれてからずっとここにいたよ。いろんな話を聞かせてもらった」

 兄の顔をして微笑むティーに、カイルは「そうですか」と笑った。今までずっとティーを嫌っていたリムスレーアが居て、こうして兄妹揃っている事がとても嬉しい、とカイルは思う。ティーの幸せそうな表情に、それをもっと強く感じた。

「だけど、ちゃんと横にさせないといけませんよね。このままだと風邪ひいちゃうかも知れませんし」
「そうだね………。リム」

 ティーがリムスレーアの肩を軽く揺らしても、起きる気配は一向にない。どうしようかとさらに揺らしかけた手を制し、カイルはリムスレーアを抱き上げる。

「せっかく気持ち良さそうに眠ってますから、このまま連れていきますよ。起こすのもなんだか気が引けますしね」
「あ、待って」

 出ていきかけたカイルを追い掛けて、ティーは寝台から降りた。

「僕も行くよ」
「ティー様は」
「駄目です、なんて言っても聞かないから。あれからどれだけ寝台に縛り付けられてると思ってるの」

 過保護だよ、とティーに言われ、カイルは「だって心配ですし。オレは貴方の護衛なんですから」と口を尖らせた。
 ティーは、リムスレーアとの和解のきっかけになったウルスの襲撃で肩に重傷を負ってしまった。傷自体は紋章の力が宿った札のお陰で既に完治しているが、抜けた血は元に戻らず彼を酷い貧血に陥れている。まだ青白い顔を心配そうにカイルが見遣っていると、「もう平気だよ」とティーに返された。

「それにこれ以上寝たままだと身体が鈍っちゃうよ。……無理しないから、駄目かな?」

 窺うように見上げて訊ねられると、もう何も言えない。カイルの中の保護欲が掻き立てられ、どんなささやかな願いごとでも叶えてやりたくなる。
 深々と息を吐いて、カイルは降参した。

「仕方ありませんねえ。………じゃあ、扉開けてもらえますか?」

 うん、とティーは表情を綻ばせて扉を開ける。
 それから短い距離を歩いて、リムスレーアを部屋に運んだ。寝台に寝かせたリムスレーアに二人でおやすみなさいの挨拶をして出ると、何故かティーは自室とは逆の方向へ歩き出した。

「ティー様? 部屋はそっちじゃないですよ」
「分かってる。………ちょっと来てほしいところがあるんだ」

 肩ごしに振り向いて、ティーはカイルを呼んだ。

「見せたいものがあるんだ。だから来てほしい」
「でも………」

 自分の身体を心配して動かないカイルに業を煮やし、ティーは有無を言わさず躊躇する手を引いた。
 カイルは迷う。まだ本調子じゃない身体を無理に動かしてほしくないし、夜は冷える。怪我が治ったところで今度は風邪------だなんてシャレにならないだろう。
 上着でも羽織らせてやれば良かった。今更思い出しカイルは後悔した。
 ティーが手を引く。とうとうカイルは根負けして素直に手を引かれ歩き出した。今のティーは何を言っても聞かないだろう。ああ見えて、へんなところで強情なところがある。それに自分もどんどんティーに弱くなっている気がした。結局ティーにはかなわない。
 広間から玄関を抜けて外に出る。庭先を歩いてロードレイクの街が一望出来る高台にまで来た。
 カイルから手を離し、ティーは数歩前を行く。見つめている先には、夜の暗闇に暖かく光る、家の灯り達がたくさんあった。

「きれいでしょう」

 隣に立つカイルに、ティーは誇らしく言った。

「テラスから眺める星もいいけれど、僕はこっちも好きなんだ。あの灯りの中には人が居て、毎日を生きていると実感出来るから」

 ティーは灯り達を見つめ、眩しそうに眼を細めた。

「それは他の場所でも言えるかもしれないけど、でも僕はロードレイクのが一番暖かいと思える。……この街やロヴェレ卿が居なかったら、僕はこの世に産まれてすらいなかったから」
「ティー様」

