いつもは出入り自由だった森の入り口には、ロードレイクの村人が門番として立っていた。今まではそんな事はなかったのに、と怪訝に思いながら理由を聞くと、聞かれた方も申し訳ない顔をして言う。
今は森に生息する魔物、ウルスの繁殖期が重なっているらしい。もちろんそれだけでは封鎖する理由にならないのだが、今回はロードレイクの近くで子供を育てているウルスも多いらしい。実際、知らずに近づいてしまった人が、その鋭い爪によって重傷を負っていた。
腕っぷしの強い大人の男なら兎も角、子供だけでは到底入れる訳には行かない。もちろんそれは王子様だって同じ事です。
そう言われてしまい、ティーは仕方なく諦めた。危険に自ら飛び込んだって良い事はないし、何かあったらカイルやフェリドが心配する。
だけど木いちごをリオンに食べさせてあげられないのが、残念だった。とても美味しいそれを一緒に食べて、喜んでほしかったのに。
「ごめんね、リオン」
しょうがないとは分かっていても、悄気る表情をしてティーは謝った。
「いいえ、気にしないでください。私は王子にロードレイクを案内してもらえるだけで、すごく嬉しいですし、木いちごはまた食べられますから」
にっこり笑って励ますリオンに、ティーも表情を和らげ安心したように笑い返した。
「……そうだね」
「一旦戻りましょうか。大分歩きましたから。王子、お疲れでしょう?」
リオンの問いかけに、ティーは苦笑して頷いた。久しぶりのロードレイクで、柄にもなくはしゃいでしまい歩きすぎた。
「うん、それじゃあ戻ろうか」
「はい」と頷くリオンと一緒に、ティーはロヴェレの屋敷へ足を向ける。ふと視線を向けた湖の向こうにあるものを見つけ、歩みを止める。
見つけてしまったものを凝視して、固まった。
凝視するように見つめるティーに、気付かず先を行ってしまったリオンは、急いできた道を戻り同じ方向へと目を凝らす。
「……姫様?」
リムスレーアが湖の畔を伝うように歩いていた。一体どこから抜け出したのか。カイルが護衛に着いている筈なのに。首を傾げながら眉を潜めたリオンは、リムスレーアが歩いていく方向にあるものに気付き「あっ」と声を上げる。
このままでは、森に入ってしまう。どこに気が荒くなったウルスがいるともしれないのに。無謀どころか、自殺行為だ。
「リオン」
「……王子?」
リムスレーアから目を反らさないティーに、リオンは胸騒ぎを覚える。
この人は自分より他者を優先する人だから。
言わないでほしいと心の中で願ったが、ティーはリオンが望まない言葉を言ってしまう。
「屋敷に戻って父上達にこの事を伝えて」
「……王子は?」
「僕はリムを追い掛けていく」
「駄目です!」
リオンは声を荒げて反対する。ティーは荒事には慣れていないし、何しろこれまで武術を習った事がないのだ。それこそ何も持たない状態で行くなんて、もしウルスに会ってしまったら。
「危険すぎます……!」
「リオン」
不安に怯える肩を優しく叩き、ティーは微笑む。
「僕は大丈夫。あの森だって何度も探検したんだ。逃げ道だってたくさん在るし、何とかなるよ」
「でも」
「僕よりもリムの方が大変だから、だから急いで呼んできて」
リオンが引き止める間もなかった。ティーはリオンの肩から手を離すと、踵を返して森へと走っていく。出かける前、秘密の抜け穴を知っていると言っていたティーならば、森に入り込むなど造作もないだろう。
追い掛けたい気持ちにリオンは駆られたが、そうしてティーを捕まえても同じ事の繰り返し。
「………っ!」
断腸の思いで振り切って、リオンは駆け出した。
早くしないとティーも、リムスレーアも大変な事になってしまう。
早く。
泣き出す寸前のリオンを宥めながら入ったリムスレーアの部屋には、蒼白で狼狽えている女官が一人居るだけだった。フェリドは彼女に声をかける事すらなく、窓際へと移動する。カイルが睨むと、短く悲鳴を上げて叱責を恐れるように縮こまった。
