軽いノックに面をあげる。今日もいい天気で、カーテンを開け放した窓から、いっそ暴力的な眩しさの光が差し込んでいた。思わず目を細め、庇代わりの手で、光を遮る。そしてようやく「どうぞ」と返事をした。

「失礼します。――閣下」

　一礼をして入ってきたのは、女王騎士の鎧を着たリオンだ。大事そうに書類を両手で持っている。

「陛下より目を通してほしいとのことです」
「ありがとう」

　書類を受け取りティーは微笑む。それを見て、「いえ、当然のことですから」とリオンもまたはにかんだ。一つに結わえられた髪。金色の髪飾りについた赤い飾りが、リオンの笑みにつられるように小さく揺れる。


　ゴドウィンにより引き起こされた、ファレナを揺るがした内乱から数年。国は少しずつではあったが、復興の道を辿っている。
　リムスレーアを女王に据え、従来の貴族院政から、それぞれの街の代表を集めて行う市民議会制に政治の手法を移行した。まだ課題はあるが、それぞれが互いの欠点を補いつつ、支えあっている。
　ティーは妹の願いにより女王騎士長として、ファレナの復興に励んでいた。戦で壊すのは容易くとも、直すのにはその数倍、労力を必要とする。激しい戦いに、国は疲弊していた。
　だがティーはめげず、着実に物事をなしている。正式に女王騎士へ昇格したリオン、そしてリムスレーアのために頑張るミアキスの助けもあるからだった。
　せめて、女王騎士長の座を譲るまでには、前のように美しいファレナを取り戻したい。いつか女王騎士長を辞めなければならない日が来ると、ティーは分かっている。
　まだ少女と呼ばれても差し支えない現女王――リムスレーア。彼女が選んだ相手と添い遂げる日。ティーはその相手に女王騎士長を譲る。それまでに美しいファレナの姿を取り戻したい。そして、その後は二人で新たなファレナをつくってほしい。リムスレーアと、彼女が選んだ相手なら、きっとやり遂げられるだろうから。
　未来に夢を膨らませ、ティーは今日も大量の仕事と格闘していた。やることは、まだ山ほどあるのだ。


　受け取った書類をさっそく吟味するティーを気遣うように、リオンが「あの」と小さく声を掛けた。

「少し休まれてはいかがでしょうか？　今日はまだ全然休まれてないですし……」
「あれ？　そうだったの？」

　全然気付かなかった、と目を丸くしたティーの返事と重なって、鐘の音が鳴り響いた。昼の半ばが過ぎたことを伝える音だ。
　流れる時間の速さに、ああ、とティーは溜め息を漏らす。机にかじり付いて、書類と睨めっこをしていたせいで分からなかった。
　事実を噛み締めた途端、身体が疲れを訴えてきた。凝った肩を擦り撫でながら、ティーはリオンの行為を受け取ることにした。にっこり笑い、席を立つ。

「じゃあ、少し休むよ」
「紅茶とコーヒー、どちらにいたしましょうか？」
「紅茶でお願い」
「はい」

　リオンは頷き、備え付けられている茶器で準備を始める。ティーはソファに座り、組んだ手を大きく前に伸ばした。力が抜けた身体が弛緩して震える。ゆったり座っていると、身体は重たく感じ、どれだけ疲れているかが知れた。
　だんだん紅茶の匂いがしてくる。「そういえば」と紅茶をカップに注ぎながら、リオンが手を止めずに言った。

「シグレさんがもうすぐこちらに来られますよ」
「――シグレが！？」

　出てきた名前に、ティーは思わず腰を浮かせる。自然と心臓が高鳴るのが聞こえた。

「今、陛下の元でお目通し中ですから。そちらが終ったら、閣下の元へ向かうと」
「そう……」

　湯気を立てた紅茶が入ったカップを持ってくるリオンに、ティーは慌てて腰をおろした。だが、シグレが来ると知った途端、そわそわと落ち着かない。それを見て「早く来られるといいですね」とリオンに微笑まれ、ティーは赤面した。

