望みを絶たれても尚、カイルは諦めきれなかった。
前はいつだって手を伸ばせば直ぐに守れる場所にいられた。ティーに悲しいことや辛いことがあったら慰めて、わざとふざけた言葉を出し、笑わせることもできたのに。
正式に女王騎士になってから、ろくに会えず、傍にいることさえままならなくなってしまった。たまに遠目で小さな姿を見つめ、その度に歯がゆさが胸を過ぎていく。
女王騎士になって、アルシュタートを守る。それは勿論当たり前だが、カイルにとってはティーやリムスレーア、王家の家族をも守ってこその女王騎士だと思っている。ずっと前から考えていたことだ。
こんなこと、サイアリーズにでも聞かれたら「何言ってんだか」と肩を竦められそうだな、と苦笑いを浮かべ、カイルは次にフェリドへ掛け合う時の言葉を考えながら廊下を歩いていた。
相手は一筋縄では行かない。それにこっちには味方が殆どいないので、誰かに頼る訳にも行かず、自分一人で頑張らなければならないだろう。
手強過ぎる敵に、カイルの気は滅入った。髪を掻きあげ考えるが上手くいかない。どんなに考えて脳内でシュミレーションをしても絶対にフェリドが折れることはなく、卑屈的に思い出せば、遠くであざ笑っているようにも見えてしまう。急に身体が重たく感じ、立ち止まると壁に手を付いて項垂れる。
「……なんかオレってふびん−」
「それは日頃の行いが悪いせいだろう」
ぼやきに呆れる声が後ろから投げ付けられ、まさか返事が返ってくるとは夢にも思わなかったカイルは、肩を跳ね上げさせ振り向いた。
ゲオルグが腰に手を当てカイルを見遣ると、疲れたように溜め息をつく。
「またフェリドの所か。お前も懲りないな」
「だって行きたいんですもん」
カイルは膨れるが「お前がやっても気持ち悪いだけだ」とゲオルグに一蹴された。
「呆れた奴だ。それぐらいの熱心さがあるなら他にも向けてみろ」
「そう言われてもですねー。他に眼をやったらその途端に気が漫ろになっちゃいますしー」
「……」
呆れの色を濃くし、諌めるように隻眼を細めたゲオルグは、徐に後ろを振り向き言った。
「ティエン、お前からも言ってやれ」
「!?」
ゲオルグの後ろに見隠れする三つ編みの銀髪に、カイルは初めてそこにティーが居たのだ、と気付いた。覗き込み、ティー本人の姿を確認すると、それに驚いたティーが、慌ててゲオルグの傍に隠れてしまう。
「お前がいきなり近づいたりするから怯えているじゃないか」
「オレを猛獣扱いしないでくださいよ。ゲオルグ殿がティー様と一緒だって言ってくれないのが悪いです」
「気付かなかったお前も悪い」
にべもなくゲオルグは言い切った。
「とぼとぼ肩を落として歩いていたと思えば、髪を振り乱す勢いで頭を抱えたり、小言でぶつぶつ言っていれば、誰だって戸惑うだろう。お前があまりにも百面相過ぎるから、こっちだって声を掛け損ねていたんだからな」
「………。ティー様、オレ、悪くないですよね?」
フェリドもそうだが、ゲオルグも案外口が悪い。何だかやり込められている気分にさせられ、せめて、とカイルは恐る恐るゲオルグの陰から出てきたティーに尋ねる。
ティーは眼を瞬かせ、困った顔でカイルを見上げる。
「悪いかどうかは分からないけど……。でも見てて変だった」
「……ティー様ー……」
やっぱり自分の周りに味方はいないらしい。
はあ、と一際大きい溜め息を吐き出し、壁に手を付いてカイルはその場で暗く座り込んでしまった。
眼に見えて分かりやすい落ち込みように、思わずティーはゲオルグを見る。なんで落ち込んでいるか知らないが、慰めた方が良いんだろうか、と暗に言っている視線に「放っておけ」とゲオルグは殆ど呆れた声で言った。
「あれは拗ねているだけだ。どんなに頼んでも今度の視察に連れていくことは出来んと、フェリドに散々言われているからな」
「……そうなの?」
今までそんな素振りを一片たりとも見ていなかったティーは、まさかカイルがそこまで視察に行きたかったとは、と驚く。ロードレイクの時は素直に待機をしていたから、てっきり今回もフェリドの命令に従っているとばかり思っていた。
