- 彼の苛立ち-
最近、どうも胸の辺りが苛々する。
カレーの食べ過ぎだとか、夜食にもカレーを食べている身体とかと言う訳でもなく(第一、そうだとしたらとっくの昔にそうなっていただろう)、ただむかつく。
それは、暁斗が椎名との茶会に行った日から始まり、日ごとに少しずつ大きく重さを増していく。
あの日から、椎名と----取手が暁斗を名前で呼ぶようになった。
自分は「皆守」のまま。
皆守は盛大に顔を顰める。
口には火がついたアロマプロップ。ラベンダーの香りを立ち上らせている。それをいつもより、深く大きく吸っているのに、それはなかなか消えない。水をかけてもしぶとく残っている残り火のように、しつこく燻り続ける。
こんなの、知らない。
知らなくていい。
--------知る必要など、ない。
皆守は眼を閉じた。
昼休みを終え、欠伸をかきながら皆守は教室に入った。最近は授業をサボる回数が徐々に減りつつある。担任の雛川だけでなく、暁斗もしつこく出るように言ってくるので、こうしてあらかじめ出ていた方が精神的にも楽だった。どうしても眠りたい時は、暁斗も道連れにするか、見付かりにくい場所で睡眠を貪っている。
今日はまだ眠気が出てこないので、仕方なく出てきた。
授業が始まる寸前で、生徒の殆どが席についている。残り少ない何人かが、まだ固まって立ち、雑談をしていた。
真面目に授業を受けようとしている皆守を、珍しいものを見る目付きで同級生が見ている。突き刺さる視線を鬱陶しく受け流しながら、皆守も席についた。
斜め前とその隣から、二組の強烈な視線が先程の比ではない強さで突き刺さった。
皆守は溜め息をつく。クラスでこんなのを向けてくる存在など、限られている。渋々、前に眼を向けた。
「皆守−。お帰り−」
「皆守クン、来たんだね?」
葉佩暁斗と八千穂明日香が余計な一言を言いながら、大袈裟に手を振った。この二人が揃うと、途端に五月蝿くなってしまう。
「うるさい」と皆守は念を込めて睨み返す。
「わー。怖い怖い」
「照れてるんだよ。暁斗クン!」
本当はそう思っていない暁斗がわざと身を震わせると、八千穂が演技にのっかって皆守を揶揄する。
いい加減にしろ。そう言いかけ、皆守はふとあることに気がついた。
八千穂が暁斗を名前で呼んでいる。
今日、昼休み教室を出るまでは「葉佩クン」と彼女は呼んでいたはずだ。一体何があったのか? 皆守は昼休み暁斗から離れてしまったことを悔しがる。
--------悔しがってどうすんだ、俺は。
皆守はついと暁斗たちから眼を反らした。これ以上見ていたら、いらないことばかり考えてしまうだろう。
机の引き出しに手を突っ込み、雑に教科書やノートを取り出す。顔を軽くうつぶせ、アロマプロップを掌の内で弄ぶ。苛ついていたが、さすがに授業中に吸う訳にはいかなかった。
蛍光灯の白味かかった光に当てられて、アロマプロップの装飾部が凹凸に合わせ鋭く緩く反射する。屋上で吸ったラベンダーの残り香が、微かにした。
一瞬いら立ちが収まりかける。だが取手に名前を呼ばれ、笑顔で返す暁斗を不意に思い出してしまい、歯止めがかからなくなってしまった。
いつもそうだ。暁斗は予告もなく勝手に、心の裡に土足で踏み込んでいく。『あの日』から人が必死で組み立てた壁を、無慈悲で無邪気な子供の顔で遠慮なく壊し、足跡を刻み込んでいく。
チャイムが鳴った。
話し込んでいた生徒らは席に戻り、教材を手に教室に入ってきた雛川は、大人しく席につく皆守の姿に微笑んだ。それを見て、暁斗も頻りに後ろを振り向き、嬉しそうに笑いかけてくる。
皆守は冷めた眼で見返した。しつこく授業に出るよう言ってくる雛川もそうだが、暁斗が自分に近づいて仲良くしようとする行動の真意が分からない。
仲良しごっこなんてしてどうするんだ。
暁斗は《宝探し屋》で皆守とはいる次元が違うだろうし。何よりも。
「…………」
緩く首を振り、これ以上考えるのを止めた。
とにかくいつかは道が別れてしまうだろうそれまでの間柄だ。これ以上、仲を深くしていっても仕方ない。
担任の透き通る声を右から左に聞き流し、皆守は底から滲み出てくる苛立ちに舌打ちをした。
どんなに仲を深める気はないとしても、相手はそうは思っちゃいないようで。五時間目が終わって二人はサボるついでにお腹をも満たそうと、購買のパン売り場に立っていた。どうやら商品の補充をしたらしく、昼休み売り切れ寸前だったパンは新しく置かれていた。
