男は仕事が一段落ついて時間が空くと、いつも外に出た。シンダル族の技術で、汚れを知らず磨かれ綺麗な石畳を歩き、階段を昇る。そして、湖に浮かぶ城とファレナの大地を繋ぐ橋が掛かっている場所で止まる。
 そこはセラス湖と美しい山並を臨むには打ってつけで、いくら眺めていても飽きない。
 それに故郷のレインウォールから連れてきた飼い犬がよく遊んでいる場所でもあるから、足が向くのだろう。探すまでもなく、男の近くで犬が駆け回っていた。
 男は犬を呼ぶ。主人の声を聞き、嬉しさに尻尾を振りながら駆け寄ってくる----筈だった。

「あれっ!?」

 犬は男の方には見向きもせず、そのまま階段を駆け降りる。すぐに「うわっ!」と驚く声が上がる。声の主は誰か、聞いた瞬間にすぐ分かった。青ざめ、男は慌てて上から階段を覗き込む。
 予想通り、犬はファレナの王子ティーの上に乗っかり、盛んに端整な顔を舐め回している。
 ああ、やっぱり!
 犬の仕出かした無礼に背筋が冷え、男は急いで階段を降り「こら!」と犬をティーから引き剥がした。

「何やってるんだ! 王子にそんな事をしたら駄目だろ!」

 叱りつけても犬は聞く耳を持たず、尻尾を千切れんばかりに振った。まだ舐めたりないのか、ティーの元に行こうと男に抱えられ、宙に浮いていた前足を動かす。
 ここまで犬が言う事を聞かないのは初めてだった。ちゃんと躾はしてきたのに。男は「いい加減にしろ」と犬の頭を叩くと、顔中舐められ呆然と座り込んだまま固まっているティーに低頭した。

「すいません王子。こいつが御迷惑をおかけしました」

 犬を押さえ付けたまま、男はハンカチを取り出しティーに差し出す。

「これで顔をお拭きください」
「あ、ありがとう………」

 ティーはハンカチを受け取り、顔を拭った。そして犬の涎で濡れてしまったハンカチを見て「ごめんなさい、汚してしまって」と謝る。

「洗って返したほうがいいかな?」
「そんな!」

 とんでもない、と男は大袈裟に首を振り、ティーからハンカチをそのまま返してもらう。

「元はと言えば、こいつが悪いんです。王子を驚かせたりするから……。本当にすいません!」

 頭を下げる男に押さえ付けられながらも、犬はまだティーをじっと見つめ、そわそわしている。悪い事をした、と言う自覚がまるでない表情に、思わずティーは笑った。いきなり飛びかかって顔を舐められた時は驚いたが、何所か憎めない所が犬にはある。

「いいよ、気にしないで。好かれてるって事でしょう?」
「そうだと思うんですけど………」

 ティーは起き上がり、犬の傍に腰を下ろした。手を伸ばし、その頭を撫でてやると、犬は気持ちよさにうっとり目を細める。
 一方男は気が気ではない。また犬が王子に失礼をするんじゃないかと思うと、押さえ付けている手から力を抜く事が出来ない。はらはらと嫌な緊張感が駆け回り、心臓が握り込まれるような痛みを感じる。

「この子……。いつもこうなの?」

 ティーが尋ねた。いつも、とはさっきみたいに飛びかかった時の事だろうか。
 男は首を横に振る。

「城を駆け回ったりはしますが、人に飛びかかる事は絶対しないヤツなんです。だからどうしてなのか僕にもよく………」
「そうなんだ………」

 飼い主に分からないなら、自分で考えても分からないだろう。まあ、噛み付きさえしなければ咎めも必要無い。ティーはそう考えながら、犬の目を覗き込む。丸く大きな瞳に、自分の姿が映った。

「ねぇ、この子の名前は?」
「へ? あ、ああ、名前ですか。こいつは----」

 男が犬の名前を言うより早く、ティーの後ろに誰かが立って言った。

「カイル、って言うんですよぉ」

 突然降ってわいてきた言葉に二人は驚いて、一斉にティーの後ろを見た。
 ふふふふ、と口元に手をやり笑っているミアキスが犬の近くに寄り、身を屈める。

「ねぇカイルぅ」

 わんっ、とタイミング良く犬が鳴き、ティーが怪訝な顔でにっこり笑うミアキスと犬を交互に見た。

「………本当なの?」

 カイル、と聞くとどうしても人間のカイルをティーは思い浮かべてしまう。目の前の犬もカイルと言う名前だなんて。なんだか不思議な気がした。
 そうですよぉ、とミアキスは自信満々に胸を張る。

「この陽に当るときらきら金に輝きそうな毛並みと言い、人懐っこい目と言い、王子だけに飛びかかる大好きっぷりと言い----、そっくりじゃないですかぁ。ねぇ王子もそう思いますでしょ?」
「えっ!?」

 言われてティーは、まじまじと犬を凝視する。よく見てみれば、ミアキスの言う通り、何所か犬とカイルは通じるものがあるように見えてしまう。最後のはどうにも恥ずかしくなるが。
 犬がわんっ、とまた鳴いてティーの頬を舐めた。くすぐったさに笑い、ティーは鼻先を犬のそれに近付ける。

「そっか、カイルって言うんだね」

 ミアキスの言葉を信じてしまったティーに、男は恐る恐る「あ、あのう……」と声をかけようとした。

「何です?」

 ティーのかわりにミアキスが男に言葉を返した。笑っているが、これ以上言葉を続けさせないような一種の迫力が垣間見える。

「何でも……、ないです……」

 言ったら恐ろしい事が降り掛かる。そう直感し、男は身の可愛さに口を噤んで、心の中でティーに謝り倒す。
 すいません、王子。そいつの名前はカイルじゃなくて、サンジなんです……っ!
 男の心の声がティーに伝わる事は、勿論なかった。

 それから度々ティーは、餌を持ってきて犬に与えにやってきた。喜んで餌を食べる姿を見つめて、微笑んでいる所を見る度に、男は頭を抱える。
 カイル、と呼ぶ声はまるで人間のカイルに言いたくても出せない感情を出していて、見てはいけないようなものを見ている気分になった。
 早く誤解を解きたい、と思いながらもティーの笑顔を前に切り出す事も出来ず、いっその事本名をカイルにしてやろうか、本気で考え、悩む。
 男の悩みは、自然に真実が明らかになるまで尽きそうになかった。


06/09/27
この話に出てくる男は、入り口近くに立っているレインウォールの青年です。
結構前、人間のかいねぎと平行して、話に出した犬と、塔にいるおくすり猫でかいねぎっぽいような話を書くってどうよ!?とか痛い事考えてました。
犬がカイルでおくすり猫が王子。異種族とか燃えるんですが、駄目ですか(聞くな)
何か書いて訳分からないような文章だな……。ううう。