《黒い砂》から解放されてからも、取手はよく保健室に行く。改めて、自分の過去と向き合う為に、心理療法は必要だったし、形を潜めている頭痛も、たまに思い出してきたかのようによみがえってくる。
例えば、否定的な考えが自分の頭につきまとったり、気持ちが沈んでしまうと、警告するように痛み始めてくる。前の気絶してしまうほどの強さではないが、動きづらく考えも散漫になってしまう。
また痛んできた頭を押さえ、取手は保健室の扉を潜る。
「おや、どうした」
保健室の主は、取手の姿に煙をくゆらせていた煙管の火を消す。ちゃんと公私を切り替え、どんな人物とも対等に接する瑞麗は、生徒の間でも人気の高い先生だった。取手も世話になる回数が多く、その腕の良さにとても信頼している一人だ。
「……あの、頭が痛くて。それで、休ませてほしいんですが」
「そうか」
控えめな申し出に、瑞麗は眼を細める。優しい姉のような眼差し。立ち上がって、薬品が入った棚へと向き合う。
「しばらくそう言った事ではここには来なくなったものだから、安心していたんだが。やはり、油断は出来ないな」
「……すいません」
「謝らなくともいい。君のカウンセリングは始まったばかりだし、何かと不安定な時期も多いだろう。あまり無理をせずに、調子が悪くなったらここに来なさい。アレと違って、立派に保健室を使う理由があるからな」
「……はぁ……」
瑞麗の言う『アレ』とは皆守を指す。たまにやってきては、ベットを一つ占領して、昼寝をしている。見つかってもなお眠る皆守を、瑞麗がたたき出す場面も、何度も見てきた取手は、力の抜けた声で曖昧に返事をした。
棚の鍵を開け、瑞麗は取り出した瓶から錠剤を掌に転がし、取手に渡した。
「とりあえず薬を飲んで、ベットに横になりなさい。しばらく眠ったら少しは良くなるだろう」
「はい、すいません」
「私はもうしばらくしたら、私用でここを留守にするが、ゆっくり休んで構わない」
了承して取手は言われた通りに薬を飲み、学ランをハンガーにかけてベットの中に横たわる。白いシーツに、消毒薬の匂い。すっかり慣れてしまったその匂いを吸い込みながら、瞼を下ろす。
つきりつきり、と刺すような頭の痛み。今回のはなかなかしつこい。取手はうんざりする。せっかく良くなってきたのに、どうしてだろう。
原因は分かっている。昨日の探索で、自分が仕出かしてしまった事を悔いているのだ。
自分がぼおっとしていなかったら。あそこに足を下ろしたりしなかったら。ちゃんと飛んできた罠を避けていれば。どうしようもない考えが、頭の中を巡る。追い出さないと眠れそうにないのに、上手くいかない。
『ああ、これか。こんなの痛いうちに入らないよ』
暁斗は笑っていたが、取手には彼のどんな些細な怪我も恐ろしく見える。暁斗が血を流す場面なんて、見たくない。《宝探し屋》は危険と常に隣り合わせで、怪我をしない方がおかしいかもしれないが、それでも取手は、暁斗に鈍な小さな怪我も負ってほしくなかった。
優しくて、暖かくて、困っている人を見たら放っておけないお人好し。取手を救ってくれた時も、《黒い砂》から生まれた巨大な化人の攻撃に曝され、傷付きながら必死で手を差し伸べてくれていた。
だから、救われた取手は願う。少しでも彼の為になる事をしたい。《執行委員》の名を捨てて、《秘宝》を探す手伝いを申し出た時、暁斗は一瞬目を丸くして、とても嬉しそうに笑うと、取手の願いを受けいれてくれた。
嬉しかった。頑張ろうと思った。自分の宝物を見つけた暁斗の、宝物を見つけてあげたい。
なのに、
「……どうしてうまくいかないんだろう……」
このままでは、役に立つどころか、足手纏いではないか。自然と溜め息が漏れる。身体は重たくて、頭が痛む。
役に立ちたい。暁斗の助けになりたい。気持ちばかりが先走って、身体がついていかず、もどかしさばかりがつのる。
取手は頭から毛布をかぶった。今は少しでもこの頭痛を治したい。知ればきっと暁斗は心配する。
そんな事は、させたくなかった。
ぼんやりとした意識で取手は眼を覚ました。身じろぎながら枕元に置いていた携帯電話を手に取り見れば、もうすでに五時間目の半ば頃になっている。結構眠っていた様だった。
