それから数日、何となくカイルと二人きりになるのが怖くて、ティーは何かと用事をつけては書庫に行ったり、リムスレーアの部屋を訪れ、そうならないように心掛けた。
無邪気に、来訪を喜んでくれるリムスレーアを申し訳なく心の中で謝りながら、もう一方で肥大していく想いに胸を痛め、誤魔化すように笑う。でもちっとも楽になれず、人知れず溜め息をつく回数が増えていった。
後もう少し日が経てば、カイルの女王騎士の叙任式。そしてそれは、ティーの護衛から外れる日でもあった。
そう考えると、何処かに逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。逃げて、カイルの叙任式が遅れてしまえばいいのに、とティーは途方に暮れた。
女王騎士になれると、カイルは喜んでいたのに。自分は「良かったね」と素直に祝えない。
胸が痛い。
「………」
堂々と巡る考えからふと我に帰り、ティーは書庫の窓から外を見上げた。
さっきまで青かったはずの空は既にもう夕暮れ色で、薄暗い室内は文字を読み辛い。だが適当に取り出した本は、ページを捲られた形跡はなく、中身も全く頭に入っていなかった。
どうやら本を読んでいたつもりでも、ずっと考え事に耽っていた自分に、ティーは溜め息をつき本を仕舞うと重い足取りで書庫を出る。
歩みは遅く、伏せがちの目は物憂気に揺れていた。こんな状態でカイルと会ってしまったらどう場を寛げばいいか分からず、気が重くなる。こんな時、つくづく自分の無知さを呪う。
嘲笑を漏らし自室に戻ったティーは、テーブルに突っ伏している人影を見て、固まった。耐え難い痛みと、どうしようもない嬉しさが同時に身体を駆け巡る。
「……カイル」
カイルはティーが帰ったのも気付かず、そのまま動かない。足音を忍ばせて近寄れば、待ちくたびれたのか、それとも連日の忙しさで疲れたのか、気持ち良さそうに眠っている。
寝顔は昔と変わらないんだな。
久しぶりに見れて懐かしく感じ、思わず笑みを零してしまった。
「間抜けな顔」
そしてカイルの着ている鎧が、見習い用の略式ではなく、正式な女王騎士の物に変わっている事に気付いて、寂しさを覚えた。後は叙任式の時、アルシュタートから騎士の証で、女王の為にある存在の証明でもある額当てと、目尻に紅が差さればカイルはもう。
「………」
ティーはカイルを起こさないように椅子を引き寄せ座ると、横からその寝顔をじっと見つめた。
いつもうるさい程に感情を映してきた目は閉じられていて、良い夢を見ているらしい口元は幸せそうに緩んでいる。夕暮れの太陽に照らされて、眩く光を反射する金色の髪は、額をさらさらと撫でていた。最初は肩すれすれの長さしかなかったのに、今では背中の半分、ティーと同じぐらいにまで伸びている。
自分の手をカイルと並ぶように翳した。向こうの方が陽に焼けているな、と今更実感する。
宙に惑う手は、カイルに触れようかどうか迷い、そっと指先をその頬へと近付ける。
「……ん」
もぞりと肩を揺らし、カイルは意識を覚醒させ、ティーは慌てて手を膝の上に戻した。触れようとしたのがバレたんじゃないか、と早鐘を打つ心臓がうるさい。
目を開けたカイルは、ぼんやりと周囲を見回し直ぐ横のティーを見つけると「おかえりなさい、ティー様」と笑った。
「ずっと待ってたんですよー。なかなか帰ってこないから」
「何言ってるの。カイルが勝手に待ってただけでしょ」
カイルの笑顔がまともに直視出来ず、視線を反らしてティーは声の震えを抑えた。こんな時に、自分の中で蠢く気持ちをカイルに気付かれてはいけない。
「それで、何の用なの」
「ああ、見てください。オレ用の鎧が出来たんです!」
自慢げにカイルは立ち、一歩後ずさるとその場で一回転をする。ふわりと飾り襷が宙で踊った。黒と白の装束は、カイルの金色の髪に良く似合う。
見とれかけ、ティーは唇を強く引き結んだ。言うな。今はまだこんな気持ち言うべきじゃない。
「似合ってますか?」
「……似合ってるよ」
「良かった。ティー様にそう言ってもらえて」
安心したようにカイルは笑い、懐から黒く小さい漆塗りの器を取り出すと、ティーの前に跪く。膝の上で固く握られた手を取って、それを持たせた。
下から覗き込まれ、ティーは今夕方で良かったと思う。夕陽が、赤く染まった頬を隠してくれるから。
カイルに促され、ティーは蓋を開けた。そこにあったのは紅。女王騎士が、目尻を差す時に使うもの。
戸惑いながらティーは、カイルに目線で尋ねた。どうしてこんなものを。
「差してもらえませんか?」