　シグレはファレナの内乱時において、影の功労者と囁かれている。その殊勲を讃え、女王騎士やら、重役やら、幾つか誘いがあったらしい。だが、彼はすべて蹴りいつもの居場所へと戻って、前と変わらず探偵事務所の調査員をしている。旅に出たオボロに代わり、探偵事務所の主力となった彼は、フヨウやサギリと共に頑張って切り盛りしている。
　調査員は二人程増えているらしいが、忙しさは変わらないらしい。最後にあった時「忙しくてたまったもんじゃない」とぼやいていた。
　そんな彼がやってくるのは、ティーが依頼している調査の経過を報告してもらう為だ。ティーの代わりにファレナの街を順繰りに見てもらい、どうなっているのかを教えてもらう。長年培われた探偵としての力は確かなもので、齎される情報はとても貴重で役に立つ。リオンやミアキスと同じように、彼らの協力もまたとても心強いものだった。
　もちろん、待ち遠しいのはそれだけが理由じゃないけれど。


　紅茶が半分まで減った時、ようやくリムスレーアとの謁見を終らせたシグレがやってきた。眼が隠れるまでに伸びている前髪。ラフトフリートの服装と、相変わらずの格好で気怠るげな雰囲気が漂う。だが、ティーを見つけるなりそれは和らいで、優しく笑った。

「よぉ、久しぶりだな。――元気だったか？」
「あ、うん！　っと……いらっしゃい、シグレ」

　立ち上がり近寄ろうとするティーを手で制し、シグレは向いのソファに座った。ずっと前から変わらない、彼だけの指定席だ。
　背もたれに身体を預け、シグレは、ふう、と疲れたように溜め息をつく。

「やっぱいつも思うんだが、堅苦しいのはゴメンだな。姫さんに会うだけで、礼儀だの作法だの言葉遣いだの周りがうるさいのなんのって」
「まぁ」

　うんざりするシグレに、リオンがくすくすと小さく笑った。

「確かにシグレさんにはそう言うのは似合わない気がします。――はい、どうぞ」

　新たに煎れたシグレの紅茶と、ティーの分のお代わりを運び、リオンはティーの後ろにつく。似合わない、と言われてもシグレは機嫌を損ねることはなく「まぁな」と言葉を返した。

「俺だって自覚してる。それに姫さんだって分かってるだろうよ。けど外野がな…………」

　再び溜め息をつき、シグレは眉間を押える。どうせ治らないんだからこれぐらい見逃してほしい、と項垂れるシグレに、彼らしい、とティーはこっそり笑う。リムスレーアに跪き、恭しく頭を垂れるシグレは、ティーには想像し難いものだった。実際、彼がそうしているのを見た時は、酷く不思議な気分になったのを覚えている。

「だったら、わざわざ謁見しなくても直にいいんだよ。僕が報告書を持っていけばすむ話なんだしさ」
「そうかもしれないけどよ。姫さんは直に聞くことを望んでるんだ。俺の我が侭で困らせる訳にもいかないだろ。ま……我慢ぐらいしてやるさ」

　素っ気無い口調から、照れ隠しが透けて見える。リムスレーアを気遣うシグレは優しい、とティーは改めて思った。いつだってシグレは誰かのために頑張ってくれる。

「……なんだよ」

　薄笑いをシグレに見咎められ、ティーは「なんでもないよ」と頭を振った。それでもつい笑ってしまうティーに、照れ隠しがバレているとシグレは勘付き「……それよりも、だ」と強引に話を変える。

「さっさと報告をはじめていいか？　お前らだって仕事が残ってんだろ？」
「そうだけど……」

　わたわたと慌てているシグレがかわいらしく見え、ティーの笑みはますます深まる。仕舞いには我慢していた声まで漏れてしまい、「笑うなっ！」とシグレに小突かれる。
　二人のやり取りを見ながら微笑んでいたリオンが、「嬉しいんですよ」とティーに助け舟を出す。

「閣下はシグレさんに会うことを、とても楽しみにしているんですから。……それに」

　言葉を続けかけ、リオンはある違和感に「あれ？」と部屋を見回した。

「そう言えば、一緒じゃないんですか？　もしかして、まだ陛下のところに？」
「いつもは一緒に来てるよね……？　どうして？」

　ティーもまた違和感に気付いていた。本当だったら、シグレと一緒に来るはずの人物が、今日に限っていない。
　二対の純粋な眼に見つめられ、シグレは気まずく目線を横に反らした。だが、それでもなお突き刺さる視線に負けてしまい、それを遮るように、手を盾にして顔を隠す。

