己の失言でフェリドとの手合わせを強いられたカイルは、なかなか訓練場を抜けだせなかった。重い一撃を受け止め、流し、逃げながら、兵士にフェリドの相手を押し付け----犠牲になってもらい、ようやく解放されたのは、ティーに帰ってくると告げた時間を遥かに過ぎていた頃だった。
 ティーは多分怒らないだろう、とカイルは思う。寧ろ、本を落ち着いて読める時間が増えて、喜んでいるかも知れない。そう考えると淋しい気持ちが胸をよぎるが、気を取り直して急いで戻る。
 急ぎ足で廊下を歩いていると、黒髪の少女がティーの部屋の前に立っていた。服の裾を手で握り、扉を見上げている。食い入るように見つめる姿に、カイルは足を止める。
 少女をカイルは良く知っていた。アーメス侵攻の際、フェリドによって保護され太陽宮で暮らすようになった子供。確か、名前はリオンだったか。
 口の中で少女の名前を反芻しながら、カイルは不思議に思った。リオンは保護されてから滅多に出歩く姿を見た事がない。夜中に、時たまフェリドに抱きかかえられ泣きじゃくる所を何度か見た位で、後はどんな事をしているのか想像もつかない。
 初めてちゃんと明るい場所で見たリオンは、僅かに苦しさを滲ませた表情で扉を見つめている。
 ティー様に何か用事でもあるのだろうか? カイルはリオンに近づき声を掛けようとする。
 だが、それよりも早くリオンがカイルを見つけるほうが早かった。目を見開き、眉をぎゅうと寄せると俯いてカイルの横を走り去っていく。

「あ、ちょ----」

 呼び止める暇もない。あっという間に見えなくなったリオンに、溜め息をついてカイルは頭を掻いた。きっとここには内緒でやってきたんだろう。ティーを始めとする王族が居る階には、王族の人間や彼らを世話する女官と護衛する女王騎士にしか立ち入る事が出来ない。見付かって叱られるとでも思ったのか。
 そんなことしないのにな。ティー様だって無闇に怒ったりする人じゃないし。カイルは憮然として口を尖らせるが、これ以上ここに居ない人間に対してあれこれ考えをめぐらせても仕方がなかった。
 ティーを待たせていることを思い出し、カイルは慌ててティーの居室に入った。ばん、とけたたましく扉が音を立てて開く。
 案の定本を開いてそこに目を落としていたティーは、うるさそうに眼でカイルを諌める。

「カイル。扉はゆっくり」
「あ、はい」

 ノブを掴んでゆっくり扉を閉め、カイルは改めてティーと向き合う。ティーの直ぐ横にはポットと逆さまに置かれた二つのコップ。そして銀のトレイの上に焼き菓子が綺麗に並べられて盛られた皿が置かれている。
 本を閉じ、ティーはカイルを見つめて訊ねる。

「今日はいつもより遅かったみたいだけれど。----何かあったの?」
「あー、いえ。ちょっと張り切っちゃいまして」

 うっかり思いつきで言った『ティー様をお嫁さんにしたい』の言葉に、息子の父親が切れて威圧混じりの手合わせを受けていた。だなんて、本人を目の前にして口が裂けてもカイルは言えなかった。曖昧に胡乱な笑みで誤魔化す。
 ティーは不思議そうに首を捻っていたが、それで納得したのだろう。「それならいいけど」とあっさり追求を止めた。

「僕もまあ、本とか静かに読めたから良いけどね」
「そんな事言わないでくださいよティー様。こっちは急いで来たんですから」

 肩を落とすカイルに、ティーは苦笑する。

「ごめんって。ほら突っ立ってないで座れば? せっかくカイルが帰ってくるまでお茶我慢してたんだから。ちゃんと付き合ってよね」
「それは勿論構いませんけど」

 カップを起こし紅茶を注ぐティーの手伝いをしながら、カイルはふと先程のリオンの事を思い出す。リオンにどんなようがあったか分からないが、ティーの部屋の前に立って扉を見つめて居たのは事実だ。部屋の主にはちゃんと報告すべきだろう。
 紅茶の入ったコップをそれぞれの前に置き、席に着いてからカイルは言う。

「そう言えばティー様」
「ん?」
「さっきオレがここに戻ってくる時に、リオンちゃんが部屋の前に立っていましたよ?」
「え?」

 ティーが訝しるようにカイルを凝視した。口に運びかけていたカップを机に戻し、訊ねる。

「どうして?」
「どうしてって----オレにも分かりません。ずっと扉の前で見上げていて。声を掛けようとしたんですけど、そうしかけたらすぐに逃げちゃいましたから」
「ああ、リオンはまだ人見知りが激しいみたいだからね。戦の最中に保護されたから、いきなり知らない環境ばかりで戸惑うのも無理ないよ」

 僕だって怖くて、閉じこもってしまうかも知れないし。そう言ったティーは複雑な思いを瞳に浮かべる。俯きがちになり、そっと吐き出された溜め息にカイルはティーの顔を覗き込む。最近では大分浮かべる回数が減った何かを押し殺すような表情に、カイルは僅かに眉を顰めた。

「ティー様?」
「………え?」
「どうかされたんですか?」

 はっと我に帰り、ティーは軽く首を左右に振る。そしていつもの素直じゃない眼でカイルを見た。

「ううん。何でもない」

 そしてしばらく何かを考え、再び口を開く。

「分かった。一応気に止めておくし、もしリオンに会ったらどんな用事か聞いてみる」
「そうしてください。オレリオンちゃんが一人でいるから吃驚したんです。ティー様にどんな用事があるのか気になるし」
「………それは僕もなんだけどね」

 ほう、と溜め息をついてティーは持っていたカップを包み込むようにして持ち直す。ゆらゆらと揺れる琥珀色の水面は、リオンのことを考えるティーが映っている。
 やがてティーは考えを打ち切るかのようにカップを持ち上げ紅茶を一口飲んだ。

「考えてもしょうがない。僕はリオンじゃないから。リオンの考えている事なんて完全には分からない。ちゃんと会って聞いてみるよ」

 新たな決意を込めるように呟くティーに、カイルは力強く頷いた。

「オレもリオンちゃんに会ったら真っ先にお知らせしますからね」
「うん」

 しっかり頷くティーに、カイルは眼を細める。初対面の、部屋から頑なに出ようとしなかったティーが、外に出て、周りを気にかけるようになって来た。小さな一歩かもしれないが、これは大きな変化だ。この調子でどんどん周りに眼を向ければ、良いものだって沢山ティーの眼に映るだろう。

「じゃあ腹ごしらえですねー。こんなに沢山お菓子があるんですから食べないと」
「僕はあまり食べる気がしないからカイル一人で食べると良いよ」

 皿からクッキーを数枚だけ取って、ティーはそのままお菓子をカイルの方へと押しやる。二人で半分に分け合うんだとばかり思っていたカイルは、眼を丸くした。

「いいんですか。こんなに食べちゃって」
「いいんだよ」

 ティーの頬に僅かな朱が差した。

「どうせカイルが修練でおなかを空かせてるだろうから、僕が多めに頼んだだけなんだし。カイルが気兼ねする必要なんて」
「ティー様」

 驚きが一気に喜びに変わり、カイルは満面の笑みでティーに笑いかけた。

「優しいですね。ありがとうございます」
「べっ、別に優しくなんか……」

 照れ入り、一気に紅茶を飲み干してティーは「いいからとっとと食べる!」と怒ったような声を上げ、赤くなった顔を隠すようにカイルからそっぽを向いた。


06/05/08