国境に近い街道にある宿は、旅人たちで賑わっていた。各々が卓を囲み温かな食事や酒を手に、話を弾ませる。舞台の上で楽士が曲を奏で響く弦の音に合わせ、踊子がきらびやかな舞を披露していた。
 それを横目で見ながら、カイルは注文していたものを受け取る。暖かいホットミルクに、冷たい果実酒。

「部屋に持っていっていいかな?」

 尋ねるカイルに店主は笑顔で頷いた。

「構いませんよ。お客さんたちが出発した後で片づけをしますから、グラスもそのまま部屋に置いていていいですし」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」

 礼を言い、カイルは両手にカップとグラスを持って階段を登る。


 カイルがティーと旅に出てから、数年が経った。群島諸国を始め、色んな国に行った。色んなものも見た。きっとこれからもそれは続くだろうし、隣にはティーがいてくれることも変わらない。
 国境を越える夜は、カイルをドキドキさせる。また、ティーと一緒に見れるものが増えると思ったら、明日が待切れなくなった。

「カイルお帰り」

 ティーは旅衣を脱いで、宿に備えられていた服を着ていた。寝台に寝そべり、顔だけを部屋へ戻ってきたカイルに向けている。枕の上に帳面を広げ、ペンを走らせている途中らしい。すっかり寛いでいるティーにカイルは微笑んで「ただ今帰りましたー」と持っていたカップを卓に置いて、戸を閉めた。

「今日はいつにもまして長いですね、それ」
「うん。今日も色々あったからね」

 カイルからホットミルクを受け取り、ティーは起き上がって寝台の端に座り直した。甘い匂いに、ほう、と息を吐き口をつける。口に含んだミルクは熱すぎたのか、吃驚して肩を跳ねた。息を吹き掛け冷まそうとする仕草を見つめながら、カイルは向かい合うように窓際へと身を凭れる。
 太陽も沈み、空は暗い。雲がないお陰で月が綺麗に昇り、白い光をたたえている。闇も形を潜め、穏やかな夜が外に広がっていた。
 硝子越しに月を見上げ「明日は良い天気になりそうですね」とカイルが言った。
「うん」とティーは頷く。

「明日から赤月帝国だもんね。国境を越える日はやっぱり晴れていた方がいい」

 そう言って、ようやく飲める程に冷めたミルクに口をつけ「美味しい」と笑った。

「どうせなら、オレはティー様と一緒にお酒呑みたかったのになー。一人だけ酒だなんて味気ないですよ」

 つまらなそうにカイルがグラスを揺らした。入れられた酒が揺れる。口を尖らせるカイルに、ティーは「僕はまだいいよ。だってまだこれも書いてないし」と広げられたままの帳面を見た。

「今日あったこと、お酒で忘れたらどうしようもないよ」

 一気にホットミルクを飲み込んで、「ごちそうさま」とティーはカップを寝台近くにある卓に置いた。再び寝台に寝そべり、続きを始める。
 ティーは旅を始めてから、日記を書くようになった。どんな他愛無く些細なものでも、一つ一つ思い出しては書き留めていく。天気がいいことや、食べた料理が美味しかったこと。盗賊に襲われたが返り打ちにしたこと。野宿をした時に星空がとても綺麗だったこと。
 どうしてそんなに事細かに書くのか、いつかカイルは理由を聞いた。

『だってたくさんあった方が、帰ってきた時それだけリムに話すことが増えるだろう? リムは僕の話を楽しみにしているって言ってたから、話したいことをきちんと覚えていなきゃ』

 そう答え笑うティーの帳面には、まいにちまいにち起こったことが積み重ねられていく。浮かべる表情はとても柔らかく、余計な力が抜けていた。彼の小さな頃を知っているカイルは、それを見て安堵する。
 いらないことばかり言う貴族のせいで、作った笑顔ばかり見せていた彼が、こんなにも普通に笑うことが当たり前になった。カイルはそれが嬉しくてたまに泣きそうになる。だって、もう彼が自分を殺す必要がなくなったと実感してしまうから。
 そんなことを考えながら、カイルは果実酒を呑むのも忘れ、日記を書くティーの横顔をじっと見つめた。母親似の風貌は成長するに従って増していく美しさ。さらさらと肩口を流れる銀色の髪は、まるで今日の月の色みたいだ。見るものを知らず魅了する。
「……何?」とティーが凝視するカイルに気付いて、顔を向けた。見られて恥ずかしいのか、ほんのり頬が赤くなっている。
「いえ」とカイルは誤魔化すように笑った。

