右側から差し出されたカップを受け取り、シグレは即座に左へそれを流した。たぷんと中で温められたミルクが揺れる。フヨウ特製のホットミルクは蜂蜜をこれでもかと吐きそうなぐらい入れてあって、通り過ぎる甘い匂いに軽く胸焼けを起こす。
 シグレの左に立っていたサギリは突然カップを渡され、座って気怠るげに煙管を銜える男を見た。笑っているが、表情の隙間から僅かな疑問が出ている。
「………シグレ、行かないの?」
 サギリは壁一枚隔てた向こう側を見る。扉が閉めてあったが、気配が一つ弱々しく踞っている。
「俺にどうしろって言うんだよ」
「まぁ、誘拐してきた癖に。何を言っているのかしらシグレちゃんは!」
 フヨウがふくよかな腰に手を当て怒るが、もともと人好きの性質を持っているせいであんまり怖くない。だが良心を責められているようで、シグレはフヨウから目を反らした。
「あれは誘拐じゃねえだろ。ティエンが勝手に引っ付いたんだ」
「でも、あの子城に何も言っていないんでしょう? 今頃大騒ぎじゃないかしら。ねぇ、サギリちゃん」
「………そうかも………」
「よねぇ!」
 フヨウはサギリの肯定に手を叩いて、
「せめて、誰かに言っておいたほうが良かったんじゃない?」
「それは状況的に無理だと思いますけどね」
「あら、先生」
 反対側の部屋から出てきたオボロはシグレの羽織を見る。肩の一部分が濡れている。
 ティーがオボロ探偵事務所の船にやってきた時、彼はシグレの首にしがみついて泣いていた。羽織が濡れているのは、その涙が染み付いた跡。
「あんなにしがみつかれて泣かれては、言うに言えないですよ。探しに来た女王騎士の人に出くわしたりしたら、王子を泣かせた不敬罪と思われかねません」
「………その女王騎士が泣かせてたりしたら、そいつが不敬罪なんじゃねえの?」
「さぁ、どうでしょうねぇ」
 とぼけるオボロに、シグレはふと金色の髪を持つ男が重なり、苦渋に顔を顰めた。
「………」
 黙りこくるシグレを余所に、オボロはサギリとフヨウを手招きする。「どうしたんですか?」と不審に訪ねるフヨウの手を取りエスコートしながら、
「私たちは出かけましょう。王子はシグレ君に任せて」
「はぁ!? 何で俺が」
 王子にしがみつかれながらもここに帰ってきたのは、慰めや労りの言葉をごく自然に出せる人間が居るからだ。自分なんかが……と思う前にシグレはその言葉自体思い浮かばない。
「王子はシグレ君を一番頼りにしているように見えますけどね。私は」
 オボロの言葉にサギリが頷き、持っていたミルクをシグレに渡す。
「………私も、そう思う………」
「サギリ………」
「私も、シグレが優しいって、知っているから………」
「………」
「シグレ君」「シグレちゃん」
 オボロとフヨウ。二人に同時に言われ、シグレは「しょうがねえな」とぼやきながら立った。
「行きますよ。行きゃあいいんだろ。ああ、めんどくせえ」
 文句を言いながらも、シグレはしっかり持っていたミルクが溢れないように気をつける。
「はい、それでいいですよ。それじゃあ私たちも行きましょうか」
「………はい」
「ええ行きましょう!」
「と言う訳で後はよろしくお願い致します。姑くは帰ってこないので時間がかかっても良いですから」
 頑張ってくださいね。と後押ししてオボロ達は裏口から出ていく。寒い夜風が吹き込んで、カップから立ち上る湯気が流れた。
 扉の向こうの気配は動かない。淋しそうに苦しそうに踞ったまま。
「………」
 めんどくさい。
 わざとらしく呟いて、シグレは自分と気配を隔てる扉を開けた。


 広いと言い難い部屋に置かれたソファの上に、膝を抱えてティーはそこに顔を埋めていた。なりふり構わず走ってきたせいか、綺麗に編み込まれた三つ編みは解けかけている。
 握りしめた拳は強く力が込められて肌が白く強張っていた。
「………ほら。飲めよ」
 シグレはテーブルにミルクを置いて、ティーの隣に座った。膝に肘をつき、覗き込むように様子を窺う。膝に顔を埋めて、更には腕で隠している表情は分からない。
 泣いているんだろう。くぐもったしゃくり声と、一定の拍子で嗚咽が喉に詰まる声がそれぞれ聞こえた。
 ああめんどくせえ。考えても考えても、目の前の子供を慰める言葉なんて出てきやしない。こんな自分を頼ってどうするんだよ、お前。人選間違っているんじゃねえか?
 髪を掻きむしり、散々迷ってからシグレは背もたれに身を委ねる。大きく息をつき、
「ティエン」
 吐き出すように言った。
「………」
「吐き出せよ。言いたい事」
「………」
「どうせお前のこった。誰にも言えずに隠してきたんだろ。めんどくさい事しやがって」
 洟を一度啜り、ティーが顔を上げシグレを見る。涙に濡れた目元や鼻は泣き続けていたせいで赤くなっている。頬に幾筋も残した涙の跡。母親譲りの端整な顔だちは涙と洟と悲しみに歪んで、年相応の子供に見えた。
 ティーはすん、と鼻を鳴らす。不安そうにシグレを見る目は、気持ちを吐き出すべきかどうか迷っていた。
「馬鹿」とシグレはティーの頭を軽く小突く。
「遠慮なんかする暇があったら、とっとと話して俺を解放しろ。----ったくアイツら俺を置いてとっとと出かけていきやがって。俺の苦労も知らずによ」
 勘弁してほしい。
 そう呟くシグレを見つめ、ティーは小さく吹き出した。
「……何だよ。何がおかしいんだよ」
「……ゴメン。シグレって素直じゃないなあって」
「………」
「でも、それは僕も同じで。----いや、僕の方が何倍もタチが悪い」
 足を床に下ろし、ティーは遠く窓から外を見つめる。
 ソルファレナにある太陽宮は、そこにある太陽の紋章の力か、夜になっても明るいまま闇を知らない。太陽のごとき光を放ち、存在を、力の強さを示している。
 あそこはティーの居場所。だけど彼は、とても居心地悪そうに太陽宮を見つめていた。

「----僕は何かを欲しがるように出来ていないんだと思ってた。欲しがったらどこからか綻び始めて、取り返しの付かない事が起こりそうで。だからいらない。何も欲しくない。何も求めたくない。
 ----そう、思ってた。
 でも、僕は、」
 少し涸れた声でティーはぽつりぽつりと話し始める。
 それはまだ年端もいかぬ少年にとってはとても苦しく、胸の詰まるような感情で溢れていた。
 ティー自身も戸惑っているのだろう。辿々しくも長くなりそうな話に、シグレは黙って耳を傾ける。
 そして、思った。

 自分にあんな過去がなかったら、少しはティーを慰めてやれる方法が思い付いたかもしれないのに。




「愛したいとは思わない、愛されたいとも思わない」


だって愛してしまったら、求め続けてしまいそうで怖くなるから。
彼はそう言って哀しく笑った。


06/03/18