太陽宮から抜け出したカイルに見送られ、ティーはストームフィストへ旅立った。堅牢な要塞を思わせるような都に着くなり、視察や闘神祭に紛れ、女王を殺そうと企てていたアーメスの人間とのいざこざに追われ、休む暇もなく慌ただしい時間を過ごす。
闘技奴隷が置かれている環境の劣悪さや、ストームフィストに根付いている、武力を持って国を大きくするべきゴドウィン派の言葉。そして嘗てファレナに侵攻してきたアーメスの思い掛けない介入。太陽宮にいたら分からなかっただろう事態の数々に、ティーは改めてファレナに潜む闇の深さを思い知る。
それから、妹姫の婿になるべく集まった人の多さにも溜め息が漏れた。着くなりバロウズ家の嫡男、ユーラムが血気盛んに代理人の闘技奴隷の男に向かって絶対に勝つんだ、と声援をついでに思い出してしまい軽い頭痛に襲われる。きっとそれに似たような人たちが、当日にもっと集まる。どんな思惑を腹に隠しているのか。貴族に陰口を叩かれてきたティーにとっては、気が重い。
だが煩雑な事に頭を悩ませている間、不謹慎ではあったが、カイルのことを忘れられたのは幸いだった。もし一度でも陽に柔らかく反射する金色の髪が頭を過れば、何も手につかなくなってしまう。
どこかわざと自らを忙しさに追い立てているティーの後ろを、リオンは常に気遣いながら見つめ追い掛ける。リオンも分かっているんだろう。今ティーが自らを追い込んでいると。
二人の後を見失わない速さで歩いていたゲオルグは、そっと隻眼を伏せ溜め息をついた。ファレナに来て日の浅い自分がすぐに気付けたぐらいだ。長年王子と嘗ての護衛の二人と長い時間を共にした少女が、気づけぬ筈がない。
笑う表情の下、ティーの心は深く沈んでいる。仕方がなかったと割り切っていても、申し訳なさが先に立っていた。いくら平気ですから、と本人に言われていても、無力さを感じ、時たま不意にティーは表情の色を無くす。
カイルを連れて行けなかった一部始終を知っているゲオルグは、時々寂しそうな眼差しをソルファレナの方向へ向けるティーを何度か見掛け、その姿を見る度にやるせない痛みが胸のあたりを通り過ぎていく。本当は直ぐ横にカイルがいてほしいと、言ってなくともよく分かった。
不憫だった。ティーはいつだって他者を優先させて、自分の気持ちは押し込める。きっともっと強く言えば、カイルをストームフィストに連れていく事だって、出来たかもしれない。しかし迷惑を掛けてしまうだろう、と行動に移せない優しさが哀しい。そして同時に好きだと言っておきながら、ティーに切なく悲しみに滲んだ表情をさせているカイルに呆れ果て、下した決断にゲオルグ自身納得しながらも、二人の望みを叶えなかったフェリドに複雑な怒りを向ける。
この国は、素直に心の裡を見せない人間が多い。
ストームフィストを訪れた日。話があるとゴドウィン家の一人息子と連れ立って何所かに行ったサイアリーズを思い出し、あいつもそうだったな、と眉間に皺を寄せる。
王位争いの要らぬ火種にならないよう、自ら継承権を放棄して、結婚をせず子供も作らない、と決めているサイアリーズは、実際に王位争いの渦中にいたせいか、年の割に浮き世慣れたはすっぱな雰囲気を漂わせている。そして色恋沙汰にも妙に詳し過ぎた。
サイアリーズが、ティーとカイルの間にある感情のすれ違いに気付かない筈はない。ゲオルグは確信していた。ある意味、サイアリーズも当事者だ。
カイルはサイアリーズに好意を寄せている、とティーは思い込んでいる。何度も仲良く話している所を見たし、妙にカイルがサイアリーズを気にしている。そんな事をティーは言っていたが、ゲオルグにはそう思えないし、何よりカイル本人からしっかり聞かされている。
恋愛感情としてサイアリーズが好きなのではない。そう言う意味として好きなのは、ティーの方だ、と。
だが、その言葉自体は本人に伝えていない。サイアリーズも誤解を解くような口ぶりを見せる事はなく、ティーは今でも引きずる諦めきれない想いに苦しんでいる。
