- Nigella.damascena -
この場合は、どうしたらいいのかしら。
白岐は足を止めた。困ったように温室の壁にへばりついている存在を見る。
そこにいるのは三、四日前に天香学園にやってきた《転校生》葉佩暁斗。初日から興味深く色々な場所を歩いてみて、二日目にはクラスメートを二人連れ、墓地へ向かう彼を白岐は目撃している。
恐らく彼は、普通の転校生ではない。この学園に潜む秘密を暴きにやってきたうちの一人なのだろう。あまり、かかわり合いになりたくない部類に入る。そんな彼が、温室にどんな用事があるのか。
花の世話をしに温室へ来た白岐は、戸惑う。このまま、通り過ぎていいのか。
暁斗は爪先立ちで背伸びをし、温室の中を覗いている。ただでさえ不安定そうなのに、彼はさらに身体を伸ばそうとする。
転んでしまう。白岐が思った途端、予想通り暁斗がバランスを崩して、後ろに仰け反る。慌てて手を前後に振り回すが、重心はそのまま傾き地面へ落ちていく。
「あいてッ」
悲鳴を上げて、暁斗が頭を押さえた。目の前で転ばれて痛がる姿を無視出来る程、器用じゃない。白岐は温室へ向かって歩き始めた。
「………何をしているの?」
「あっ、白岐」
逆さまの視点で、白岐を見上げ暁斗は涙目で挨拶をする。それ以外は、何ら異常はなさそうだ。早まったかもしれない。白岐は、元気で起き上がる暁斗を見て、後悔した。
「花を見てみたいんだ」
でも鍵がかかっていて、中に入れなかったから。窓から見えるかなって。
鞄から温室の鍵を探す白岐の後ろで、暁斗は扉が開く時を、今か今かと待ち続けている。誰かと二人きりで過ごす事を苦手としている白岐は、なるべくさっさと帰ってほしいと思っていた。
危険。
闇を暴く《転校生》は危険なのだと、何かが白岐に伝えている。
「……見ても構わないけど、なるべく早く出ていって」
冷たく振り向かずに白岐は言った。
「私は、一人きりで花の世話がしたいの」
「あ、そうだったんだ。分かった。そんなに長くはいないからさ。安心してて」
白岐がどう考えているか知らずに、暁斗は花に期待を胸膨らませてそう答える。
ゆっくり鍵を開けた。戸を開き中に入る。続いて、暁斗も入ってすぐに歓声を上げた。
秋とは言え、肌寒く冬へと近づく外とは違い、中はまるで一年中春が留まっているような暖かさ。ガラス越しに入ってくる陽射しは柔らかく、煉瓦の地面に日だまりを作っていた。外からの音は遮断されていて、微かにラベンダーの香りがする。
以前勤めていた女性の先生が、とても好きな花で、彼女は温室の花壇を少し借り、そこにラベンダーを植えていた。今は、もうその先生はいなくなり、世話をする者がいなくなったが、半年程前にやってきたまだ若い校務員の手によって、今だ紫の花は温室から途絶える日はなかった。今日も、片隅で存在を示す香りを発している。
暁斗が温室に入って直ぐに、皆守の香りがする、と呟いた。
「すごい」
暁斗が中央の丸い広場へ足を進めた。温室は、中央にあるその広場を囲んで、花壇が設置されている。ベンチに座ると、一面花畑のように見えるのだ。今は秋桜が先頃で、背の高い茎の先に花を咲かせている。
日本では珍しくない花だが、エジプト暮らしの暁斗にはそうでもなく、楽しげに眺めすごいと繰り返し言っている。
入り口脇の作業棚の前で、道具を取り出していた白岐は、ずっと同じ言葉を繰り返している暁斗をおかしく思う。まるで、子供のような反応だ。
「すごいすごい、すごいよ」
暁斗は葉に触れては喜び、花を鼻先に近付けてはにこりと笑う。
「すごい、本当凄いよ」
温室に入ってから、そればかりしか言っていない。
「葉佩さん。あなた、さっきから同じ事しか、言ってないのね」
白岐は彼岸花の前へ跪き、成長を阻害する雑草を抜き始めた。一つ抜いて、纏めやすいように持ってきておいたトレーへと移す。
「花が、そんなに珍しい?」
「オレ、こういうのに触れあう機会がなかったからさ」
「……そうなの?」
暁斗が頷く。鼻先に、花粉がついている。
「せいぜい花瓶に活けてあるのしか……。いや、ちっちゃい頃に見た事はある、花畑な。でも、それぐらいしかないなぁ」