「……え?」
「一番最初に紅を差してほしいんです、ティー様に」
お願いしますね。
カイルは返事も聞かず目を閉じた。
紅を差されるのを待っているカイルを前に、ティーは困惑する。さっき触れたかった願望が叶うのと、紅を差してしまう事でカイルが女王騎士に----護衛から外れてしまう事を自分で幕引きしてしまうようなやるせなさに挟まれ、泣きたくなる。
こんな気持ちになりたくない。一緒に喜んであげたいのに。
震えが止まらない小指の先にゆっくり紅を乗せ、触れたいと思っていた肌にそっと這わせる。少しでもずれないように他の指でカイルの頬に触れ、閉じられた瞼の下の線をなぞった。
もう片方も同じように紅を差し「……出来たよ」とティーは悲し気に微笑んだ。
だが目を瞑っていたせいで、その表情を窺えなかったカイルは、ティーの変化に気付かずに「ありがとうございます」と嬉しそうに笑い、紅入れを返してもらう。
紅入れを懐に仕舞いこみ、カイルはティーの腕にそっと触れ、緩やかに笑いかける。
「ティー様の護衛から外れたのはすごく残念ですけど、これからは女王騎士として精一杯守っていきますから」
「……うん」
ティーは頷く。カイルは「頑張りますね」と言い立ち上がった。
「それじゃあ、長居をしちゃってるので今日はここで失礼しますね」
「……うん」
「じゃあ」とカイルはティーに背を向ける。扉を開け出ようとする姿に、ティーは切羽詰まった表情で腰を浮かし、カイルに向かって手を伸ばした。
「待っ----」
声は途中で途切れた。身体の力が萎み、座り込むティーを余所にカイルは出ていってしまう。
一人残ったティーは、自分が取ってしまった行動に驚愕して目を見開き、伸ばしていた手を凝視した。
小指の先に、残る紅。
カイルが、女王騎士になってしまう証の一つ。
今さっき、カイルを引き止めてどうしようと、何を言いかけた?
待って、と。カイルに行ってほしくない、と唇は無意識に言いかけていた。
頭に思い浮かぶ言葉を否定するようにティーは首を強く振り、眉間に皺を刻む。
「ちがう」
ティーは手を握りしめ、机を叩いた。痺れる痛さが骨から伝わってくるが、心は落ち着かず逆に胸の痛みを際立たせる。じわじわと裡を侵蝕していくそれは、すぐに引いてしまった手の痛みより、ずっと質が悪くて、酷かった。
女王騎士はファレナの女王を守る為にある。決して王位を持たない自分の為にある訳ではない。
分かっていたのに。
「----ちがう。僕はカイルが好きなんかじゃない」
あってはならないことだ。自分が誰かを望むなんて。
昂る感情が抑えられない。ティーは乱暴に机に積んであった本や紙の束をまき散らし、何度も「ちがう」と繰り返し呟く。
宙を舞った紙が、ひらひらと慰めるようにティーの頬を撫で落ちていく。
苦しい。
息を詰まり、目の奥から熱い水が頬を一筋流れていった。
「好きじゃない」
喉から呻きにも似た声が漏れる。そのまま床に座り込み、服の裾を強く握りこんだ。堪えきれなくなった涙が、床に落ちていく。
「好き、なんかじゃ……」
必死に否定しても、容易く心は思い出してしまった。
小さかった身体を簡単に抱き上げ、ソルファレナの景色を見せてくれた腕。
街で迷子にならないよう繋がれた手。
いつも大きく笑う口。柔らかい金色の髪。
豊かな表情や仕草で感情を表して、子供みたいな性格だけど、でも暖かくて太陽みたいに照らしてくれた。
「……ちがう」
しゃくりあげ、考えを振り払うように強く頭を振り、涙を強く擦って拭う。
好きなんかじゃない。カイルはただの護衛なんだ。それ以下でもそれ以上でもない。考えるな。これ以上踏み込んで、逃げられなくなる前に。
「僕はカイルを好きじゃない」
自身に言い聞かせる言葉はティーに染み渡らず、心の奥で滞る。必死に否定しても、自覚してしまった黒い感情が心に絡み付き、現実を突き付けた。
それは、一番恐れていたもの。
自分は王位継承権を持たない子。
ファレナでは何も持てない身のくせに、望んでしまった。
----カイルを。
「ちがうちがうちがう」
自覚してしまった想いに抗い声を振り絞っても、心は痛みを生み出し続け、抑えきれない気持ちにティーは声を殺して泣いた。
欲しがっちゃいけないのに。
僕のこの手は、何も持てないように出来ているのだから。
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06/06/13
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