ティーは空を見上げ、当たり前のように、平穏な生活を送っている街の光景から逃げた。
 晴れた空には、幾筋の雲が緩やかに流れている。青い色は柔らかく、勉強で疲れた時に見ていると、自然と溜まっていた力が抜けてしまう。
 だが、今は同じように見上げても気分は晴れず、逆に胸に鉛が入ってしまったかのように、とても重たく滅入ってしまうばかりだ。ついでに、眼の奥も熱さと痛みで入り混じる。
 空はどこまでも広く繋がっている。
 ティーがいるソルファレナは、母親であり、ファレナ女王国の女王陛下でもあるアルシュタートの庇護の元、こうして太陽と大河の恩恵を受け、平穏を享受している。だが、同じ時を荒れ果てた大地にしがみついて、飢えと乾きに苦しむ人もいる。
 眼の端に入った太陽の白い光が眩しくて、瞼を閉じる。白んだ瞼の裏に、かつて緑の至宝と謳われた街の、惨く変わり果てた街の姿が映った。
 閉じる度に思い出す、脳裏に焼き付いてしまった現実を思い出し、心臓の痛みが増した。
 どうしてあそこが、ああなってしまったんだろう。

「ティー様っ」

 通りを行き交う人にぶつからないように、軽い身のこなしで向こう側からカイルがやってきた。両手には薄く焼いた生地に、アイスを巻いた菓子を持っている。
 その一つを「はいどうぞ」とカイルは差し出した。
 果汁を絞って作ったソースやチョコレートをまぶしたそれをぼんやりと見つめて、ティーは何とか笑みを作ると「……ありがとう」と受け取る。
「久しぶりにティー様が帰ってきたからって、お店の人がサービスしてくれたんです」
「そうなんだ」
「溶けないうちに食べちゃってくださいね」
 言いながらカイルはティーの隣に座って、自分の手に残っていた菓子を食べ始める。大きく口を開けてかぶりつくと、ティーはそれを見て可笑しそうに笑い、渡された菓子を小さく口に運ぶ。
 冷たいアイスの味が広がって「おいしいね」とティーは言うが、表情は暗く、良く見てみると空いている方の手がきつく握りしめられていた。食べながら横目で様子を窺うと、銀色の髪の間から覗いた眉間の皺に、カイルはそっと心を痛める。
 長い間を掛けて、ようやく薄まりつつあった癖がまた蘇りつつある。抱えてしまった辛さや苦しみを自分の内側に溜め込んで、どうにか渦巻く感情が過ぎ去っていくのをじっと耐える。その時は、掌を血管が青く浮き上がる程強く握りしめ、爪が食い込み血を滲ませる。
 カイルはティーが今置かれている状況を考え、その複雑さを憂いた。
 女の王族が優先される国であるファレナを治める女帝、アルシュタートと何の後ろ盾もなく剣一つで彼女の婿の座を勝ち取ったフェリドとの間に産まれた子供であるティーは、男であるが故に、王位継承権を持っていない。さほど重要ではない立場にいる彼を、ただそれだけで邪険に扱う人間も多く、初めて引き合わされた時、独りぼっちで自室に閉じ篭っていた姿を、今でもしっかり覚えている。
 そんな彼の護衛になって、毎日共にいたカイルは少しずつ心の壁を取り払い、周りより----それこそフェリド達よりも打ち解けてきたと、思っていたけれどそれは自惚れだったのだろうか。
 最近、沈んでいる回数が眼に見えて増えているのに、気の効いた言葉一つ掛けられない。
 幾つもの言葉が浮かんでは消え、迷った挙げ句差し当たりのないものを選んでしまった。

「そう言えば、ティー様と出かけるのも久しぶりですよね」
「……だっけ?」

 菓子から口を離し、わずかに見上げて首を捻るティーに「そうですよ」とカイルは頷く。

「オレが女王騎士になってから、なんだかんだで公務が増えちゃいましたから。それにティー様の方だって武術習いはじめて顔をあわせる事自体ぐんと減っちゃいましたし」
「…………」
「なる前だってリオンちゃんと三人でって言うのが殆どでしたからねー。二人きりは本当に久しぶりです」
「……確かにその通りかも」

 息を吸い、気持ちを抑え気味にティーが答える。

「でもあんまり変わってないよね、カイルは」

「ええっ」とカイルは大袈裟に驚いた。

「背とか伸びてるじゃないですか。髪だって王子と同じような三つ編みが出来るぐらい伸びてるし、それに大分男前にもなりました!」
「……そうだよね、この前も女の人口説いてたみたいだしね」
「え、ええーっと……」