あれほど取手を悩ませていた頭痛は、薬が効いたのか、眠れたのが良かったのか、治まっている。これなら、六時間目は出れる。安心して、ゆっくり起き上がろうとした。
その時、
「……?」
すぐ近くで、小さな音がした。自分のベットが軋む音ではないし、瑞麗は出かけている筈。取手は思わず声を潜め、じっと眠っているふりをした。そうする必要など何処にもなかったが、何故か身体が自然に動いてしまう。
様子を窺っていると、いきなりベットを区切るクリーム色のカーテンが音もなく開いた。そこから顔を出してきたのは、暁斗。
「……寝てる、よな」
取手が寝ている事を確かめる暁斗に、取手は戸惑いながら咄嗟に寝息をたてる真似をする。上手くいくか不安だったが、暁斗はこれ以上こちらを窺う事なく、またカーテンの向こうへと消えていった。
取手は眼を開け、音を立てないように起き上がり、息を潜める。カーテンの向こうでは、おぼろげな境目の影が動いては小さな音をたてる。
どうしよう。思わず自分が取ってしまった行動を後悔しながら、取手は困り果てる。寝たふりなんてせず、普通に会って話せば良かったんだ。
暁斗が保健室を出るまで、もう少し寝たふりをしておくべきか。起きたふりをして、保健室を出た方がいいのか。これからの行動に頭を悩ませると、不意に、「痛て」と声がした。
昨日の傷が痛むんだ。取手の心がざわめく。まさか、傷が酷くなって、保健室に来たんじゃ。
「−−暁斗君ッ」
取手はカーテンを手にかけ、思いきり引いた。秋の午後、柔らかくて白い陽が、カーテンを通して入り込んでくる。その中を、暁斗は上半身裸で立っていた。
傷だらけの背中。取手は息を飲む。小さく、もうすぐ消えそうな切り傷や、首の付け根から背骨の上をなぞるように大きく走っているものもある。その中では、左腕にあった傷なんて些細なものの様だった。遺跡で、その傷を楽観していた暁斗の態度に、ようやく納得がいく。それがいいなんて、頷く事は出来ないけれど。
「−−−−ッ?」
暁斗が、いきなりの闖入者に驚いて振り向いた。向かい合う形で見つめあう。そして取手は、また自分の取ってしまった行動を後悔した。
ほっそりとした身体。胸の辺りに、その体格ではあり得ないものがついていた。
柔らかな、女の子特有の、膨らみ。
おんな、のこ?
「……あき、と、くん。君って」
女の子だったの? そう続けようとした言葉は、暁斗の掌に口を塞がれて出せなかった。彼−−いや彼女は人さし指を口元にやり、静かに、とジェスチャアする。保健室に、人が入り込んでいない事を確かめると、取手の耳に口を寄せて囁いた。
「オレが着替えるまで、待っててくれ。ちゃんと訳を話すから」
暁斗に近づかれ(しかも上半身裸でだ!)ごく近くで聞こえるアルトの音に、取手の心臓は破裂しそうな程、脈打つ。
取手は、ただ頷くしかなかった。
「もう、いいぞ」
暁斗の声がしてから、取手は改めてカーテンを開けた。今度はちゃんと服を着た暁斗が、ベットに座っている。安心した。
「とりあえず、隣に座りなよ。その方がオレも話しやすい」
「うん」
促されるまま、取手は暁斗の隣に腰を下ろす。表面上は何とかいつものように振る舞っているが、心の中は混乱の極みだ。《転校生》で、《宝探し屋》。学ランを着て、男子寮で気軽に会っていた暁斗が、女の子だったなんて。確かに体格は細いと思っていたけれど、学ランで堂々としていて、性格もどちらかと言えば、格好よくて頼りになる兄貴的なものだったから。全く暁斗が、男だと疑っていなかった取手が、受けた衝撃は大きい。
「取手?」
俯いて考え込む取手を、不思議そうに暁斗が呼ぶ。
「……もしかして、具合悪くしちゃったか。いきなりあんなモノ見ちゃったから」
「そ、そんなことッ、ないよッ」
慌てて否定する。第一、人の身体的特徴にあれこれ意見するのは、人として失礼だろう。女性なら尚更。
「暁斗君は悪くない。悪いのは僕だよ。君を驚かせてしまったから」
「……」
暁斗は取手をじっと見つめ、そして小さく吹き出した。
「よかったー。何言われるかと思ったけど、やっぱ取手だな。謝らなくていいのに」
