一度目は風がとても強かった。
 ニ度目は、無気味な程静かだった。

 同じなのは、真夜中の一番闇が深くなる瞬間。
 闇に魅入られるように、吸い込まれていく。突き立てられる刃を伝って、僕の裡を蝕む。

 ----変わりたくない。今のままで良い。これ以上望んだりしない。
 なのに、どうしてそっとしておいてくれないの。



 もつれあい転がるようにがむしゃらに走った僕達は、目についた部屋へ逃げ込んだ。暗い室内。今明りを灯せばそれは敵に殺してくれ、と言っているようなものだ。僕は苦しい程に跳ね上がる心臓を押え、息を潜めながら平静を取り戻そうと必死になる。
 僕の前にはリオンが、扉にはカイルが、窓にはかつて闘技奴隷だったゼガイがそれぞれの武器を手に、気を張り詰めさせている。びりびりと、緊張を孕んだ空気が室内に満ちた。
 ああ、心臓の音が五月蝿い。僕は強く瞼を閉じる。だけど瞼の裏に焼き付いた、煌めく刃の光に直ぐ目を開ける。息を吸い込もうとして、喉がひゅう、と鳴った。

「……ティー……ッ!」

 叔母上の腕が伸び、僕の頭を抱えるように抱き締める。いつだったか、同じような事をされたな、と霞のかかった頭で思い出す。見当違いの事を考えている暇なんてないのに。
 外からは遠く、剣の打ち合う音や魔法が解き放たれる轟音、そして----悲鳴が僕の耳を劈く。絶命する人の叫びが様々な音とぐちゃぐちゃに重なりあって、僕の胸を締め付けた。
 叔母上の腕に力が篭る。とても苦しかったが、何も言えない。何を言えばいいか分からない。
 どれだけの時間が経ったのだろう。少し音が静まり、それでも油断を解かないまま、扉に張り付いていたカイルがゆっくりこちらに近づいた。
 叔母上が顔を上げる。カイルと視線を合わせ、同時に頷いた。
 二人の間に挟まれて、僕はさっきとは違った意味で胸が痛む。瞼の裏が熱くなって、じわりと出かけた水を慌ててせき止めた。さっき殺されかけた時には出てこなかったくせに。泣く理由が違う、と僕は僕に呆れた。

「----こっちの作戦は完全に失敗です。あいつら数も技量も上すぎる。太陽宮の兵士じゃ到底勝てないでしょう。……悔しいですが」

 状況を説明するカイルに、「……そうみたいだね」と叔母上は忌々しく舌打ちをする。いら立ちを露にして、髪を掻き上げ言った。

「にしても、一体どうしてこんな力を持っているんだか」
「あれは……幽世の門です」

 叔母上の問いに、構えを解かないままリオンが答えた。思ってもいなかった人物から答えを聞かされ、カイルと叔母上は固まる。

「幽世の門だって? あれは義兄上が解散させた筈だろ!?」

 叔母上の言う通りだ。かつて諸外国の争いや王室、そして貴族との諍いが耐えなかった時代に、暗殺など闇の仕事をしてきた集団----幽世の門。十年前の王位争いでも、幽世の門は大勢の人間を殺した。
 だが組織は他ならぬ父上と母上が尽力して、八年前のアーメス侵攻を退けると共に、解体させた筈だ。その時の慌ただしさは尋常ではなく、また直後にリオンが太陽宮に来た事もあって、僕はよく覚えている。

「…………」

 襲ってきている存在を明言したリオンと、八年前の記憶が重なり、僕は一つの可能性に気付いた。だけど、口にはしない。今言うべきではない気がする。リオンがとても必死で、ここで言ってしまったら、いらないものを生み出してしまいそうだった。

「リオンちゃん……。どうしてあいつらが幽世の門だって分かるの?」
「それは……言えません」

 カイルの尤もな言葉に、リオンは頑なに首を振って答えを避け、ここは危険だから早く逃げるべきだ、と僕達を促す。
 どこからか、また人の命が消える叫びが聞こえる。
 カイルは厳しく眉間に皺を寄せた。叔母上が僕から離れ、カイルが僕の手を取って立ち上がらせてくれる。物凄く真剣な眼差しで見つめてきて、両肩をきつく掴んだ。
 こんなに近くにいるのは、随分久しぶりのような気がする。あまりの近さに、どくりと大袈裟に心臓が高鳴り、胸元に置いていた手を強く握りしめる。
 カイルの口が、ゆっくり開いた。