一言言ってやれば解決するだろう問題を、サイアリーズはあえて静観するまでに留まっている。フェリドやアルシュタートと並んで、とてもティーのことを大切に想っている彼女が、わざわざ反対の行動を取る意味をゲオルグは掴みかねていた。
一体サイアリーズは何を考え、どうするつもりなのか。
とうとう迎えてしまった闘神祭の二日目。痺れを切らしたゲオルグは、前日に続いて慣れない闘技場の空気と、剣の打ち合いに疲れたリムスレーアを部屋まで送り届けるティーの姿を認めた後、宛てがわれていた部屋に戻りかけていたサイアリーズを、剣呑な声で呼び止める。ぴたりと立ち止まり、肩ごしにサイアリーズは疲れた表情でゲオルグを見遣った。
「----何だい」
試合を見ている長い間、椅子に座り続けたせいか、精彩に欠けた視線は疲れが滲んでいる。
「あたしゃ早く休みたいんだけど」
気怠るく髪を掻き上げ、面倒くさそうに身体ごとゲオルグの方へ向き直し剣呑な眼を覗き込む。
「話がある。時間は取らせん」
言いながらもゲオルグの声音は否定を許さず、眉間には深い皺が刻まれている。睨み下ろされ、それでもサイアリーズは怖がる事もなく肩を竦める。
「怖い顔するんじゃないよ」
苦笑して、サイアリーズは宛てがわれた部屋の扉を開けた。
「こんなところじゃいつ誰が通りかかってもおかしくない。----入りな」
「----……良いのか?」
「アンタが言ってきたんだろ?」
からからと口元に手を当てて笑い、サイアリーズはそのまま滑るように部屋へと入っていく。言い出したのはこっちだが、あっさり簡単に部屋に入れてもいいのか、とゲオルグは一瞬目を丸くした後呆れて細まり、続けて扉を潜る。
闘神祭の試合も終わり、陽も暮れた室内は、うっすらと西日が差し込んで夕焼けの色に染まっていた。サイアリーズはゆっくり歩いてソファに座り、卓に準備されていた果実酒を指差した。
「飲むかい? どうせ仕事もないんだろ?」
瓶の中で揺らめく赤い色を見つめ、ゲオルグは「いいや」とやんわり断った。
「少しだけだ、と言ったばかりだろう。話が済めば直ぐに出る。それに闘神祭は始まったばかりだからな」
王家の人間が集まっている状況に、何が起こるか予測がつかない。先のアーメスのように、もしかしたら闘神祭の騒ぎのどさくさに紛れて、女王の暗殺を目論んでいる人間が現れないとは限らない。
酒を飲むなら、もっとゆったり安心出来る時に飲みたかった。
「そうかい、カタいねえ」
あっさり断られても気分を害さずに、サイアリーズは持ち掛けていたグラスを元の位置に戻した。腕と足を組み、ソファの背もたれにゆっくり身体を凭れさせ、扉の前に立ったままのゲオルグへもっと中に入るよう手招きする。ゲオルグは数歩足を前に進めてから、壁に背中を預けた。
「で、あたしに用って一体何だい」
「……ティエンのことだ」
息をつくようにゲオルグは言い、軽く瞼を閉じた。
「あいつが無理をしているのはお前も十分知っているだろう」
「そりゃあ……。こっち来てからずっと真面目に働きっぱなしだったしね。予想外のこともあったしさ」
女王陛下であり、自分の姉でもあるアルシュタートの暗殺を企てたアーメスの人間を思い出し、サイアリーズは忌々しく顔を顰めた。
「一気に色んな事があって、重荷になっちまったのかもしれないね。姉上達も心配していたよ」
「----そうか」
ゲオルグはサイアリーズを見る。
「確かにそれもあるだろう。だが他にも無理をしている理由を、お前は知っているんじゃないのか、サイアリーズ」
「あたしがかい?」
組んだ足の上に頬杖をつき、サイアリーズは心を探る目つきでゲオルグを見た。
「へぇ、一体何を知ってるってあんたは言うんだい?」
「しらばっくれるな」
確信していて尚、はぐらかすサイアリーズの言葉を、ゲオルグは苛立ちを露にして切り捨てた。声音の鋭さにサイアリーズは一瞬目を丸くする。そして表情を緩めると「そんな怖い顔するんじゃないよ。ティーが見たら驚いて逃げるよ」と呆れ半分に肩を竦めた。そのまま上体を背もたれに預け「全く」と苦笑を滲ませた。
「どうしてこう、ティーの護衛につく人間は揃いも揃って甘いんだか。あたしが言うのもなんだけど過保護すぎるんじゃないのかい?」
