河口から湖に出たクワルシェードは、静かに進み湖面に面する街へと向かうと、群がるように建てられた家屋の中で、一際大きい屋敷の方へゆっくり速度を落としていく。そしてそのまま、湖を一望出来るバルコニーから続く桟橋の横で、滑るように止まった。
 まず降りたのはフェリド。次に女官を伴ったリムスレーアが出て、長い船旅に疲れた身体を伸ばしていた。
 そしてティーは。

「……ティー様も降りましょうよー」
「………」

 目的地に着いたにも関わらず、窓際で椅子に座ったまま外を見ていた。困りながらカイルが促しても聞かず、そっぽを向いたまま一向に動こうとしない。
 沈黙を守る姿にリオンも口を挟めず、成り行きを見守っているしかない。

「どうして出ようとしないんですか?」
「リムがまだそこにいるでしょ?」

 ティーは、困ったように眉根を寄せ、バルコニーで景色を楽しむリムスレーアを指差した。

「せっかく楽しんでいるのに、僕が出てきたらまたむくれてしまうよ」
「ティー様ぁー……」

 妹を気遣う兄の言葉に、カイルはもう反論出来ない。ティーはリムスレーアが大切なのだ。例え、冷たく当られたとしても、可愛い妹に変わりない。だから、不快な思いをしないように、自分を押し殺して縮こませている。

「王子……」

 リオンが悲し気に、しゅんと睫毛を伏せ項垂れる。カイルは気の毒そうに、そんなリオンを見下ろした。
 どうして、リムスレーアはそこまでティーを嫌うのだろう。大好きなフェリドとアルシュタートの間に生まれた、たった二人の兄妹なのだから、仲良くしてほしい。ティーがリムスレーアに冷たく当られる度に、貴族相手だと適当にかわせていた言葉を、全うに受けてしまい傷付く心を誤魔化して笑うティーを見る度に、カイルの胸は軋んで痛んだ。
 リムスレーアに付き従う女官が、もう少しでも態度を改めてくれれば状況も変わるだろうが、口惜しい事にその前兆は欠片も見られない。
 カイルはティーの為だったら、何でもしてやりたいが、さすがに心の内側を土足で踏み込む事は出来なかった。
 もどかしい。カイルは、苛立つように荒く頭を掻く。何でも全て思うようにいかないのは分かるけど、せめてティーの為に少しぐらいは、幸運が微笑んだっていいじゃないか。

「……行くよ」

 窓に張り付いて外を見ていたティーが、椅子から立ち上がった。どうやらリムスレーアが屋敷に入ったらしい。
 このままティーは、クワルシェードから降りないんじゃないか、と不安だったリオンはほっとして「待ってください」と追い掛け、カイルもそれに続く。
 誰もいない船中を歩き、ロードレイクに着いてようやくティー達は外に降りた。
 すぐに見える、森や街並を鏡のように映しこむ湖面に、リオンが歓声を上げる。

「わあっ……!」

 そして辺りを見回して、まるで対になった風景にうっとりと見とれた。
 美術には疎い方のカイルも足を止め、息を飲む。
 幻想的な雰囲気は、湖の清澄さや深い森の緑と相まって、まるで一つの大きな宝石のようだった。
 正しく、緑の至宝と呼ばれるに相応しい。
 呆然と立ちすくんで景色を眺める二人を、ティーは何処か誇らし気に見ていた。

「ね、綺麗でしょ」
「そうですね……」
「すごい……」

 嘆息まじりの短い感想に、ティーの笑みはもっと深くなった。カイルとリオンの真ん中に入り込み、それぞれの腕をとって歩き出す。

「リムが見ていたように、バルコニーで見た方がもっと綺麗だから早く行こう」
「わっ、ティー様強く引っ張りすぎですよ」

 そう言いながらもカイルは、ちゃんと笑ってくれるティーに内心安心する。やっぱり笑った方が良い。
 引いてくれる手に、嬉しくなすがままにされていると、バルコニーに既にいた人影が、カイル達に向かって手を振った。

「ティー、リオン。カイル」
「父上」

 フェリドの方を向いたティーは、その横にいる人の姿を見て「あっ」と声を漏らすと、更に笑みが綻ぶ。早く行こう、とカイルとリオンは急かされるように歩き、バルコニーに辿り着いた。
 フェリドと並ぶように、男が立っている。穏和そうに、やってきたティー達を見つめていた。年はフェリドより年嵩で、服装からここの領主だと思えるが、太陽宮にいる卑しい貴族なんかとは比べ物にならないぐらい優しい顔だちをしている。
 男はティーを見つめ、徐に両手を広げる。それを見てティーも、カイル達の腕を掴んでいた手を離して、その腕の中へ嬉しそうに飛び込んだ。
 いきなり飛び出したティーを、カイルは驚き目を見開いて抱き締められる瞬間を凝視する。握手するのかと思っていたが、それよりも更に行動は上をいっていた。

