■ 感情


「馬鹿野郎」と怒鳴られ腕を掴まれた。それはいつもの軽い言い合いの時にする戯れ合うものではなくて、本気で振り解かねば骨が軋み、耐え難い痛みが生まれた。
「何をする」と言い返しかけ、言葉に詰まる。
 弥幸が泣きそうな顔をしていたからだ。人を小馬鹿にしてからかいを常に浮かべていた瞳の色が、驚きと怒りによって黒と金色が混じりあって揺れている。形のいい綺麗な眉が歪んでいた。口は戦慄き、言葉を発しようとして上手く発生出来ないでいる。
 夕飯のカレーのやり取りや、修練の時に垣間見せる怒りは、まだとても軽いものだったと皆守は今理解した。それらはまだ心に余裕があって、相手の感情を読めるからこそ自分のそれを出せるのであって、上手くコントロール出来た。だが今はどうだ。人よりも遥かに強い力を制御出来ずに、ただ純粋で深い怒りを皆守へ一心に向けている。


 さらさらと、足元で風もないのに塵が舞って飛んでいく。それは《人ならざぬ者》。雑踏に紛れ潜んでいたそれは、皆守に狙いを定め、自分の領域へと誘い込み、襲いかかった。
 《墓守》として、身体能力を限界以上に高められていた皆守の敵ではなかった。蹴りを放てはすぐに命を散らす弱い生き物。それでも仲間を呼ばれて、大勢で囲まれれば怪我も負わされる。だが、怪我を心配するよりはさっさと倒す方が良いだろう、と生地が破れ血が流れたままむき出しになった腕をそのままにして、妖を屠り続ける。
 最後の一匹を倒した時だった。それが地に伏すと同時に、誘い込まれた妖の領域も消え、皆守は元居た場所に立っていた。突如現れた、しかも腕から血を流す人間の姿に、歩く人たちは胡乱な目を向ける。それをどう誤魔化しながら帰ろうかと思案した途端に、皆守は弥幸に腕を掴まれた。


 そのまま引きずられて人気のない裏通りまで連れてこられ、そして怒鳴られた。耳を劈く怒声に、皆守は腕の痛みも忘れ掴まれていない腕で耳を塞ぐ。
「何でそのままにしてるんだ。使い物にならなくなったらどうする」
「別に、この位なんてことはない」
 もともと幼少の頃から怪我の治りは早い方だった。加えて遺伝子操作による身体能力の発達で、それは顕著に効果が高くなっている。多少の裂傷などすぐに塞がる。現にもう、腕の血は止まっていた。後もう少しすれば、怪我した部分の組織も回復していくだろう。
「それよりもこういう妖魔を殲滅させる方が先決なんだろう? 《M+M機関》の《異端審問官》は」
「そういう問題じゃない」
 弥幸の声は震えている。いつも明瞭に発音されていた声が、震えて泣きそうだった。
 泣くのだろうか。皆守は思う。この男は今まで泣いた所を見せたことがない。珍しいものが見れると少し得した気分になれたが、すぐにそれはないだろうと思い直す。
 弥幸は泣けない。泣きたくても泣けないのだ。既に身体が死に魂だけの存在になって、長き時を経たその存在が持つのは五感のみで、身体が温かみを持つ事もなければ、涙を流す事も出来ない。
 だからこいつは今ありったけの感情を出して、皆守を怒鳴りつけていた。自分は泣きそうになる程怒っているのだと、伝えている。
「お前には探している存在がいるんだろう? それを見つけるまでは、死ぬ訳にはいかない」
「だから、これごときで死ぬ訳じゃ」
「死ぬ場合だってある。俺はお前と同じ事を言って死んでしまった奴を嫌になる程見た」
 ぐ、と力が強まる。傷を避けてくれたのは弥幸なりの温情なのだろう。それでも骨が軋んで痛い。
 血が腕から手の甲へと流れ、指先で滴り落ちていく。地面を赤い雫が彩った。
「俺は、目の前で人に死なれるのが嫌なんだ。知っている人間、少しだけでも気心が知れている奴なら、傷付く事すら嫌になる」
「………」
「見る度、目の奥が熱くなる。でも、泣けない。それがどれだけ辛いものか、お前には分らないだろう」
 瞳の揺らめきが大きくなった。もし弥幸にちゃんとした肉体があったなら、大粒の涙が流れていたかも知れない。
「泣けないと、悲しいのが身体に溜まっていくんだ。溜まると、苦しくて苦しくて溜まらなくなる。だから、無茶だけはするんじゃねえよ」
「……の割には、お前組手で俺に打ち身や内出血をさんざんつけていた癖に」
「俺はいいのっ! 俺はちゃんと手加減出来るんだからなっ!」
 自分勝手な理屈をこね、弥幸はようやく皆守の腕を離すと、痛そうに傷を見つめ、手を翳す。じんわりと掌の輪郭が滲んで、春の日向のようなひかりを降り注がせる。
 ぼんやりと皆守は弥幸を見つめる。自分勝手で、理屈をこね、我が道を歩いて、自分の意志を何よりも優先させる。そんな男が、皆守にとっては些細な傷を死にそうな目で見つめ、必死で癒そうとする姿を見て、何となく愉快になった。喉の奥から笑いが込み上げてきて、堪える事なくそれを吐き出す。
「……何だよ」
 弥幸が怪訝に皆守を見遣る。
「何でもねえよ」


 ただ可笑しかったから笑っただけだ。自分が今倒した妖魔と同じような存在の癖に、どこまでも人間らしい弥幸が何となく愛おしくて、どうしようもなく守りたいと思ってしまう。
 本人に言えば、すぐに拳が飛ぶだろう。
 だから皆守は、それを口を引き結ぶ事で閉じ込め、心の奥底に仕舞っておいた。



不意打ちでいつもからかわれている相手が泣きそうになるのを見るとか、それにどう反応して良いのかとか。
取り合えず皆守は呆然としてから【愛】の表情を浮かべていそうな気が。
そして弥幸はさらに怒る、と。
……ホントもうオリジ設定満載でごめんなさい……。(オレ設定大好き人間)