「----お逃げください」
「……え?」

 僕は言われた事が理解出来なくて、もう一度聞き返した。

「……いま、なんて……?」
「逃げてください、と言ったのです」

 一瞬扉に目をやったカイルは、すぐに僕へと視線を戻す。肩を掴む手に力が篭った。

「もう太陽宮に安全な場所はありません。このまま留まっていたら、貴方は殺されてしまう」

 殊更優しく紡がれる声は、カイルが僕の護衛だった時、良くそっぽを向いて拗ねた僕を宥めるものと同質だった。殺気が孕んだ緊迫の中、カイルはそれに似合わない笑みを見せた。

「貴方やサイアリーズ様を死なせる訳にはいきません」
「母上や……リムは……?」
「大丈夫です。オレが今から陛下たちの所へ向かいますから。ですからティー様は逃げてください」

 僕の片から手を離し、カイルは窓から外を窺っていたゼガイに声をかける。二、三言葉を交してゼガイが頷いた。
 ありがとう、とカイルは明るくゼガイに礼を言う。
 呆然としていた僕には、カイル達が何を話していたかは聞こえなかったし、何がありがとうなのか分からない。
 だけど胸の奥で不安が勢いよく渦巻いていく。このままカイルと別れたら、二度と会えないような気がして。そう考えるだけで、僕は震えを抑えきれなくなった。
 カイルがいなくなったら、僕は。
「あっ」とリオンが上げた声が耳の奥で木霊する。
 気付くと僕は、驚いているカイルの腕を縋り付くように掴んでいた。

「ティー様?」
「----カイルも一緒に逃げよう」
「ティー!?」

 らしくなく取り乱した様子に、叔母上は酷く驚いて目を見張ったけれど、僕はそれに反応している余裕はなかった。頭の中はぐちゃぐちゃしていて整えなおせない。だけど僕は必死に言葉を探して、声に出していた。

「だって危ないんでしょう? カイルがここまでこれたのだって、分からなかったんでしょう?」

 だとしたら、今ここにカイルがいるのさえ、奇跡なのかもしれない。

「だったら貴方一人で行くのは自殺行為みたいなものじゃないかっ!」
「ティー様」
「駄目だよカイル。行っちゃ駄目だ。僕達と一緒に----」
「ティー様っ!」

 僕の声を遮り、カイルはゆっくり首を横に振った。否定の意に、僕は呆然とカイルを見る。

「ティー様、間違えないでください」
「………」
「こういう時、何が何でも逃げるのが王族の仕事。そして何が何でも逃がすのが、オレ達女王騎士の仕事です」

 カイルが、僕をあやすように笑った。

「大丈夫ですって言ったでしょ? 必ず、陛下や姫様を連れて貴方の元に帰ってきますから」
「……カイル」

 目の前が、真っ暗になった。見えない線で距離を引かれて、僕はカイルに拒否された悲しみで言葉が出てこなくなる。
 女王騎士と王族の立場を改めて見せつけられた気がした。決して、僕とカイルは同じ目線で行動出来ない。
 僕は俯き、泣きそうになりながらずるい、と口の中で呟く。叔母上も、リオンもそれ以上僕の反論を許してくれそうにない。僕の意志は、味方を無くして孤立した。
 肩を掴んでいた手を離し、カイルは静かに剣の柄を握りしめる。

「カイル」
「オレが出て、少し経ったら出ていってください」
「ああ……、あんたも気をつけるんだよ」

「はい」と叔母上に頷いて、カイルは扉を開けた。半分身を滑らせ、横目で僕を見る。
 ----笑った。

「----それじゃあ、また!」
「----カイル!」

 出ていく背中に指を伸ばし、叔母上やリオンに止められる。胸が痛くて、呼吸が上手く出来ない。
 カイルが行ってしまう。生きて帰ってこられるか分からない所へ行ってしまう。
 また、だなんて、本当にあるの?
 もう一歩出れば、太陽宮は血と叫びと死で溢れている。その中に飛び込んで無事だなんて、保証は何処にもないのに。
 なのに、どうしてそんな顔で笑うんだよ。