「お久しぶりです、ロヴェレ卿! 御壮健で安心しました」
「こちらこそ息災で何よりです、ティー様」

 いきなりの抱擁にカイルとリオンは揃って呆気に取られ、フェリドは頷きながら目を細め、暖かい眼差しを向ける。三様の眼に見られても尚、ティーは恥ずかしがる事はなく、嬉しそうに笑った。
 一頻り抱き締めあうと、ロヴェレはティーを解放し、はにかむ姿をじっと見つめて眼を細めた。

「以前ここに来られたのは、六年ぐらい前でしたか……。大きくなられましたね」

 子供の成長を見守る親の目をして、ロヴェレはフェリドの方へ視線を向ける。

「フェリド殿もさぞ鼻が高いでしょう。こんなに立派にティー様が成長されたのですから」
「残念ながら、それがそうでもない」

 フェリドは笑って、ティーの後ろで立っているカイルとリオンを指差した。

「ティーが立派になったのは、あの二人が居てくれたからだ。俺は仕事が多くてなかなか面倒を見てやれなくてな。歯がゆいものだ」
「そうなのですか?」

 視線をフェリドの指の先へと向け「ああ……、確かに」とロヴェレは納得したように笑う。

「お二方ともいい眼をしておられる。……ティー様には、とても頼りになる方がおられるのですね」
「……いえ、僕にはもったいないぐらいです」

 控えめに返事をするティーは、カイル達を誉められ嬉しいのか、頬を赤くして照れた。
 素直じゃないティーが、貴族相手にあそこまで親し気に話すなんて。カイルは酷く驚いて、でも直ぐに納得する。
 ロヴェレは物腰も穏やかで、ティーにも優しい。それにカイルやリオンにも、対等に接しているように見える。それに実際に治めている所は見ていないが、きっとロヴェレは心からロードレイクを想っているのだろう。じゃなければティーがあそこまで懐く訳がない。
 故郷の、その場しのぎで投げやりに治める馬鹿な領主を思い出してロヴェレと見比べても、雲泥の差だと思った。
 ロヴェレはカイルとリオンに向き直り、改めて低頭する。

「ようこそ、ロードレイクへ。私はここを治めるロヴェレと申します。至らぬ所もありますが、どうか存分に過ごしていってください」
「はい!」

 カイルは笑ってすぐに返した。
 ティーが楽しみにしていた気持ちが、凄くよく分かった。
 人見知りをするリオンも、ロヴェレは安心するようだった。最初領主を前にして固まっていた緊張も、解れている。
 この人に会えただけでも来た甲斐があったかも、とカイルは喜びが膨らむが、それは横から入ってきたフェリドの言葉にすぐ萎んでしまった。

「立ち話もいいが、カイルお前は俺の手伝いに来たのでもあるんだぞ」
「……えっ?」

 カイルが顔を顰めると、フェリドは子供っぽく、意地が悪い笑みを浮かべる。ティーとも付き合いが長いように、フェリドとも付き合いがあるカイルにとっては、あまり見たくない類いの表情だ。
 ティーの後ろに隠れても、ゆっくり手招きをしてくる。

「来た早々で悪いが、さっそく仕事に入ってもらおうか」
「ええーー!」

 休む間もない。いきなり仕事を言い渡され、カイルはむくれた。ソルファレナにも負けない、いい場所にせっかく来れたのだから、少しぐらいティーに案内をしてほしいのに。

「ひどい、ひどいですフェリド様! いくら自分が休めないからって、オレまで巻き添えにしなくても!」

 腕で眼を隠し、カイルはしおらしく泣きまねをするが、それがフェリドに効く筈もなく「何を言うか」と憮然とされた。

「だったら早く終わるよう頑張ればいいだろう。そうすれば休む時間も増える」
「フェリド様のケチ!」
「ケチで構わん」

 フェリドはカイルの後ろに回りこみ「さっさと行くぞ」と首根を掴んで引っ張る。カイルは大人しく連れていかれてたまるかと抵抗するが、力の差は歴然だった。ずるずると引かれていき、青ざめたカイルはティーに手を伸ばす。

「ティー様助けてー」
「が、頑張れ……」
「ティー様ぁー……」

 情けない声が尾を引いて消えていく。ティーは頬を引き攣らせながら、カイルを見送った。少しぐらいだったら庇ってもよかったかも知れないが、仕事なのだからしょうがないだろう。
 でもちょっとだけ、気の毒に思った。
 後ろからとてとてと歩いてきたリオンに「早く戻ってくるといいね」と呟き頷きあう。

「ティー様」

 懐を探っていたロヴェレが、ティーに何かを手渡す。広げてみると小さな鍵が掌に乗っていた。どこの鍵か目印になるものはないが、それでもティーは分かっているようで、嬉しそうに胸元で握り直す。

「何度か掃除の為に入らせていただきましたが、それ以外は一切手をつけていません」
「ありがとう」
「貴方の為ですから」

 深々と頭を下げティーは「行こうか」とリオンの手を取り屋敷に向かう。
 昔見た背中より、大きく成長したそれを、ロヴェレは本当に嬉しそうに見ていた。


06/06/05
06/06/06 修正