 じろりと睨まれ縮こまるカイルに溜め息をつき、ティーは「自分で言うなんて自意識過剰」と呟いてから吹き出した。

「やっぱり変わってない」
「ですかぁ? オレは結構良い線いってると思うんですけどねぇ」

 残念です。
 そう落胆した様子で言いながら、カイルは嬉しかった。落ち込んでいたティーがようやくいつもの調子に戻ってきてくれた。素直じゃない言葉の数々は、彼を知らない人間から見れば怒っているようにも見えるけど、本当はこっちの方が機嫌のいい証拠なのだ。
 久しぶりにティーの笑顔を見たような気がして、カイルは無意識に張っていた肩の力を抜いた。へにゃりと頬が緩んで崩れた笑みに、ティーは眼を丸くする。

「……何?」
「いえ、ようやくいつものティー様だなって」

 カイルの言葉にあ、とティーは一瞬だけ固まった。気まずさを誤魔化すように、残っていた菓子にかぶりつく。既に食べ終えてしまっていたカイルは「ゆっくりでいいですから」と優しく促し後ろ手に手を付いて空を見上げた。
 行き交う人の間から見えたティーが見上げていた空。それに何の思いを馳せていたのだろうか。そう思い当たる出来事が多くて、特定出来ない。
 どうしようか、どうするべきか。
 どれが原因か、聞いてみたってどれもティーの地雷を踏むのは分かりきっている。だからといって放っておく事なんて。

「……またどっかのバカな貴族に何か言われました?」
「……え?」
「眉間に皺が」

 カイルは自分の眉間を指で叩く。ティーの顔色が曇った。

「そうだったとしたら、隠さず言ってくださいよ。オレが懲らしめてあげますから」
「違うよ」

 首をゆっくり振って否定したティーは、悲しみに曇った瞳を伏せる。

「貴族の陰口、だなんて今更だよ。どれだけ聞きなれていると思っているの」
「じゃあなんで」

 カイルは身体を戻し、ティーの顔を覗き込んだ。傷付いた顔をしていて、今にも泣き出しそうに見える。細められた眼の端から、涙が零れ出しそうだ。

「……ロードレイク……」

 わななく唇が、震える声を紡いだ。
 ロードレイクはかつて緑の至宝と謳われた地。広がる森に湖、住む者の心のうつくしさに訪れた人間は皆、そう呼ばれる所以に納得する。
 カイルもその一人だ。ティーが産まれて育った地で、ただ一人の妹と和解出来た地でもあるのだから。ロードレイクがあるからこそ、ティーはここに存在している。
 ロードレイクの名前を出す時、ティーは嬉しそうに笑っていたが、今はどうしようもない悲しみに覆われている。

「……同じファレナの国なのに、どうしてあんなに……」
「……太陽の紋章、ですか」

 ティーは頷き、耐えきれなくなって目元を手で覆った。
 落ち込むには十分すぎた理由に、カイルもああ、と息をついた。
 つい数日前、ロードレイクの視察から戻ってきたティー。ソルファレナにいるばかりではなく、見分を広げる為にと、アルシュタートとフェリドの命で送りだされた。
 ファレナをより良い方向へ改革しようと今までのしきたりを違え、王位継承権はなくとも政にティーを関わらせようとしている。確かにティーだったら、同じ年頃----その時のカイルと比べたら----勤勉で賢く、加えて街の人間とも接してきている分、補佐をする資質は十分だろう。
 だけど、場所と時期が悪かった。
 二年前にロードレイクで暴動が起きなかったら。
 東の離宮にまで攻め込まれ、黎明の紋章が奪われなければ、きっとアルシュタートはロードレイクを太陽の紋章の力で荒れ地に変えなかっただろう。もしそうなれば、結果も違っていた。
 現実は時にとても残酷だ、とカイルは思う。
 今でもはっきり覚えている。太陽宮から遥か遠い地が、白刃の光で裁きを下される瞬間を。光は三日三晩絶え間なく降り注ぎ、大量の熱を持って水や森を枯れさせ、大地を殺す。嘆く人の心も荒み、そこはまるで地獄のようだった、と報告を聞く度にそこまでする必要があったのか、とカイルはやるせなくなっていた。
 ティーにとって、ロードレイクはもう一つの故郷。あそこの存在がなければ、産まれてすらいなかった。
 だからやるせなくなると同時に、いつも思い出す。
 裁きを下した夜。他でもない母親の手によって、乾きの地と化した大切なロードレイクを成す術もなく見つめ、力なく崩れ落ちたティーの背中を。
 細く触れただけで崩れそうなその背中は、初めて会った独りぼっちでいる事を決めていた時とそっくりで、あれから二年経った今でも、変わっていない。
 立ち直っていないのに、傷口を抉る結果になってしまったロードレイクの視察。ソルファレナに戻ってから、ティーはさらに落ち込む回数が多くなっている。
 女王騎士になってから会う回数も減っていたが、ティーの異変に気付き、カイルは少しでも気晴らしをさせてあげようと、公務をサボって外に連れ出した。だけど今のティーは見えるもの総てをロードレイクと比べてしまっている。
 逆効果だったかな。
 カイルは不安になり、ティーへ気遣う声を掛けた。

