暁斗と別れた後の事を、取手は良く覚えていなかった。授業を受けた気もするし、保健室で寝ていたような気もした。目の前と頭の感覚が一致しない浮遊感に包まれ、取手がようやく我を取り戻したのは、自室のベットの上で、天井を見上げている時だった。
ああ、どうしよう。
取手はもともと心の大部分を占めていた暁斗への思考がさらに肥大化していく事を自覚する。このままだと彼女一色に染められてしまいそうだ。だが、それも嬉しいと思ってしまう自分もいる。
暁斗が知ったらどう思うだろうか。想いを馳せて、取手はまた視界の深みへはまっていく。
あれからしばらくぼおっとして、そのまま眠ってしまったらしい。取手がそろりと瞼をあけると、部屋の中は薄暗かった。夜になったかと時計を見てみて、翌日の朝になっていて吃驚する。ベットに足を投げ出した変な体勢で眠っていたので、首や足の節々が痛む。制服は皺がついていた。
仕方なく取手は起き上がり、学ランを脱いでハンガーにかけ、出来る限り皺を伸ばす。他の服は脱いでまとめて洗濯カゴに放り入れた。
服をどうにかし終えて、今度は身体の汚れが気になった。時間的に浴場を使うのは難しい。
自業自得だ。溜め息をつきながら、せめて顔だけでもさっぱりさせたくて、洗面所に向かう。
朝が始まったばかりの廊下は誰もがまだ眠っていて、とても静かだった。昇ったばかりの太陽が、白い光を空に投げ出している。
その眩しさに、眼を細めた。
誰もいないと思っていた洗面所には、先客がいた。蛇口を捻り、勢い良く出した水を受け止めているその姿に、取手は固まった。
暁斗だ。
彼女は取手に気付かず、顔をごしごし洗っている。昨晩も遺跡に行ってたのか、トレーナーの袖を捲った腕からは、この前はなかった新しい傷が出来ている。
暁斗が蛇口を閉めた。水が止まり、彼女は傍らに置かれたタオルを掴んで、顔を擦るように水分を拭う。
顔を上げた。鏡越しに入り口に突っ立ったままの取手と眼が合って、そっちを振り向いた。
「おはよ」
「……おは、よう」
掛け値無しの暁斗の笑顔に、取手は思わず吃り、頬が熱くなる。あからさまに狼狽えてしまうのもおかしくて、取手はうるさく脈をうつ心臓を押えながら冷静を装い暁斗の横に立つ。誤魔化せるか心配だったが、暁斗が気付く様子はなく安心する。
それでも沈黙が怖くて、取手は取り留めのないことを口にした。
「……昨日も、行っていたのかい?」
「ああ、今ちょっと資金が足りなくてさ。クエスト、クエストの連続。結構潜ったねー」
「もしかして、一人で?」
「いや、皆守と椎名に頼んでいってもらったから。大丈夫」
暁斗の口から飛び出した皆守の名前に、なぜか取手は胸が痛くなった。どうしてだろう? 以前はなかったのに。
「……どうかしたのか?」
暁斗が気遣うような声で尋ねた。
取手は慌てて首を振る。
「いや、なんでもないんだ。まだ起きたばっかりで、頭がぼおっとしていて。大した事じゃないよ」
「そっか」
暁斗は安心して笑う。
「じゃあ、冷たい水で顔を洗って、眼を覚まさないとな。じゃあ今日も頑張ろう!」
「……う、うん」
いつでも元気な暁斗に、取手はやっぱり吃りながら顔を赤くして視線を彼女から外した。このまま見つめ続けたら、熱が治まるどころか酷くなりそうで。
『男』の友達として接していた時は気付かなかった事が、『女』として見るとものすごい短時間で次々と見つけてしまえる。
例えば抱き締めたらすっぽり隠れてしまいそうな小ささとか、服の上からでも分かる肩の丸み。広い襟口から出ている首は、細くて、白く。腕だって筋肉がついているのにやっぱり細く見える。
