『----お逃げください』
告げた瞬間、向けられた瞳は悲しみに曇り、縋り付く手は強く爪を立てる。拒絶されると、考えていなかったんだろう。薄く開いた唇から吐かれた息が震えている。
腕に立てられた爪の痛みを隠しながら、笑う。
ねぇ、分かってくださいよ。オレは貴方を痛めつけているんじゃないんです。逃げなきゃ、貴方は殺されてしまう。貴方を生かす為にオレは残るんです。
貴方はまだ死ぬべきではないから、そうしただけ。
カイルは息を殺して空を見上げる。夜なのに空は明るく、星のささやかな輝きすら見えない。太陽宮から天へと伸びる光の柱が夜の暗さを消している。
光の柱は、アルシュタートが宿していた太陽の紋章が在るべき場所に戻った何よりの証拠。もう守るべき女王は、この世にはいない。
一緒に逃げようと、縋り付くティーを、カイルはアルシュタート達や太陽の紋章を守る事を言葉の盾にして断り、無理矢理逃がした。必ず、取り戻してティーの元へ向かうと約束して。
だが約束は、部屋を出てすぐ会ったゲオルグの言葉に、打ち砕かれる。アルシュタートも、フェリドも最早既に命を落としてしまっていた。
ゴドウィンが狙っている太陽の紋章も、直ぐに厳重な警備に置かれ、やすやすと持ち出せなくなってしまい、カイルは自分の無力さに歯がみする。ファレナの女王を守る為の騎士なのに、何一つ守れやしない。
ザハークやアレニアはゴドウィンに組みした。ガレオンとミアキスの状況は掴めない。
カイルは一人、変わってしまった太陽宮の中を逃げ続けて、リムスレーアを取り戻す為に動いていた。
リムスレーアも、太陽の紋章と同じく監視が厳しい状況に置かれているだろう。兵士や幽世の門の暗殺者がいる中で助け出すのは到底不可能だとカイル自身分かっていた。
だが、諦めきれない。このまま太陽宮から逃げ出しても、ティーに合わせる顔がない。
泣きそうな顔をしていた。
厳しくとも優しく愛してくれた両親や、辛い道のりを経てようやく歩み寄れた妹と別離した悲しみ。得体の知れない存在に殺されかけた、恐怖。たった一日で、せっかく集めてきた幸せが、手からこぼれ落ちる辛さ。
涙を堪えるティーに、カイルの胸は張り詰めていたくなる。一つでもいい、何かティーが守ろうとしたものを、連れてきてやりたい。だからカイルは、縋り付いたティーの手を振り払った。
遠くで足音が聞こえる。カイルは近くの茂みに隠れ、口を手で覆う。耳を澄ませると、ぼそぼそと話声が聞こえた。侵入者がいるかどうか確かめあっている。どうやら何人かで組んで、見回りをしているらしい。
自由に動けない歯がゆさに舌打ちをする。向こうはまだ、完全に邪魔者を倒しきれていないと確信していた。最後の一人を消すまでは執拗に警備を続けていくのだろう。
太陽宮を襲撃してから今まで、入念過ぎる手の入れように、よくここまでやる、とカイルは皮肉めいた笑みを浮かべる。
だが、こちらとておめおめと逃げる訳にはいかない。
カイルは足音が聞こえなくなるまでじっとして、太陽宮の中へと移動する。昔から公務をサボり、うるさい同僚の目から逃げ回っていた日々が幸いして、見付かりにくい道を選び、見付からずに潜入する。
柱の影に隠れながら大広間を抜け、カイルは見事にリムスレーアの部屋がある西棟に潜り込んだ。
ここからが正念場。カイルは油断せずに気を引き締める。いつでも抜いて斬れるように、剣の柄を握りしめた。
足音を忍ばせ、歩く。一歩踏み出す度に固い靴底が、かつりと音を立て、やたらとうるさく聞こえる。まるで自分の位置を知らせているみたいだ、と肝が冷える。
剣を握りしめる力を強めた。緊張で張り詰める心を抑えて、自らを叱咤する。
決めてるんだ。必ずティー様の元に、大切なものと一緒に戻るって。
大切で大事なものを根こそぎ奪われ、一人立ち竦むだろうティーが、あのまま折れてしまわないように。今は戻れないここから、取り戻してやりたい。
カイルは階段を昇りきり、壁に張り付いて角から様子を窺った。
リムスレーアの部屋に続く道のりはやはり険しい。さっきの見回り以上に人が多い。制服を着ている人間が多かったが、その中には暗殺者も混じっている。広がる裾から伸びる刃が、外から差し込む眩しい光を受け、冷たい輝きを放った。