「……戻りますか?」

 間が空いて、ティーは伏せていた顔をのろのろと上げ「ううん」と首を横に振る。

「今はじっとしているよりこうして街に居た方が気が紛れるから。……正直カイルが誘ってくれて嬉しかった」
「なら良かったですけど」

 無駄だと思っていた気晴らしが案外喜ばれ、カイルは安堵する。

「だけどティー様、無理はしないでくださいよ。ちゃんと辛い事は言わなきゃ」
「うん……」

 人の行き交う道をティーはぼんやり眺めた。みんなロードレイクの実状を知っているがそれでも笑っている。何処か遠い世界で起こった事のように、重みが薄く感じた。
 こうしている間も、ロードレイクは苦しみと乾きに喘いでいるのに。
 心臓が握りつぶされるような痛みに、ティーは手を握りしめた。何処かから聞こえる警鐘が、絶えず嫌な予感を感じさせ続ける。

「……なんだか怖いんだ。このままだと取り返しのつかない事が起こりそうで」
「ティー様」
「暴動が起きた時から、何処かが歪んできている気がして」

 優しく見守ってくれていたロヴェレ卿の死。
 日増しに激しくなるゴドウィンとバロウズの対立。それは女王騎士にまで影響が及ぶ。そしてそれぞれの立場や問題に板挟みになったアルシュタートは、強大な力を持つ太陽の紋章を宿した後、不安定で脆い面を見せるようになった。
 危うい均衡。いつ崩れたっておかしくない。

「……どうすればいいんだろう……」

 自分の身体を抱き締めて、ティーは縋るような眼をカイルに向けた。

「僕は何をすれば良い? やれることはあるの? ……それとも僕なんかが出しゃばってはいけないの?」
「……ティー様……」
「……嫌だよ。これ以上もう嫌な事が起こってほしくないのに」

 泣きそうな声でティーは呟く。
 カイルは泣きそうだ、と思ったが最後までその眼から涙が零れ出る事は、なかった。



 悔しいが、ティーが他人に弱みを吐く、なんてカイルは殆ど立ち会った事はない。なまじ頭が良く、子供の癖に大人に遠慮する思慮深さまで持ち合わせてしまったせいで、苦しみや辛さ、同じ年頃の子供だったら泣いてしまいそうな程の悲しみさえも内側に押し込めて、ただ過ぎて消えるのを耐えて待っている。
 もしカイルが半ば強引に街へ連れ出していなかったら、ティーは何も言わず、ロードレイクの傷を残したまま新たな視察へ赴いていただろう。あんな弱々しいティーを放っておける訳がなかった。
 場所だって悪い。よりにもよって、ゴドウィン卿が統治するストームフィストだ。バロウズと並ぶ二大派閥の片方で、常にもう片方と思想や国の在り方で対立し、女王を悩ませている原因の一つになっている。加えて、危機感を抱かせる急速な力のつけように、世情に敏感な人間が不安がる程。
 ゴドウィンは王家に武力を持って国を大きくすべきだ、と強く言ってきている。一夜にして国を一つ滅ぼす力を持つ太陽の紋章を使えば簡単だと。
 そんな危険な事を言う人間のいる場所に、ティーを派遣するなんて、カイルは肝が冷えた。例え、リオンや女王騎士の中で一、ニを争う剣の腕を持つゲオルグ、それに可愛い甥を気遣う叔母サイアリーズが一緒だとしても、不安ばかりが頭を過って、もやもやした思いが胸の奥に重く落ちている。
 妹姫、リムスレーアの婿を決める闘神祭が行われる一週間前になったら、ティーは行ってしまう。
 それまでに、何とか視察に同行出来るようにしないと。
 太陽宮に戻りティーと別れたカイルは、その足で女王騎士の詰め所へと足を向けた。本当だったら、公務があるが、それはティーを街へ誘った時点でサボりを決め込んでいる。
 何かと口煩いアレニアやザハークが居ないのをいい事に、そのまま室内を横切って、奥の扉を叩いた。
「カイルです」と名前を呼ぶとややあってから「入れ」と声が返ってきた。
 取っ手を掴み、カイルは一度大きく息を吸って気合いを入れると、勢い良く扉を開けて入った。