滑稽な姿をカイルは冷えた目で見遣り、すぐ視線を反らす。やましい事をし続けているから、何かあった時、非難を受ける事が恐ろしくてそんな風に怯えてしまうのだ。同情の余地はない。
そのまま女官を見る事もなく、カイルはフェリドの後ろから窓を覗き込んだ。開きっぱなしのそこは、地面からも近く、小さな少女でも容易に降りられる高さだった。
「どうやらリムはここから外に出たらしいな」
「そうですね。リオンちゃんの話では森の方向に行ったようですから、早くしないと」
「ああ。ロヴェレ卿にも頼んで人を集めてもらった方が良いな」
「じゃあフェリド様はそちらをお願いします」
「お前はどうするんだ?」
カイルはフェリドを押し退け前に出ると、窓の桟に足を掛けた。
「先に二人を追い掛けに行きます」
もしかしなくても、リムが出てしまったのは直前に起こした自分との衝突が原因だろう。ならば非があるのは自分だし、何よりリムスレーアと、ティーを守らなければと言う想いが強かった。
だってオレは、見習いでも女王騎士だから。
騎士の剣は何かを守る為にある。今のカイルには、それがなんなのか分かっていた。
カイルは桟を蹴って外へ飛び出すと、一直線に森へ駆け出していった。
本当のことも知らないのに、ティー様をそんな風に言わないでください……!
森の中を歩くリムスレーアの耳奥に、カイルの声が木霊する。それが幾重に重なるうちに、いら立ちが増長した。
どうしてそんな事を言われなければならない。
「わらわはちゃんと考えておる!」
足を地面にめり込ませるように踏み込んで歩き、いら立ちを吐き出すように声を上げるが、心のモヤモヤはそう簡単に晴れそうになかった。
「あやつのせいで父上も母上も苦労してきたのじゃぞ。それなのにあやつは一日中部屋に閉じこもりおって、堕落した奴じゃ」
その姿を見る度に怒りが沸いた。両親はいつも気に掛けているのに、拒否して閉じこもる兄を。
王子で、王位継承権がないくせに、向けられる愛情は自分よりも強い気がした。
こっちがそうあるべきなのに。
なのに兄は、その全部に背を向けた。
「あんな奴、おらぬ方がファレナの為じゃ。なのに、何故あやつはあんな事を言う!」
今まで一番長く兄を護衛してきた金髪の女王騎士見習いを思い出し、リムスレーアは歯がみする。彼は兄の前だと、とても楽しそうに笑っていたのに。
「どうして、あやつばかり……」
ファレナでは、王位継承権を持たない男の王族は無用の長物。他国へ婿にやるぐらいしか使い道のない、存在。
兄もそうあるべきだと、何度も聞かされた。両親を苦しめてきたのだから、それぐらいは役に立ってもらわないと、と何度も。
リムスレーア自身も、そう思っていたが兄の周りにいる人間達はそうは思っていない。
何故、王位継承権を持っていない人間が、こんなにも想われているのか。
悔しかった。兄ばかり、自分の欲しいものを与えられているみたいで。
大きな栗色の目から涙が溢れ、リムスレーアは袖で擦って乱暴に拭った。これ位で泣いてしまったら、負けだ。いつかは立派な母親に代わり、ファレナを背負わなければならないのだから。
だが強がりに反して涙は止まらず、ぼやけ歪んでしまった視界に、とうとうリムスレーアはしゃがみ込んで肩を震わせた。慰める存在はなく、周りに佇む木々達が微かな風に葉を揺らし、その寂しい葉音に一層孤独感が増す。
せっかく気晴らしに外へ出たのに、これでは逆効果だ。すん、と洟を啜り、リムスレーアはこれからどうしようか迷ったように息を着いた。抜け出した手前、すごすご大人しく屋敷に戻る気分にはなれない。
もう少し、森を散歩してから戻ろうかと考えると、茂みの下から小さな鳴き声が聞こえた。犬猫が、と言うよりは狼に近い、獣の声。
「……な、なんじゃ?」