「……分かってるじゃないか。それにそれはお前にも言える」
「違いない」
からからと笑い、サイアリーズは伏せたグラスをひっくり返して立たせ、果実酒の栓を抜いた。濃い色の液体が注がれれば、微かに酒の匂いが漂う。もう一度「飲むかい?」と傾けられたグラスを首と手を横に振り断ったゲオルグは、静かに口に酒を含ませるサイアリーズに尋ねた。
「ティエンは……、カイルが想いを寄せているのはお前だと思っている」
「ああ、そうさ」
即答が返り、僅かな戸惑いを感じながらゲオルグは続けた。
「……だがカイルが好きなのはティエンで、お前はそれを承知している」
「ああ。----カイルの奴、事あるごとにどうすればティーを喜ばせてあげられるか、また誰かに悪口言われて落ち込んでいるティーを、慰めるにはどうしたらいいかとか、いちいち相談に来るからね。あいつの気持ちなんて嫌ってぐらいに知っているよ」
「………」
ゲオルグはカイルはサイアリーズが好きだと誤解してしまった原因の一つに考えが至り、複雑な表情で顎を撫でた。実際はいかにティーとの距離を縮める為の相談ばかりであったとしても、話が聞こえない距離から見れば、穿った考えが浮かぶのもしょうがない。
呑気に酒を飲んでいるサイアリーズを見て、ゲオルグは自然と重く疲れた。ふらつく頭を指で押え、溜め息を漏す。
本当にティーが不憫でならなかった。いい大人二人に振り回されてる。
「分かっているのならどうして言わない。お前はティエンを大切に思っているのだろう?」
真実を告げれば、ティーは苦しみから解放される。
「なのに何故言わない」
「言ってどうするんだい?」
酒を一気に煽り、サイアリーズは空になったグラスをたん、と卓に置いた。底にわずかに残った酒が、窓から差し込む西日に貫かれ、下へ赤黒い影を落とす。サイアリーズは痛ましく眼を細め、出来た影を見つめた。
「言ったとしても、本人が耳を塞いでたんじゃ届かないんだよ」
「……それは、ティエンがお前の事を聞く気がない、と言う事か」
「ああ」とサイアリーズが頷く。ゲオルグの肩が微かに揺れた。
「………」
「理由が分からないって顔をしてるね」
「ここの奴らは思った事をそのまま口に出さないからな。お陰でこっちが何倍も考える羽目になる」
「そうかもね」
「笑い事じゃない」
本当にファレナに来てから思案にふける回数が増えた。剣を握っても気が削がれてしまう時も出てしまう程に。
「どうしてティエンは聞く気がないんだ? カイルの気持ちを知れば一番嬉しいのはあいつだろう?」
「あの子にだって色々あるんだ」
サイアリーズは力なく笑う。
「……誰にだって、見られたくないもの、聞かれたくないものがあるさ。王家の人間だって例外じゃない」
卓の上で揺れる赤黒い影。サイアリーズには、それが王家の中に潜んで蠢き、蝕んでいく闇のように見える。沢山の人間の血と、呻きと死。くだらない権力争い。下らない貴族の謀。あらゆる負の性質を凝り集めたそれは茨のような鎖となって、大切な甥を足元から雁字搦めにして今も傷つけている。目の前で憤っている男が思っているよりも、堅くてきつく、ちょっとやそっとでは解けないように出来ているのだ。
「……あの子はあんたの考えている以上に重たいもんを背負ってる。そんなあの子の負担になる事を、あたしがすると思うかい?」
見据える瞳に、ゲオルグは開きかけた口を引き結んだ。余計な事は言うな、とサイアリーズの眼が物語っている。
「あの子が聞きたくないって素振りをしているんだ。だったらあたしは何も言わない」
そうする事で、ティーが少しでも落ち着けるなら。
「----それにこれはティーとカイルの問題だろ。あたしは馬に蹴られるのはゴメンだからね」
茶化して言うサイアリーズに、ゲオルグは思わず笑う。
「……そうだな。俺も御免だ」
「だろ?」
どこか乾いた笑い声が部屋に重なって響く。サイアリーズはふと息を吐き、気持ちを入れ替えるように呼吸して「でもね」と感慨深く呟く。
「あたしはいつだってティーの幸せを願ってる。これは確かだよ。だって、小さい頃からいらない苦労をしてきたんだ。あの子はその倍以上幸せになってもらわないと困る」