「----失礼します」

 知らず険の滲んだ声音に、文机でペンを走らせていたフェリドは手を止めた。肘掛けに肘をつき肩ごしにカイルを振り返る。
 公務をしている筈のカイルにわずかに眉間に皺を寄せ「またサボりか」と呆れた。
 カイルはそれを流し、足早にフェリドの後ろまで歩み寄り、強い意志を持って見つめる。真剣さにあくまでフェリドは態度を変えず、それでもカイルに向き直った。
 鬼気迫るカイルの顔を見ながら、無言で発言を促す。

「……フェリド様、オレをストームフィストの視察に同行させてください」
「…………」

 フェリドは聞き飽きたと言わんばかりに瞼を閉じ、深く溜め息をついた。

「駄目だ」
「どうしてですか!」

 考える間もなく出された答えに、カイルは頭に血が昇り、その感情のまま文机を叩いた。ばあん、とけたたましい音が響き、天板に広がる振動が置かれている書類を数枚、床に落とす。

「ロードレイクの時だってそうだったじゃないですか。オレが何度頼んでも、フェリド様はいつも駄目の一点張り」

 ロードレイクを故郷としているガレオンと同じように、並々ならぬ思いを寄せているカイルに、フェリドは配慮しているかもしれない。だが、カイルはどうしてもフェリドが、ガレオンと同じ理由でティーの同行をさせてもらえなかったとはどうしても思えなかった。心配とは違う感情を持っている。
 苛立ちながら、女王騎士長にこれ以上言葉を荒げられず、カイルは文机を叩いて痺れた手を戻し、握りしめて俯いた。

「……どうしてオレは駄目なんですか。オレはこれでもティー様の護衛を一番長くしてきた人間です。どんなものからも守る気持ちは、誰よりだって強いと思っています」

 幼い頃から一緒に居たリオンよりも、その思いは深い、とカイルは言い切った。だが、それに対するフェリドの答えは、あまりにも簡潔だった。

「それがあるから、お前を連れていかないんだ」

 カイルは眼を見開く。どうして守ると言う気持ちが強いだけで、連れてってもらえない理由になるのか。

「カイル、お前はどんなものからもティーを守ると言ったな」
「はい」

 そのつもりでカイルは視察の同行を何度も名乗り出た。

「……それが駄目だ」

 フェリドは両手の指を組み合わせ、口元を隠した。難しく考え込むながら、カイルを見遣る。

「お前がティーを守りたいと思っているのはこっちとて十分承知している。だがな、守られる方はどうだ? ずっと守られて、いつまで経ってもティーは強くなれず、弱い雛鳥のままだ」

 これから先を思うと、自分の息子は少しでも強くあってほしい、とフェリドは固い口調で言った。
 バロウズとゴドウィンの対立。それに伴う貴族達の策謀の激化はただでさえ危害の矛先が向けられやすい立場のティーに、いらぬ傷を齎してしまう。周りに守ってくれる人間がいれば、その時は安心かもしれないが、いつか一人だけになってしまう事態もあり得る。その時、ティーは自分の力だけで状況を打開しなければいけない。
 フェリドにとって、ティーは二人と居ない大切な息子。むざむざ心無い存在によって傷つけられるなど黙っていられない。

「でもオレは、ティー様を守りたいんです」

 諦めきれないカイルはなおもフェリドに牙を向けた。

「ロードレイクでティー様弱ってるのに。ストームフィストに行ったら、絶対傷口が広がるような事ばかり起こっちゃいますよ」
「リオンやゲオルグ達がいる」
「じゃあなんでリオンちゃん達は良くて、オレだけは駄目なんですか?」
「お前はティーに大して過保護すぎだ。それこそリオン以上にな」
「………っ!」

 肩を強張らせ、固まるカイルを手のやける弟のように見つめ、フェリドはなだめるように言葉を続ける。

「カイル、ティーを心配してくれる気持ちはありがたいが、もう少しあいつを信じてやってくれ。もう十七歳だ。初めて会った時の九歳の子供じゃないんだぞ」
「………」

 悔しさにカイルは唇を噛み、不満を精一杯滲ませながらも、深く一礼しそのままフェリドに背を向け、部屋を出ていってしまった。
 過ぎ去った嵐に息をつき、フェリドは背もたれに身体を預ける。
 王位継承権もなく、風当たりが辛いティーの身を心から案じるカイルの気持ちは、とても理解出来る。だが、心を鬼にしてしていかなくては、乗り越えられない事もある。きっと今がその時期なんだろう。
 さて、どうしたものか。
 これからもきっと来るカイルの煩い追撃を、どう躱すか。考えただけで頭が痛くなる。
 指で顳かみを押え、ふと窓を見てみると、硝子の向こうにぼさぼさ頭がひょっこりと覗いた。それは無遠慮に窓枠を掴んで窓を開け、警戒しながら部屋の様子を窺う。気配で探れるのに、尚も警戒する様子に苦笑してフェリドは、シグレか、と彼の名前を呼んだ。