「何度も……って、そんなにカイルは父上に頼んでいるの?」
「そりゃあな」
軽く肩を竦め、ゲオルグは溜め息をつく。
「だがその度にフェリドが悉く切り伏せられているようだが、それでも懲りん。あの調子だとまた行くんだろうな」
「………」
深く落ち込んでいるカイルの背中に複雑な視線を向け、ティーはそのまま考え込んだ。
「ティエン?」
怪訝に呼ぶゲオルグを余所に、ティーはカイルの横にしゃがみ込み、流れる金髪に隠れた顔を覗き込む。
「……僕から頼んでみようか?」
「……え?」
思い掛けない申し出に、カイルは顔を上げ呆然とティーを見た。いきなりで上手く言われた言葉を理解出来ず「なんて言いました?」と聞き返してしまう。
「だから頼んでみようかって。カイルがストームフィストの視察に同行出来るように」
「どうしていきなりそんな事を」
「そんなに熱心に頼み込んでいるカイルも珍しいし。それに最近カイル太陽宮での公務ばかりだったんでしょ? だから今回ぐらいは……」
「ティー様」
振って涌いた願ってもない出来事にカイルは驚きつつ、言ってきた本人の冴えない表情に眉を潜めた。言っている言葉と内側にある感情が食い違っているように見える。
「いいんですか?」
カイルは同じ事を繰り返して言い、念を押す。無理矢理口元を上げ、ティーは笑った。
「何言ってんの? 行きたくないの、ストームフィスト」
「そりゃ……行きたいですけど」
「ならそれ以上言わないの」
話を切り上げティーは「父上は政務室にいるんだよね」と尋ね、カイルは戸惑いながらも「そうです」と頷く。
「分かった。じゃあちょっと行ってくるね」
身を翻して立ち上がり、走っていくティーをカイルは止めようとしたが、手を伸ばしたところで既に姿は見えなくなってしまう。
本当にティーに行かせて良かったのだろうか。なし崩しに話を進ませてしまったが、迷いと困惑がカイルの胸を過っていく。
そしてそれは、今まで横で様子を静観していた男も一緒だったらしい。冷ややかな視線が、カイルを射抜いた。
「……カイル。あの様子だとティエンは完璧に思い違いをしているぞ」
「分かっていますよ」
カイルは立ち上がり、ティーが走って行った廊下の角を睨み付ける。
「オレがストームフィストに行きたがってるのはサイアリーズ様がいるから、って思ってるんですからティー様はっ」
涌いた苛立ちにカイルは髪を掻き上げる。本当に視察に着いて行きたい理由は、さっきまで目の前に居た存在の為なのに。その本人は、カイルが別の人間の為に行きたいと思い込んでしまっている。
勘違いしたままのティーにむっとしているカイルを見て、ゲオルグは厳しい眼差しを浮かべた。
「お前が何も言わないから気付かないのは当たり前だ。一言お前が好きなのはティエンだ、と一言言えば済む問題だと俺は思うぞ」
「それはそうかもしれませんが、でも言いません」
度重なる辛苦に心が苛まれているティーに、思いの丈をぶつけてみても困惑して対処しきれないだろう。返事だって返ってくるのかすら怪しくなるから、カイルとしてもそれはいやだな、と思う。
「だからと言って、もしフェリドが折れてしまったらどうする。ティエンはそれ以上に苦しむかもしれん。勘違いしたままで、四六時中お前とサイアリーズが一緒にいる側に居なければならないんだからな」
ティーがカイルに仄かな想いを寄せている事を知っているゲオルグは、いら立ちを混ぜた溜め息を吐いた。たとえどんなに押し殺した感情だとしても、恋い焦がれている存在が、他の人間と楽し気に過ごすのはどんなに辛い事だろうか。針で刺すような痛みが、常に心を痛めつける。そうして一人途方に暮れているティーを何度も見てきた身としては、あまりカイルの考えは賛成出来ない。
「……少しぐらい考えてやったらどうだ?」
「……いやですよ」
カイルはゆっくり首を振った。
「ロードレイクの件で良く分かりました。やっぱりオレは一緒に行くべきだった」
