テラスの壁に凭れこみ、ひさしで出来た影の中でティーは部屋から持って来た本を読んでいた。先日交易所で買ったグラスランドの本はなかなか分厚く、難しい文章ばかりでさすがのティーも手こずっている。使い込んでくたびれた辞書を片手に少しずつ読んでいき、ようやく半分を読み終えた所だった。
足を投げ出した日なたは暖かい。しばらくじっとしていると、それだけでじんわり汗が出そうな程の陽気だ。
ひんやりとした日陰と、壁の冷たさに息をつきながら文面に眼を落とす。
近くに金髪の女王騎士見習いの姿はない。午後の修練に行ってしまったので、帰ってくるまでには部屋に戻る必要がある。きっと遅れてしまったら、彼は慌てて太陽宮中を探してしまうだろうから。
静かな時間が続く。時折ページを繰る乾いた音がしてすぐに空気に溶けて消える。
ふと我に帰ると、日なたに投げ出した足から伸びる影の角度が違っていた。テラスの下から騒がしい声が聞こえてくる。ティーは本を閉じると、立ち上がり端まで歩いて下を覗き込んだ。
せわしなく行き来する人たち。耳を澄ませると、貴族の名前が幾つか聞こえた。
そう言えば今日は貴族を招いての晩餐会があったんだ。そういう公の場には殆ど出ないティーは半分人事のように思い出す。貴族と顔を合わせても、聞かせられるのは薄っぺらなおべっかやお世辞ばかりで気分の良いものではないし、無理に笑って接しても聡い両親に心配を増やさせてしまうだけなので、ティーはあまり出ようとしない。フェリドやアルシュタートも息子の気持ちを汲んで、無理に出させようとはしなかった。
眼を閉じ、軽く首を横に振ってティーは本を手にテラスを出ていく。さっきまでの心地よさが一気に消え失せてしまった。今日はいつもより多く貴族が居ると思うと、例え顔を合わせないと分かっていても気が滅入ってしまう。部屋で大人しくしておこう。
階段を降りて廊下に出ると、部屋の前に立つ少女の姿にティーは足を止めた。
「……リオン?」
食い入るように自分の部屋の扉を見つめているリオンに、ティーは首を捻る。
先日も、カイルがリオンが同じようにして立っていたと言っていた。実際目にすると、どうしてなのか疑問が立ってしまう。
ティーとリオンの間に接点はあまりにも少ない。
太陽宮に居る数少ない子供だが、滅多に顔を合わせる事はなく、こうして直ぐ近くにいるのは殆どなかった。
夜中、何かを恐れるように泣きながらフェリドに抱き上げられあやされているリオンの姿を思い出す。実際保護されてからリオンは、フェリドにしか懐かず、他の人間とは話をしようともしない。だからこそ、カイルに言われて分かっていても、リオンが自分の部屋の前にいる事が不思議でたまらなかった。
しばらく逡巡した後、ティーは意を決する。頭の中で言う言葉を考えながら、リオンに話し掛けようと近づいた。
廊下に響く足音に気付いて、リオンがティーの方を向く。眼を見開いて、僅かに怯えの色を見せた。
ティーは、なるべく安心させるように笑みを浮かべて「こんにちは、リオン」と微笑む。
「どうしたの。こんな所に」
「…………」
リオンは掌を握りしめ、唇を噛み俯く。
「もしかして、僕に用事かな?」
覗き込むようにティーが続けて訊ねると、リオンはいきなり顔を上げ、必死そうにティーを見つめた。ぱくぱくと口が動くが、声は聞こえず、紡がれているはずの言葉は空気と同化している。
聞き逃さないように自然とティーは、リオンの方へと耳を寄せた。
だが、リオンはそれ以上何も言わずそのまま走り去って行ってしまう。
呆然とリオンを見送り、ティーは聞き方がまずかったのだろうか、と考える。本から得られる知識は豊富にあるが、どうにも人と接する経験が不足しているせいで思うように言葉が出ない。
カイルだったら。女性に声をかける事に手慣れてそうな彼だったら、もう少しうまく立ち会えるんだろうな。そう考えて、ティーは何となく気持ちがささくれる。なんで苛立つのか理解出来ず、ティーは溜め息をついてのろのろと扉を開けた。