太陽宮の兵士が、何人かかっても倒せなかった暗殺者は一人や二人じゃない。対してこっちは一人。このまま無謀に突っ込んでいっても、結果は見えている。いくらこっちが強かったとしても、数に押されて、いつかやられてしまうだろう。
ここをくぐり抜けなければ、リムスレーアを助けだせない。
カイルの脳裏に、ティーの姿が映った。掛けてきた抱き着く妹を受け止めて、優しく笑っている。
----弱気になるな。
迷いを振り切り、カイルは剣を抜く。
連れていくって決めたんだ。大切なものを取り戻してやる為に、あの、縋り付く手を振り払ったんだから。
傷つけたい訳じゃない。オレは、あの人の為に、必ず姫様を。
深呼吸をして、意を決したカイルは足を通路へ踏み出した。
「----誰だ!?」
声は前からではなく、カイルの後ろから空間に響き渡った。さっき上がった階段から、ゴドウィンの兵士がカイルを見つけ、昇ってくる。リムスレーアの部屋を守っていた兵士達も敵意を向け、次々と剣を抜いた。
「敵だ! 捕らえろっ!」
カイルは忌々しく舌打ちをする。階段を昇った兵士を蹴り落とし、破れかぶれのままカイルは廊下へ飛び出した。床を蹴り、走る。
「どっけぇーっ!」
叫び、水の紋章を宿した右手を突き出した。強く握りしめ、甲を外側へ向ける。キルデリク達からティーを守った時のように、願いを一心に込めた。
カイルの魔力に反応して、水の紋章が青い光を放った。氷の霧が生まれ、廊下を白く冷たく覆っていく。不意に視界を奪われ戸惑う兵士達の間を、カイルは一気にくぐり抜けた。
走る直線上にいる兵士達を片っ端から斬り伏せ、殴る。振り払った切っ先から飛んだ血が、綺麗に磨かれた床や壁を汚していく。
「----くっ!」
角を曲る。あとは真直ぐ行けば、リムスレーアの部屋に辿り着ける。
だが、そこまでだった。
氷の霧に一瞬は怯んだものの、直ぐに冷静を取り戻した暗殺者が、カイルを飛び越え、その進路を阻んだ。仮面の向こうから虚ろな目を向け、刃を閃かせる。まるで舞うような連撃を、カイルはやっとの思いで受け止め流した。
いくら受け止めても攻撃の手が休まらず、カイルは次第に押されていく。水の紋章から生み出された氷の霧も徐々に晴れ、次第に焦り始めた。
「----くっ」
焦りから剣の動きが乱れ、隙をつかれたカイルは剣を落とされる。すかさず拾いかけた指が届く前に、遠くへ蹴られ剣は手の届かない場所まで滑っていく。
半歩下がって暗殺者は構え、刃を水平に薙ぐ。カイルは後ろに飛び下がって避け、背中に容赦ない痛みがめり込んだ。
傾く視界の中、後ろにも暗殺者がいた。痛みに呼吸が一瞬止まり、喉を詰まらせ転がって受け身を取り、油断なく刃を向ける暗殺者達を睨み付ける。
動く間もなく、暗殺者はその数を増やし、カイルを囲んで見下ろす。こちらから強い怒りを向けても、何の感情も返さない。まるで死者のような目だ、とカイルは思った。人を殺す事に、何の躊躇いも持っていないのだろう。
剣は手を伸ばしたぐらいでは届かない場所にある。水の紋章でまた氷の霧を生み出したとしても、もう暗殺者達には通用しないだろう。徒手で立ち向かっても、一人では多数に勝てない。
くそ、とカイルは小さく呟いた。このままだと、殺されるのは確実だ。
今はまだ、殺される訳にはいかない。だってまだ、何も取り返していない。ここで死んでしまったら、ずっとティーを待たせてしまう。
獲物を取り囲んだ暗殺者達は、互いに視線を交わらせる。カイルの正面に立つ暗殺者が、頷いた。それを合図に、ゆっくり誰もが刃を上げてカイルに標的を合わせる。
「………」
カイルは右手を握りしめた。水の紋章が、淡く青い光を零す。
もしティーから、大切なもの全部が無くなったら、きっと心を閉ざしてしまうだろう。初めて会った時の、あの閉じられた世界の中に引きこもり、もう出てこないかもしれない。
笑わなくなる。
それだけは、絶対に、駄目なんだ。
「くっ……!」
刃が、カイル目掛けて振り落とされた。
「-------う、ああぁああっ!」
死を導く刃から目を反らさず、カイルは力を込め、右手を前に突き出した。猛烈な勢いで氷の霧が生まれ、辺りを真っ白に染めあげる。
カイルは、そのまま目の前の暗殺者に当て身をくらわせようと立ち上がりかける。だがそうするよりも早く、そこにあった気配が悲鳴を上げた。
カイルの頬に温かいものが飛び散る。手の甲で拭って見ると、紛れもない赤い色。紛れもない、血。