今の姿では、遺跡を駆けて、銃や刀を巧みに使い化人を倒していたなんて、何も知らない人が聞いたら、まともに取り合わず笑われてしまうだろう。
取手から見た今の暁斗は、『女の子』だった。
暁斗が取手の横を擦り抜けて、歩いていく。
「それじゃ、先行くな」
ああ、ちゃんと良く聞けば、声だって少し低めの女の子の声だ。
また一つ新しい事に気付いてしまい、取手は途方に暮れてしまう。心臓はこんなに速く動くものだったのか。胸のほぼ中央を押え、服越しに伝わる鼓動に困った。どうしようもなくなり、取手は蛇口を捻り水を勢い良く出すと迷いを払うように、冷たい水で顔を濡らした。
どうして、今更。
『女』と知ってから気になりだすなんて。
『音楽は好きだよ。聞くのも、歌うのも』
自分が弾くピアノに合わせ、歌う音楽のテスト。その練習で暁斗は言っていた。音程が外れるから、嫌だと。そう言いながらも、はにかみながら歌っていた。
彼女の歌声は、人柄を現すように暖かくて、優しい。鍵盤に指を滑らせながら聞いていて、微笑ましくなった。
『良かったな、見つかって。お前の大切なモノ』
自分を呪いから解放してくれた時、支えてくれた手はとても暖かかった。
埃と血で汚れた顔で、彼女が笑う。
救いを求め、あえぎ苦しんでいた自分の手をとってくれた彼女はとても綺麗で、自然と涙が出てきていた。
かけがえのない、友人。
いや、違う。
僕は。
「取手!」
ぼやけた視界と微かな消毒薬の匂いの中で、暁斗が呼んだ。やけに彼女の姿は歪んでいて、取手は手を眼に持っていく。濡れていた。眼の匙から溢れた水がこめかみを伝い、髪の毛と枕の生地を少し濡らしていく。どうして、暁斗がいるのだろうと考えて、ぼんやりと保健室で休んでいたんだと思い出す。
何時の間にか夢を見ていたらしい自分は、何時の間にか涙を流したまま眠っていた。
「大丈夫か? 嫌な夢でも見たのか?」
「ちが」
狼狽しながら手を伸ばしてくる暁斗を制しながら、取手は涙を拭った。だが、強く擦っても止まらず、困り果てて起き上がり横にかけてあった制服のポケットからハンカチを取り出す。
瞼をそれでゆっくり押えた。止まる所を知らない迷惑な涙は、取手の言う事を聞かず、ハンカチをどんどん濡らしていく。
「ごめん、何でもないんだ」
「でも」
様子を窺う暁斗に、取手は無理矢理笑う。
「本当に、大丈夫だから」
その言葉に暁斗は納得しない表情で取手を見て、−−頭を抱き締めてくる。目の前が制服の生地で埋め尽くされた。
「あっ、暁斗君……ッ」
優しく髪を梳き、暁斗に抱き締められている現実。とくとくと、身体に触れた耳が、暁斗の心音を聞いた。
柔らかい旋律。なのに聞いていて、取手の胸はきつく締め付けられた。苦しくて、涙が余計に溢れて、暁斗の学ランを濡らしてしまった。
「ごめん。制服を濡らしてしまった」
「いいよそんなの。謝るなよ」
「でも」
「いいの」
暁斗は耳元で優しく囁く。
「これはオレが好きでやってるんだから。遠慮しないで甘えていいよ」
そう暁斗は言ってくれたが、取手は心の中でもう一度小さく謝った。
僕なんかに、優しくしないでもいいんだ。
だって僕はずるい。ずるくて、卑怯者だ。
君のその優しさを利用して、今こうしてある事を心の何処かで喜んでいる。
ごめん。
気付いてしまった。
君が好きなのだと。
女の子と知ってから、僕は君が好きなのだと、知ってしまった。
僕は、ずるいんだ。
頭の上を、暁斗の手が愛おしそうに滑る。抱き締められる感触と、その暖かさが優しくて。
取手は瞼を閉じた。溢れた涙がこぼれ、頬へと伝わり落ちていった。
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