「あのバカ、最近仕事でヘマしてな。ちょっと気が緩み過ぎてるから……今回は、強制的に留守番をさせてる。また同じことを繰り返されたらこっちが困るからな」
「……カイル様が」
「仕事でヘマ……？」

　ティーとリオンは眼を丸くして、顔を見合わせた。


　嘗て女王騎士としてその名を馳せていたカイルは今、シグレの元に転がり込んで、一調査員としてファレナを飛び回っている。

『思うところがあって』

　添う言葉を濁し、太陽宮を去っていったカイルに、ティーは自分にだけは理由を話してほしかった、と最初は怒り呆れたものだった。だが、依頼の報告の度に、シグレに引っ付いて会いに来る彼に、だんだん気持ちが絆されていっている。
　理由を話してくれないのは、腹が立つ。だが、カイルは意味もなく困らせるようなことはしない。だから、彼は彼なりに考えがあるんだろう。今はそう割り切っている。
　だが、こうして来なかったのは始めてだった。
　理由を聞いたティーは、珍しい、と本気で驚く。

「……どうして？」

　恐る恐るティーは尋ねた。だがシグレは「悪い」と首を振る。

「依頼に関わることなんでな。守秘義務だ。王家のとは違う、別件のモンだから」

　守秘義務を出されてしまっては、黙るしかない。「……うん」と頷き、ティーは大人しく引き下がった。
　だけど、カイルに会えない未練は残る。淡い期待を込め、ティーはちらちらとシグレを見た。

「……そんな眼をしたって、駄目だからな。アイツは甘やかしたらつけあがる。ここらで厳しくしとかねえと」
「………………」
「だから、勘弁してくれって。ただでさえ、強烈な個性を持った野郎が二人も増えたんだ。ここぐらいだけでも、ゆっくりと落ち着いて茶ぐらい飲ませてくれ……」

　心から参っているシグレの呟きに「大変なんですね……、シグレさんも」とリオンはしみじみした。

「レーヴンさんも一緒なんですよね。確か」
「アイツは押し掛けてきたのと同じだけどな」

　高らかな笑い声を上げる盗賊を思い浮かべながら、ティーはシグレの苦労を感じ取った。カイルと合わせたあの二人を纏めるなんて、相当な労力が必要だろう。
　どうやら諦めるしかないらしい。どうせなら、シグレの言う通り、ここぐらいは彼の落ち着ける場所にしてやりたかった。

「――じゃあ、遅くなったけど報告お願いしようかな」

　話を変えてくれたティーに、シグレはあからさまにほっとした。さっそく書類を取り出し、読み上げはじめる。
　それを黙って聞きながら、カイルは何をしているんだろう、と心の隅でティーはぼんやり思った。



「あー………………」

　恨みがましい声でうなりながら、カイルは寝台に飛び込み寝転んだ。ばたんばたんと乱暴に寝返りを打っても気分は晴れない。ついでに、船から出られない状況も変わらない。自然と鬱憤がたまっていく。
　本当だったら、今ごろ太陽宮にいて、ティーとの楽しい一時が過ごせたはずなのだ。久しぶりに会える愛しい人の姿を思い浮かべ、今日を楽しみにしていたのに。
　だが、些細なミスのせいで、シグレからお預けを喰らってしまった。しかもシグレが太陽宮から帰ってくるまで、外出禁止におまけつきまで。
　たまったもんじゃない。どうしてシグレの言うことを聞かなきゃいけないんだろう。

　オレだって、ティー様に会いたい！！

　カイルは勢いよく起き上がり、いそいそと身支度をした。船を抜け出してしまえばこっちのものだ。ソルファレナの地形は熟知している。追っ手が来ても、躱す自信がカイルにはあった。
　太陽宮で、きっと――いや絶対！　ティーは待っていてくれる！

「――今行きますからねー、ティー様」

　顔を緩ませながら、カイルはゆっくり扉の隙間から向こうの部屋を覗き見る。幸運にも、誰も居らず、容易に抜けだせそうだった。
　これなら見つかる心配もない。安心感から、カイルは遠慮なく扉を開けた。
　次の瞬間。
　カイルの頬を、ひゅん、と苦無が掠める。それはカイルが居た部屋の壁に突き刺さり、苦無が掠めた頬からは、薄らと血が滲んだ。