「----カイル……ッ!」


 ずるいよ、本当に。




 瞼を開け、起き上がったティーはあかあかと燃える焚き火の炎だった。乾いた音を立てて、投げ込まれている木が割れ、ゲオルグが持っていた木の枝で火の加減を調節している。夜の色には似つかわしくない、映える赤に照らされながら、ちらりとティーを見た。

「----起きたか?」
「うん」
「うなされてたみたいだったが」

「そうだね」とティーは乾いた笑みを漏らす。確かにあれは嫌な夢だった。一々同じ事を見せなくても十分思い知らされているのに。

「起した方が、良かったか?」
「そうだね……。ちょっと、起してほしかったかな」
「----すまんな」
「そんな、謝らなくていいよ。ゲオルグは僕を気遣ってくれたんでしょう?」

 ティーは膝を抱え、じっと焚き火を見つめた。身体はとても疲れて休息を欲しているのに、眠りたくない気持ちが強くて、ずっと寝ていない。ゲオルグは休ませようと敢てようやく寝てくれたティーを起さなかったんだろう。寝ている間は、一応身体は休めているから。
 隣から、寝息が聞こえる。ティーが羽織っていた外套が大きく地面に広げられ、そこにリオンが横たわって眠っていた。ティーと同じく太陽宮から脱出してから一度も休もうとしない彼女の身体を気遣い、サイアリーズが紋章の力を使って、無理矢理眠らせている。
 そのサイアリーズも気を張り続けていたせいか、ゆっくり舟を漕ぐようにして眠っていた。

「……ゼガイは?」

 姿の見えないゼガイの居場所をティーが聞くと「あいつは見回りだ」とゲオルグの簡潔な答えが返ってくる。「そう」と頷いて、ティーは膝頭に顔を埋めた。
 寝ている人間がすぐ側にいる。起きている二人は、自然と息を潜め、黙り込んだ。
 沈黙が、重い。ティーの思念は、滑るようにゴドウィンが起した謀反の夜の事へと傾いていく。
 あの日を境に、すべてが変わってしまった。両親を亡くし、妹は囚われの身。そして自分達は逃げるように移動し続け、今はバロウズ家の助けを得る為に歩き続けている。
 サルムの卑小さやずる賢さは知っている。だが、今はそこにしか助けを求められなくて、歯がゆくなる。そうでなければ、あんな人の助けなんて欲しくないのに。
 初めての野宿を沈痛な面持ちで過ごし、ティーは唇を噛み締めた。
 不安ばかりが浮かぶ。リムスレーアは大丈夫だろうか。
 ゲオルグ達はゴドウィンがリムスレーアには危害を加えない、と確信めいた言葉で言っていたが、最早妹の周りは敵だらけだ。心細い思いに耐えて、必死に己を保とうとしているだろう。両親を亡くした幼い妹にとって、どれだけ過酷な状況か。
 あの子も自分と同じで強情なところがあるから。今ごろ、泣き出したい気持ちを抑えて、負けて溜まるかと弱音を吐かず、歯を食いしばっているかも知れない。
 それに。

「----カイルが心配か?」
「っ!」

 思っていた事をゲオルグに言い当てられ、ティーは勢いよく顔を上げた。驚きに見開かれた空色の瞳に、ゲオルグは薄く笑う。

「考えている事が顔に出ているぞ」

 言いながら自分の頬を指差すゲオルグに、ティーは慌てて頬を両手で覆った。それを見て「冗談だ」とゲオルグは笑みを深くする。
 からかわれた。ティーは口を尖らせるが、ゲオルグはそれ以上続けずに、息をつき、綺麗に笑みを消した。

「だが、思っていたのは本当だろう?」
「………うん」

 ティーは膝を抱え直して、俯く。きっと今の自分は相当酷い顔をしているだろう。頭の中も、疲れや不安、いらない考えばかりが浮かんでしまう。
 ゴドウィンはリムスレーアに危害は加えない。彼らにはアルシュタートの喪を終えた後に、リムスレーアを女王に仕立て上げ、ファレナを武力で押さえる傀儡にさせられる。だから、何かあってはいけないのだ。
 しかし、それが言えるのはリムスレーア一人だけ。他の人間がそうだと言える保証は何処にもない。
 ミアキス、ガレオン。それに----カイル。
 次々と顔が浮かぶ度に、胃に鉛が入れられていくような重さを感じる。今も太陽宮に残っている彼らは無事なんだろうか。