「良い感じに力が抜けているなーって思いまして。――何だか、すごく楽しそうに見えます」

 ティーは一瞬目を丸くした。そして子供っぽい満面の笑みで「うん」と大きく頷く。

「そうだね。楽しい。すごく楽しいよ」
「――何がです?」

 答えが分かりきっている問いを、カイルは口にした。敢て言ったのは、自分ではなくティーの言葉でそれを聞きたかったから。

「今、こうしてカイルと旅をしているのがとても楽しい」

 ティーはカイルが思っていた通りの答えを言った。

「もちろん、いいことばかりじゃないけれど、それすらもこうしてこれを読み返せば、いい思い出だらけだ。それに楽しいことや嬉しいこともたくさんあるから、とても楽しい。すごくね」
「オレもティー様と一緒にいるの、とても楽しくて嬉しいです」

 大好きな人が傍にいてくれる。それだけのことがとても幸せだった。
 それから、ティーが臆すること無く、飾り気のない笑みを浮かべてくれることが、嬉しい。自分を殺すことがなくなった彼が、こうして笑ってくれることが至福だと、カイルは心の底から思う。

「――よし、今日の分はおしまいっと」

 日記を書き終えたティーは帳面を閉じ、卓に置く。ごろりと寝返りを打ち広いベットの上、大の字になって大きく伸びをした。久しぶりの宿で柔らかな寝台の心地よさが気持ちいいらしく、目に眠気を帯びている。

「もう寝ますか?」

 カイルは半分以上中身が残っているグラスを卓に置き、寝台に手を突いて、うとうとするティーの顔を覗き込んだ。明日からはまた見慣れぬ土地だ。きっとティーは、はしゃいでしまうだろう。早めに休んで備えておくべきかもしれない。
「……うん」と微睡んだ声でティーは頷き、眠い目を擦る。ゆっくり手を伸ばし、カイルの首に絡ませた。ぐん、と引っ張られカイルの身体が寝台に沈む。

「カイルも一緒に寝よう?」

 可愛いお強請りに、カイルはあっさり陥落した。「仕方ないですねー」と笑い、ティーを抱き寄せる。
 甘い匂いがした。さっき彼が飲んだミルクの匂いか、それとも彼自身の。カイルはいっぱいにその匂いを吸い込んで、安心した。
 ティーがここにいる。自分の傍にいてくれる。
 それだけのことが、とても幸せで、泣きそうになった。
 毛布を肩まで引き上げ、毛布に包まれた二人は笑いあう。鼻先同士を擦りあわせ、何回もキスをした。

「お酒の味がする」
「そりゃ、さっき飲んでましたから」
「美味しかった?」
「ええ、まぁ」
「……やっぱり僕も飲んでみたかったかも」
「まだ、残ってますよ。飲みます?」

 毛布から手を出し、カイルが卓上のグラスを指差した。ティーはグラスを見て考え込み「いいや」と首を振る。

「いいんですか?」

 考えを翻したティーに、カイルは重ねて尋ねた。

「いいんだよ」

 ティーはカイルの胸に顔を擦りよらせる。

「だって、グラスを取りに行く時間がもったいないもの。今はこうしてカイルと一緒にひっついていたいな。……カイル、いい匂い。安心して……眠れそう……」

 声はだんだん小さくなり、ティーはすとんと眠りに落ちる。規則正しい寝息が、すぐカイルの耳にまで届いた。

「……もう、不意打ちしてそのまま逃げるなんて卑怯ですよー、ティー様」

 お陰でこっちがティーの台詞にどれだけ嬉しくなったか、言えないではないか。沸き上がる愛しさを隠さず、カイルはティー抱き締める。額にキスを落とし、腕の中の感触と甘い匂いを確かめながら、そっと瞼を閉じた。
 ゆるやかに聞こえる寝息と、彼の温もり。
 今日はいい夢が見られそうだ。
 そして朝起きた時、腕の中に彼がいることを幸せに思うだろう。

 ――おやすみなさい、いい夢を。

 カイルは心の中で呟いて、ティーを感じながら眠りについた。
 


07/04/17
4月の三都で配付したペーパーの小話です。
時期的にはラクリマの後日談的な感じで。
幸せラブラブ大好きです。やっぱりこの二人には幸せになってもらいたい……!