「----困る?」
「ああそうさ」とサイアリーズは大きく頷いた。
「だってあの子が幸せにならないと、姉上や義兄上、リムにあたし。リオン、ミアキスに----カイル。他にも沢山悲しむ人間がいるから。皆が幸せになるんなら、まずあの子を幸せにしてやらないと」
その為だったら、どんな存在であろうと阻むものは決して許さない。例えかつて婚約を交していた男であろうと----自分自身であろうと、けっして許さないだろう。
自室に閉じ篭り、寂し気なティーの背中を思い出して、サイアリーズの胸は痛んだ。
もうあんな思いをさせてたまるか。サイアリーズはいつの間にか震えていた手を握りしめた。
「もう、あんな姿なんか、見たくないからね……」
「……サイアリーズ……」
悔恨が篭った声に、ゲオルグはかける言葉も見付からず、力ない声でサイアリーズの名を呼んだ。
「また明日も試合が続くのじゃな」
汚れ一つない磨かれた窓に指を滑らせ、リムスレーアは実感の涌かない声で言った。「そうだね」と椅子に座っていたティーは、小さな妹の背中を見る。硝子越しに、まだ夢見心地な表情が映っていた。さっきまで闘神祭で行われていた試合の余韻が残っているのか、ぼおっと夕焼けの空を眺めている。
「疲れた?」
「平気じゃ」
肩ごしに振り向いてリムスレーアは元気に答えるが、顔色は冴えない。昨日闘神祭が始まった時、剣の打ち合いに一度は肝を冷やしている。アルシュタートに諭され、最後まで試合を見続けていたが、やはり十になったばかりのリムスレーアにはまだまだ慣れるものではない。
体調を探るような視線に「本当に大丈夫じゃ」とリムスレーアは身体ごとティーの方を振り向いた。
「確かに少しは疲れておるが、昨日程ではない」
「そう?」
「そうじゃ!」
力強くリムスレーアは言い切りガッツポーズを取る。ティーは微笑ましく笑うが、妹は笑みを引き兄を心配そうに見遣って尋ねる。
「兄上こそ疲れてはおらぬか?」
「……僕が?」
「リオンから聞いておるぞ。闘神祭が始まる前から兄上は休みなく働くは、騒動に巻き込まれるは苦労の連続じゃ! それに昨日とてベルクートと呼ばれておった剣士に会いに行って、また騒動に巻き込まれたそうじゃの」
「う……」
口籠るティーに、リムスレーアは勝ち誇って胸を反らした。
「わらわに隠し事をするのは無駄じゃ」
「リム……」
真直ぐ強い眼差しで見つめられ、ティーは気遣ってくれる妹の優しさを感じた。肩の力を抜き柔らかく微笑みかけてティーは「僕も平気だよ」と正直に答える。
「リオンや叔母上、ゲオルグもいたからね。結構楽だったよ」
「なら良いのじゃが……」
口元に手をやって、リムスレーアは眉間に皺を寄せ考え込む。納得いかない様子に首を傾げるティーの隣にゆっくり座ると、膝に手を置いて握りこんだ。父親譲りの茶色い瞳が、不安に揺れている。
「兄上はどうにも無茶をしがちじゃ。わらわも兄上と離れておる間、不安でたまらなかったしの。もし怪我でもして倒れでもしたら----と考えたら居ても立ってもいられぬ」
「リムは……大袈裟だよ」
心配してくれる妹の優しさに嬉しく笑い、ティーは眼を細めて優しくリムスレーアの頭を撫でる。
「そんな風に言ってると、またミアキスにからかわれるよ?」
「う……」
兄妹水入らずの時間を楽しませようと席を外しているミアキスの名前を出すと、口籠ったリムスレーアは一気に耳まで赤くなった。どうやら本当にからかわれていたらしい。
『あるまじろんの親子も妬けちゃうぐらいの仲良しさんですねぇ』と笑いながら言うミアキスを思い浮かべる。そう言われて怒りながら追い掛けてくるリムスレーアから楽しそうに逃げる風景まで容易く見て取れて、ティーは思わず苦笑した。
「ここにミアキスがいなくて良かったね。でなきゃまたからかわれてたかも」
「そ、そんな事はないのじゃ! わらわはからかわれぬ!」
握りしめた手を震わせながら上げて、必死に言い繕っても、赤い顔のままでは説得力はなかった。「本当に?」と繰り返し尋ねると、うう、とリムスレーアの声は萎んで小さくなっていく。上げられた手が、力なく下りていく。