「……出ちゃ……ダメ……」

　何処からか、サギリが気配もなく現れた。手には数本の苦無が握られていて、その全ての切っ先がカイルに向けられている。
　刃を向けるサギリに見つめられ、カイルは思わず手を上げて後ずさった。

「サ、サギリちゃん？　一体これって何の真似かなー？」
「シグレに……言われているの。……カイルさんを……ここから出さないように……って」
「だからって、苦無まで使わなくてもいいんじゃないのかなー。怖いし」
「でも……ここまでしないと……逃げちゃうでしょう……？　だから出ないで……ください。次は……当てます……から……」

　躊躇いないサギリに、カイルは恐怖を感じて背中を震わせた。サギリは冗談を言わない。全てが本気だ。だから、カイルがもし逃げようとした時、彼女は容赦なく苦無を投げ付けるだろう。
　カイルは顔を引き攣らせ、「失礼しましたっ！」と踵を返して部屋に逃げ戻った。急いで扉を閉め、荒く肩で息をつく。
　頬の傷が、まるでサギリの警告みたいに疼いた。
　カイルは、右手に宿していた水の紋章で傷を癒す。そして重い足取りで寝台に向かうと、再びそこへと寝転んだ。
「あーぁ」と溜め息をついて天井をぼおっと見上げる。古びた木の天井は、ここ数年で一番見慣れているものだった。それは、ここでの生活に馴染んでいる証拠でもある。


　女王騎士を辞める時、繰り返し同じことを聞かれた。
　――なぜ、女王騎士を辞めるのか、と。
　内乱時、ずっとカイルがティーを支えてきたことを、ハイティエンラン軍の誰もが知っていた。だから皆、カイルは女王騎士長になったティーを助け、これからのファレナに尽くすのだと思っていた。
　だがその期待を裏切り、カイルは女王騎士を辞め、シグレの事務所船に転がり込んだ。
　別に、女王騎士が、ティーが嫌いになったんじゃない。戦いが終る前から考えていたことに対し、答えを出した結果が、これだった。
　女王騎士でいれば、愛しい人の傍にいられる。だが心は彼に捧げていても、その身や立場は、女王騎士であるが故に、女王の為尽くさなければならない。
　カイル全ては今、ティーの為にある。
　だから女王騎士を辞めた。
　シグレのところへ潜り込んだのは、彼がティーと深いつながりを持っているからだ。危急の際、彼らは真っ先にティーを助けにゆく。その時自分もすぐ駆け付けられるようにするには、シグレたちに引っ付いていた方が、一番都合がいいのだ。
　ティーに会える頻度は眼に見えて減ったけど、会った時の喜びがその分増した。報告の日が近づく度、楽しみで浮かれてしまう。
　だからって。

「――簡単なミスで留守番はひどいと思うけどなー……」

　カイルは手で顔を覆い、大袈裟に嘆く。不注意からくる些細な失敗ばかりだったが、シグレはそれを良しとしなかった。

『ティエンに会いたいのはよく分かる。だからってヘマをしていい理由にならないけどな。もっとしっかりしてもらわなきゃ、こっちが困るし、依頼を頼んでいるティエンも困ることになる。――お前、それでいいのか？』

　そう尤もな意見でカイルの反論を塞ぎ、シグレは再発防止の為に、罰の意味合いも込めてカイルを外出禁止にしてしまった。ついでに、「船を抜け出したらティエンに会えないと思え」と釘を差されている。

「でも会いたいしなー。でもサギリちゃんが怖いしなー」

　ごろごろ寝返りを打ちながら、カイルは悩む。今日会えなかったら、今度はいつ会えるか。もし依頼の内容如何で、ソルファレナを長く離れることになったら、暫く会えなくなってしまうだろう。
　このままではティーが欠乏してしまう。ティーが恋しくて恋しくて、きっと仕事に支障が出来てしまう。カイルからすれば、死活問題だ。
　それって、大変だよね。だからティー様に会っておかなきゃ。
　カイルは自分勝手な解釈をして、大きく頷く。サギリが怖くて、ティーに会いに行けるものか。何とかなる。きっと大丈夫。
　己を奮い立たせ、カイルは寝台から起き上がった。サギリの苦無を甘んじて受ける覚悟で、扉を開ける。