大切な故郷の惨状を目の当たりにして、今まで温かく迎えてくれた人たちが苦しい現状に吐き出される、王家に対する恨み辛み。きっとどうあってもティーは傷付いてしまうのは火を見るより明らかな事だった。
側に居たら、傷付いたティーを慰めて支えてやれるのに。
一緒に行きたかった。手の届かず、眼に見えない場所で傷付かれるより、自分がいる事でまた別の苦しみを味合わせてしまっても、それでも。
「側にいたいんです」
カイルの脳裏にいつかティーが黙っていなくなった時の情景が思い浮かんだ。
走って行く背中を追い掛けて、滅多に人が通らない道を抜けた先に見えた、重なりあう二つの人影。泣きじゃくるティーを見知らぬ誰かが抱き締めていた。
思い出す度に憤ってしまう。長い間一緒に居たくせにオレは何も知らない。
ティーがあんな風に泣くなんて知らなかった。それを曝け出す存在がいるなんて、知らなかった。
そして思う。
手の届く場所に居てほしい。あんな、自分以外の誰かに縋る姿なんて、もう二度と見たくなかった。
気付いたのは、カイルへの想いをシグレに聞いてもらい、リムスレーアやミアキスに励まされて、何とか平静を取り戻しかけた頃。カイルと自分の叔母、サイアリーズが睦まじく会話に花を咲かせている場面を何度も見かけた。もしかしたら、今までは見ても無意識に無かった事にしていたのか。とにかく、初めて眼に映した瞬間、落ち着きかけていた心が金槌で強く叩かれたような衝撃に、目の前が真っ白になってしまった。
元々カイルは、女好きの性質を持っている。昔から一緒に街へ下りた時に、ごくごくたまに通り過ぎる女性へ愛想良く声をかける姿を何度も見ている。そして時たまその性癖の悪さは噂になって太陽宮にまで届き、半眼で睨むティーにどう言い訳しようか、カイルはその度に困っていた。
だけど噂になった女性達とサイアリーズを比べたら、明らかに後者が特別みたいに感じた。からかわれあしらわれても、カイルはめげずにサイアリーズとの語らいを楽しんでいる。
遠くからその情景をぼんやり眺めていくうちに、ティーはぼんやりカイルは叔母上が好きなんだな、と思い始めるようになった。胸にずきりと痛みが刺さり、同時に安堵も生まれる。
もしも、カイルに思いの丈をぶつけてしまったならば。サイアリーズに想いを寄せるカイルは、どう受け止めるか迷うだろう。ティーを気遣い、内に秘めた想いを捨てるかもしれない。そして、今の自分と同じ苦しみを味わうだろう。
口元に薄く笑みが上る。
カイルが不幸になるのは嫌だった。長らく王位継承権を持たない自分を護衛してくれて、色々尽くしてくれたんだから、幸せになってほしい。
例えそれが、さらなる苦しみの種になろうとも。カイルが何処か遠いところへ行ってしまうよりはマシだった。
ティーは眼を閉じ、シグレの声を思い出す。『間違っている』とこれ以上カイルへの想いが大きくならないように頼み込んで言わせた言葉を心で反芻させて、さざめく感情の波を落ち着かせた。最後に泣いた日から、ずっと同じ事をして気持ちを落ち着かせている。
しっかりしないと。
ティーは自らを奮い立たせる。これから父上に、カイルを視察に連れてってもらえるよう頼まなければならない。手強い相手だから、気をちゃんと持たなければ。
カイルが視察に行きたい理由は、サイアリーズの身を案じているからだろう。ストームフィストにはファレナにとって最も気を張らなければならない人間達がいる。闘神祭の前でもあるから、たくさん転がっている危険から少しでも守りたいかもしれない。
同行が許可されず、あまりにも酷い落ち込みように、ついティーはフェリドを説得してみると協力を申し出てしまった。ティーのカイルに対する思いを知っているゲオルグは呆れていたが、それも笑って誤魔化し、でも自虐的な行動に居辛くなり、振り切ってその場から離れた。
ゲオルグの気持ちは嬉しい。でもティーは、カイルの望みをどうしても叶えてやりたかった。
馬鹿だよね、僕って本当に。
