「な、何をやっておるのじゃ!」
リムスレーアは、ウルスとの間に立ちはだかったティーに向かって叫んだ。
ティーの肩から流れる血は止まる事を知らず、流れ続けている。あまりの多さと赤さに、リムスレーアの頭がぐらついた。
思わぬ邪魔に、ウルスが爪をティーの肩から抜く。溢れる血に、ティーは肩を押え地面に膝頭を着けた。耐え難い痛みがティーを襲う。急激に血が抜けて、目眩がしたが歯を食いしばり必死に耐える。
ここで気絶してしまったら、カイル達が来るまでに誰が妹を守ってやれるんだ。
距離を取り、唸るウルスを睨みながらティーはリムスレーアに言った。
「リム、その子を離してあげるんだ」
「なぜじゃ!」
「その子はあのウルスの子供なんだよ。子供が取られるんじゃないかって、すごく怒っているんだ。だから返してあげよう。可哀想だよ」
「……で、でも」
「リム!」
傷を痛ませながら大きく声を荒げると、後ろの気配がびくつき、直後子ウルスがティーの横を通り過ぎた。子ウルスはそのまま振り向きもせず、親ウルスが出てきた茂みへ消えていく。
「そう、それでいいんだ。……離ればなれは、寂しいからね」
僕だって。
祖母に自分の存在を否定され、殺されかけてから一人でいる事を決めた時。
本当は、ずっと。
「……っ」
出てきそうになった涙をティーは堪えた。今は感傷に浸るべきではない。リムスレーアを無事に帰さなければ。
「……なぜじゃ。子供を離したのに、どうしてアレは帰らぬ!?」
悲鳴のような声を上げるリムスレーアの言う通り、子供を返したにも関わらず、親ウルスの怒りは治っていないまま、尚も牙を向き続ける。返しただけではもう、怒りが治まりきれないのだろう。
親が子を思う気持ちは深い。それが人間であろうと、魔物であろうと。きっとこのウルスも、人間に子供を奪われかけた怒りで周りが見えなくなっている。
「リム……、そのままゆっくりでいいから、早く逃げるんだ」
「逃げる? お主はどうするのじゃ」
「僕はこいつの足止めをする」
「無茶なことを!」
ティーの肩口から流れた血は、服の左上部分をどす黒い血色に染め上げ、吸いきれなかった分は腕を伝い、指先から地面に落ちる。
リムスレーアでも分かった。このままだと命に関わる。
「お主も逃げれば良いじゃろう!」
「駄目だよ」
ティーはリムスレーアを肩ごしに見て、首を横に振った。
「僕がここから逃げたら、リムを守れないじゃないか」
痛みを堪えそれでも笑うティーに、リムスレーアは絶句する。信じられない気持ちでティーの姿を凝視した。
「……どうしてそんな事を言う」
今までしてきた仕打ちを考えれば、ティーのこの行為は全然釣り合わない。どうして、と疑問ばかりが頭を駆け巡る。
膝に手を置き、自分を叱咤させるように震えながらも立ったティーは、ふらつきながらウルスを見据えて言った。
「だって僕は、リムのお兄ちゃんじゃない」
「………!」
「お兄ちゃんは、妹を守る為にいるんだから」
「あに、うえ……っ!」
今まで誤解をしていた兄の優しさに初めて素直に触れ、それを知ろうとしなかった自分への愚かさと、置かれている状況の怖さに、リムスレーアの目から涙が零れた。
カイルの言う通りだった。周りの言葉を鵜呑みにして、ティーを知ろうともしないで。
これでは、そこらの口汚い貴族と一緒だ。
ウルスが、立ち上がりながらも力つきかけているティーに狙いを付け、血に塗れた爪を舐めた。ぎらぎらとした獣の目が、獲物のように弱っているティーを見つめる。
「逃げるんだ、リム」
「いやじゃ! わらわだけが逃げてどうする! 兄上を置いていけと言うのか! いやじゃ! 二人で帰るのじゃ!」
「逃げろ!」
「いやじゃあっ!」
ウルスの身体が大きく伸び、腕が振り上げられる。渾身の力を持って、ティーへと振り落とされた。
「あ、兄上えぇええぇっ!」
ティーが倒れてしまう姿を見たくなく、リムスレーアは手で顔を覆った。
ティーは逃げる事なく、そのままリムスレーアを守るように立ち続ける。
間近に迫る、岩をも砕きそうな腕に息を飲み、死を覚悟して静かに瞼を閉じる。
がきん、と硬質な音がぶつかりあった。