「……もう誰もいないだろうな……」
「大丈夫だ、安心しろ」

 シグレはしばらく部屋を隅々まで観察し、ようやく桟に足を掛けて部屋に入る。

「今は公務で女王騎士は何かしら仕事があるからな」
「じゃああの金髪はサボりか」

 女王騎士の癖に、とシグレは呆れた。カイルの立場はファレナ----ひいては女王を守る為にある。それを王位継承権を持たない王子の視察に行こうと骨を折るなんて。何の為にいる女王騎士か。

「……ま、分からなくはないがな」
「なんだ、お前もカイルと同意見か?」

 珍しい、と笑われてシグレはむっとした。
 シグレはカイルと顔を合わせた事はないが、何となく気が合わない予感がするし、多分それは的中する自信がある。フェリドにカイルと同じ事を考えているらしいと思われ憤慨した。

「違う」

 シグレは反論する。

「俺は別にあいつみたいな過保護になったつもりはねえよ。……ただ、流石に場所が悪いだろ」

 羽織のポケットから数枚に重ね、折り畳まれた象牙色の紙を、つい、と机に置く。

「きな臭い話が多過ぎる。いくら姫さんの婿を決める闘神祭があるからと言っても異常だ」
「………」

 黙って受け取った紙を広げ、フェリドは丁寧に眼を通す。闘神祭を前にして、活発になっている貴族の動きや謀の内容の多さに、知らず眉間に皺が寄った。
 将来ファレナの女王となるべく定められた自分の娘、リムスレーア。その婿を決める闘神祭で優勝を掴めば、これから先、多大な名誉と地位が欲しいままになる。だからこそ、誰もが血眼になってただ一つの勝者を目指していく。
 ----どんな手を使ってでも。

「……覚悟はしている」
「あんたも危ういのは分かってるんだ。だったらティエンに護衛を増やしても良いんじゃねえの? ゴドウィンが手を出さないとしても、他がどうか分からないんだからな」

 違うと言い張りながらも、カイルに負けず劣らず過保護に心配するシグレに、フェリドは「大丈夫だと言っているだろう」と苦笑を返した。

「もうティーには十分過ぎる護衛がいるからな。あいつらに任せておけば心配ない」

 昔からの深い付き合いで、北の大陸では『二太刀いらず』の異名を持つゲオルグ。幼少の頃から類い稀な武の才能を遺憾なく発揮しているリオン。それに甥をとても大切にしてくれる叔母、サイアリーズまでいる。これ以上頼りがいのある人間はそうそういない。安心して、ティーを任せられる。

「もしかして、こっそりついていくつもりだったか?」
「そんな事できるか」

 忌々しくシグレが吐き捨てた。

「ただでさえあんたが依頼した仕事が大量に残ってんだ。オボロのおっさんは、殆ど俺に分けやがるし、ストームフィストまで足を伸ばして、帰ってきたら仕事が倍----だなんて笑えねえ」

 山積みの仕事を前に「これはシグレ君に任せますよ」とにこやかに笑うオボロを思い浮かべ、シグレはうんざり項垂れた。ここしばらく、フェリドの依頼を調査する事で休んでいないし、これからもゆっくり出来る暇があるかどうかも怪しい。

「ちったあこっちの身にもなってくれ」とぼやくと、「すまんな」と言いながらもフェリドは豪快に笑う。

「一山過ぎれば時間も空くだろう。それまで何とか頑張ってくれ」
「……めんどくせえな……」

 どうしてそこまで熱心なんだろうか。
 依頼を受け、調べていくうちに越えていかなければならない問題の多さが垣間見えてくる。闘神祭でも、何かしらの事態がティーに降り掛かるのは、眼に見えていた。それを解決する事で、ティーは成長するだろう。そしてこれからのファレナは、ティーを必要とする機会がどんどん出てくるかもしれない。
 だがシグレはティーをまだそっとしておきたかった。ロードレイクで傷付いた心を守りたい。
 図らずもカイルと同じ事を思ってしまい、シグレは面白くないと気が滅入り、苛立って髪を掻いた。

 


06/07/21
06/07/26  文章追加