言っていた時刻通りに戻って来たカイルは、部屋に入るなり「今日は何だか人が一杯いますね」と妙に浮かれたように言う。
「何かあるんですか?」
「晩餐会があるんだよ。その準備で忙しいんだ」
机に肘をつき、どこか冷めた眼でティーは答えた。
「だから、今日は貴族とか元老院の人間がたくさん来ると思うよ」
「へえ。ティー様も出られるんです?」
「出る訳ないじゃない」
カイルの問いかけを一蹴し、ティーは大袈裟に溜め息をついた。
「出たら上っ面だけの言葉と、それと正反対の嫌な感じの視線に長時間晒されるんだよ? カイルだって嫌でしょう?」
「あ----」
顎に指をやり、ティーに言われた事を想像したカイルは眉間に皺を寄せ顔を顰める。
「嫌ですねえ」
「でしょ。だから今日は大人しくしてるよ」
「でもフェリド様や陛下が何か仰るんじゃ」
「そこは大丈夫。多分何も言ってこないよ。----僕が嫌な思いをするって、父上も母上も分かってるみたいだから」
「そう、ですか」
一瞬淋しそうにティーを見つめて、それを繕うようにカイルが笑う。ティーの後ろに回りこんで、小さな肩をやんわり掴むとゆっくり揺らした。
「じゃあオレたちはオレたちで楽しくやりましょうよ」
「楽しくって、何をさ」
肩ごしにティーはカイルを見上げる。考え込むカイルの顔が、楽しい事を思い付いたように綻んでいく。
「楽しく豪華に夕食でもどうです? 晩餐会なら厨房でご馳走が沢山作られているはずですから、少しばかり頂いてオレとティー様で楽しく晩餐会でもしましょーよ」
「ここで?」
「ここではいつも食べてますから盛り上がりに欠けますよねー」
盛り上がりって何を盛り上げるのか、とティーは思ったがそれだけに留めておく。本当に楽しそうに提案するカイルに、水を差すのは不粋な気がした。
「ええと……。----そうだ、あのテラスはどうです? オレがティー様を連れて行ったあそこの」
「ああ----」
確かにそこならけっこう良いかもしれない。さっきまで読書に耽っていた場所を思い出し、ティーは納得して頷く。広いしあまり人も来ない。それに天を遮るものがないテラスなら、夜の帳が落ちると、見事な星空が拝めるだろう。
本で見た星座を探すのも、楽しいかもしれない。
「うん、いいんじゃないかな」
「本当ですか?」
カイルの眼が輝いた。
「やったー。オレ初めてティー様に何の反対もなく提案が受け入れられましたよ!」
「反対されるような事ばかり言うカイルが悪いんでしょ、それは。----それよりも料理とかどう頼むの。厨房は忙しいだろうからいきなり行っても追い返されるかもしれないよ?」
「あ、それは大丈夫です。厨房にけっこう仲良しな子がいますから。彼女に頼めばきっと何とかしてくれますよ」
「………」
ティーの胸にまたささくれだった思いが蘇り、眉を潜める。不機嫌なティーに「あれ?」とカイルは首を傾げた。
「どうかしたんですか? いきなりそんな顔しちゃって」
「----別に」
つんと顔を背けたティーに、カイルは焦ったように名前を呼ぶ。それでも振り向かないティーに、痺れを切らしてカイルは肩を揺らした。
揺さぶられながらもティーは振り向かず、自己嫌悪にとらわれ溜め息を吐く。
カイルが女性に声をかける癖がある事は知っている。その声音に親密になりたいと言う響きが含まれている事だって、分かっている。
なのに、どうしてカイルの些細な言葉でこんなにも気持ちが落ち込んでしまうのか、ティー自身にも理解出来なかった。
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06/05/09
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