「----ティー様っ!」
「……カイル?」
ティーとウルスの間に割り込んできたカイルが、剣を鞘ごと抜いて迫りくる腕を押し退けようとする。呆然とティーがカイルの背中を見つめる中、押し合う力は拮抗しあい、睨み合いが続いたが、次第にカイルが押し勝っていく。ゆっくり腕を伸ばし、そのまま剣で払ってウルスの体勢を崩した。
「リオンちゃん!」
「はいっ!」
押し合いをしていた間、ウルスの後ろに回りこんでいたリオンが刃を収めたままの長巻を構え、短く地面を踏み込み高く跳躍した。
「いやぁあああっ!」
裂帛の気合いで、仰け反るウルスの脳天に長巻をめり込ませる。強烈な打撃をまともに受け、そのまま倒れこんだ。
衝撃で揺れる地面に気を取られ、ティーも崩れ落ちるが寸での所でカイルが支える。張っていた糸が緩み、一気に我慢していた痛みが溢れだし、ティーは顔を歪めてそれに耐えた。
カイルは懐から一枚の札を取り出すと、それを握りしめ血が止まらない傷口の上に持ってくる。すると札はカイルの魔力に反応して、水気を揺らめかせると仄かに青い光を発して、傷口を照らした。
痛みが、薄れていく。水の紋章の力が込められた札は、ティーの傷をあっという間に癒しそのまま水蒸気となって消えた。
痛みから解放されたティーは全身の力が抜け、そのまま後ろへ傾き、カイルが慌てて支え直す。そのまま胸に凭れ掛かる形で、ティーはカイルを見上げた。
青い空を背にしたカイルは、心配そうにティーを見ている。血だらけになってしまっていた左上半身を見て、顔を顰めた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。……ちょっと頭がふらふらするけど」
「こんなに血が出てれば当たり前です」
たとえ傷は癒えても、流れた血まで身体には戻らない。急激に出血してしまった身体は、ティーにはとても重たく感じた。
「早く戻って休まないと」
「待って」
カイルを制し、ティーは後ろを見た。そこには声を上げて泣くリムスレーアに、長巻を収めたリオンが駆け寄り、崩れてしまいそうな肩を支え、宥めるように声を掛けていた。
再びカイルの方へ顔を向け、ティーは言った。
「リムを……先に連れていって。僕は、後でいいから」
血なまぐさい現場に居合わせたのは初めてだろうリムスレーアには、早くここから遠ざかってほしかった。気は昂っているだろうし、何より血に塗れているこの姿も痛々しく見えて申し訳ないように思えるから。
だがティーの命令に、カイルは不快を露にすると、眉間に皺を寄せた。
「いやです」
そのまま断りも入れずに、カイルはティーの膝裏へと手を差し入れて抱き上げる。元より軽い身体は、呆気無く宙へと浮いた。
「リオンちゃんは姫様を」
「はっ、はい!」
リオンは頷き「行きましょう」とリムスレーアを促し立ち上がらせる。早く帰らなければそれ程、ティーが休めないのだと分かっているリムスレーアは、涙を拭いて大人しくリオンに付き添われ戻っていく。
カイルも屋敷に戻ろうとして、睨み上げてくる目に気付いた。
何故言った事を聞かない。命令を無視した非難の視線が、カイルを突き刺した。
いつもだったら怒りを宥めるようにして笑い、謝っていただろうとカイルは思ったが、今はそうする事を止めた。代わりに置いていってたまるかと、腕に力を込める。
それはどんなにティーが離れようともがいても離そうとせず、カイルはずっと抱き締めていた。
極度の緊張状態から来る疲れと出血の疲労感か、寝台に横になったティーは、そのまま数日間眠っていた。気怠るさを感じながらも瞼を開け、ぼんやりと天井を見上げていると。直ぐ横の気配がティーの様子を探るように動いた。
「……ティー様」
「カイル……」
寝台の側においてある椅子に座っていたカイルは、目を開けたティーに安堵して、だが直ぐに渋い顔をした。
「オレ、あの時を思い出していました。ティー様と初めてソルファレナの街に行った時を」
いきなりティーが姿を消した時、カイルは生きた心地がしなかった。もしかしたらティーを殺したい程にやっかんでいる貴族か何かが、暗殺者でも雇って仕向けたのではないかと。そう考えると居ても立ってもいられず、街中を必死になって走り回った。