自分を嘲笑しながら、ティーは女王騎士詰め所に入り、さらに奥の扉を叩いた。返事を聞き、ゆっくり扉を開く。
「失礼します」
入るなり、二対の視線が注がれて、ティーは驚き半歩後ろに下がった。ソファに座るフェリドとシグレに眼を丸くする。
「シグレ、来てたんだ」
「ん、まぁな」
歯切れの悪い返事に、シグレがここにいる理由をティーは思い出した。
フェリドは、内密の調べ事をオボロ探偵事務所に依頼している。調査員の一人であるシグレは、調査結果をフェリドまで運ぶ役目も担っていた。
依頼内容は様々だが、中にはティーさえ知らない重要な機密を含まれるものもある。
もしかしたら、今がその機密が含まれる依頼の調査結果を伝えていたのだろうか。
「……僕、出直しましょうか?」
邪魔をしてはいけない、と控え目に尋ねたら、フェリドは「ああ、大丈夫だ」と手を振りティーを招き入れる。
安堵したティーはシグレの隣に座り、緊張した面持ちでフェリドと向かい合う。慣れない事をするせいか、自然と握りしめた拳に薄く筋が浮く。
「どうした。ゲオルグと今度の視察の打ち合わせをするんじゃなかったのか?」
「その、視察の事ですが」
小さく深呼吸をして息を飲み、ティーは言葉が途切れないよう早口で言った。
「……カイルも同行させてもらえないでしょうか?」
カイルの名前にシグレが反応して肩を震わせた。フェリドも、眉間に皺を寄せ厳しくティーを見据える。
明らかに重たくなった空気が、ティーの肩にのしかかった。カイルがどんなに頼んでも駄目だった。そうゲオルグは言っていたが、重苦しい雰囲気にそこまで深刻なものだとは思いもせず、二の句が告げられない。説得の為に用意した言葉が、あっという間に喉の奥へと引っ込んでいく。
「……カイルが引き下がったと思ったら今度はお前か、ティー」
溜め息混じりにフェリドが呟き、額に掌を当てる。そしてさっきよりも幾分厳しい眼差しを和らげて、怯える子供を諭すように尋ねた。
「頼まれたか?」
「いいえ」とティーは首を振る。
「いいえ、違うんです。僕から言った事で、それで」
ばらまかれている言葉の端々を必死に掻き集めながら、ティーは必死になる。ここで上手く言えなかったら説得は出来ない。僅かに手を握る力を強く込める。
「ここのところカイルも頑張り、公務に努めています。少しばかり彼の意見も聞いてあげては如何でしょうか。女王騎士として申し分ない実力を持っている人間です。だから、視察でも十分な力を発揮してくれると、僕はそう思います。だから」
一旦言葉を切り、一瞬詰まった息を吐き出して、切ない眼でティーは言った。
「お願い出来ませんか……? カイルを、視察へ」
「………ティー」
膝に肘をつき、組んだ指で口元を隠したフェリドは、静かに探るような眼でティーを見つめた。
「お前は本当にカイルを連れてった方が良いと思うのか?」
「……え?」
「ストームフィストはゴドウィン家が治めている領地だ」
虚を突かれ、瞠目するティーに、黙って親子のやり取りを聞いていたシグレが口を開く。
「そして金髪はバロウズ」
「そ、それは違う!」
カイルがバロウズ派の人間だと決めつけられ、ティーは思わず声を荒げた。
「カイルはバロウズ派の人間じゃない。それは僕が一番良く知ってる!」
殆どが自分の利益しか考えない人間で埋まっているバロウズ派の人間。その中にカイルもいるのがどうしても納得がいかない。
憤慨するティーを「分かっている」とフェリドが宥めた。
「だがな、俺たちやティエンが分かっていても、他の人間まで同じ事を思っているかどうか、定かじゃないだろ。貴族の中には既に、あいつをバロウズの人間だと決めてかかっている奴もいるんだからな」
そんな、と反論しかけ、ロードレイクから戻ってきた後、カイルを『バロウズ家の代弁者が』と罵っていたアレニアを思い出してしまい口を閉ざす。同じ女王騎士にまで、二大派閥の影響が確かに浸透している。
「もしバロウズ派の人間だと思っている金髪が、ゴドウィンの人間で集まっている場所にでも行ってみろ。それだけで騒ぎの種になって、あっという間に大事だ」