「----無事だよね、ゲオルグ」
「分からん」

 分かっていても聞かずにはいられないティーの問いかけに、ゲオルグは首を振った。

「あそこはもう……、違うんだティー」
「……うん」

 ゴドウィンの謀反をきっかけに、ティーの世界はくるりと変わってしまった。自分や妹を大切に愛してくれた両親は死んでしまい、残されたリムスレーアは捕われている。ゴドウィンは幼い姫を使って、ファレナの全てを武力で掌握すべく、無慈悲に動き出す。ティーやサイアリーズの身も、危険なままだ。追っ手に追い続けられ、いつ狙われるかも分からない逃避行の中、息を潜めている。
 とても息苦しく、辛い。呼吸が上手く出来なくて、息が詰まりそうだった。
 夜空を見上げると、晴れているせいか星が綺麗にティーの目に映し出される。太陽宮で見た空と全く同じなのに、酷く哀しい気持ちにさせられた。隣にいた人がいない。それだけなのに。
 目の奥が熱くなる。だが、涙が出てはこなかった。

「……カイル、ずるいよね」

 空を見上げたまま、ぽつりとティーは呟いた。木の枝で火を掻き混ぜる手を止め、ゲオルグが視線をティーに向ける。泣きそうだ、と思いながらゲオルグは続いていくティーの言葉にじっと耳を傾けた。

「いつもは……、馬鹿みたいに明るくて、うるさくて、女の人を見ればすぐ口説く勢いで話し掛けに行くのに」

 膝を抱える手を握りしめ、ティーは顔を戻して自嘲的に口を歪めて笑う。

「どうして……、あんな時にだけ、真面目になるんだか……。……ずるいよ……」

 瞼を伏せ、膝頭に顔を埋める。ゲオルグにこれ以上情けない顔を見られたくなかった。
 ずるい、と繰り返し胸中で繰り返すティーの脳裏に、最後のカイルとの会話が過り、切ない痛みが突き刺してくる。

『ティー様、間違えないでください』

 殊更大きく、カイルの声が響く。
 まだ覚えている。縋り付く自分の腕を優しく掴んだ感触も。真摯で真直ぐな言葉の声音を。目を閉じれば、鮮やかな痛みを伴って容易く思い出せる。

『こういう時、何が何でも逃げるのが王族の仕事。そして何が何でも逃がすのが、オレ達女王騎士の仕事です』

 尤もらしい事を言って、優しい笑みで宥めてきたカイルを、ずるい、とティーは思う。
 女王騎士は、ファレナに立つ女王の身を守る剣。命を守る盾。危機が差し迫れば、騎士は命に代えても女王を守らなければならない。
 ----他のどんなものよりも。
 ティーとて、それを知らない訳はない。だが、カイルに言われ、明確な立場の線を引かれなければ、あの時掴んでいた腕を離さなかっただろう。
 カイルの判断は正しい。だけど、とても哀しく、やるせない。
 自分からカイルとの間に僅かな距離を取っているくせに、いざカイルから同じ事をされると、心にぽっかり穴が空いて、苦しくなる。
 ああ、僕も人の事が言えない。
 ティーは自分を罵倒する。一番ずるいのは、この僕だ。

「………ティエン………」

 顔を見せようとしないティーに、ゲオルグは眉を曇らせる。ティーはそれでも顔を上げないまま、ゲオルグに尋ねた。

「ゲオルグ。僕は今、何が出来るんだろう」
「……分からん」

 さっきとは違い、少しの躊躇いと共に答えが返される。

「無事にいるように、祈っておく事、ぐらいか」
「……そう」

 悲しみに彩られた溜め息が、ティーの唇から零れた。息を繰り返し、何とか表情を戻すと、背を伸ばしてゆっくり手を組んだ。

「……それしか出来ないなんて、なんて無力なんだろう、僕は」

 それでもティーは祈った。目を閉じ、組み合わせた手を強くして、ひたすらに、願う。どうかカイルが無事でありますように。別れる寸前に見せてくれた笑顔をそのまま浮かべて、再び目の前に戻ってくれるように。

 早く帰ってきて、僕を安心させてよ。

 強く握りしめられた手は、白く強張り小さく震える。
 強く祈る姿に、ゲオルグはやりきれなさに悔恨の色を表情に滲ませながら、持っていた木の枝を焚き火の中に放った。


06/09/13
06/09/16 文章追加