「……兄上、何だかミアキスに影響されておらぬか?」
「そう? いつもの僕だと思うけど」
「影響されておる!」
「----ごめんってば、謝るよ」
怪訝な眼差しにティーは慌てて、リムスレーアを宥めた。
「そんなに頬を膨らまかせていると、可愛い顔が台無しだよ?」
「……兄上……」
憮然として、リムスレーアは軽く握りしめた拳でティーを叩いた。手加減のない攻撃に、困りながらもティーはそれを受け止める。
「……はぐらかし方がミアキスみたいなのじゃ! そんな風に兄上はなってしまったのか!?」
「----はは」
「笑い事ではない」
誤魔化すように笑みを浮かべるティーに、リムスレーアは切ない苦しみに顔を歪ませた。
「最近の兄上は見ていてハラハラする。いつか倒れてしまいそうで怖くなる」
きゅ、と唇を噛み締めて、リムスレーアは押し付けた拳を開き、ティーの服を掴む。服の袖から伸びる腕の白さに、自然と背が震えた。
リムスレーアが貴族から吹き込まれたさがない言葉を真に受け、ティーを毛嫌いしていた頃、訪れたロードレイクでウルスに襲われた。鋭い爪と牙に足が竦み逃げられなかったリムスレーアは、身を盾にして庇ってくれたティーを見て、ようやく兄の優しさを知った。
あの時、ウルスの爪に肩を貫かれ、大量の血を流したティーは、青白い顔で立つ事もままならなかったのに、懸命に妹を逃がそうと尽力した。逃げるんだ、と言いながら見せたあの美しく作られた笑顔は忘れられず、時たま言い様のない不安に襲われた事もあった。
そしてあの時の笑顔と、今の笑顔がリムスレーアの眼にぴったりと重なる。
ティーにとって大切な地であったロードレイクの謀反。母親の手による制裁。ストームフィストでの騒動の数々。
すべてを知っている訳ではないが、それらの重みが大切な兄を潰してしまうんじゃないんだろうか、とリムスレーアは不安にかられた。
「お願いだから無理だけは決してしてほしくないのじゃ」
「リム……」
「兄上にもしもの事があったら、わらわは……」
「………」
必死なリムスレーアの瞳を見つめ、ティーはふと表情を和らげ優しく兄の顔で笑う。空いていた手をそっとリムスレーアの小さな背に回して「大丈夫」と呟き抱き締めた。
「僕は倒れたりしないよ。だって倒れちゃったらリムが泣いちゃうでしょう?」
「当たり前じゃ!」
高らかに言い切り、リムスレーアはきっとティーを睨みあげる。
「それにわらわだけではない。母上も父上も、リオン達も心配するのじゃ! ……だから兄上は無理をしてはならぬ」
「……分かってるよ。僕だって、リムの泣くところなんて見たくないからね」
「……うむ……」
ティーはそっとリムスレーアの背中をあやすように撫でた。擦られる手の温かさに安心して、リムスレーアもされるがままになり、沈黙が落ちる。
「……リムこそ、無理してない?」
唐突に落ちた質問に、身体を離してリムスレーアが「何故じゃ」と聞き返した。ティーは言いにくそうにあさっての方向を見ながら続ける。
「その……闘神祭でリムの結婚する相手が決まるだろう? ……リムは、嫌じゃないの?」
ストームフィストの視察を言い渡された時、フェリドは『リムにはまだ早い!』と親心をむき出しにして息巻いていた。きっとそれは口には出さないがアルシュタートも同じ事を思っていて、ティーもまたそんな両親の意見に同調していた。
リムスレーアはまだ十歳だ。その若さで意にそぐわぬ貴族の婿を宛てがわれてしまう。好きな人を見つける事も許されないリムスレーアが可哀想だった。例え、王族の為により良い力のある人間と結ばれるよりも、リムスレーア自身が決めた人と添い遂げてほしい。母親が一番好きな人と結ばれたように、妹もまたそうであってほしかった。
「わらわは……まだ実感が涌かぬのじゃ」
唇をへの字に曲げて、リムスレーアは答えた。
「父上が言っておったように、まだわらわは十になったばかり。女王になる為の素養を身に付ける為に、勉強ばかりかまけておったせいで色恋沙汰にも詳しくない。それなのに周りが色々言うから余計にピンと来ないのじゃ。今日の試合もわらわの婿を決める為にやっておるのじゃと分かってはおるのじゃか……」