「あ………」
謂われない事でカイルが周りから心無い眼で見られ、口さがない陰口で罵られる。自分は慣れているからまだ良いが、他人が同じ扱いをされてしまうのは見るに耐えない。
その情景を思い浮かべ、真っ青になったティーに「ほら見ろ」とシグレが肩を竦める。
「考えるぐらいでそうなるんなら、あいつは連れていくな。実際そうなってお前がぶったおれでもしたら、迷惑かけるどころの話じゃ無くなるぞ。それこそ金髪のせいだって言われていいのか?」
「………」
「それぐらいにしておけ、シグレ」
シグレを制し、フェリドは迷いに揺らぐティーを見つめる。
「ティー、シグレの話は大袈裟だが、決してあり得ない話じゃない。……闘神祭の間は色々予測出来ない事もあるだろう。そこに在らぬ争いまで生まれたら、お前でも対処しきれなくなるだろう。少しでも不安は取り除いておいた方が言い」
「……僕が、僕がもう少ししっかりしていれば……」
カイルをストームフィストに連れていってやれただろう。行けないとしゃがみ込んで落ち込んでいた姿を思い出し、ティーは自分が不甲斐無く情けない悔しさに歯を食いしばる。
「ティー、お前のせいではない。だが今はまだ足りないものも多い。もっと周りや外を知り、色々学べたら、そうしたらカイルも連れてってやれるさ」
「………」
黙ってしまったティーを横目に、シグレは煙管を取り出し指先で弄ぶ。項垂れてしまったティーを取り巻く空気があまりにも沈んでいて、居たたまれない。
握りしめ白くなってしまった手を見つめて、ティーはしばらく考え込んでいたが、やがて沈黙に耐えきれなくなり「……分かりました」と悔しそうに呟いた。
今はどう言っても、フェリドには適わないだろう。ティー自身、自らの未熟さを痛感している。
がっかりするだろうな。カイルの願いごとを叶えられず、肩を落とす。瞼を閉じれば、結果を聞いてしょぼくれてしまうカイルをいとも簡単に思い浮かんで、伝えるのを躊躇わせた。
だが自分から言っておいて、逃げるなんて駄目だろう。ちゃんと報告して、そして謝ろう。
心の底では気乗りしないまま自分を納得させ、ティーはゆっくり立ち上がり、フェリドに頭を下げた。
「……すいません、無理を言ってしまって」
「おい、ティエン」
「……ごめん、シグレ。今日はもう戻るよ」
ティーは悲し気にシグレに笑いかけた。
「多分、今じゃ嫌な事ばかり言ってしまうから」
「失礼します」と部屋を出ていってしまったティーを捕まえようと手を伸ばして腰を浮かしかけたシグレは、振り向きもせず扉を締められ、舌打ちをしソファに座り直す。長い前髪越しに、半眼でフェリドを睨む。
「……なぁ、あれで良かったのか?」
もしかしたら他にマシな言い方もあっただろう。
「本当の事だから仕方あるまい」
言い切ってフェリドは背を伸ばし、シグレが来た時のまま開け放していた窓から外を眺める。
「変わらないものなんてない。今ファレナが動きつつあるように、お前がそうであったように、それはいつかティーにも起こる事だ」
「………」
「いつかあいつの周りで重大な事が起こり、耐え難い衝撃に襲われた時、そのままティーには崩れないでいてほしい。どんなものからも立ち向かえるように」
「……逃げるなってことか」
苦しそうに呟いて、シグレは煙管を掌に握りこんだ。
フェリドの言い分は正しい。正しすぎて息苦しさを感じる。
強いからこそ言える考え。だけどそこまでの強さを持っていない人間には、無理の押し付けみたいになってしまう。
逃げてもいいだろう、とシグレは思う。わざわざ辛い眼にあって、傷ついたって良い事など起こりはしない。
肌の感触を確かめるように、指先と掌を摺り合わせ、そっと息をついた。
いつかカイルの想いに苦しんで泣いたティーを抱き締めた、弱い感触を容易く思い出す。それはあまりにも弱すぎて、フェリドの望む強さを掴むには、まだティーは脆過ぎるだろう。
「……別に弱くたって良いじゃないか」