氷の霧では、血は流れない。
じゃあ、これはどうして。
霧が晴れていく。カイルの足元に、暗殺者が一人、力なく崩れ落ち、絶命していた。胸の辺りに血溜りが出来ている。心臓を一突きされていた。
カイルは目を見開き、前を見る。死んだ暗殺者の背後に、血のついた刀を持った男が、立っていた。ラフトフリートの羽織を着た、髪を目まで伸ばしている。状況に似合わない気怠る気な雰囲気を出して、立っていた。
突如現れた闖入者に、カイルのみならず、暗殺者達も警戒し距離を取る。
男は面倒くさそうに刀を振った。刀身についた血が、床に飛び散る。ゆっくりと辺りを見回し、無表情に「めんどくせえな」と溜め息をついた。だが言葉とは裏腹に、男には一部の隙もない。
カイルは目を大きく見開く。オレはこいつを見た事がある。
夕暮れの中、泣きじゃくるティーを当たり前のように抱き締めていた男。自分が手に入れられなかったものを、容易く掴んだ存在。それが今、目の前にいる。
何で、こんな所にいるんだ。疑問がカイルの頭を駆け巡った。
「----誰だ、こいつは」
暗殺者の一人が、仮面の下からくぐもった声で言った。
「いや待て、こいつには見覚えがある」
別の声が、何かに気付いて驚きを見せる。
「お前は、まさか--------」
男が刀を投げ付ける。言葉を最後まで言えなかった暗殺者は胸を刺し抜かれ、声を悲鳴に変えた。さっきの暗殺者同様、呆気無く命を落とす。太陽宮の兵士が大勢かかってやっと倒せた、幽世の門の暗殺者を。
「……俺がどうとか、そんなん関係ないだろ」
男は羽織に手を差し入れた。握られて出てきた鈍く光る苦無が、男の動きに合わせて揺らめく。
「お前らはここで死ぬんだからな」
静かに呟かれた言葉を境に、男の雰囲気が一変する。気怠るさは形を潜め、心臓を直に圧迫するような殺気が滲む。先程の暗殺者の比ではない、純粋な殺意。
カイルは圧倒され、息を飲む。暗殺者達も男が危険と判断し、向けていた刃の標的を男へと変える。
一瞬の沈黙。
「----がっ!」
カイルの真後ろに立っていた暗殺者が喉元に苦無を突き刺され、呻いた。膝が折れ、崩れ倒れて絶命する様を確認する間もなく、刀を後ろに振り向きざまにして不意打ちを狙っていた暗殺者を薙ぐ。その場でくるりと回転し、勢いを保ったまま次々と苦無を放った。一つ一つが寸分違わず暗殺者達の急所に命中させ、的確に命を落とさせていく。連続して聞こえる絶命の叫びが、不気味な歌のようにカイルの耳に聞こえた。
ぎゃあ、と最後の一人が倒れ、悲鳴が止む。さっきまでカイルを殺そうとしていた暗殺者達は、逆に男の手によって命を失っていた。もう動かない人の中、ただ二人、カイルと男だけが息をしていて生きている。
男は刀に付いた血を振り払い、腰に差していた鞘に収めた。かちんと鍔が当る音に、呆然と男の動作を見ていたカイルは我に返る。立ち上がりかけ、未だ痛む背中の痛みに顔を歪め、身を屈ませた。
一瞬男はカイルを見る。すぐに顔を背け、徐に歩いた。廊下の隅で仰向けに倒れている暗殺者を退かし、下敷きになっていたカイルの剣を取る。重い剣を軽々と振って、カイルに手渡した。
戸惑いつつも受け取り、カイルはようやく立ち上がり、剣を鞘に仕舞った。
命は助かったが、頭は疑問で一杯だった。
ゴドウィンの兵士が至る所に配置された太陽宮。そこに誰も気付かずどう忍び込んだのか。
なぜ初対面も同然の自分を助けたのか。
----ティーと、どう言う関係なのか。
自然とカイルの足が男に方へと進み、上手く考えが纏まらないまま、口を開く。
「----アンタ」
「静かにしろ」
問いかけたカイルを、男が鋭く制する。耳を澄ませ、階下から聞こえてくる騒がしいどよめきに、ちっと舌打ちをする。
「着いて来い」
男は手をひらりと振って、自分の後を追うように促す。だが、カイルは微動だにせず、歩こうとしない。立ち止まり男は「何してんだ」と苛立つ。
「オレは姫様を助けに来たんだ。このまま帰れるか」
「もう駄目だ」
男ははっきり断言する。
「もうここまで騒ぎが大きくなったら、どうしようもねえよ。助けたとしても、ゴドウィンが見逃す筈もなし、テメエが殺されて、姫さんが連れ戻されるのがオチだ」
「でも!」
「ついでに言えば、もう言い争う時間もねえ」
大勢の足音が、階段を昇ってくる。間もなく騒ぎを聞き付けた兵士達が、カイルと男を見つけて捕まえに来るだろう。