「………」

　扉のすぐ前に、サギリが無表情で立っていた。じっと隙間からカイルを見つめている。静かに構えていた苦無が狙うのは、カイルの心臓。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

　続く沈黙に耐え切れなくなったカイルは、とうとう根負けした。扉をゆっくり閉め、その場で崩れ落ちる。到底サギリに勝てる気が、しなかった。

「勘弁してほしいんですけどー……」

　カイルはぼやく。
　ただ、ティーに会いたいだけなのに。


　報告を聞き終え、いつもながらの見事な情報にティーは満足して頷いた。シグレたちの腕前は分かっているが、こうして結果を見て実感する度に、彼らが影についていてくれることの心強さが染み渡る。

「ありがとう。今回も役に立つことばかりだ。ありがたく使わせてもらうね」
「ま、コレぐらいはこなさねえとな」

　上々の結果を当たり前であるかのように、シグレが応えた。

「じゃなきゃ、オボロのおっさんが帰ってきた時うるさいからな」

　困ったもんだ、と言いながら、シグレも満更じゃなさそうに笑う。その表情の裏には、以前にはない自信が見隠れしている。
　あの内乱を経て、シグレは変わった。ティーもそうだったように、もう彼を取り巻いていた闇は消え失せ、柔らかく暖かい日ざしで満たされている。
　自然に笑う回数も増え、ティーは嬉しい変化を喜びながら、新たな依頼をシグレに申し込んだ。
　詳細を聞き、相槌を打ってシグレは「分かった」と了承する。そして、懐からファレナ女王国の地図を取り出し広げた。
　二人は頭を突き合わせて、地図を見る。

「じゃあ、今回はドラート周辺でいいんだな？」
「うん、ついでにレルカーの方もお願いしたいんだけど。あと、ロードレイクも」
「……だが、広範囲に渡るとその分時間がかかる。それは構わないな」
「うん」

　ティーは頷き、身体を起こした。
　他の執務があるリオンは、部屋を辞している。ここにいるのはティーとシグレの二人だけだ。
　部屋を見回し、他に誰もいないことを確認する。そして、ティーは改めてシグレの方へと身を乗り出した。

「それで……あの、シグレ」
「……ん？」

　口元へ手をやり、声を潜めるティーに、シグレもまた軽く身を乗り出した。口籠り続きを言わないティーに「どうした？」と優しい声で尋ねる。

「………………」

　近くなったシグレの顔を見て、忽ちティーは赤くなる。

「ううん……なんでも、ない」

　ゆっくり頭を横に振り、ティーは俯く。銀色の髪から覗く、真っ赤に染まった耳朶に、シグレはこっそり笑った。
「バカだなお前」と、ティーの頭に手を伸ばし、乱暴に撫でる。

「わっ、わっ！」
「今更なにを遠慮する必要があるってんだ」
「シ、シグレッ」

　慌てて頭を庇ったティーは、慌てて身を戻した。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、跳ねてしまった髪を、手櫛で直していく。
　その様子を見ながら、シグレは「……いいか？」と諭すように言った。

「会いたいんだろ――アイツに」
「………………」
「今日受けた依頼は、時間がかかる。そうしたら次に会えるのはその報告の時だ。今日会えなかったら、今度はいつ会えるか分からない。だから会いたい。――違うか？」
「……ううん」

　ティーは素直に認めた。シグレに嘘をついても、すぐに見破られてしまう。

「我が侭だけど、会いたいんだ……カイルに。ダメ、かな？」

　昔とは違う。
　会える場所も限られて、会える時間も極端に減って。簡単に顔を合わせられない。
　カイルを想う気持ちは、以前より格段に強い。たまに、抱えているもの全部を放って、カイルの元へと駆け出したくなる時もあった。

　大好きな、ひとだから。

「……シグレ」
「分かったよ」

　懇願する眼差しに、シグレは両手を軽く上げ降参する。だが、その口元には、ティーの望みを既に見越しているように、薄い笑みが上っていた。

「……俺はここに来る前アイツに言っておいたんだ。外に出るな。出たらティエンに会えないと思え、ってな。守っているかは知らねえけど。……もし、アイツが言い付けを破ったらどうなるか、分かるか？」
「えっと……僕が会いに行っても入れ違いに――あっ」

