ようやく血の止まった身体を、抱えた。
 言う事を聞かないことを苛立つ目が、自分を見上げるが、それを一切無視して、走る。
 それは理屈じゃなく、命令でもなく。

 ただ。



「王子、見てください!」

 川面を滑るように走る、クワルシェードの船首から流れる景色に見とれ、リオンは船縁から身を乗り出して歓声を上げる。

「危ないよリオン、落ちちゃう」

 後ろからはしゃぐ様子を見ていたティーは、そっと落ちないようリオンの手を引き、しっかり床に足を着けさせる。
 ありがとうございます、とはにかむリオンに笑いかけ、ティーは並んで河向こうに広がる、美しい森を眺めた。
 ソルファレナが水の都と称されるなら、ここは緑の至宝と謳われてもおかしくない。大地に逞しく育った木々がゆっくりざわめき、まるでティー達の来訪を祝福しているように聞こえる。

「今から行くロードレイクは、ファレナでも一、ニを争う程の美しい街なんだ。今見ているのも良いけれど、街でももっと綺麗な風景がたくさん見れるよ。目が奪われそうなぐらいにね」
「そうなんですか………」

 想像して思い浮かんだのか、胸を押えてリオンは息を飲む。

「それにね、森の中を歩くのもいいよ。すごく気持ちがいいんだ」

 ロードレイクを詳しく教えてくれるティーの表情は、嬉しそうに緩んでいることに気付いて、リオンはふと尋ねた。

「王子はロードレイクに詳しいんですね」

 リオンは、ティーも初めてロードレイクに来たんだ、と思っていた。視察がてらお前たちも来い、とフェリドから誘われた時、いつも落ち着いているティーがはしゃいでいるのは、行った所のない場所に対する期待と探究心が働いていたのだと。
 頷き、ティーは船の進行方向を向いた。まだ見えないロードレイクに懐かしい思いを乗せ、目を細める。

「僕は何度かロードレイクに来たんだよ。その度に色々探検したからね。これでも結構詳しいんだよ」
「そうなんですか……」
「着いて一息ついたら、リオンを案内してあげる。森の、美味しい木いちごがなっている場所を知っているから、行ってみよう」
「あー、オレも連れてってくださいよー」

 船尾から出てきたカイルが、ティー達を見つけ走ってきた。何かから逃げ出してきたような、疲れた顔にティー達は怪訝な表情になる。

「二人だけなんてずるいです!」
「カイル……。父上と仕事の話しているんじゃないの?」

 ロードレイクの視察に関して、カイルはフェリドと船室で話してなきゃいけないはずだ。
 ティーの指摘に「うっ」とカイルは呻き、うんざりと肩を落とす。

「だって難しい事ばかり言うんですもん。それに外があーんなに気持ち良さそうなのに、部屋に篭るなんて拷問です、拷問」

 子供っぽい理屈に、ティーは白けた目をした。

「カイル、貴方今年で何歳?」
「もう少しで二十歳です」
「………」

 出会ってもうすぐ四年になるのに、まるで成長しないカイルの言動。よく付き合えたものだ、とティーは重く溜め息をついた。

「どうかしたんですか?」
「別に」

 溜め息の意味が分からず覗き込んでくるカイルを、ティーは手を振り遠ざける。
 二人のやりとりを眺めていたリオンは、小さく吹き出した。
 二人はリオンを見つめる。そしてティーはバツが悪そうにそっぽを向いて、カイルはにへらと気の抜ける笑みを浮かべた。

「楽しみですね、ロードレイク」

 嬉しそうに言うリオンに、気を取り直したティーが
「そうだね」と返し、カイルも深く頷く。

「いい想い出、つくりたいですねー」

 そう言ったカイルの語尾と、船室に続く扉が開く音が重なった。
 一人の少女が、女官に連れられて出てくる。
 亜麻色の長い髪に目。ティーと比べてきらびやかな衣裳に身を包み、外に出た少女は辺りを見回す。
 船首にいる先客を見つけて、いら立ちを露にした。
 扉の開く音に振り向いたティーが「リム」と妹の名前を呼ぶ。それを聞いてカイルとリオンも居ずまいを正すと、胸元に左手を置き頭を下げる。
 リムスレーアは七つ離れたティーの妹で、第一王位継承権を持つ王女。産まれ落ちた時から、将来のファレナを背負う事が決っている。
 幼いながらも意志の強い目は、しかし強い嫌悪を持って兄へと向けられた。
 ティーは一瞬悲しみに顔を曇らせるが、すぐに笑って誤魔化すと「リムも風に当りに来たの?」と努めて明るく話し掛けた。