「……そう」
草を抜きつづける。暁斗の顔を見れない。きっと彼は笑っている。
彼の笑う顔が怖いと思う。何の惑いも、迷いもなく笑いかけてくる彼。眩しい光だ。
そして、それはこの学園の奥にある闇を、照らしてあぶり出しそうで、
怖い。
『何に、怯えているんだ?』
遠く、ここではないどこかで、白岐に呼び掛ける声がする。
「……え?」
呆然として、白岐は見上げる。暁斗が秋桜に夢中だった。彼が言ったのではないのなら、誰が言ったの? 見回しても、二人以外には誰もいなかった。
「なぁ、白岐」
いきなり呼ばれて、白岐は思わず身を竦ませてしまった。幸い、暁斗が振り向いたのはその後だったので、彼に見られずにすんだ。
「……何?」
「白岐は、毎日ここの花を世話しているの?」
目を細めて笑う暁斗。指先で、秋桜の葉に触れていた。やっぱりまぶしすぎる。白岐は耐えきれずに俯いてしまった。今の自分には、あの眩しさはとても耐えられない。
「……毎日では、ないわ……。いつもは校務員の人がやってくれるから。だけど、手があいた時は、なるべく来ているようにしているの」
そっと彼岸花に触れる。
「生きているの、花も。人間の勝手さで世話をされずに枯らすなんて、出来ないわ」
不思議だった。どうして、こんな言葉が口をついて出るのか。自分は暁斗を怖いと思っているのに、どうして。
「−−そっか」
暁斗の笑い声が聞こえる。
「だから、花が喜んでいるんだな」
「……え?」
何を言ったか理解出来なくて、私は上向く。
「きれいに咲けて、嬉しがっているよ」
「……どうして、そんな事が分かるの?」
暁斗の笑みが、ますます深くなった。
「オレだったら、大切にされたら嬉しいもの。嬉しくなって、花を咲かせたくなる。育ててくれた人に、笑ってほしいからさ」
そして、暁斗は笑う。朝に昇る、誰にでも等しく光を与える太陽のような、暁の光。そっと白岐の心にも差し込んでくる。怖いと思っていたそれが、何故か少し和らいだ。
ずっとずっと昔。同じ事を誰かに言われた気がする。その人に、暁斗がよく似ている。
何故か、そんな事を白岐は思ってしまった。大きく瞳を瞬かせ、暁斗を見つめる。彼の向こうにいる誰かを見つけるようにして。
その時、静かな温室内に、電子音のクラシックが流れた。アヴェ・マリアだ。
「あ、やべッ」
ごめんなと謝りながら顔色を変えた暁斗が、学ランの後ろを捲って、四角く小さいものを取り出した。それを開くと、しゃがみ込み膝の上に乗せる。横目で見たそれは、ノートパソコンを一回り小さくしたような機械。
キーボードを叩きながら、暁斗は唸った。顔を押さえて忘れてた、と力なく呟いた。
「急用が入っちゃった。オレ、行くな」
「……そう」
「また、来てもいい? 邪魔はしないからさ」
白岐は思わず頷いて、それから自分のした事に驚く。サンキュ、と暁斗は礼を言いながら、また背中にノートパソコンみたいなものを仕舞う。そのまま手を振りつつ、彼は温室を出ていってしまった。
台風みたい。ぼおっと白岐は頬に手を当てる。でも、《転校生》に対する怖さは、最初よりも薄れている。本当に、不思議な人。
「−−こんにちは」
暁斗と入れ違いに入ってきた、花壇の世話を受け持つ校務員が返事をしない白岐を、不安そうに見た。
「……どうか、されたんですか?」
「いいえ、少し考え事をしていただけだから」
「そうですか」
彼は追求せず、そのまま作業棚へと向き合った。白岐はぽつりとその背中に言葉を向ける。
「さっき、誰かとすれ違わなかったですか?」
「ああ、確か君のクラスに転校してきた葉佩暁斗君、でしたっけ」
「ええ、本当に不思議な人」
でも。
「……どうしてかしら。見ていると、とても懐かしくなる……」
胸が苦しくなって、何か忘れていた事を思い出しそうな。
もどかしくなって、白岐は戸惑った。
どうして、こんな事を思ってしまうのだろう。
暁斗以上に、自分が不思議だと、思った。
Nigella.damascena=クロタネソウの学名
花言葉は、当惑、戸惑い
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