人目を忍んでニックは部屋を抜け出した。足音を忍ばせながら振り向き、いつも心配して後をついてくるヨランの姿を確認しつつ、姿が見えない事に安堵の息をつく。
見付かったら絶対うるさく詮索されるだろう。
隠すように握りしめた笛の感触を確かめて、いつもフレイルとランスが居る庭を抜け、船着き場へ続く階段をゆっくり降りた。
このまままっすぐ橋を渡ると、シンダル族の遺跡へと続く洞くつへと辿り着く。そこに着くまで、誰にも見付かる訳には行かない。
後ろを振り向く。自分を捜す人影はいない。
今のうちに行ってしまわないと。
階段を降りきったニックは、ゴルディアスで鍛えてきた俊足で駆けかけ、橋の途中に佇む人影に背筋を震わせ急停止する。
なんで、こんな所に。
良く考えれば当たり前の事を考えつつ、ニックは呆然とする。
いつもの背中を大きく開けた戦闘服ではなく、少し大きめの寝巻きをきていたその人は、いつも三つ編みに結わえている髪も解き、指で静かに梳きながら湖面を眺めていた。指の間をさらさら流れる髪が、遠く空に浮かぶ月の光に反射して幻想的に輝く。睫毛を伏せ、物憂気な表情を浮かべる姿は、ニックとは三歳しか違わないなんて思わせない大人びた雰囲気を醸し出していた。
ニックは見とれ、思わず熱くなった頬を冷まそうと自分の掌を押し当てた。その弾みで、持っていた笛を取りこぼし、落ちてしまう。
小さな音がやけに大きく響き、静けさを壊してしまう。慌ててしゃがみ笛を拾ったがもう遅く、橋の上の人影は振り向き、驚いてニックの名前を呼ぶ。
「ニックじゃない。どうかしたの、一人で。ヨランは一緒じゃないんだね」
「王子様……」
「もしかして、ニックもお忍びで散歩かな?」
さっきまでの物憂気な雰囲気は消え、軽やかな足取りでティーはニックへと近づく。
ニックは拾った笛を後ろ手に隠し、慌てて言葉を取り繕った。
「も、ってことは王子様」
「うん。たまにここら辺歩いたりするんだ。お風呂上がりとかにね」
ここはとても涼しくて過ごしやすいんだ、と少し恥ずかしそうにティーは言った。いつも側に控えている護衛の少女がいない所を見ると、忍んできたのは本当らしい。
ティーはソルファレナ奪還を目指すハイティエンラン軍の軍主で、ファレナの王子様だけれども、それ以前にまだ自分と年の変わらない人だ。どうしても一人になりたい時もあるんだろう。今の自分みたいに。
そうなんですか、と目を泳がせつつニックは返し、どうやってティーを躱そうか次の行動に迷う。出来るなら、なるべく目的を悟られず穏やかに別れたい。
だが意外に目敏く、ティーは後ろ手に隠した笛に気付いた。不思議そうにちらちら目を移して尋ねてくる。好奇心一杯に見つめられ、落ち着かない。
「ねえニック。何を隠しているのかな?」
「な、なんでもないです」
「嘘。隠してるじゃない」
「そ、それはっ……」
顔を近づかされ、ニックは仰け反るように後ずさる。
ティーの顔は整っていて、もしかしたら城にいる女の人よりも綺麗じゃないかと思えるぐらいだ。
もしこの場に、尊敬するリュ−グやラハルが居たら、きっと顔を赤くしてしどろもどろになっている姿に大笑いしているだろう。ヨランはきっと「そんな風だから何時までたっても女の人になれないんだから」とか頬を膨らませるに違いない。
強く目を瞑り、視界からティーを消す。
少しばかり上体が後ろに仰け反り過ぎていて、自然と頭が引っ張られるように傾いた。
暗闇の中で「危ない」とティーの声が聞こえると同時に、ニックは倒れて背中を堅い木の地面に打ち付ける。痛みで目の前に白い星が散り、打ち付けた箇所を手で擦る。
笛を持っていた方の手だった。当然、笛は再び落ちて情けなく姿を現す。それに気付いて、青ざめたニックが瞼を上げるのと、ティーが笛に気付くのはほぼ同時だった。
笛に視線を注ぎ、それでもティーはニックを優先する。倒れたニックの側にしゃがみ込み、優しくその方を支えて「大丈夫?」と様子を窺った。
「……ごめん。僕が無理矢理聞こうとしたから……」
すまなそうに俯くティーに、ニックは強く首を横に振った。
「そんな事ないです! 僕もちょっと慌てすぎてましたからっ」
過剰に反応しなかったら、多分転ばなかっただろう。ニックはティーを安心させるように口元を大きく上げて笑い「もう平気です!」と立ち上がった。
「これでも竜馬騎兵団の一員なんですよ、……まだ見習いですけど。これ位、なんてことないです」
「……そう?」
「はい! 安心してください!」
両手を握りこんで丈夫さを見せると、安心したのかティーは笑みを綻ばせる。「良かった」と安堵すると、転がったままの笛を拾って立ち上がりニックに渡した。
「笛、大切なものなんでしょう? 壊れてないと良いけれど」
「あ、それだったら大丈夫です! これ竜馬用の笛じゃないですから」
「え、そうなの?」
「これはシンロウさんのお店で買った普通の笛なんです」
ありふれた形で、吹けば普通に音が出るものだ。例え壊れたとしても、すぐに代わりがきく。
そう説明したら、ティーは納得して頷くが直ぐにさらなる疑問が浮かんだらしい。ニックの目を覗き込み、首を傾げながら尋ねてきた。
「……で、笛を持ってどこに行こうとしてたの。見た限りでは、一人でこっそり、なんて怪しすぎると思うけど」