「皆守はカレーパンだろ? オレはどうしよっかなあ」
「いいからさっさと決めろ。眠る時間が減る」
「いっつも惣菜ものだったから。たまには甘いものもいいかも。でも、この新商品も捨て難い……」
「どうしよう」と暁斗は頭を抱える。彼はたまに幾つかのパンを前にして、非常に時間をかけて悩む時がある。普通の学生よりは金があると思っていたが、彼曰く新しい銃を買う資金を調達する為に節約中らしい。
皆守は暁斗の頭を軽く小突いた。
「どれでもいいだろ。腹に入ればどれも同じだ」
「もう、皆守は黙ってろよ!」
投げやりな言葉に暁斗が怒る。背を向けて、完全に熟考モードに移行してしまった。
俺は早く眠りたいんだが。皆守は遠い眼をした。この分だといつ横になれるんだか、分からない。
「いらっしゃいませ」
二つのパンを手に迷い続けている暁斗に、穏やかな声がかけられた。
「……ちっ」と不愉快な顔をして、皆守が呟いた。
「あれっ」と暁斗は顔を綻ばせて、声のする方向を向く。
「ふふっ。また迷っているんですか?」
黒い髪の横側を伸ばし、柔和な顔つきをしたつなぎ服の男--緋勇弥幸が笑う。
「そうなんですよう。どっちもおいしそうで。困っちゃうんです」
「確かに。美味しいものが並ぶと、悩んだりしますものね」
「ですよね!」
皆守は無視されたまま、会話は続く。弥幸は基本的に誰にでも優しいが、皆守だけは例外だった。彼に向けられる言葉や表情は、どこかしら棘がある。いつか偶然通りかかった人が、驚き逃げてしまう程の絶対零度の温度がこの場に生まれないのは、一重に暁斗のお陰だ。
「…………」
要は弥幸も、暁斗に好意を抱いている。
皆守は複雑そうに二人を見つめた。
「僕は結構こっちが好きですね。朝とかも食べたりしてるんですよ」
棚から取ったパンを弥幸は暁斗に手渡した。受け取った暁斗は興味深く、まじまじとパッケージを見る。
しばし考えた後、彼は口を開いた。
「……弥幸さんが言うなら。オレ、これにします」
「ありがとうございます、暁斗君。それじゃあ精算しましょう」
「…………」
皆守は暁斗に見付からないよう、弥幸を鋭く睨む。だが弥幸は意に介さず、鼻先だけで笑った。
『悔しかったら、お前も名前で呼んでみろよ』
唇を音もなく動かし、弥幸は挑発する。
弥幸にいら立ちの原因を指摘され、皆守は口を噤む。取手も、椎名も八千穂も。暁斗を名前で呼ぶが、自分だけは未だに『葉佩』と呼んでいるまま。
向こうも『皆守』と呼ぶままで。
つまらない自尊心と立場が、邪魔をして遮らせる。
弥幸の眼が、初めて暁斗を名前呼びして勝ったように見つめてきた椎名のものと重なる。
--------くそっ。
レジで財布を開く暁斗の後ろに立ち、皆守は彼の顔を掌で覆い、自分のほうへと引き寄せた。
「わっ」
パン二つ入った小さなビニール袋を揺らし、暁斗はバランスを崩してたたらを踏む。
「何すんだよ!」
「俺は眠いんだ。とっとと行くぞ」
強引に皆守は暁斗を引きずり、購買を肩を怒らせながら退場していく。
「-----------ガキが」
老成した雰囲気を持つ少年の、我が侭な子供じみた行動を弥幸は卑屈に笑い、暁斗から受け取った金をレジに落として仕舞う。
「ま、だからこそからかい甲斐もあるってもんだが……。あの子にあたらせないようにはしないとな」
「困ったやつだ」と弥幸は溜め息をつく。
「もう、弥幸さんにさよなら言い損ねちゃったじゃないか!」
「いいからじっとしとけ」
暁斗を引きずるようにして戻った彼の自室で、皆守は暁斗の膝枕をし、ベッドに横になる。眉間には、明らかに怒りの皺が刻まれ、事情を知らない暁斗は困惑して為すがままだ。さらに膝にのっかる重さで何も出来ない。
「なんでいきなり膝枕なんだか」
「……ふん」
嘆息が耳に届いても、皆守は聞こえないふりをする。
仲良くしていくのも苛つくが、これ見よがしに見せつけられるのもむかつく。
皆守は、自分が底なし沼に片足を突っ込んでしまったのを自覚しながら、厄介な人物に出会ったと、今更ながらに思う。
「----頼むから。これ以上、気を揉ませてくれるなよ。………暁斗」
「?」
幸か不幸か、皆守の呟きは、暁斗まで上手く届くことはなかった。
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