男は舟から降り、ティーの真名を告げられ困惑しているカイルの前に立つ。僅かに背が低い男は、カイルを見上げた。長い前髪は、男の目を隠し表情を分からなくさせているが、カイルは彼が怒っていると知った。
 男は全身でカイルに怒りを向けていた。びりびりとしたいら立ちが、空気を伝わりカイルにそれを突き刺す。呆然と見下ろすカイルに、男は忌々しく舌打ちをした。

「知らない訳がないだろ。あいつが今、バロウズのタヌキが立ち上げた軍のお飾りにされてるって事を。……あいつの気持ちなんざ全然考えてねえ……。まるっきり無視だ。あのタヌキは、ティエンを操りやすい人形だと思ってるんだろうさ」

 カイルは思いきり眉を顰める。男の言う通り、カイルはバロウズ家が王子の名を使って、軍を起こした事を知っていた。逃げ回って隠れている間、見回りの兵士がそう零していたのを聞いていた。
 その時、サルムの企むような嫌な笑顔を思い出し、カイルは吐き気を起こしていた。バロウズ家は平和主義を唱えているが、裏を返せばそれは、己の利益を少しでも上げる為に厄介ごとを減らす為のまがい物だ。上っ面の言葉だけで、自分だけが良ければいいと考えている。
 少しだけ自分の考えが重なっただけで仲間扱いされてしまったカイルは、サルムに会う度に嫌悪していた。バロウズ家の代弁者、などと言う不名誉極まりない呼び名がつけられた時には、初めにそう呼んだ人間を殴り倒したい衝動に駆られた事もある。自分が守るべきなのは女王陛下とその家族であって、バロウズ家なんかじゃない。
 だがバロウズ家にとっては、カイルの意志なんて関係ない。自分達に利が有るか、無いか。それだけでコマにしていく人間を決めていく。
 ゴドウィンが謀反を起こした今、生きてバロウズ家に逃げてきたティーは使えるコマとして目に止まったんだろう。きっと今ごろ居心地の悪い思いをしているに違いない。同じ扱いをされた事のあるカイルは、それがよく分った。
 だけど。
 カイルはきつく目を細め、男を見返す。

「ああ、知ってるさ。けど、ティー様にはゲオルグ殿やサイアリーズ様がいる」
「近い間柄の人間が殺されて、他人を気遣う余裕が出来るか? そうなったらお前は、周りを隅々まで見てやれるのかよ」

 言われてカイルは押し黙る。逃げ回っている間、同じ状況でどうなっているか分からないミアキスとガレオンを慮った事は一度も無かった。ただひたすらにリムスレーアを奪還する事だけが頭にあって、それ以外頭に入る余裕は無く、男の言葉に応えられない。
「図星だろ」と男はカイルに冷笑した。

「……今のティエンは八年前と同じだ。周りを気遣いすぎて、自分を殺してしまっている。他人が気付かないから、余計に。だからどんな奴でもいい。あいつを独りにさせとく訳にはいかない」
「それで……、オレって事」

 くっ、と低く笑い、カイルは男を冷たい眼差しで見た。
 一緒に逃げようと縋り付いたティーの姿が浮かんで消え、代わりに昔泣きじゃくるティーを受け止め抱き締めていた男の背中が浮かんだ。あの時、ティーを抱き締め背中を擦る腕は、カイルからとても自然に見えて、今まで同じ事を何度もしてきたんじゃないか、と思わせる。
 いちいちここに来る必要はないんじゃないか。自分を探す必要もなく、ティーを一人にさせない人物は今目の前にいる。
 昏い感情がカイルの胸に重く落ちた。

「……アンタがついてればいいんじゃないの?」

 自虐的な言葉を吐き、カイルは唇を歪めて笑う。こっちはティーの手を振り払った。一人にさせた。次にもし会えたって、躊躇いなく抱き締めるなんて、出来ないのに。それに引き換え、男には何の柵もなくそう出来る腕を持っている。だったら、男がティーの元に行ってやればいいだろう。
 小さな呟きに男は一瞬固まり「……何だと?」と絞り出すような声で言った。

「オレは嫌だ」

 カイルははっきりと言い切った。

「オレはここに残って姫様を取り戻す。それがティー様の為だ。もし今ティー様が一人で傷付いているとしても、それを長引かせない為にも、絶対に助け出さなきゃいけない」

 引き離されている間、きっとティーは苦しみ続ける。同じ傷付くなら、短い方が絶対に良い。

「それに姫様を助けだせたら、ゴドウィンだって身動きが取れなくなる」

 バロウズ家が立ち上げた軍だとしても、集まった兵士の命は、ティーに預けられている。それだけじゃない、ゴドウィンからファレナを救うべく、何千何万もの命をも背負っている。それは、きっと耐え切れないぐらいに重圧となって、ティーの肩にのしかかるだろう。