腕を組み、天を仰いでううむと悩むリムスレーアの眉間に皺が寄る。小さく溜め息をついてティーを見ると、軽く肩を竦めた。
「……やっぱりまだわらわには早そうじゃ」
「……そう」
十歳の子供らしい答えに、ティーは胸を撫で下ろして安堵した。だが、直ぐに不安が過る。
「でも……、だったら尚更嫌じゃない?」
誰かを特別な意味で好きになる事もなく、決められた相手と結婚する。それで幸せが掴めると、ティーにはどうしても思えなかった。後から愛情を深める事も可能だろうが、純粋にそう願っている貴族の数はきっと少ないだろう。
ざわめく不安に襲われるティーとは対称的に、リムスレーアは捌けた口調で言った。
「さっき言ったではないか。まだわらわにそう言うものは理解出来ぬと」
「そうだけど……、でも」
「わらわに不安はない」
眼を見開くティーに、リムスレーアは満面の笑みを浮かべた。細い腕を一杯に伸ばして、ティーの首にしがみつくように抱きついて、くすくすと笑い声を零す。
「もし悪い奴に決ったとしても、兄上が守ってくれるのじゃろう?」
「あ……」
----お兄ちゃんは妹を守る為にいるんだから。
ロードレイクで、リムスレーアをウルスから庇った時に言った言葉が、脳内で鮮明に蘇る。瞬く眼を間近で見つめ「だから平気じゃ」とリムスレーアは口元を大きく上げた。
「わらわには兄上がおる。父上に母上もおる。だから不安はない。大丈夫じゃ」
「リム……」
口も聞いてくれなかった妹が、今、こうして頼りにしてくれる。ロードレイクの出来事から歩み寄って、接してきた結果がここにあった。
こうしてたった一人の妹に頼られる事を、ティーはとても嬉しい、と思った。深く頷き、ティーはリムスレーアを強く抱き締める。まだ小さな妹はこれ以上力を込めたら折れてしまいそうに細い。すっぽりティーの掌に覆われている肩には、女王になる為の重責がいつも背負わされている。
王位継承権を持たないティーには、それを代わって持つ事は許されない。だけど、支える事はできるだろう。そうする事で、ティーも大切なものを守れる。
願いを込めるように、ティーはリムスレーアを抱き締める力を強める。
「絶対に何があってもリムは守るからね。僕は何があってもリムの味方だ」
甘く優しい言葉に、リムスレーアはうん、と嬉しそうに頷き返した。だが綻ぶ表情とは裏腹に、ティーの心は軋む。深い闇の中から、そんなに全て上手くいく筈がない、と見下すような声が聞こえた気がした。
分かっている。自分一人の力で出来る事なんて数えるぐらいしかない。結局のところ、両親や女王騎士----誰かの力を借りないと、ティーはあまりにも無力だった。
抱き締める腕の中で甘える妹。数年前までは眼を合わせる事すら厭われていた。
だけど今は甘えてくれる。自分を兄だと慕ってくれている。
父上と母上も仲良くしている自分達を見守って、身を寄せあい微笑んで。すぐ側にはリオンやミアキス----それにカイルもいる。
陰口を叩かれる事もあるだろうけど、すぐ側にいるその温もり達が、傷を癒してくれるだろう。
これを幸せと言うのなら、変わらないでほしい。
リムスレーアを守る事で、それも守れるとティーは思った。
「何があろうと、リムを守るからね」
願いを込めた言葉に「頼りにしておるのじゃ」とリムスレーアが大好きな兄の声に嬉しそうに応えた。
ティーは眼を閉じ、頭を過る金色に胸を突かれた痛みを感じながらも、願う。
----今でももう、十分幸せだから。これ以上何も変わらないで。
しかし切に願った思いは、闘神祭が終わりギゼル・ゴドウィンを太陽宮に迎えた夜に呆気無く壊れる事になる。
もう、戻る事は、出来ない。
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06/08/20
06/08/26 追加
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