 眼を見張るカイルに、ティーは「聞いたよ」と咎めるように言う。

「リムと派手に喧嘩したんだってね。僕の事で」
「え、あ、あー………。それは、なんて言うか」

 しどろもどろになりながら、カイルは所在なげに指を弄ぶ。背中を嫌な汗が流れた。フェリド様がばらしたんだろう、と犯人にあたりを付けながら、どう返答すればいいのか困る。

「………すいません」

 しょげるカイルに「謝らないで」とティーが言った。

「別に怒ってないよ。そのお陰でリムと仲直り出来たようなものだし」

 それに、と俯いたティーの頬に僅かに朱がさす。

「不謹慎だって分かっているけど………。嬉しかった。僕の為に怒ってくれて」
「ティー様………」

 呆気に取られてティーを見つめ、カイルは笑う。自分のした事を喜んでくれたのが嬉しかった。やって良かったと、心から思える。
 笑うカイルに、ティーもまた照れながら微笑んだ。年相応の、無邪気な子供らしい笑顔に、カイルは幸せを感じる。この子の笑顔を見るだけで容易く胸が温かくなる。
 ティーも同じ事を思っていたのか「僕ね、今すごく幸せなんだ」と呟きロードレイクの街を一望する。

「昔同じものを見ていて、好きだと思っていたけれど、寂しい、とも思ってた。あの灯りの中にあるような幸せは、僕にとって一生縁のないものなんだって考えてたから。だからこんなに幸せな気持ちになれるだなんて、予想もつかなかったよ」

 僕の周りには何もなかったはずなのに、今は大切な人たちが傍に居てくれる。
 父上、母上。リムに叔母上。
 リオン。

 それに。

 ティーは横目で街並を眺めるカイルを盗み見て、すぐに視線を反らした。不思議だった。カイルが隣にいるだけで、動悸がする。苦しいけど、嬉しくて、自分の心に熱が宿る。
 大切だった。
 好きな人たちが傍に居て、自分と居て、笑ってくれる。それだけで酷く幸せで、大切だった。

「……ずっと、このままでいられたらいいのに」

 カイルがティーの方を向く。縋るような眼を、ティーはカイルに向けた。

「ねぇカイル。僕は我が侭なのかな? このままずっと、幸せでいたいって思うのは」

 王位継承権もなく、殆どの人間から蔑まれてきた。そんな自分が、こんな大それた気持ちを持つのはいいのだろうか。

「もちろんです」

 ティーの迷いをカイルが即座に断じた。ティーの手を包み込むように握りしめ、真直ぐに見つめてくる。

「我が侭なんかじゃありません。幸せになりたいと思うのは誰だって同じです」

 真剣な言葉がティーの心に染み入ってくる。動悸が激しくなり、ティーは赤くなった頬を恥じるように顔を俯かせた。
 カイルは繋いだ手の力を強める。

「オレが守ってみせます。女王騎士は、王家の人を守る為にいるんですから。それが貴方の幸せに繋がるんでしょう? だったらオレはそれを守ってみせます」
「----本当?」

 上目遣いで訊ねるティーに、カイルはええ、と深く頷いた。

「その為にオレは貴方の傍に居ます。………まだ見習いですけどね」

 最後は茶目っ気っぽく片目を瞑るカイルに、ティーは顔を上げて目を瞬かせると、くすりと笑った。そして堪えきれずに肩を震わせて声に出して笑う。

「わ、笑わないでくださいよー。オレ真剣なんですから!」
「ごめんごめん。謝るよ」

 浮き出た涙を拭い、ティーはカイルを見て笑った。今までカイルが見た中で、一番の満面の笑みだった。

「頼りにしているから」
「頼りにしちゃってください」

 カイルは自信たっぷりに胸を張り、ティーはそれにまた笑う。
 声に出して笑ってくれるティーに、カイルはそっと口元を上げて笑った。初めて会った時から、ようやくティーが完全に心を開いてくれたと感じる。その相手が自分だと言う事が、とても幸福だった。
 ずっとこのまま幸せでありたい。そう願うのはティーだけじゃない。カイルもまた同じ事を願っている。
 守ってあげたい。ティーと、彼が集めてきた数々の幸せを。そうしていく事で、ティーが笑ってくれるなら。

「………オレが必ず守ってみせますから………」

 小さく呟き、カイルはティーと並んでロードレイクの景色を見つめる。


06/10/19