「ティー様を早く助けるんだったら、……今、傷付いているとしても、その方が良い」

 こっちもただ徒に傷付かせているんじゃない。早くティーを苦しみから解放させてやりたいだけだ。リムスレーアを助け出し、ゴドウィンの企みを挫けば、ティーはまたここに戻ってこられる。
 それに、

「約束したから。ティー様の元に姫様を連れて来るって。………だから逃げない」

 逃げたくない。

「…………」

 無言でカイルの言葉を聞いていた男は、無表情のまま真直ぐ唇を引き結んだ。腰に手を置き、ゆるりと首を振ると僅かに開いた唇の間から、呆れた溜め息が漏れる。

「それは大した忠誠だな。ティエンの為なら死んでも構わないような事を言う。綺麗事すぎて泣けてくるぜ」

 ひゅう、と息を吸い込んだと思ったら、男はカイルの胸ぐらを掴み、壁に押し付ける。強く背を打ち付け、カイルは痛みに呼吸を詰まらせる。
「ふざけるな」と怒りに声を震わせて、男は言った。

「それはテメエの勝手な言い訳だろ。そんなのティエンに通用すると思ったら大間違いだ。……もし約束を待っているんなら、あんな顔、しない」
「……あん、な?」

「分かっているくせに」と男は吐き捨てる。

「お前だってティエンの事知っているくせに、アイツを傷つけようとする。嫌な事を強いて、暴こうとして。俺はそう言うの見る度に反吐が出るんだよ」
「なんだと……?」
「俺はアイツが傷付くのはゴメンだ。だからティエンを優先させる。お前の事情なんか、知ったこっちゃねえよ」

 そう言って男はカイルの胸ぐらを掴んだまま、強く舟へと引き寄せた。カイルは咄嗟に足を地面に踏み締めたが、止まらない。じりじりと引きずられ、舟まで後少しのところで、足を払われる。身体はバランスを崩し、カイルはそのまま舟へと投げ入れられてしまった。腰や背中を打ち付け、頭はふらつく。顳かみを手で押え起き上がった時、男が素早く舟に乗った。岸に繋ぎ止めていた紐を解くと船尾に立ち、左手を翳す。

「待っ……」
「待たねえ」

 カイルの言葉を非常に切り捨て、男は風の紋章を発動させた。風が吹き、川面に流れと違う波が出来て揺れ、舟がゆっくり動き出す。カイルが起き上がった時には、もう岸は遠く跳び移れない距離まで離れてしまった。
 呆然としているカイルを余所に、舟は太陽宮を出てフェイタス河の流れに乗る。紋章のせいか、速さはどんどん増し、見る見るうちにソルファレナが小さくなっていく。
 食い入るように太陽宮を見つめるカイルを窺い、その苦い顔つきに「……莫迦じゃねえの」と男が呟いた。
 今の太陽宮から脱出するのは至難の技。生きて出られるかすら、分からない。ティーにだって会えるか分からないのに、カイルは脱出の成功を喜びもせず、まだ太陽宮に戻る方法を考えているように見える。
 ティーが今一番会いたい人間が自分だと分かっているくせに、カイルは敢て悲しみを長引かせる手段を取り続けていた。
 ムカつく。男は内心苛立つ思いで一杯になりながらも、紋章を止めた。ソルファレナが見えない場所まで逃げれたから、あとはもう漕ぐだけでもいいだろう。櫂を取り、男はゆっくり舟を漕ぎ始めた。

「……そんな顔、ティエンに見せるなよ」

 酷い顔だ、と男は言いそれきり無言になる。
 太陽宮が見えなくなっても尚、カイルは空に昇る一筋の光を見つめ続けた。とても眩しく、目に焼き付く。
 ああ、と息を吐き出した。もう、太陽宮に手が届かない。リムスレーアを助けだせなかった。
 約束は果たせない。
 ティーに会ったらどうしようか、とカイルは考える。再開した時、ティーは何を言うんだろうか。そして自分はどう返せばいいだろうか。
 何よりも、自分を追い詰めているだろうティーの姿を思い浮かべ、カイルは苦々しく唇を噛み締めた。


06/10/04