ティーを見つけた時、良かったと安堵する想いと、どうして何も言わずにと憤る想いが同時に込み上げた事は今でも鮮明に思い出せる。
それから、もう会えないんじゃないかととても怖かった事も。
カイルは手を伸ばし、そっと前髪を払って手の甲でティーの額を撫でた。そして毛布から出ていた右手にそっと重ねる。
「どうして姫様を見つけた時、一人で行ったんですか」
肩から血を流しながら気丈に妹の盾になっていたティーを見つけた時、カイルの肝は冷えた。間に合ったから良かったものの、少しでも遅かったらティーは死んでいた。
「オレを、呼んでくださいよ」
「……だって貴方は今、リムの護衛でしょ?」
「そんなの関係ありません」
はっきり告げたカイルに、ティーは目を見開いた。
重なる手が強く握りしめられる。
「ティー様が姫様を守る為にいるのなら、オレはティー様を守る為にいたいんです。オレは貴方の護衛ですから」
「………!」
ティーは泣きそうに目を緩め、瞼を強く閉じるとカイルから表情を隠すように顔を背けた。握られていない方の腕で口を押え、何かを叫び出したい衝動を必死に堪える。
何時だってカイルは欲しい言葉を言ってくれる。こっちからは何も望まない素振りをするのに。いつもいつも。
口を押えていた腕を僅かに浮かし、ティーはカイルを見ないまま呟いた。
「……バカだよ。……こんな王位継承権を持たない僕なんかに」
本当にバカな男だ。
でもそんな男が、こんなにも自分の事を考えてくれるのが、どうしようもなく嬉しい。
「……ありがとう……」
空気に直ぐ溶けそうな声で、ティーは呟いた。唇が動いただけにも見えるそれは、やはりカイルには届かず「何か言いましたか」と訊ねられた。
「何でもないよ」
ティーはゆっくりカイルに顔を向け、口元を上げた。聞かせようとしていった訳じゃないし、まだ面と向かって言える程素直にはまだなれない。
でもいつか言える日が来るならば。その時はちゃんと笑えるだろうか。
握られた手に、ティーはそっと力を込める。だが、聞こえてきたノックの音に、繋がれた温もりは離れていってしまった。
カイルが立ち上がりドアを薄く開けると、来客の姿にティーを振り向き微笑んだ。そのまま扉を開くと、小さな来客者を招き入れる。
「……リム」
「あ、兄上……」
後ろに手を回し、緊張から頬を赤くしたリムスレーアは所在な気に床に視線を下ろして「あ、あの」と吃る。やがて決心が付いたのか、きっとティーを見据えると、寝台に近づき手を前に差し出した。
小さな花束。色とりどりの花弁がティーの視界を鮮やかにさせる。
「お、お見舞いに来たのじゃ!」
「リム……」
いきなり差し出された花束に、目を丸くしていたティーはそっと指先で花に触れ「綺麗だね」と微笑む。
「摘んできてくれたの?」
「わらわだけではないが……、受け取ってくれるか?」
「……うん、ありがとう」
リムスレーアはティーに勧められ、さっきまでカイルが座っていた椅子に腰を下ろすと、困ったように視線を彷徨わせる。今まで冷たくしてきた分、なかなか素直に言えない言葉を形にしようと、奮闘していた。
降りてくる沈黙に、ティーはそれでもリムスレーアを急かさず兄の眼差しで見守っている。
初めてみる兄妹らしい雰囲気に、カイルも微笑みそのまま何も言わずに出ていった。今まで過ごせなかった分の時間を一緒にいられるように。
ティーは目線だけでカイルの背中を見送り、そしてカイルの手の感触が残っている自分の手をそっと握りしめた。何故か、名残惜しく離し難いと思ってしまう。
もっと繋いでいてほしかったとさえ。
切なく細められた目は、リムスレーアの呼び掛けに反応してゆっくり優しく笑むと、今は妹の話を聞く為に、胸の中に生まれた感情を押し殺して耳を傾けた。
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06/06/11
06/06/16 訂正
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