吃驚して様子を窺うと、鳴き声が聞こえた所から小さな獣が出てきた。本で見た事がある、ウルスの子供だ。成長すれば大の男より背が高くなるが、こうして赤子を見れば、まだまだ可愛らしい。鼻を引くつかせ、寂し気に繰り返し鳴いた。
思っていたよりも可愛らしい存在にほっとして、リムスレーアは膝を地に着けると、手を伸ばして子ウルスを呼んだ。子ウルスは敏感に声に反応し、耳をリムスレーアの方に向けると警戒していたが、優しく何度も呼んでやればそれはすぐに解け、ゆっくり尻尾を振って擦りよってくる。産毛の柔らかい感触に「やめるのじゃ」と笑いながら頭を撫でて抱き上げた。
「お主、ひとりなのか?」
きょとんとした目で見てくる姿に、恐ろしさは微塵もない。こうして懐かれると悪い気はしないし、顔だちも可愛く愛嬌があった。
「……良かったらわらわの所に来るか?」
見た所親の姿も見えず、もしかしたらこの子ウルスは一匹で森を彷徨っていたのかもしれない。そう思うと、どうしても放っておけなかった。
「わらわの住んでいる所はいいところじゃ。きっとお主も気に入るじゃろう。わらわもいてやるしの」
きゅう、と子ウルスは鳴き、鼻先をリムスレーアの首先に擦り寄る。それを肯定と見なし、リムスレーアは嬉しそうに笑った。
「そうかお主も来たいのじゃな。ならば共に行こうぞ」
子ウルスを抱き直し、リムスレーアはその温かさに安心した。たとえ魔物であろうと、自分を必要としてくれるなら、それはとても嬉しい。
強く抱き締め、苦しそうに子ウルスは逃げようともがいた。
「こら、大人しくしてるのじゃ」
小さく叱り、リムスレーアは来た道を歩く。カイルに言われた事で生まれたモヤモヤはまだ消えないが、屋敷に戻るまでには消えているだろうと思った。
後少しで森を抜けられる所まで来た時、後ろから低い唸り声が響いた。さっきの子ウルスとは比べ物にならない怒りで震えている。あわせてがさがさと茂みの揺れる音が相まって、恐怖を掻き立てた。
リムスレーアは子ウルスを抱き締めて、声から逃げるように後ずさる。危険だと、本能が警鐘を鳴らしているが、身体が竦み動いてくれない。
腕の中の子ウルスが、苦し気に鳴いた。
同時に茂みから影が盛り上がり、今抱き締めているのとは比べ物にならないウルスが、天に向かって高く吠えた。
びりびりと空気が振動する。太い腕。鋭い爪が動き、狙いを定めるように揺らめく。
「ひっ……」
ウルスの目はうつろわず、リムスレーアを捕らえた。ゆっくりスローモーションのように脚を踏み出し、上体を低くする。
地を、蹴った。ウルスとリムスレーアの距離は縮まり、まっすぐ自分を狙う爪が後ろへ振り上げられる。
リムスレーアは動く事も出来ず、強く目を閉じた。自分が切り裂かれる瞬間なんて、見たくない。
「………っ!」
「-----リム!」
いつも自分が冷たくあしらっていた人の声がした。誰かが横を通り過ぎ、すれ違う際に出来た風を感じて、リムスレーアははっと顔を上げた。
目を、見開く。
三つ編みに結われていた銀髪が、解けていた。左肩にウルスの爪を受け止め、受けた打撃によろめいた身体の下で、血がぼたぼたと地面を赤くしていく。
どうしてこんな所に。
リムスレーアは自分の目を疑った。まさかそんな、あり得る筈がない。今まで一度も好意的に扱った事がないのに。助けに来てくれるなんて。
「お、お主……!」
肩に刺さったウルスの爪を生やしたままティーは振り向き、笑って言った。
「大丈夫かい、リム?」
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06/06/10
区切りが見付からないので、ここで無理矢理区切っときます。
なんて痛い所で……!(自覚あり)
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