　カイルはきっと、忙しいティーは太陽宮にいるとばかり考えているだろう。もし抜け出して太陽宮に行ってしまったら、それこそティーに会えず、かなりの肩透かしをくうことになる。
　でも、カイルがきちんと船から出ないでいれば。
　ティーは、カイルに会える。

「……行ってこいよ。俺もそこまで意地悪くないからな。お前が戻ってくるまで、留守番しといてやるから」
「……シグレ」

　呆気に取られていたティーは、ほらほらと外へ出るよう促すシグレに破顔した。

「――ありがとう！」

　ティーは部屋を駆け出していった。ばたばたと足音が響き、どれだけカイルに会いたかったか、気持ちが痛い程伝わった。

「……やれやれ」

　シグレは背もたれに身を預け、ゆったり頭を掻く。

「いつまで経っても、面倒くさい奴らだ」


　船から出ないと約束して、カイルはようやく居た部屋から出れた。だが、状況が変わる訳でもなく、お茶の時間を楽しむフヨウとサギリを尻目に、深くソファに沈み込んでしまう。フヨウに「お茶いかがですか？」と誘われたが、カイルは見向きもせずにぶつぶつ文句を零し続けていた。
　せっかくの誘いを無視されたにも拘らず、フヨウは気にしない。サギリからことの成り行きを聞き「あらあら」と頬に手を当てる。

「大変だったのねぇサギリちゃん。カイルさんの足止めだなんて」
「大丈夫……だよ」

　サギリがふるふると小さく首を振った。

「だって……シグレに頼まれたから……。これぐらいしなきゃ……」

　そういって微笑むサギリの表情は、以前よりぐっと自然だ。本来彼女が持っている優しさが滲んでいる。物心つく前から、笑みで人を油断させ殺すやり方を叩き込まれてきたサギリにとって、それは嬉しい変化。

「えらいわ、サギリちゃん」

　感激しフヨウはサギリをぎゅっと抱き締める。その様子を、顔だけそちらに向けていたカイルが胡乱な眼で見ていた。ほのぼのとしている雰囲気だが、カイルは余計にティーに会えないこのやるせなさを、何処にぶつけるべきなのか迷う。
　半眼で見つめているカイルに「カイルさんもぎゅってしてほしい？」とサギリから離れた。そして向けて大きく手を広げてくるフヨウに、「いえいえ」とカイルはぱたぱた手を振って断った。

「どうせ抱き締めるならティー様で」
「あら残念」

　ふふっ、とフヨウは笑った。そして「お茶のお代わり煎れてくるわね」と部屋を出ていく。
　サギリと二人きりになり、カイルは咄嗟に笑みを作った。卓に手をつき、にっこり微笑みかける。

「ねぇサギリちゃん」
「……ダメ…………」

　用件を切り出す前に、サギリはすげなくカイルの言葉を切って捨てる。出鼻を挫かれ、うう、とカイルは低く唸る。

「今回は……仕方ないと思う……」

　サギリは、飲んでいたお茶を静かに卓へ置き、カイルを宥めるように言った。

「だって悪いのは……仕事に失敗しちゃったカイルさんの……せいだもの」
「…………」
「あの人に会えるからって……浮かれすぎだと…………思う」

　容赦ない言われように、カイルは身を縮こませる。もうすぐティーに会えると浮き足立っていたのは、サギリの言う通り真実だったからだ。
　迷惑をかけたことは悪かった。カイルは心から思っている。こっちから無理矢理転がり込んだ身だから、仕事でちゃんと役に立たなければならない。
　だけど、ティーに会いたいと心の底から思うのも本当なのだ。
　報告する日が近づく度、ティーに会えると感情が甘く疼く。

「でも……仕事は仕事……」
「そりゃそうだけどー…………」

　ははは、とカイルは力なく笑った。だがそれはすぐに溜め息へととって変わり、がっくり肩を落とす
。
　手伝ってようやく分かったことだったが、探偵業はとにかく忙しい。定期的に受けているティーの依頼とは別に、余所から頼まれるものも多く、それを解決していくのには多大な労力が必要とされた。
　だがやることが一杯なのは、ティーと手同じだ。
　分かっている。たまに会えるだけでも、幸運なのだと。
　だけど理屈で納得出来ようが――本能が会いたいと声高に叫んでいる。
　たくさんの時間をかけ、ようやく捕まえた愛しい人。
　ずっと会えないままになってしまったら、足りなくなり飢えて死にそうだ。
　カイルは太陽宮のある方向を見遣った。
　サギリはカイルを見つめた後、席を立つ。丁度その時扉が開いて、ポットを手にしたフヨウが「おまたせ」と現れた。