フェリドに聞こえないようにシグレは小さく呟く。
落ち着きなく見回りを続けていたカイルは、遠くからティーを見つけ、一瞬ぱっと表情を輝かせたが、次第に近づいてくる彼の肩が沈んでいる事に、フェリドへの説得の結果を悟った。やっぱり、と残念に思う気持ちもあったが、それ以上にわざわざ掛け合ってくれたティーへの労りが強く「お帰りなさい」と優しく出迎える。
温かい言葉に、申し訳なさから眉を寄せ、ティーは「ごめん」と頭を下げた。
「説得、出来なかった……」
「もういいです、いいですから。ティー様頭を上げてください」
王族の人間にはあり得ないだろう振る舞いに、カイルは慌てて、頭を下げ続けるティーを制した。説得が失敗したとしても、ティーが謝る必要はない。我が侭を言ったのはカイルの方だ。
「オレが無理を言ったんです。貴方が謝ることなんて全然ないんですよ」
「……でも……、僕がしっかりしていれば」
「……なんでティー様のせいになっているんです?」
意を解せず、怪訝に眉を潜めたカイルはティーに尋ねた。ティーは躊躇いがちに眼を伏せながらもフェリドとの会話をかいつまんで話した。勿論、シグレの存在を上手く抜かして。そうして内容を聞かされていくうちに、カイルは表情を渋くする。
前々から『バロウズ家の代弁者』などとカイルにとっては不名誉極まりない呼び方をされてきていたが----実際アレニアには何度も言われた事がある----噂と事実は違うと半分放っていた事が裏目に出た。言われる度に本人以上にティーが気にしていることを持ち出されたら、カイルも口出しが出来なくなる。
ティーを苦しませても一緒にいたい、とゲオルグに公言していても、こうして悲しむ姿を目の当たりにしてしまうと、カイルの心は揺らいだ。
卑怯ですよ。カイルは心の中でフェリドへの恨み言を呟いた。きっとこうなる事を見越しての行動だったんだろう。やはり予想以上に手強い人だ。
不快を押し込め、カイルは自分のせいで連れていかれない、と嘆くティーの肩に優しく手を置いた。おずおずと不安そうに見上げる瞳に、さっき出迎えた時と同じ、優しさを滲ませた笑みを浮かべた。
「ティー様のせいではありませんよ。全部、オレの勝手が招いた事です」
「でも」
「いいんですって。……大人しく留守番しますよ」
本当はいやだけど。ロードレイクの時のように、手の届かない所で傷付いてしまうなんて、考えただけでも不安で落ち着かなくなるけど。このまま自分が駄々をこね続けていたら、その間ティーは今の無力さにうちひしがれる顔のままだ。
胸の中で混ざる悔しさと切ない痛みを隠して、精一杯笑顔を見せて、ティーの不安を消すように努める。
「ありがとうございます。わざわざフェリド様に言ってくれて。それだけでオレは十分に嬉しいですよ」
「カイル……」
「そんな顔をしないでくださいってば。オレ、真面目に太陽宮の公務をこなして今度の視察に連れていってもらえるよう頑張ります。だからティー様も頑張ってきてください」
「……うん」
カイルの笑顔に押されるように、ティーは頷いた。カイルが頑張ると言っている。だから自分も頑張らなければ、と言う気持ちにさせられた。
カイルやフェリド、シグレらが心配しているように、ストームフィストの視察は今までのそれよりも手強く一筋縄ではいかないだろう。それをやり遂げて、強くなれば無理して明るく振る舞ってくれるカイルを望むまま視察に連れていってあげられる。
カイルが誰かと仲良くいる姿を見るだけで、心は締め付けられ苦しくなる。だけど同時に、側にいるだけで安心出来た。
カイルへの恋慕を間違っている、と思い込ませているくせに、心の何処かで求めている自分は愚かだ、と皮肉りながらティーは精一杯の笑顔をカイルに向ける。
「頑張るから、待っていてねカイル」
「……はい」
待ってますよ、とカイルは何処か哀し気に笑って言葉を返した。
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