「う……」
「それにニックが竜馬騎兵団の人間だとしても勝手に一人では外に行かせられないな。ちゃんとした理由を教えて」
「……はい」
厳しい言葉に軽く畏縮し、ニックは肩を竦ませる。このままだと、どうあっても理由を話さずティーを躱すのは難しい。
仕方ない諦めよう、相手が悪かった。
ニックは腹を括り、仲間にも隠していた事を初めて口に出す。
「……笛の、特訓をしようと思って」
「特訓?」
「フェリムアル城でやってもいいんですけど、ヨランとかアックスとか止めろってうるさくて。だから」
「外に出てやろうって魂胆?」
「はい……」
王子様も止めるんだろうか。緊張しながらニックはティーの反応を待つ。怒られるんじゃないか、と無意識に俯いてしまった顔を恐る恐る上げ、妙に悪戯げに笑みを浮かべるティーの表情を見ると、訳も分からずニックは目を丸くした。
「ねえ、ニック」
まるで秘密を交すように囁き、ティーは言葉を続ける。
「良かったら、僕も付き合っていい?」
曲以前に音すら掠れて満足にいかない笛の音を出し、ニックは内心冷や汗を滝のように流しながら、横笛に息を吹き入れる。
遺跡に続く洞くつの近くにある大きな岩に腰掛けて、穴が空く程見つめてくるティーの視線が痛い。どくどくと飛び跳ねる心臓を懸命に抑えて、何とか体裁だけでも整えたかったが、ぷひょう、と出てしまった間抜けな音に力が抜けた。
視線に耐えきれず、笛から口を外したニックは「すいません」と謝る。
「こんな変なもの聞かせちゃって。ヨランが居たらもっと綺麗な曲を聞かせてあげられたと思うんですけど」
「呼んだら駄目なんじゃないの? これ、秘密の特訓なんでしょ?」
「それは、そうなんですけど……」
でも、せっかく付き合ってくれるティーにいつまでもこんな粗末なものを聞かせるなんて、ニックには出来なかった。
「いいよ、続けてやって」
「でも、僕の笛が下手なのは、王子様も分かってますよね」
ゴルディアスで、竜馬騎兵団を動かさせないよう封じる為に捕らえられた竜馬の玉子を助けようとしたニックが、咄嗟に滅茶苦茶に笛を吹いて何とか幽世の門を追い払えた。あの時は無我夢中だったが、後でヨランやアックス達に酷い音だったと散々に言われた。
剣や騎乗ばかり練習していて、笛の練習を疎かにしていなかったら。きっともう少し上手く立ち回れただろう。
悔しくて、だから秘密で特訓をこなし、笛を自在に吹いて皆を驚かせたかった。
だけど全然上手く行かない。出るのは綺麗とは程遠い空気と混じった掠れた音だけで。こんなので本当に上手くなれるのか、自分でも不安になる。
ニックは笛を握りしめ俯く。
「……」
震える手に、ティーが立ち上がりそっとニックの手を笛ごと包むように握りしめる。暖かい気候とは言え、夜はそれなりに冷える。そのせいか、ティーの手は少し冷たかった。だけどニックはそれが気持ち良かった。ほっと肩の力が抜け、ほんの少し背が高いティーの顔をそっと見上げる。
責めるでも、憐れむでもなく優しい微笑みがニックに向けられていた。
「一生懸命なのはとてもいい事だけど、無理が過ぎればそれは逆に心配になるんだよ、ニック」
「え……?」
「何だか昔の自分を見てるみたいだ」
ティーは懐かしそうにじんわりと笑う。
「ゆっくりでいいと思う。今出来る事をすれば良い。ニックは頑張って闘ってるから」
「でも、やっぱり早く上手くなりたいです」
笛が上手く吹ければ、今以上にアックスと意志の疎通が計れ、戦闘だって迅速に行動が可能だ。ティーには絶対に勝ってほしい。それならニックは、どんな努力だって惜しまないつもりだ。
折れないニックに「仕方ないなあ」と溜め息をつきつつ、でも何処か楽しそうにティーは手を離して、小指を立てる。
「じゃあ、これから僕がニックの練習に付き合うよ」
「王子様!?」
「一人にしたら無理しちゃいそうで怖いしね」
だから、約束。
立てた小指を差し出され、ニックは戸惑いながらも自分のを絡める。何だか気恥ずかしかった。こんな風に指切りだなんて、最後にしたのは何時だっただろう。
軽く絡めた小指同士を振られ、離れると「約束だからね」とティーは子供のように笑った。
いつも大人びているように見えるティーの、初めて見た一面に、ニックの心臓はさっきとは違う意味で飛び跳ねる。
なんでこんなにどきどきするんだろう。
緊張しながらも、ニックはティーに促され再び笛を吹きはじめる。
相変わらず空気に混じる擦れた音が出るばかりだったが、それでもティーは笑わずに聞いてくれた。
うまくなりたい。
ニックは思う。
早く上手くなって、王子様にちゃんとした曲を吹いて聞かせてあげたい。
心の中で決心しながら、ニックは取り合えず音がちゃんと出るように力を込めて笛を吹いた。
06/07/03
06/07/05 追加
ニックの口調が偽者だという事はわたしが一番良く分かってます……!
やっぱり下書きしないと上手く書けないってことがこの話で良く分かった。頭の中の構想だけで一発書きなんて、到底無理だった。
力不足を痛感した一作です。くっ。
うまくなりたい。
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