「とにかく今は逃げるしかないんだ。----諦めろ」
冷静な男の言葉に、カイルは悔しさに歯噛みする。後もう少し、少しで、リムスレーアの元に辿り着けたのに。必死に手繰り寄せてきた希望が、切れていく。
「----いたぞっ! 賊だっ!」
「捕まえろっ!」
先頭を陣取る兵士達が、カイル達を見つけて我先に、と走ってくる。目に入った仲間の亡骸に怒りを露にして、剣を抜くものもいた。遠く「もっと援軍を呼べ!」と誰かが叫んでいる。
「やれやれ」と男は気怠る気に頭を掻き、一歩前に進み出た。
「こういうのは苦手なんだけどな」
仕方ない。
ぼそぼそ呟きながら、男は左手を高く掲げる。そこに宿されていた風の紋章が、緑の光を零れ、一気に巻き散ると突風が生まれた。
膨大な空気の奔流。強い流れにまともに立っていられない。カイル達を捕らえようと殺到した兵士達は無防備な状態で風に押され、倒れ人の雪崩を起す。うねる風の中、慌てる兵士達の怒号や悲鳴が聞こえた。
「----走れ!」
男が駆け出す。
「……っ!」
カイルは後ろ髪を引かれて、リムスレーアの部屋を見てから、断腸の思いで振り切るように男の後を追った。
男に連れられてきたのは、女王騎士詰め所の先にある袋小路だった。勿論行き止まりで、逃げ場など見付からない。
どうするつもりだ、とカイルが注意深く視線を巡らせる中、男は迷いもなく壁の一角に手を這わせる。力を込めると、手を当てた部分が窪み、組まれた石が沈んだ。
重く音を響かせて壁が開き、新たな部屋に続く道を開ける。
「これは……!」
「とっとと入れ」
驚くカイルを尻目に、さっさと男は中に入って行く。
「早く入れ。見付かったらどうするつもりだ」
男に怒鳴られ、カイルも慌てて部屋に入る。
さほど広くない空間は、部屋と言うよりは小さな船着き場、と言った方が正しいかもしれない。小さな川に、小舟が一隻浮かんでいる。川の流れの先には、やっと小舟が通れる幅の出入り口があった。その向こうに見える、薄らと明るい光は、太陽の紋章が放っているものか。
八年太陽宮にいたが、カイルは全然ここの存在に気付かなかった。こんな部屋があるなんて知らなかった。
「何でこんなものが……」
「あ? 別に珍しかねぇだろ。王族やお偉方の住む場所には大抵夜逃げするようなものが作られてるぐらい、よくある話だろ」
男は壁を操作して入って来た壁の穴を消し、舟に飛び移る。ランプを取り出して付け、ぼんやりとした灯りの中、舟を出す準備を進める。
「まぁ、ここのは殆ど使われなかったみたいだがな。ティエン達と俺らがぐらいだろう、使ったのは。……よし、出来た」
準備を終え、男はカイルを見た。
「乗れ、出るぞ」
「……え?」
「聞こえなかったのか? 出るって言ったんだ。ここもじきに見付かる。そうなる前に逃げるんだよ」
「……嫌だ」
カイルは後ずさり、強情に首を振る。
「まだオレは何も取り返していない。ティー様にもまだ、会えない」
約束を交している。ティーの元に大切なものを連れて来ると。
カイルは男に背を向けた。
「助けてくれた事には礼を言うよ。だけど逃げるならアンタ一人だけだ」
「…………」
「オレは、姫様を助けに」
ゆらりと、怒りの空気がカイルの後ろで立ち上る。
「----アル・ティエン・フェル・ファレナス」
「!?」
男の口から紡がれた名に、カイルは目を見開き振り向いた。男が言ったのは、ティーの本当の名前。カイルも一度しか聞いた事がない。
その名は、フェリドとも会えず、母親からは産む事すら禁じられた身重のアルシュタートが、もし無事に生まれたら付けようと決めていた名前。自分の名前とフェリドの名前をそれぞれ少しずつ取って、もし自分がいない間に子供が父親に会う事があったら、フェリドにティーが二人の間に生まれた子供である事を教える為に。
普段はティーと呼ばれる彼の、本当の名を知る人間は、家族以外殆どいない。
「なんで、お前……」
「俺はティエンの事は大抵知っている。知りたくなかった事も。知るべきじゃなかった事も。知っているからここにいるんだ」
男は怒りを露にしてカイルを睨み付けた。
「テメエを迎えに来たんだよ。ティエンの事を考えない、大馬鹿野郎をな」
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