「お茶のお代わり持ってきたわよ。――――サギリちゃん？」

　何故か背中を押して戻るように促すサギリを、フヨウは不思議そうに見つめた。サギリは微笑み「……行こう？」とその背中を押す。
　カイルを一人部屋に残し、扉を閉める。その隙間から見えるカイルに、サギリはわずかに眼を細めて優しく笑った。


　ぼおっとカイルが見つめる先にあるのは太陽宮。女王騎士長になったティーが、妹でありまた女王でもあるリムスレーアを助ける為、力を尽くしている。
　ああ、今はシグレと報告しあっているんだった。今ごろ、何を話しているんだろう。
　カイルの脳内で、ティーとシグレが仲良く談笑している姿が、容易に浮かんでしまう。心が痛んで切なくなった。
　いっそサギリの苦無が刺さってもいいから、会いに行こうか。

「――カイル」

　ああ、でも船を出たら『ティエンに会わせねえからな』ってシグレに脅されてるし。

「カイル」

　穏便に済ませる方法は――――。

「カイル！！」
「っ！　はいぃいいっ！！」

　いきなり大声で名前を呼ばれ、カイルは反射的に応え肩を跳ね上がらせた。わんわんと耳の奥で声が反響し、眼を白黒させる。
　耳を押え振り向いたカイルは、そこに立っていた人物に眼を大きく見開いた。
　どうして、ここに。

「ティー……さ、ま……？」
「全く……せっかく来たのに、気付かないなんて」

　深く被っていた外套のフードを取り、ティーが顔を出した。眉音を寄せ、カイルをじとりと睨む。

「ちょっと、気が揺るみすぎなんじゃないのかな？」
「そ、そんなっ、そんなこと言わないでくださいよ」

　まさかティーが来るとは思わなかった。同じ忙しさでも、ティーの方がカイルのそれをずっと上回っている。それこそ太陽宮を抜け出す暇なんて、早々無いはず。

「なんだそんなことか」

　思ったことを口にしたカイルの言葉を聞き、ティーは一蹴して快活に笑った。

「僕だって、やろうと思えば出来るんだよ。……でも今回はシグレが気を利かせてくれたんだけどね」
「……シグレが？」

　うん、とティーが頷く。

「カイルがきちんと言い付けを守ってくれて良かった」
「言い付け……あっ」

『船から出たらティエンと会えないと思え』

　カイルはようやくシグレの真意を理解した。もし、我慢し切れず船を抜け出したら、せっかくのチャンスが水泡に帰すところだったんだろう。
　サギリも、それを知っていて止めていてくれた。二人とも、それなりにカイルに対して気遣いを見せていたのだった。
　人が悪い。
　カイルは内心むくれながらも、シグレたちに感謝した。二人にとってはティーの為であっても、結果として、カイルはティーに会えたのだから。

「ティー様」

　カイルは腕を伸ばし、ティーを抱き寄せる。温もりを確かめるように、腕の中へと閉じ込めた。確かに感じる温もりや、抱き締め返してくれる力にカイルの背は震える。
「カイル」とティーがカイルを見上げた。
　二人はじっと見つめあう。
　そして、ティーが爪先立ち、二人の身長差を埋めた。唇が触れあい、温もりが溶け合う。
　幸せを噛み締めながら、カイルはティーとの口付けに酔った。

「…………シグレが戻ってきたら、ちゃんとお礼を言っておきます。サギリちゃんにも」
「そうだね」

　口付けを終え、二人は額を合わせ小さく笑いあう。

「それから、もうヘマとかしないでよ。また留守番させられちゃうんだからね」
「分かってますって」
「あ――――でもね」

　ティーはカイルの耳元に唇を寄せた。

　そうなったら、また僕から、会いに行くから。

　そう呟かれた言葉に、カイルは満面の笑みを浮かべ、強くティーを抱き締めた。