「ご、ごめん」
また取手は謝ってしまい、暁斗の笑みはますます深くなる。
「あ〜〜、いいっていいって。今回はオレの配慮不足だったよ。で、不運にもそれを知ってしまった取手には、ちゃんとその理由を知る必要がある。……取手は聞きたい? オレが男装している理由」
理由。暁斗の事を知れる。彼の置く立場故に、深い所までは分からなかった事が知れる。取手は頷いた。もっともっと彼女の事が知りたい。
「OK」
不躾かもしれない反応に、暁斗は嫌な顔せず話しはじめる。
もともと彼、−−否、彼女は最初女子生徒として天香学園に潜入する手はずになっていたが、ロゼッタ協会での暁斗の面倒を見ていた後見人が、勝手に転校手続きの性別欄を、女から男に変えてしまった。もちろん暁斗を始め、上の方からもクレームが来たのは当然の反応。だが、その後見人は、暁斗の男らしい性格と、さらに女よりも男の方が暁斗もやりやすいだろうと言い包め(例えば銃が見つかってしまっても、男の方が説明がつきやすいんだとか)、とうとうそのまま押し切ってしまったそうだ。
暁斗は学ランの端を摘み、肩を竦める。
「まぁ、オレも地のまんまでやっていけるから、すぐに納得したけどな」
「……あははは」
「想像してみなよ。オレにあのセーラー服が似合うと思うか?」
取手は想像してみた。セーラー服を着て、動き回る暁斗。彼女が大人しくなんて出来ないだろうから、きっと誰彼構わず飛びついたりとか、風でスカートが捲れても、そのまま気にせずにしそうな気がする。
「……今の方が良いかな……」
学ランの方が、まだ心臓に負担をかけないと判断した取手は、深く頷く。似合うと思うけど、そんなの、他の誰かに見せたくないし。
あれ? 戸惑う。今、自分は何を考えた?
「だろ! やっぱそう思うよなッ」
取手の反応を、履き違えて捕らえた暁斗は、嬉しそうに取手の背中を強く叩く。ばあんと大きな音がして、あまりの衝撃に息が止まる。思わず、くの字に身体を折り曲げ、咳き込んだ。
「あああ、ゴメン取手」
「確かに、この強さは女の子にしとくには勿体無いかも、ね」
今さっき、自分が考えていた事を打ち消すように言って、取手は咳き込んで出てきた涙を拭った。
「でも、良いのかい? 僕なんかにそんな事を言っても」
「良いんだよ。オレだって、別にバレてもいいかな、って考えてるし。それでも隠しているのは、そうなった時、《生徒会》がそれを理由に退学処分にしそうだからな」
「じゃあ、これからも、隠すつもりなのかい?」
暁斗は頷く。
「そうだ。出来るだけバレないようにしないといけない。取手」
暁斗は人さし指を立てて、さっきのジェスチャアを繰り返した。
「これは、二人だけの、ヒミツな?」
悪戯げに光る、子供のような瞳に、取手の心臓が高鳴る。頬が火照って熱い。それを隠すように、俯きがちに頷いた。
「僕で、よければ。……喜んで」
「ありがとう」
白い歯を見せて暁斗は笑う。屈んで床に置いてあったデイバックを手に取った。チャイムが鳴り、五時間目の終りを告げる。
「おっと、次ヒナ先生の授業なんだ。サボるとうるさいから、オレ行くな?」
「うん」
「取手は?」
「僕は……、もう少し休んでいくよ」
「そうか。しっかり休めよ」
じゃあなと手を振って、出ていく暁斗を見送って扉が閉まると同時に、取手はベットに倒れこむ。心臓がドキドキして、落ち着かない。
まだ、信じられない。彼だと思っていた暁斗が彼女で、その秘密を共有するなんて。
『これは、二人だけの、ヒミツな?』
大きく口を開いて笑う唇が、目の前で繊細に言葉を囁いた時、取手は妙に自分の心がざわめいたのを自覚した。どうしてだろう。暁斗と話した後は、決まって暖かくなる心が、今は、苦しい。
取手は起き上がり、先程まで自分が寝ていたベットへ移動した。靴を脱いで中へと潜り込み、毛布を掛け直す。
落ち着かないと。言い聞かせて、取手はまた瞼を閉じるが、眠れそうにはなかった。
一体どうしたんだろう、僕の心は。
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