「そのつもりじゃったが……、まさかお主がいたとは思わなんだ。せっかくの気分転換じゃったのに、逆に気分が滅入りそうじゃ」

 凛とした声の冷たい言い方に、リオンが心配そうな顔でティーを窺った。リムスレーアはティーに会う度に、痛い言葉を心に突き刺すから傷付いていないか、いつも心配だった。
 大丈夫だよ、と目線で告げティーはリムに優しく言う。

「ごめん。僕が向こうに行くから、リムはここを使って」
「----よいわ」

 ティーの譲歩を、リムスレーアはばっさりと斬った。

「わらわは、お主なんぞがいた所に居りたくもない。せいぜいそこで楽しんでおればよいわ」
「………」

 行くぞ、とリムスレーアは女官を呼び、踵を返す。女官は頷きながらその後を追い、そっと後ろを振り向く、と見下した目でティーに侮蔑の笑みを向けた。
 静かに見守っていたカイルの眉間に皺が刻まれる。王子に不敬をとった女官への怒りに、リオンは思わず口を開き反論しかけたが、その寸前で「リオン」とティーに止められる。

「王子!」
「いいから」

 ティーに制され、リオンはそれでも我慢が出来ずに遠ざかる女官を睨み付けた。それはカイルも同様で、ただ一人、ティーだけは諦めが入った目でそれを眺めている。

「あの姫様にくっついている女官の人、オレ嫌いです。ティー様にあんなに冷たくして」

 姿が見えなくなり、カイルは我慢していた女官への不満を吐き出した。リオンもそれに続く。

「王子についている人たちは、皆優しい人たちなのに」

 ティーについている女官は、ソルファレナの市街から来たのが殆どで、彼自身の性格や本質を知っている。小さなティーを知っている人間もいて、フェリド達に負けないぐらいに親愛を持って、暖かく世話をやいている。
 だけど今リムについている女官は、貴族の、しかも男の王族が目立つのを由としない家から来ていて、ティーに対する扱いはあからさまに悪かった。
 さっきティーに対して侮蔑な笑みを向けたのも、妹に冷たく当てられ、傷付く姿に歪んだ満足感で満たされたからなのだろう。
 姫様に王子のある事ない事を吹き込んでいたんですよ、とティーの女官が憤っていたのも記憶に新しかった。

「あの人が余計な事ばかり吹き込むから、姫様はティー様を誤解しっぱなし。いつまで経っても仲良くなれない」

 ティーはただ、ただ一人の妹と仲良くなりたいだけなのに、周りのつまらない考えが側にいる事さえ阻ませる。
 カイルの言葉に悲し気に睫毛を伏せ、リオンは悔しさに手を握りしめる。
 まるで自分のことのように怒るカイルとリオンに、ティーは嬉しい、と思いながら名前を呼んでこちらを向かせる。二人ともとても優しいから、自分のことでそんな顔をしてほしくなくて、なだめるように笑いかけた。

「二人とも怒らないで」
「でも」

 反論する二つ分の声が重なった。カイルとリオンは顔を見合わせて、カイルが改めて口を開く。

「このままじゃ、ティー様ずっと姫様と仲良くなれない----」
「カイル」

 ティーは緩く首を横に振った。寂しさと諦めが混ざった表情を浮かべている。

「ファレナは女王の国であって、男の王族は不要なんだよ。せいぜい他の国に婿に行くぐらいしか使い道のない。ある意味彼女がしているのは正しい事なのかも知れないね」

 それに。
 ティーは、カイルの視線に耐えられないように、俯いた。

「僕がいたらリムが不機嫌になるのも本当だから、しょうがないよ」

 そう言って笑うティーは、傷付いた痛みを誤魔化しているように聞こえる。あまりにも痛々しい姿に、カイルは悲し気に目をやった。
 達観した考えは酷く大人びていて、強いと思われるかもしれないが、長年一緒にいるカイルにとっては強がっているようにしか見えない。
 少しぐらい、弱音を吐き出してくれてもいいのに。
 静まり返った空気の中、クワルシェードは静かに河を渡る。
 いたたまれなくなったのか、リオンが場の空気を誤魔化すように、前方を指差した。

「王子、ロードレイクが見えてきましたよ!」

 緑の至宝と呼ばれる街の姿を見て、ティーは安心したように硬い表情を和らげた。


06/06/03